眠れる卵 vol.3



 馬を走らせ、城下街から街道へ出た。

 イクミル本国を北上し、王国北方に連なるオルデ山脈を一気に目指す。
カルバ村はオルデ山脈のイクミル側麓にあった。

 北に続く街道筋には宿場町がてんてんと存在している。

 最初の街でまずしたことは、ぼくの髪を黒く染めること、次に軽い食事を摂ることだった。

 長時間、馬に乗っていたため、腕や内股の筋肉痛、加えて腰痛が容赦なくぼくを叱咤する。
それでも、「辛い」とは口には出せない。

「あまり腹に入れると馬上で吐くことになるぞ。ただし、水分はしっかり摂っとけよ。
脱水症状だけはごめんだ」
「言われなくてもそんなに食べないよ」

 食べたくても食べられない。胃がまだ馬に揺れているみたいなのだ。

 テーブルに出された白パンを少しばかり摘んで、せめて水だけは……と、飲めるだけ飲んだ。

 シンとジェジェは今後のルートを検討しつつ、黒豆パンや胡桃パンを忙しく口に運んでいる。
彼らは店の主人に持ち帰り用の干し肉、チーズ、そして乾燥させた果物をふんだんに使った日持ちするパンを注文し、水の補給もついでに頼んで食料の確保にも余念がない。

──ふたりとも元気だよなあ。ここまで平然とされると羨ましさを通り過ぎるよ。

 明るい日中になると、黒髪のシン、赤毛のジェジェは髪の色だけでなく、白磁の肌、赤銅色の肌、何よりその生気に満ちた存在感がふたり揃うと嫌でも目立った。
この中にカンギール人である乳白色の髪のぼくがいたのでは、それこそ目を引くどころではない。

──黒髪に染めておいて本当に良かった。俯き加減でこの瞳を髪で隠すこともできるし……。

 それにしても、と疑問に思う。

──ここに、どうしてこのふたりがいるんだろう。

 改めて考えてみると、不思議なことばかりだった。
だから、ぼくはふたりの話に区切りがついたのを見計らって訊いてみた。

「ジェジェはシンに頼まれて馬を用意してくれたのはわかるけど、シンはどうしてぼくの行き先とか知っているの?
ぼくはひとりで行くつもりだったのに……」

 どうして一緒にいてくれるの、の最後の問いは言葉にならない。

 いつかまた突然置き去りにされてしまうかもしれないという漠然とした不安が顔に出てしまったのだろうか、深い青がぼくを真っ直ぐ突き刺した。
その瞳の色はやっぱり子供の頃と変わりなかった。
イクミル王国最大の湖、蒼月湖と同じ青──だ。

「ロザイ侯爵夫人さ」
「え?」

 ぼくと視線が絡み合うと、シンは落ち着きなくそっぽ向いた。

 聞いていません、聞こえていませんの姿勢を保ちつつ、ジェジェはテーブルに頬杖をついて、黙々と食事を続けていた。
彼の耳が、実はしっかりこっちを向いていたのは気になったけれど。
でも、この機会を逃したらいつまた訊けるかわからなかったので、他人の耳はこの際気にしないことにした。

「母さまが、どうしてシンに……」
「心配だからだろ?」

 間近に見るシンの横顔は相変わらず目を惹くもので、男にしておくには惜しいほど整っていた。

 もうシンとは会うことはないだろうと思いながらも、会いたくて、会いたくて。
でも、会ったところでどんな顔をして会ったらいいものやら、ぼくは長い間、随分悩んだ。

 そのシンが、こんなに近くにいる──。

 懐かしさと切なさで、胸が締めつけられた。

「オレはおまえに力を使わせたくない。
眠れる卵である以上、力を使えば不安定な身体に与える痛手は計りしれないからな。
侯爵夫人からのオレ宛の手紙にはこう締め括ってあった。
『あの子はカンギール・オッドアイに囚われています。どうか、あの子を開放してあげてください』と」


