眠れる卵 vol.4



 視界を赤く染めていた夕陽が山の裾に差し掛かると、長く伸びた影法師もいつの間にか薄暗闇に紛れて消えていた。

 陽が暮れてからも、しばらく馬を進めていたぼくらだったが、地理に明るくない者は迷っても遠回りをするだけ、と判断して、早々に野営をすることにした。

 街道筋には宿場町が数多く点在しているのが常だが、ぼくらがいる場所はちょうど街と街の中間で、あたりには民家一件すらない。

 ここにあるのは、梟(ふくろう)らしい野生動物の鳴き声、そして笛の音のような虫の声くらいだった。

 薪を集めて火を起こす。
春とはいえ、まだ冷えるこの季節に暖は欠かせない。

 生まれて初めての野宿は緊張と不安に満ちていた。
冷たい風に髪が靡くたびに、この先に待ち受ける山岳地帯の寒さに不安が募る。
一日中、頑張って馬を走らせているのに思った以上に距離が進まなくて、本当に三日でカルバ村に着くのだろうか、と焦りも生じた。

 でも、知り合ったばかりのジェジェがしきりにぼくを気遣って、あれこれと話しかけてくれたり世話してくれたので、旅慣れしていないぼくは彼の明るさにとても救われた。

「ルティエさま、寒くないですか?」
「充分、暖かいよ、ジェジェ」

 ふたりは何かを待っていた。

 足手まといにでも思われているのだろう。
ぼくには何も話してくれなかったが、しきりに来た道を振り返るふたりを見ていれば、さすがにこれから起こりそうなことも、およその察しがつくというものだ。

「来ますかねぇ」
「来るさ」

 小枝を割って焚き火に投げ入れるシンはパチパチと弾く火の音を聞き流しながら、周辺の音に注意を払っていた。
三人とも火に照らされて朱に染まり、三つの黒い影がゆらゆらと草の上で揺らいでいた。

「こんな時つくづく、未来読み(さきよみ)の能力がほしいですよねぇ。
もしくは、あのウル・ゲルみたいな人が一緒にいたらよかったのにって。だって、すごく便利じゃないスかぁ」
「偉大なる予言者ウル・ゲル……、カンギール人の出現を予言した伝説の未来読み、か。
あれほどの未来読みは、そうなかなか出ないだろ」

「やっぱり殿下にとってもウル・ゲルは偉大ですか……」
「さすがのオレも未来読みだけは全然ダメだったからなぁ」

 何だ、その未来読みだけはってのは。ほかは何とかなるって言うのだろうか?

 単なる言葉の綾なのか。

 それとも──。

 昔からシンは、大体にして自信過剰のところはあったけれど、まるっきりの張ったりでモノを言うことはしなかったので、やっぱり考えるだけで怖くなる。

 未来読みはできないけど、未来読みと並び称されるもうひとつの古代魔法の過去見や、治癒などの神聖魔法は会得しているってこと?
魔導師が最初に手習う精霊魔法だって、「精霊魔法に始まって精霊魔法に終る」と語られているほど突き詰めれば奥が深いだろうに。

 確かに、目の前で揺らめく薪の炎も、シンが火の精を使役して点(とも)させたものだ。

「殿下で無理なら、ワタシなんてもっと無理っスね」

 殿下で無理なら……、なんてそんな話を聞いてしまうと、「指の称号」の候補者っていうのが現実み帯びてくる……。

 つい、ぼくは無言でシンの秀麗な顔を見つめてしまった。





 静寂というものは突然破られるものなのだろうか。
数頭の蹄の連なる音がかすかに遠くから聴こえてきた。

 その音がどんどん大きくなって近くなり、それが十頭を超える馬のものだと察した時には、すでに焚き火に照らされた武装した彼らの朱色の姿がぼくらの目に前に迫っていた。

「私の顔見知りが有り難い経験をさせてもらったそうで、本当に申し訳ないことをした」

 ひとり、一歩前に進み出た痩身の男が、全然有り難くなさそうに礼を述べた。
彼が言葉を発すると、後方のその他大勢の罵倒が一瞬鎮まった。
彼らは口を噤む代わりにこちらをギロリと睨みつけながら、腰に下げた柄をおのおの掴んだ。

