「腹が減りませんか?」
ジェジェの何気ない一言に、ぼくとシンのおなかの音が、ぐぅ、と合奏した。
笑いを噛み締めながら、「何か用意してきます」と言い残して、ジェジェは馬鞍に括られた荷物を解きにかかる。
先程炊いた焚き火の火はほんのり赤く燻(いぶ)って煙かった。
シンが静かに息を吹き掛け、小枝を足して再び火を起こす。
短く呪文を唱え、火精に火の番を託すと、赤い精霊の下半身のトカゲはまるで音楽に身を委(ゆだ)ねるが如く、気持ち良さそうに炎の中でゆらゆらと尻尾を揺した。
ぼくはぼんやりとその揺れを見ていた。
火精が気付いて目を細める。多分、彼にとってはそれは微笑みなのだろう。
トカゲの尻尾を大げさに振ってどうやら挨拶をしているようだ。
「疲れたか? 力使ったの久し振りなんだろ?」
「ぼくのこと、よく知っているようだね」
「まあな。おまえの気の波動は目立つからな。
長老たちが、精霊が騒ぐからすぐわかるってよく話題にしてた」
「話題、ね。ぼくの知らない場所で、ぼくのことを知られているのはいい気持ちじゃないな」
「でも、そのお陰でオレはおまえのこと知れたんだ。ものは考えようだよな」
ぼくは膝を抱えて丸くなった。顔を伏せて、シンの視線から逃れようと努力する。
そんなぼくに、シンは言い辛そうに、
「あの日以来だから、さ。さすがのオレも鳥肌立っちまった」
そう口にして、右手で左の二の腕を擦った。
シンの言う「あの日」というのが、ぼくにはよくわかっていたから、一瞬、胸が締めつけられた。
あの日──。それは、ぼくとシンの婚約式が執り行なわれた日。
前々から口約束だったものを正式なものにするために用意された婚約式は、第三王子と、養子とはいえ侯爵家のただひとりの子という結び付きのため、内々で済むものではなくなっていた。
多くの雅に着飾った貴族たち、数々の祝いの品々。
侍女や従者たちもが個々に祝いの宴を設けていたほどに盛大に催された。
男のシンといずれ結婚する。それは、ぼくが女性化することが前提だ。
この日、ぼくは初めて白いドレスなるものを身に付けた。
十歳の子供に化粧を施し、肩で切り揃えた髪に生花を飾る。
爪を彩り、小さな唇に紅をさししたぼくは、誰が見ても女の子に見えただろう。
すべてが初めての体験で、ぼくはどうなってしまうんだろうと、自分のの行く末に不安を抱いた。
女になる。それが怖かったのか。
性が決まる。それが今までとすごく違ってしまうようで恐ろしかったのか。
それは今でもわからない。
入れ替わり立ち代わり、ぼくを着飾ってゆく侍女たちが浮かれた笑顔で、
「おめでとうございます」
「よろしゅうございました」
そう何度も繰り返すので、この日を迎えることは多くの人にとって喜ばしいことなのだと、そう思い込もうとしたんだと思う。
シンとは幼馴染みだ──と言うより、許婚であったために幼馴染みになるよう仕組まれたと言ったほうが正しい。
それでも、シンとぼくはとても気が合っていたと、あの幼い日々を振り返ることができる。
よくふたりして日輪草や月影草などの精霊の愛する花を見つけた。
精霊の通る道と呼ばれる異界への入口を探そうと、花に集まる精霊たちを待ちぶせては陽が暮れるまで奥庭で遊び、ぼくらを連れ戻すために王宮中を探し歩いた侍女たちからお小言の雨を幾度となく浴びたものだった。
時にはふたりで火精を呼び出して、小火(ぼや)を起こしてぴどく叱られたこともあった。
王宮の高台で隠れんぼしては夕方までうとうとと昼寝して、うっかり宮廷作法の講義をさぼったこともままあった。