 カルバ村に行きたいと告げた時、
『止めてもあなたは行くのでしょうね』
母は心配そうにぼくを見た。

 いつまでもこのままではいられないとわかっていたのに、ぼくは自分のカラに閉じこもっているほうが楽だったから、男にも女にもなれずにずるずると今日まで来てしまった。

「シンは知っているんだ……? このままぼくが力を使うとどうなるの? 教えてよ」

 不安定な「眠れる卵」は、ぼくの心そのままの状態だった。

「今のおまえが力を使ったら……まず、体力の消耗は避けられないだろうな。
オレ、学びの塔に在籍している間、カンギール人についての文献を片っ端から読んだんだ。
カンギールは第二性徴期に性を選択するのが常識だ。なのに……。おまえ、もうすぐ十七だろ?
普通、そんな年齢になるまで眠れる卵でいるか?
それこそ自然に反する行為だ。このままではおまえは長く生きられない」

 十七歳の眠れる卵なんて尋常ではない。
多分これが、「十七、乳白色の髪の終焉」。

 手紙の差出人は的確にぼくの迷いを見透かしていた。

「ちょっと待ったぁ。何それっ。殿下もそんな言い方ないでしょ? もっとほかに言い方あるでしょうが。
ねえ、ほんとにカンギール人って絶対男か女にならなきゃいけないんスか?」

 突如、テーブルから身を乗り出して、ジェジェがぼくらの間に割り込んだ。
声を張り上げたことにマズイと思ったのか、しきりに辺りを見回し、途中から声を潜めてきた。

「二度、高熱が出るらしい。二度目が来たら、もう性の選択は不可能になる。
眠れる卵のままで二十歳まで生きられるかどうか、オレにもわからない。
カンギール人に限らず、第二性徴ってのは男はより男の身体に、女はより女の身体になるってことで、つまり性の成長ってわけだよな。
カンギール人は……、たまたまゼロからの出発に過ぎない。
ゼロから男になるか、女になるかの違いだけ。眠れる卵の姿はそれだけ不安定なんだ。
もっと……、もっと早くわかっていたら、オレ、こんな年齢になるまでルティエを眠れる卵のままでいさせなかったのにな」

「まさか、シン。学びの塔を出てきたのは……」
「ルティエ、おまえはすぐにでも選択しなきゃやばいんだ。一刻を争うほど時間がない」

「殿下が王宮に戻ったのって、ほんとにルティエさまのため、だったんですねえ」

 いやぁ、お熱い熱い、と手で顔を扇ぐジェジェのおふざけ気味の仕種に、シンは一瞥を投げただけだった。

 そして、シンの深い青の瞳が再びぼくの顔を映し出す。

──きみの瞳の中に再び自分の姿を見つける日が来ようとは……。
そんなこと、本当に思わなかったんだ……。

 だから、つい涙が溢れた。

「ルティエ、泣くなよ」

──ごめん、止まらない。

 どうしても、どんどん沸きあがってくるものがあって止められなかった。自然と涙が出てしまう。

 でも、ぼくはきみに甘えるわけにはいかない。

「きみとぼくはもう無関係だよ。あの時、婚約は白紙に戻されたんだ」
「それはそっちの言い分だろ?
いいか、おまえが周りの人間にいくら無関係だとか婚約破棄したとか言っても、オレはそうは思ってない。
そんなに破棄したきゃ、オレが納得する理由をちゃんと用意するんだな。
理由もなしに破棄するなんて、オレは絶対認めない」

 そんなこと言われても、ぼくは本当に困るんだ。

 きみをぼくのそばにおきたくない。
きみの気持ちが本気であればあるほどぼくの心を悲しみが襲う。
その理由はぼくが一番よく知っている。
きみも知っているはずだろう?