 反射的にジェジェも鞘に手を触れ、シンはぼくを庇うように背に隠した。

「知り合いか?」

 惚けたようにシンがジェジェに尋ねる。

「あなたの、じゃないですか? ワタシは豚の顔しか見てないんですよ?」
「ああ、あの豚か。それなら、そのうしろの三人が豚から脱皮した面々だ」

 シンのからかう声に指された三人が「この野郎っ!」と叫んで飛び出そうとした。それをリーダー格の男が片手で制す。

「この辺りを抜けるには通行税がいるのですよ。これまでどなたにも公平に支払っていただいています。
ですから、あなた方にもお支払いして頂かなくてはなりません。でないと不公平になりますからね。
そうそう、未払いの場合は何らかの代用品、つまり、後々現金に換えられるものをいただくことになってますのでご承知のほどを」

 いくら丁寧な言葉で説かれても、その所業は略奪行為に違いない。

「おまえたちに払う義務は生憎とこちらにはないな。特にオレは納税者ではないのでね。
けどな、こっちの赤毛からは搾り取っていいぞ。こいつは他国から出稼ぎに来ている身の上だ。
充分、納税の義務がある」

 だが、盗賊相手に身内を売り飛ばすシンの口調はは真剣そのものだった。

「酷いですぅ。あんまりですぅ」

 ジェジェは一応拗ねてみせたが、無論誰にも受け入れてもらえなかった。

「さて、それではどうしましょうかねぇ。
金銭的に解決できないようであれば三人まとめて売るしかないでしょうな。
幸運なことになかなか見栄えのする者ばかり。特に魔導師殿、あなたはかなりの高値がつくでしょう。
次は、そう、そちらの小柄な……。ああ、赤毛は駄目です。
あまり人気がありませんので下働きにでも使うしかありませんね。
さ、そうと決まれば傷をつけぬよう捕獲しましょう」

 男がにやりと下卑た笑みを浮かべて、シンやぼくの全身をなぶるように見渡す。

「どうして赤毛は駄目なのーっ?」

 ジェジェの訴えは、またもや当然無視された。が、別の意味で、鞘から剣を抜く掠れた音が応えてくれる。

 ぼくも咄嗟にシンの真後ろからやや斜め右に移動しつつ、細剣を手に身構えた。

「ルティエ?」

 ぼくの動きに不審を抱いて呼び止めつつも、シンのその視線は襲撃者たちから逸ることはない。
振り返ったら、当然、その隙を狙われるからだ。

「違うよ、逃げるためじゃない。きみの真うしろじゃ相手の動きが見えないだろ?
ぼくは自分の身は自分で守れる。もしかすると今のきみより剣が使えるかもしれないよ?」

 強気な広言で緊迫した場の雰囲気に立ち向かう。

──きみはきみのやり方で立ち向かうがいい。ぼくはきみの足手まといにだけはなりたくない。

 案の定、真剣で突っ込まれてはさすがのシンも防御するだけで必死だった。
ぼくも相手にできるのはいいとこひとり。

 対してジェジェは、隙を突いて一番近くにいた男のくるぶしに蹴りを入れ、倒れた隙に相手の剣を奪う。
鳩尾に肘で一撃を加え、男が起き上がるのを阻止して、別の男が振りかざした剣を左手で鞘で受け止めた。
右手の剣柄で相手の手首を狙って打ち下ろし、男が痛みに手放した剣を即座に拾う。
二刀を手にしたジェジェは残るほとんどの人数を引きつけるように走って、ぼくとシンから遠ざかった。

 ひとり自由奔放に両刀使いの剣の舞いを披露するジェジェに対し、背中合わせに重なるシンとぼく。

 ぼくたちを囲む敵は三人。

 シンは小振りの枝に魔法をかけて、剣に見立てて戦っていた。
ぼくのは華奢な細剣だ。切るより突きの攻撃向きの護身用の剣での応戦となった。

「どうする? 体力的には多勢のあっちのほうが断然有利だよ?
ジェジェは楽しそうだけど、ぼくはちょっと持久力に自信がない」
「ああ、オレもいい加減疲れてきた。壁を張るからその間だけ、ルティエ、頼むから保たせろよ」