ぼくの力で風の精を呼び出して、ふわふわ身体を浮かして高いところに実る果実をもぎって食べるのがふたりのお気に入りで、渋い実に当たった時の、泣きそうになりながら舌を出したシンの顔は忘れられない。
また、とても甘い実に出会った時は、ふたり、ひとつの実を齧り合って味わった。
ふたりでいるのが楽しかったから、こんな楽しい時間がずっと続くのなら女になるのもいいかもしれない、と思っていた。
そう、あの日まで。
あくまでも白と金を基調とした、金糸銀糸の華麗な正装をしたシンが純白のドレス姿のぼくを迎え、国王陛下の御前で数年後の結婚のお許しを頂いたあの日。
陛下がふたりの婚約を承認し、祝福する儀式。
それは滞りなく終了するはずだった。
あの日、ぼくが力を使わなければ、平穏な婚約式になったはずだった。
あの時のことはがいつまでもぼくの中に鮮やかにある──。
いつも一緒に過ごしていたシン。
王子のくせして屈託ない物言いに、大神官長でさえ「シン殿下にかかっては仕方ない」と叱りつつも心では笑って許していた。
シンは本当にとても多くの人に愛されていた。
そのシンが正装した姿は、きらびやかに着飾った紳士淑女たちに囲まれても、その凛とした小さな姿は一際目に付いた。
美姫で知られた王妃さま似の整った面立ちに、強い意思を感じる魅力的な視線。
幼いながらもその際立った容貌は、その幼さが失われた時、どれほどの秀麗な美貌になるか、周りの大人たちは未来に心を馳せては、ほぉ、と溜息を漏らしていた。
いたずら好きでわんぱくなくせに温かい心も持っている人懐っこい気質と、迫力さえある整い過ぎた顔は、少しちぐはぐな感じがして、でもそれがシンらしいというか、ぼくは気に入っていた。
王子として毅然と佇む姿に、いつものシンを見つけたくて、
「シン……、シンだよね?」
ぼくは式の途中、囁いた。
シンは華やかに微笑んで、ちょっと頬を朱に染めて、小さく頷いてくれた。
「馬鹿。当たり前だろ」
少し照れた顔が、とても綺麗に見えた。
この人がほしい──!
その想いが心の中に広がり、シンしか見えなくなっていたら、誓いのキスの刻限が訪れていた。
熟れたリンゴのようなシンの顔がますます赤くなりながら近付く。
ぼくの肩に手を掛けて、もう片方の手をぼくの頭の後ろに回して、誓いの口付けを求めてきた。
初めての口付け……。
しっとりと重ねられたそれは、とても十歳の子供同士がするものではなかった。
まして、公衆の面前では。
あの時、どれほどの人が気付いただろう。
ぼくのカンギール・オッドアイが乳白色に変化していたと気付いた人は、いったいどれほどいただろう。
でも誰が気付こうと、それはぼくには関係ない。
ただ、シンがどう思ったかが怖かった。
こんな近くにいて、シンが見ていないはずがない。
ぼくたちはキスの時、お互いを見つめていたのだから──。
カンギール・オッドアイは、相手に、自ら行動を決定し実行したのだと思わせたまま、行動や精神の誘導を可能とする眼力を持つことで知られている。
だから、シンはカンギール・オッドアイの力が発揮されたことを知りつつも、それを忘却の川に自然と置き去りにして、自らの意思によってあの行動を起こしたと思っているかもしれない。
それでも、ぼくと年中一緒に過ごして、この瞳のことを誰よりも知っているシンのことだ。
力が放たれたことをその時は忘れていたとしても、あとからきっと思い出してしまうに違いない。
ぼくは知られるのが怖かった。
──シンがほしい──!