 だから、ぼくはきみの本気が辛い。

「ハッ。こんなとこで言い争うことないよな。もうメシ食わないんならすぐ出発しよう」

 真っ先にシンが席を立った。ぼくはただ俯くしかなかった。

「何か、驚きっスねえ。殿下って結構感情的な人だったんだなぁ」

 黒髪に背高のうしろ姿を目で追いかけつつ、ジェジェが囁くように呟いた。

「正直、もっと理性の塊みたいな方だと思ってましたよぉ。とにかく優秀な方ですしね。
塔でもズバ抜けてたし」
「やっぱり、シン……学びの塔を卒業したわけじゃないんだ? 自分から出て来ちゃったんだ……?」

「卒業、ねぇ。でも、塔の上層部はそりゃあ殿下を引き止めるのに必死でしたよ。
何て言ったって『指の称号』の候補者なんスから」
「指の称号って……、まさか、あの指の称号っっ?!」

 ぼくは手に持っていた白パンをぽとりと落としそうになった。ガクゼンとジェジェを見る。

「とーにーかーくー、あまり怒らせないことですぅ。本当にカエルや豚にされちまいますぅ」

「指の称号」と言えば、泣く子も黙る魔導師の最高位の称号だ。
指先ひとつであらゆる魔法を操るところからその名が付いた、上級魔導師百人にひとり出るか出ないかと噂されているほどの、魔導師の夢の称号である。
実際、「指先ひとつ」というのは諷喩(ふうゆ)らしいが、それでも、その称号には、それほどまでに彼らは自由自在に魔法を駆使できる、という意味がこめられているのだと聞いたことがある。

「そんなにすごい才能を持っているのに、学びの塔を出てきちゃったの……?」

 候補者ってことはまだ確実に称号がもらえるかどうか定かではないってことなのだろう。
そんな大事な時期に今、こんなところにいて大丈夫なのだろうか?

「見方を変えれば、それだけルティエさまが切羽詰まってるってことじゃないですかね?」

 ぼくがもうすぐ十七になるから──?

 十七歳──。
そんな年齢になるまで性を選択しないカンギール人なんかいないんだって、つくづく思い知らされる。

「さあ、行きましょう。この旅は急ぎ旅でしょ? ルティエさま、殿下が外で待ってますよ。
怒らせると、あの御方は何をするかわかったもんじゃありませんし、早く出ましょう」
「うん」

 勘定はすでにシンが済ませていた。
ジェジェが「ごっそさん」と店の主人に声を掛け、ぼくに先に行くよう手で示す。

「いやに外が騒がしいなぁ」

 店を出て最初に目に入ったのは、駆けずり回る三匹の豚、だった。
シンの足下をぐるぐる回っては威嚇している。

「何かあったんですかぁー?」

 諦め顔でジェジェがシンに尋ねた。

「財布の中身を分けてくれと言ってきたから断っただけだ」
「だからって豚がこんなところでブーブー鳴き叫ぶわけないでしょう?」

「力づくでもぎ取ると言われたから、非力のオレとしてはオレのやり方で相手になってやった」

 安心しろ、数刻で元に戻るさ、と笑顔で馬上の人となるシンに、
「どこが非力なんだか。まったく、この殿下ときたら」
そう呟きながら、シン同様、ジェジェも喚く豚を綺麗に無視して馬鞍へと手を掛ける。

──もしかしてアレってば、元は人の子、なんだよねえ。

 あのまま放っておいていいのかな、と後方を気にしつつ、再び街道に入ると、
「あの人たち、仕返ししようなどと碌な考えしなきゃいいんですけどねぇ」
ジェジェがぼくをまねするように来た道をちらりと振り返った。

「相手の力量さえ計れない程度の奴らだ。物忘れも激しいとみたな」
「ホント、勝手に八つ当たりされては彼らもたまったもんじゃありませんね」

 そのジェジェの台詞に、さも楽しそうにシンが不敵な笑いで応える。

「何を言うか。オレの機嫌が悪い時に出会って運がよかったじゃないか。
お陰で滅多になれない姿になれたんだ。ま、いい経験さ。
道を塞いだ報いはそれ相当に受けてもらわないと時間と労力をかけたオレに割が合わないだろ。
帳尻はちゃんと合わせとかなきゃ申し訳ないからな」

 損失は絶対よろしくない、と何度も頷きながら、ことさら楽しそうにシンが声を出して笑った。

──シンってこんな奴だったっけ?

「アレが殿下の地、ですかね? ルティエさま、あんなのフッて正解ですよ」

 ぼくにそっと囁くその声に、
「糞転がしにでもされたいようだな、ジェジェ?」
シンの声が重なったのには、ぼくもつい逃げ腰になってしまった。






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