 言うなり、シンは呪文を唱え始める。

「射干玉(ぬばたま)の月詠(つきよみ)の誓いにおいて召喚す。
我と契約すべし風よ、我らを囲む壁を作れ──」

 途端、暴風が吹き出し、ぼくらの周りに熱い風の層が生じた。

 無数の風の精が集まってくるのが見える。
陽炎のような薄い四枚羽の小さな風精たちが一斉にこちらに向かって来る。

「お願いですぅ。ワタシも入れてください〜」
「余裕で楽しんでるヤツなど、オレは知らん」

 口を動かしていても、ジェジェの剣捌きは激しく空を切り続けた。
紙一重で相手の剣筋をかわしたのち、左の男の腹を蹴り上げ、振り向きざまに別の男のみぞおちに柄の根元を食い込ませる。

「す、ごい……」

 多勢を相手に、実力の差があるとはいえ、それは余裕さえある動きだった。

 勝敗の風向きは明らかにこちらにあった。
なのに、風の防壁を作って一息ついたシンとぼくに、リーダー格の男は唇の端を歪ませあざ笑う。

「風ですか。それではこちらも同じ風で対応しましょう。さあ、シエル。風壁を突きなさい。
隠れんぼのふたりを引き摺り出すのです」

 一瞬の突風があたりに吹き荒れると、シエルと呼ばれたモノが空に生じた。
ぼくらの背丈と同じくらいあるその美しい存在は透けていた。

──風精だ。それも、人型!

 シンが召喚した小さな風精たちよりも、人型をかたどるだけ力が強いのが知れる。

 だが、ソレは姿を現したものの、リーダー格の男を振り返るばかりで動こうとしなかった。

──召喚者の命が行き届いていない?

 呪文不唱の召喚の影に、呪縛の鎖が見えた気がした。

「シエル! 貴様、私の言うことが聞こえないのかっ!」

 シエルと呼ばれた風精は、仕方なさそうに両手を前に突き出して鎌鼬(かまいたち)を仕掛けてきた。
ところが、効果のほどはほとんどない。風の壁に向かっての攻撃にしては、それは極端に弱いものだった。

 当然、そのやる気のない戦いぶりに煮えきらなくなった男は地団駄を踏む。
だが、男の焦燥感と苛立ちが起こした次の行動は、魔道に携わる者としての常識を外れていた。

「それで本気のつもりかっ! シエルザーラ!」

 なんと、彼は風精を真名(まな)を絶叫したのだ。

 顔を歪め、風精が苦しげにもがく。
真(まこと)の名で捕られては、歯向かうことなど不可能だった。

──これじゃ、脅迫と一緒だっ!

 ぼくの肌がぴりりと引きつった。心の奥に嫌悪の情がむくりと涌く。
ぼくはその男にはっきりとした憎悪を感じていた。

 今度はシエルが白い掌に細い竜巻を生み出した。
それを剣に変化させ、風の壁に力の限り、ぐいっと突き刺す。

 小さな風精たちの掠れた悲鳴がいくつも聞こえた。

 どこかでシエルの心の悲鳴も聴こえたような気もした。

──これでは風精同志の共食いになってしまう。こんな戦いはおかしいよ。

 風の精霊たちは人の子の事情に無関係なのに、彼らを操る人の子の勝手で呼び出されては傷ついてゆく。

 彼らが傷つく理由など在りはしないのに、どうして彼らが傷つかかなくてはならないんだろう。

「シン、もう風壁に頼るのは止めよう。これじゃ風精たちがかわいそうだよ。
きみがあのシリルっていう風精より力のある風精を召喚したところで同じだ。
精霊たちは無傷ではいられない。
ぼくは嫌だよ……。これ以上、人の子の身勝手な争いに精霊たちを巻き込みたくない」
「じゃ、どうしろっていうんだ? 壁を解いて金を渡せというのか?
あの調子じゃ本当の目的は人身売買だ。オレはおまえを害するモノは何であろうと許せない」

「でも、このままじゃ、風精の心が壊れちゃうんだ」
「一体ふたりして何やってんですかー。早くブタでもカエルでもしちまえばいいじゃないですかぁ」
「アホッ! 簡単に言うな。相手には呪返しの防御壁が張ってあるんだ。
そんなことしたらオレのほうがヤバイだろうがっ」

 そうか。道理で相手の男の身体に薄い膜のようなものがぴたりと張りついていると思った。
あれは呪返しの防御壁だったのか。

 それではシンが神聖魔法を直接相手に送り込めないのは当然だ。
灯(ひ)の中に入る虫になってしまう。

──だとしたら、どうする?