あの時、そう思い、そう望んだぼくが確かにいた。
ぼくは、男のシンの伴侶になりたいがために、女性化してくれるよう、知らず知らずのうちにシンに仕掛けてしまったのだ……。
シンとキスした時、ぼくはとても嬉しかった。
嬉しくて嬉しくて、胸がどきどきした。
でも、そのキスは、幸せな気持ちの片隅に、これはシンが心から望んだキスではないという不安とせつなさの種をも撒き散らした。
シンの真心。それをぼくは力の使用で捩曲げてしまったのだ。
人に向けて使ったのはあの時が初めてだった。
そんなつもりじゃなかったのに……。そう後悔しても、シンに向けてしまった事実は消えてはくれない。
あのキスは、シンの本当の心ではない──。
ぼくはキスされて嬉しかったはずなのに、とても悲しくなって涙を流した。
そんなぼくの顔を覗き込んで、それからシンは……。
シンは──。
やはり、シンは知っていた。
やはり、ぼくが力を使って、シンの心に働きかけたことに気付いていた。
気軽に話すシン。
──どうして面と向かってぼくを責めないの? そのほうが、ぼくはずっと楽なのに。
婚約はあの日から三日後に解消された。
ぼくからの申し出だったそれを、王家側やシンは反論も無く受け入れ、それから一月も経たないうちに、シンはぼくを避けるかのように学びの塔へと去って行った。
婚約解消後、すぐさまロザイ侯爵領に戻されたぼくは、およそ半年前、七年の月日を経てシンが王宮に戻って来るまで、彼とは一度も連絡を取らずにいた。
ぼくはシンに会いたくなかった。
けれど、その一方で、彼に会いたいと一途に祈るぼくがいた。
ぼくは矛盾している。自分の心がわからない……。
「さっきは助かった」
シンに肩を叩かれて、ぼくは内なる思考から開放された。
「けどな、ルティエ。そんなに辛そうな顔して力を使うなよ。
いちいち落ち込んで使ってたら、おまえの心がもたないぞ。魔導法と同じだ。臨機応変ってやつだ」
「臨機応変? シンはそうやって魔導を使っているの?」
「オレ? オレの場合はそうだな……、是とも言えるし、否とも言える。
オレってわがままだから、私欲のために使うの嫌いじゃないんだよなぁ。
自ずから望んだ魔導だろ? 自分のために使って何が悪いってとこだな。
──ああ、おまえの場合は努力よりも天然だからな。
その生まれつき与えられた力にはそれなりの意義があるんだろうよ。
けど、これだけは覚えておけよ。力を恐れるな。判断を間違うことを恐れろ。
ルティエの力は悪いモンじゃないんだから。
現にオレたちは助けられた、だろ?」
シンは片目を瞑って口許に笑みを浮かべた。
力を解放するべき判断を間違えなければいいときみは言うけれど。
──シン……。かつて、ぼくはその判断を間違えてしまったんだよ?
七年前、きみの心を操ろうとした──あの日。
きみを見るたび、ぼくは後悔してもしきれない……。
「こんなもんしかないですけど、いいですよね」
勝利品!とばかりに誇らしげな顔で、ジェジェが干し肉とチーズを両手に、片目を瞑った。
鼻歌混じりに腰を下ろして、干し肉を切り裂き出す。
ナイフ捌きも浮かれているって感じだ。
ジェジェの登場で、ぼくは肩の力が、すうっと抜けるのを感じた。
ジェジェといるのは楽だった。
シンとふたりだけでいる時よりも、ずっと。
「さっきの親分格の男、魔導師だったんですね。ワタシ、初めて精霊なるモノを見ましたよぉ」
「ほぉ、おまえにもやっとこ見えたのか。こりゃめでたい。ルティエ、明日は雪が降るかもしれないな」
この季節、なごり雪にしても降るわけない。シンは知っていて意地悪を言う。
「ジェジェは学びの塔にいたのに精霊を見るのが初めてなの?」
「ワタシっスか。いやー、ボク、魔導の才能、とことんないんですかねぇ。
何せ、神聖魔法、精霊魔法のどっちも初級試験ですら軽く十回は落ちてるんですぅ」
「初級ってのが悲しいよな、ジェジェ? 三回受けてもパスしない奴なんて滅多にいないのにな。
それだけおまえに付き合わされた試験官も気の毒だ。ほんと同情するよ」
「どうせワタシには魔導の才能なんぞございませんよっ。
酷いですぅ。人の古傷、グサグサつついてくれちゃって。相変わらず殿下のイケズ」
「何が、『イケズ』だ、バァーカ。ホントのことだろが。恨むんだったら自分の腑甲斐無さを恨め、アホが。
入塔を許されたくせに、受からない奴のほうが抜けてるんだよ」
「あんなこと言ってますぅ。ルティエさまぁ」
初級云々はともかく、精霊が見えないなんて。彼らはどこにでもいるのに。
赤い髪、赤銅色の肌。ジェジェがイクミル王国出身じゃないのはすぐわかる。
でも、イクミル王国出身じゃなくても精霊が見える者はたくさんいる。
「見えないなんて、ジェジェ、かわいそうだ。彼らはキレイで優しいのに……」
「はい……?」
ジェジェは目を細めた。
その温かな視線は、彼は何も言わなかったけど、それは弟や妹を見るような慈愛のまなざしに思えた。
ひとりっ子同然のぼくがそう思ったのはどうしてだろう。兄弟がいたわけでもないのに。
でも、ふと、そんなふうに思えたのだ。
「ルティエ。こんな奴と見つめ合うのはよせよ。馬鹿がうつるぞ」
シンのその冷たい言葉を聞くなり、
「殿下はこの際ほっときましょう、あれはヤキモチなんですよ」
そうジェジェがぼくの耳元で囁いた。
それから、ジェジェは拗ねたように唇を尖らせて、
「ふんっ。殿下にいくらけなされようと、今日、精霊を見られたからいいんですっ。すごく感動していますぅ」
大きな声で特に「精霊を見られた」という言葉を強調した。
ところが、精霊を見れたことに大満足しているジェジェに向かって、シンが容赦なく現実を投げつける。
「残念だがな、ジェジェ。あれは風の王だからだ。あれはわざわざ人の子の姿をとっているだけさ。
ジェジェの才能が開花したわけじゃない」
「うっ。では、やっぱりこれからも精霊は見えないんですかぁ?」
「多分、一生無理だろうな。おまえ、学びの塔を出て正解だよ。
あのまま残っていたら、学びの塔は無駄メシ食わし続けて破産していたかもな。
いやあ、よかったよかった」
「殿下の意地悪!」
「事実だろうが。それにだ、さっきの男。あいつは魔導師じゃないぞ」
──え? でも、魔道を使っていたけど?
「そんなまさか……。だって、呪返しのシールド、使っていたじゃない。シリルの真名も持っていたし」
それなのにどうして魔導師じゃないなんてシンは言うんだろう。
「あれはほかの魔導師がかけた術だ。魔道の波動が奴の気と違っていた。
どこぞの魔導師に金を積んで頼んだんだろうよ。
ブタにされた子分を見て、相手のなかに魔道を使う奴がいるっていうんで対抗策練ったってとこだろうが、生憎だったな。
何にしろ、奴が仮に上級魔導師だったら、もっと魔道を使って攻めてきたはずだ。
風の精霊を使って攻撃するしかなかった奴は、風精を失ってもなおオレたちに敵対する手段を持ち合わせてなかったんだろう」
「彼らに手を貸す魔導師がいるなんて。シリルの真名もお金で譲ったって言うの?」
「魔導師だって食っていかなきゃならない。生活のために魔道を売る奴がいてもおかしくないさ。
よく考えてみろ。王侯貴族お抱えの魔導師だって生きてゆくために魔導を売り物にしているじゃないか。
そんなもんさ。売る相手がそこらのチンピラか、貴族かの違いに過ぎない。
魔術師は聖職者じゃないんだ。
あの男に魔導を売った魔術師をまるっきり責める資格は、オレにはない。
ま、あとは理性と倫理の問題だが」
シンは魔術師だけど、イクミル王国第三王子でもある。
王子の身分がある限り、食べてゆくのにこと欠かない。
人の子の心は弱いものだ。
正義よりもその日の食事のほうを選ばざるを得ない時もある。
それでも、死を選ばないだけいい。
自らの命を絶つことだけはしてはいけないもの。
自ら死を選ぶと「遥かなる西の楽園」に行けなくなってしまう。
死者の魂は「遥かなる西の楽園」に辿りつき、生まれ出る時を待つと言われている。
自殺者の魂にはその楽園の入口が開かない。
それでは次の生が得られない。
「ルティエ、おまえ、寝る前に髪染めとけよ。
その目立つ髪じゃ、カンギール人はここにいますと言ってるようなものだ。
上品な街中と違って荒野に巣くう奴らにしてみりゃカンギール人は絶好のカモだ。
カンギール人は金になる。人身売買の中じゃピカイチの値だ」
「冗談はよしてよ。気持ち悪い」
「冗談なものか。おまえ、花街の存在くらい知っているだろう?