 さすがのジェジェもあの数相手では、ひとりずつ片付けるにしても、全員仕留めるまでに時間がかかる。

──ほかに方法がないのか……?

 このままでは風の精霊たちが共倒れになってしまう。

──だとしたら……。

 今、ぼくができることをするしかない。唇を噛んで黙って見ていることなどできやしない。
少しでもできることがあって、その力をぼくが持っているのなら、この際形振りなど構っていられない。

「シン……」
「何だ、甘い声なんか出して。愛してるとでも言ってくれるのか?」

「なっ、何バカなこと言っているんだよ、この状況でっ!
あのさ、ぼくがあの男を何とかしたら、そしたらきみはあの人型の風精の真の名を取り戻せる?」
「呪返しの防御壁でオレの持っている風精の名前、全部消えておしまいだ」

「ってことは、呪返しさえなかったらできるんだね?」

 それなら何とかするしかない。

「ただし、この壁取り除かなきゃならないぞ」

「いいよ」
「いいよっておまえ、簡単に言ってくれるけどなあ。そんなことしたら身体中穴ぼこだらけだぞ。
それもあのシエルって奴の仕業でな」

「シエルの攻撃は名前を奪えば収まるんだろう?」
「壁の崩壊から名の奪回までに無事でいられると思ってるのか?」

「──わかった。なら、あの男とシエル、ふたりともぼくが引きつける。それならどう?」

 おまえ、何やるつもりなんだ、と深い青の瞳が尋ねていた。

──決まっている。ぼくはぼくにできることをするまでだ。

 深く息を吐く。呼吸を整え、精神を集中する。

 自分を解放するのはあの婚約式以来だ。ああ、もうすぐ七年になるのか。

 それより昔は遊びのように使っていた、この力……。

 子供は残酷だ。相手の気持ちを簡単に無視できる。
自分の欲望の達成のためには相手の心など塵とも思わないでいられる。

 だから、使えた。この力を──。

 身体が火照る。心が高揚する。目が熱くなる

 髪が、黒く染めたはずの髪が、もとの色に──乳白色に、戻ってゆく。
 
 乳白色の髪がうねり、波打つ。

──風よ、ぼくを見ろ。対峙する者よ、この瞳に狂うがいい。

「何っ、瞳が変わる……?」

 男の意識がぼくに重なる。

「カンギール・オッドアイっ? まさかっ」

 風精シリルの、叫びに近い声が風の壁を切り裂いたかに見えた。シンが防壁を解いたのだ。

「ジェジェ、こっちを見るなっ。今、ルティエを見たらおまえまで掴まるぞっ!
──かの者の内なる風、記憶と言う名の水に沈む名よ。我が声の波に乗って姿を現せ……。
シエルザーラ、風の精霊の真の名よ!」

 まず、リーダー格の男の動きを止めて、呪返しの防御壁を解除するよう男の意識に語りかける。
邪魔な呪返しが無効となる鍵の言葉を男の脳裏に浮かび上がらせて、次に一気に言語に変換させる。

 すると、自分の意識が操られていることもわからないまま、男はすらすらと呪文を紡ぎ始めた。

 時間にして一瞬のことが、ぼくにはゆるやかに流れていた。

 呪返しが無効になる瞬間、動けずにいた男の身体からほのかに光り輝く球が浮かび上がった。
それは風精の本質である真の名だった。シンの神聖魔法の呪文が発動したのだ。

 呪返しが無効となった瞬間、それからはシンの本領発揮となった。

 シエルの真名の光球は、男の精神の波動から伸びる束縛の鎖に戒められていた。
束縛の鎖は三重の呪文で形成されているようで、シンはそれらの呪文をひとつずつ素早く解読し、正確に解除していった。

 突然、ぷつ、と短い音が聞こえたような錯覚を覚えた時、繋ぎ止めていた束縛の呪文が消え、真名の光球は千切れるように男から離れた。

 ふらふらと光の球はシンの近くまで漂い、開かれた掌の上にゆっくりとそれは降りてゆく。

──よかった。これで風精シエルの真の名は男の記憶から消えたはず……。

 その当の男はいまだぼくから目を放せないでいた。

──ああ、熱い。瞳が、身体が……。

 脳裏にいくつもの記憶の断片が浮かび上がっては消えてゆく。
風精、火精……。数多くの真の名が泉のように沸いては四方に砕け弾ける。
永遠に続くかに思える綺麗な花火の世界が瞼の裏に繰り広げられる。