あそこにカンギール人ひとり売るだけで、生涯贅沢に暮らせるって噂だ。
売人にしてみりゃカンギール人は黄金の宝なのさ。
ましておまえはオッドアイだ。ここ十数年、いや、ここ数十年オッドアイは生まれていない。
おまえの値は途方もなく上がるだろう」
だから、できるだけカンギール人だと知られるな。隠し続けろ──。
染め粉を差し出すシンの手が有無を言わせなかった。
ぼくは素直に髪を黒く染めることにしたのだが、
「ここ、水がないよ。水がなきゃ染め粉を洗い流せないじゃないか」
ハタと気がついた。
「この先に川が流れている。風がそう教えてくれた。そこで染めればいいだろう?
そうだ、念のためジェジェを連れていけよ。魔導の才能はなくても剣のほうは一応使い手だ」
そう言うと、しっ、しっ、と犬を追い払うように、早く行けとシンが手を振った。
「コレ、食べないんスか?」
「髪が優先だ。干し肉はとっておいてやるから、早く行ってこい。
ジェジェ、間違ってもルティエを襲うなよ。ルティエはオレのだ。
万一のことがあってみろ、おまえは赤羽ゴキブリとなってオレの靴底にグリグリ踏み付けられて、バラバラギタギタ、ペシャンコだぞ。わかってるな?」
「そこまで言わなくてもいいじゃないですかぁ。まったく人が悪いんだから。
よろしく頼むと一言おっしゃればいいのに、何を照れてらっしゃるんだか。
素直にならないと、そのうちルティエさまに嫌われますよ」
「うるさい。早く行け」
「はいはい、わかりましたって。殿下ってばいつだって自分勝手なんだからぁ」
吠える声に追い立てられるように、ジェジェがぼくの手を取った。
「何か言ったか?」
「何でもないです。行ってきま〜す」
「ちょっと待て。ジェジェおまえ、ルティエと手を繋ぐ必要がどこにある?」
「その手を離せっ!」とくわっと口を開いたシンに、「きゃ〜」とわざと黄色い声をあげながら、ジェジェはぼくを引っ張るようにして一目散に走り出した。
「才能もそうですけど、随分努力もなさっていましたよ」
ぼくが髪を洗っている間、ジェジェは見張りをするかたわら、ぼくの知らない学びの塔時代のシンの様子をぽつりぽつりと語ってくれた。
「剣術実技の授業、そっちのけで、魔導法講義を受けてらしたとも聞きてます。
半年前まではそれこそ毎日のように塔長のところに通われて、トクベツな修行をなさっておいででしたしねぇ。
そうそ、以前に一度、伺ったことあるんですよ。どうしてそこまで魔導法に固執するんですかって」
『悪かったな。オレはそんなに器用じゃないんだよ。
二足の草鞋(わらじ)は不安だった。だから、確実性を狙っただけだ』
ジェジェは笑って、そう言っていましたよ、と懐かしんだ。
『王子ってだけじゃ、ルティエと同じ道を歩むのは難しいとわかったんだ。あいつのそばにいてやりたい。
そのためには精霊魔法、神聖魔法、古代魔法。ありとあらゆるものを修得しておきたい。
あいつ……、ルティエがいつイクミルの窮屈な生活に嫌気さすかわからないだろ?
もし侯爵家を出たくなって、オレのとこに来られるのならいいけど……。
あいつがそれを拒むのなら、オレが追いかけるしかないじゃないか。
王子の身分を捨てたら、手に職あったほうがやっぱりいいだろうしな』
『あなたって方は十歳でそこまで計算していたんですかっ?』
『まさか。何事もあとから考えれば、こんな手もあったなーって思うもんだろ。
オレの場合も、実際、塔に入ったのはやっぱり正解だったと思ったのは数年経ってからだ。
まあ、子供ながらによくぞ決断したと、今のオレとしては昔の自分を褒めてやってもいいけどな』
隠れて飲んだ酒の席での本音。さらけ出された恋心。
『どうしても優れた魔導師になりたいんだ。どうしても……。
ルティエに少しでも近づきたい。そばにいたい……。
ずっとオレはルティエを求め続けて来た。これからもそうだ。求め続ける。
こんなこと、ジェジェに話しても仕方ないのにな。
なぜかな。ルティエにこんなこと言っても、今は逃げてしまうってわかってるから……。
本人に言えない分、オレの中で堪ってんのかもな』
涙が出た。ジェジェの口から次々と沸き出るシンの言葉が、ぼくの胸を締めつける。
この七年間。
この、長い時間……。
シンは──。
ああ、シンの心がぼくの上に降り積もる。
髪から滴る水が、この涙を拭い落としてくれるといい。
どうか誰にも見られませんように。でないとぼくの決意は脆く崩れてしまう。
ぼくはぼくの罪を知っている。
これらのシンの言葉はぼくがほしかったもの。
──それを言わせてしまったのはぼく。ぼくが望んで言わせた……。
シンがもし、ぼくのことを気に掛けてくれるとしても、それはぼくの力がそうさせているのかもしれない。
シン本人の気持ちなのか、ぼくが望んだ結果なのか。シンのことをどこまで信じていいかわからない……。
今更ながらに犯した罪がどれほど重いものなのかと思い知らされる。
力の解放の判断を間違え、自分自身できみの心を信じきれなくしてしまったぼくの罪。
ぼくの想いは罪の塊となって、ぼく自身にのしかかるのだ。
「ルティエさま。殿下は本気ですよ……。
ワタシが口出すことじゃないのは重々わかってはいるんですけど。
応援したくなっちゃうんですよ、おふたりを」
「シンの本気……? でもぼく、さっきシンとふたりでいるよりも、ジェジェといるほうが楽だったんだよ。
これってシンの気持ちがぼくには重いってことなのかな」
「初々しいですねえ、ルティエさまは。シン殿下のお気持ちもわからないでもないなぁ。
あのですね、何とも思ってない相手なら誰だって楽ですよね。
嫌われたくない、よく思われたい。そういうの一々気にしないで済みますからね。
つまり、それだけルティエさまの中で殿下の占めるところが大きいってことですよぉ」
「そんなこと……」
ない、とは言えない。
「ねえ、ジェジェ。ジェジェはぼくの瞳が怖くないの?」
「ルティエさまのことは、殿下からずっと聞かされてましたしね。
それにあなたはオッドアイの力に疑念を抱いている……。
あなたは何も知らない子供じゃない。そしてワタシも、それがわからないほど愚かじゃないんですよ」
「ジェジェって大人だね。ぼくにそこまでよくしてくれるのはシンのため?」
ジェジェはちょっと考え込んで、それから小さく首を横に振った。
「これでもね、いたんですよ。本気の本気で惚れた大切な人が。
実はこう見えても既婚者だったんですよ、ワタシ」
「ええーっ!? ジェジェって早婚だったんだ」
「これでも二十四ですよ。別に早婚ってほどじゃないと思いますけど」
二十四? 二十歳にも見えないよ。
でもいいのかな。こんな踏み込んだこと訊いて。
「既婚者だったっなんて過去形で言っているけど、それって離婚したってこと?」
「ブブー、違います。愛に一途なこのワタシを掴まえて離婚などとおっしゃらないでくださいな。
えっとですね。つまり、亡くなっちゃったわけです。
まったくねえ、ワタシの奥サンだった人ってのが、これまた丈夫な人だったんですよ。
風邪なんか全然ひかなくて。
病気知らずって言葉が良く似合う、それはそれは健康そのものって感じのね。
でも、そういう人に限ってぽっくり逝ってしまうんですかねえ。
子供がね、できて。さあ生まれるぞって時にすうっとね。
出産って怖いですよお。女の人は命懸けで命を育むんだって知ってたつもりなんですけど……。
本当は何もわかっちゃいなかったんですよねぇ」
言葉が出なかった。
何て声を掛けていいんだか。
思いも寄らないジェジェの話に驚きでいっぱいになって、頭の中が真っ白になってしまった。