──まずい、このままでは引き摺り込まれてしまう……。

 心が奥深く自身の深層意識に沈み込もうとした──瞬間。
ぐいっと誰かに肩を掴まれ、その加減のない力が引き起こした痛みのお陰で一瞬のうちに我に返った。

「アホ。自分で引き起こしといて暴走する奴があるか。自分を見失うな。
何も省みず、力を使う決意があるのなら制御することに意識を集中させろ」

 ぼくの視界に広がるのは、どこまでも深い深い青い瞳。

 そして、その青い瞳に映るのは──。

 宵の闇の中、色彩などはっきり見えるはずがないとわかっているのに。
その瞳に映るぼくの姿は髪だけでなく、瞳さえも乳白色に染まっているはずだと、ぼくは知っていた。

 強い意思を孕んだシンの眼差しがぼくを射抜くと、高揚した気分も徐々に納まり、だんだんと落ち着きを取り戻していった。
乳白色に染まっていた瞳も、きっともとの左右異色に戻っているだろう。

「シン……?」

 呆けたようにぼくを見ていたリーダー格の男が意識を取り戻したのか、頭を左右に振って足をふらつかせた。
一方、シエルは今も驚愕の表情で、その身体を奮わせていた。

 周囲の気配にはっと気付くと、男たちの嫌悪感の混じった畏怖の眼差しがぼくに向けられていた。

──ああ……、この目、この視線。

 やるせない想いが渦巻いた。

──もう使わないと……。あれほど後味の悪い思いはもうたくさんだと、決心していたのに。

 なのに使ってしまった。でも、あの時は切羽詰まっていた。

 精霊たちを、人の子の犠牲にすべきではない。絶対、そんなことしてはいけない。
そんな言い訳に縋るようにして、力を解放してしまった。

 七年前、ぼくはもう二度とこの力を使わないと決めたはずなのに──。

 ぼくの宿命、カンギール・オッドアイ。
その左右異色の瞳は多大な力を宿し、自らの意思をもって相手の心理を誘導す魔性の瞳だった。

 忌ま忌ましい神力の伝承は今も息衝いている。
そして、それは単なる伝承などではなく事実であることが、ぼくという存在によって実際証明されている。

 カンギール・オッドアイに魅せられた者は操り人形と化す。
誰だろうと自分の心を他人に操られたくはないだろう。この瞳が忌み嫌われるのはもっともなことなのだ。

──誰もがぼくを避けたがるのは当然なんだ……。

 身体の力が一気に抜けた。張り詰めていた気が緩んだのだ。

 後悔からなのか、終わったと認識したからなのか、ガクンと膝が折れて身体が傾いた。
無意識に手を伸ばすと、すぐに背中に手を回され、強くシンに抱き留められた。

 そこに。

「どうして私を呼ばないのですか。
このように無駄に力の解放を続けていたら、命がいくつあっても足りませんよ」

 完全な人の姿をした美しい精霊が、突然、宙(そら)から地上に降りてきた。

 シンとぼくはお互い目を合わせた。目の前の風精をぼくたちは知っていたからだ。

 そして、彼の姿にシリルが厳かに呟いた。

「我が君──」と。



 ふたりでよく虫や精霊を気軽に呼びつけては一緒に遊んだ、あの頃。
喜んで集まってくる多くの精霊たちの中で、人の子に一番近い姿をもっていたのが彼だった。

『あまりにも綺麗な光を放っていたので、つい呼ばれてしまったのですよ』

 彼は優しく、そして、力ある声で、
『遊びで使うには……精霊たちにはせつない光です』
遠い幼い日、無邪気過ぎたぼくを諭した美しい精霊……。



──そうだ。思い出した。

 カンギール・オッドアイの力こそ、失われてしまった彼らの主人の名残(なごり)なのだと、そう教えてくれたのは彼だった。

 ぼくが力を放つ時、その波動の光を浴びた精霊たちはすでに去った主人を彷彿して懐古的気分に陥るのだ、と。
見ているこちらがせつなくなるような微笑みを浮かべながら、彼は語ってくれた。