「ジェジェ……、そんな大切な話、いいの?」
ぼくなんかにして。
ジェジェは、それには応えず、
「幼馴染みだったんですよ、奥サンとは。だからかなあ、殿下を見てると何かほっとけなくて。
あ、ルティエさまもですよ。
おふたりとも、もっとこの一瞬一瞬を大切にしてくれたらなぁと思うんですよね。
せっかく好きな人がこの世界に生きているんだから。
特にルティエさま、あなたはもっと甘えていいんですよ。
そりゃあね、お立場ってもんもわかりますけど、でも心って嘘つけないもんなんですよ」
ましてや恋心はね、とジェジェは片目を瞑って微笑んだ。
「子供は……どうしたの? お父さんと離れてたら寂しいでしょう?」
ぼくのことに話をふってほしくなくて、つい訊いてしまった。でも、訊かなければよかった。
だって。
「大丈夫ですよ。寂しくなんかありません。何たって、いつだってお母さんと一緒にいられますから」
「え……? でも。さっき……」
「駄目、だったんですよ。
あのね、奥サン、途中で息できなくなっちゃったから、子供のほうも窒息しちゃって。
お産婆さんが引っ張り出したけど、もう手遅れで。黒いくらいに紫色してて。
全然オギャアなんて言わないで、そのまま母子ともに逝ってしまったんですよ」
明るい口調が余計に悲しみを呼ぶことを、ぼくはこの時初めて知った。
ジェジェは今では笑って、昔のことですから、なんて言っている。
でも、ぼくのことですらこんなに心砕いてくれるのだ。
そう、幼馴染みっていう共通点だけで、ジェジェは奥さんとのことをぼくらに重ねて見ている。
だから、ぼくにシンの言葉をたくさん紡いでくれた。
それだけでも伝わるジェジェの心。
ジェジェは奥さんのこと、きっと今でも深く想っているんだ──。
同じ世界に、同じ時代に生きている。その幸せの重さを、ジェジェは深く知っている。
ぼくは理解できているのだろうか。本当の意味で。
心が震えるほどの想いを、確かにぼくは抱いている。
離れていても会えなくても、シンの存在がどこかで息衝いている。
それが当然で、学びの塔で元気に暮らしているってそれだけで、ぼくの心は遠く想いを馳せられた。
消えていなくなってしまうなんて、想像したこともなかった。
シンがこの世界から消えてしまうなんて。そんな、そんなこと、考えたくない。
だって、ぼくは……。
ぼくは──。
その小さなカケラを思うだけで、胸が苦しい!
そんなの嫌だって心が叫ぶ。そんなこと許せないって。
ああ……、ぼくはやっぱり諦めきれないんだ。
ぼくのものにならなくてもいい、なんて口で言いながら、その実、ぼくを置いて逝くことを許せないでいる。
──ああ、シン! きみを放したくない……!
心に嵐が吹き荒れる。抑えられない溢れ出る気持ちが、風となって心を揺さぶる。
──いけないっ! このままじゃ……、心を強く保たなければっ!
「おいっ、何やってんだ、この阿呆っ!」
「殿下っ! ご、めん……。済まない……。昔話なんか、したから……」
「昔話って、おまえっ! ルティエを興奮させてどうするつもりだっ!
ルティエ、顔を上げろっ。まわりをちゃんと見るんだ。
気持ちをジェジェに同調させるな、心を落ち着かせるんだ。おい、聞こえてるか。オレを見ろ、ルティエ!」
異変を察知したのか、息を切らして駆け付けたシンは水浸しになるのも構わず、ぼくの肩を掴み、揺すった。
「おまえのオッドアイは今のオレには効かないっ! だから構わずオレを見ろっ!」
その言葉につられて、ぼくが顔を上げると、頬を伝う涙に驚いたのか、シンは一瞬、目を見開き、それからゆっくり腕を背中に回して、強く、強く、ぼくを抱き締めた。
「落ち着け。大丈夫だ。こいつの話に自分を置き換えるな。おまえはおまえなんだ……。
大丈夫、オレはここにいるから……」
身体中の力が緩やかに抜けてゆく。白くぼける世界に、シンの心配そうな表情を見た。
その瞳が青く深くぼくを包み込み、ほっと安心して心を手放しかけた。
シン。ぼくはきみを感じられたから。
きみがいるなら大丈夫──。
そして飛ばされる意識の片隅で、こんな時でも……、こんな時だからこそ、シンを求めるぼく自身が許せなかった。
甘い恋心の誘惑に、自分の罪さえも目隠しする自分の図々しさに嫌悪さえ抱いた。
──きみが心砕いてくれるほどの価値は、ぼくにはないよ。
「ごめん、ね……。ジェジェ……」
呟きが空に吸い込まれる。
ぼくは謝罪と罪を抱き締め、それでもシンの腕の中へ落ちていった……。
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