 茜さす照る陽(ひ)の民、射干玉の月詠の民のすべての古(いにしえ)の神々は、遠い世界に去ってしまった。
精霊という眷属たちをこの地に残して。

「呼べと言われても、どう呼んだらあなたが来てくれるのか、ぼくにはわからない。
召喚の契約を結んでいるわけでもないし、ましてや、ぼくは魔導師じゃないから、使役の術を知っているわけでもないんです」

「そんなもの、あなたには必要ないでしょう。私を思い出して呼べばよいことです。
あなたのその瞳はこの世のすべての真名を見ることができるのだから……。
とにかく、このたびは我が同胞を助けてくださったことに感謝します。
イクミルの王子、あなたにも礼を言います」

「礼など。それより、その風精の真名はここにあるが、どうする? 風の王にお返しすればいいのか?」

 シンの手のひらの上には、ほのかに青白く輝く球があった。

「シエルザーラ、あなた自身はどうしたいですか?」

 風精王は風精の意思を重視するようだった。

「私は、助けて頂いた方々のお手伝いをしたいと思います」
「このように言っておりますが。その名を、王子、あなたが預かるというのはどうですか?」

「契約の内容からすると、オレはシリルを酷使するのも可能になるな」

 それは絶対服従にほど近い。
シンが要求するすべての使役に応じるということに等しかった。

 それでもシリルは、「承知の上」と請け負う。

「参ったな。オレはあまり安請け合いはしない口なんだ。この話は美味しすぎる。
あとにしっぺ返しが来ないとも限らない。だから、この契約には期限を設けることにする」

 何と変わった人の子だ。普通ならば、喜んで譲受しそうなものなのに──。
風精シリルの表情はそう物語り、風の王は穏やかに微笑んだ。

「では、我が君の立ち会いのもとに。我、シエルザーラはあなたを契約者と認めます。期限は……」
「おまえが飽きるまで」

 これはまた、と風の王が声を漏らして笑う。

「期限は、我の決断の時となす」

 わずかに微笑みを浮かべつつ、風精シリルは厳粛に言い放った。

「了解。じゃ、これは貰うぞ」

 シンの手のひらに漂うシリルの真名の光球は、ゆっくりと彼の手に沈み込んで跡形もなく姿を消した。
その経過に満足そうに風精シリルと風の王は頷き、気付くと、ぼくはシリルと目が合っていた。

 途端、シリルがぼくに向かって膝を折る。さすがにこれにはぼくも驚いた。

 さらにぼくの手の甲にシリルは唇を寄せ、
「この御恩をどう感謝すればよいか。
意思に反して束縛されてたこの身を正当な契約者に委ねることができたのも、ひとえにあなたのご助力の賜物です。
あなたがひとたび、『シリル』と呼んで下されば、先んじて伺いましょう」
ぼくへの助力をおのずから買って出たのだった。

 ぼくは何をどうすればいいのか、戸惑った。

──シリルの真名を受け取ったのはぼくではないのに、それでもぼくに応えると言うのだろうか?

 ぼくはただ、精霊を苦しめる奴が許せなかっただけだ。
同じ人の子なのに、ぼくを異端者としか見ることができない人たちと違って、精霊たちはいつもぼくに優しく接してくれた。
カンギール・オッドアイの力を使わなくても、彼らは喜んでやって来てぼくと一緒に遊んでくれた。
シンがいなくなって、友人という友人さえいなかったぼくにとって、精霊たちは安らぎだった。

 シリルは召喚の契約者にシンを選んだ。それはシリル自らが認めた結果だ。
契約者の要求は義務だが、契約者以外に対するものは──いったい何なのだろう。

 好意? 友情? だったら嬉しいけど……。

「では契約者よ、次の召喚の時をお待ちしております」

 ふたりの風精は空高く浮かび上がり、だんだんと透けて大気に溶けた。

 シンと風精シリルの契約の瞬間はこうして幕を閉じたのだが。

「行ったか。さてと、ジェジェ、奴らはどうした?」
「もうとっくに尻尾を巻いて逃げましたよ。豚にされるのが余程怖かったんですかねぇ」



 昔から優しかった精霊たち。風の精、森の精、水の精、火の精、泉の精、蔦の精──。
彼らはいつもぼくの背後を見ている。

 カンギール・オッドアイの容姿に誰かを重ねて見てるに過ぎない。

 それでも。

 それでも、ぼくはよかった。彼らはいつもぼくに優しかったから。

 そう。ぼくはそれでもよかったんだ──。

 ひとりでいるよりは、ずっと……。





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