眠れる卵 vol.2



 奥庭の端に経つ古木の裏に掘られた抜け道は、延々と続く螺旋階段になっていた。

 イクミル王国シルヴィ王宮は、蒼月湖の断崖絶壁に建っている。
王宮の外堀には二筋の川が流れ、 城壁の両脇の崖から滝となって蒼月湖に落ちていた。

 抜け道は王宮の地下を通り、蒼月湖へ水飛沫を揚げているその滝の裏側の洞窟へと続いていた。

 先導はシンが最後までつとめた。

 地下道での話し声は反響する。
それを警戒してか、幼馴染みの王子は黙々と歩を進めていた。

「第一の壁は通り抜けたが、先は長いぞ」

 湖畔に立ったとき、ようやく口にしたのがそれだった。

 湖畔に馬が三頭用意されていたところをみると、ぼくなどよりずっと綿密な計画性と用意周到な面を持ち合わせているのが知れた。
ぼくときたら、城下町で馬を買えばいいと思っていたのだ。

──よく考えてみたら、今は夜中なんだ。お店はさすがに開いてない。

「でも、どうして三頭なんだろう」

 つい、疑問が口から漏れた。

 ふと覗き見た手癪に照らされたシンの表情がとても厳しい。

 馬の形をした黒い影が月明りの中に三頭分浮かんで見えた。
馬の影に寄り添うように、人影がひとつ揺らいでいる。

「あいつ……!」

 シンは真っ直ぐ早足でその人影に近付くと、当然のように、おい、と呼びかけた。

「オレは二頭用意してくれ、と言ったはずだ」

 見知らぬ誰かに向けて言い放った、そのシンの声は地響きするほど低かった。

──もしかして、シンってば、滅茶苦茶苛立ってる?

 ところが、人影から返ってきたのは、
「いやあ、二頭だと相乗りしなきゃならないじゃないですかぁ。
それじゃ早馬にならないし、やっぱ、三人分、きっちり三頭、用意すべきかなーって思ってぇ」
その場の緊張などどこ吹く風かとばかりに綺麗に無視したとても調子のいい声だった。

「三人分? 何のことだ? オレとルティエのふたり分で充分だろう」
「そんな冷たいことをおっしゃっちゃいや〜ん。。殿下とワタシの仲じゃないっスかあ。
剣技要りようの緊急時対応保険ってことでワタシも御一緒させてくれないかなあ」

 そうして、唇を噛んで黙り込むシンをよそに、そのちょっとおかしな話し方をする男は、
「ジェジェという者です。どうぞお見知りおきを」
ぼくに向かって手を差し伸べた。

 今まで、見知らぬ誰かとの好意的な握手をするなんて滅多になかったことなので、一瞬手を差し出された理由がわからなくて、ぼくは本気で考え込んでしまった。

 慌てて握り返そうとすると、今度は、
「ジェジェの手なんか握ったら、おまえの手まで赤錆で汚れるぞ」
横からシンの冷ややかな声が聴こえてくる。

「ひどいですぅ。あんまりですぅ。
そりゃ殿下の想い人に気安く触ろうとしたワタシが悪うござんしたけど、握手くらい許してほしいざんすぅ」

 だが、シンは、泣き真似をするジェジェに向かって冷たい視線を投げては、
「今後、気安くルティエに触れてみろ。おまえをカエルにしてやるぞ」
凄みを聞かした低い声でばっさり切り捨てながら、ジェジェの手をペチンと叩いた。

 そんなふたりの応酬を視界に入れながら、ぼくの胸は、「殿下の想い人」という言葉に早鳴りする。

 とうの昔に断ち切ったはずの想い……と、ぼくはずっと思っていた。否、思うことにしていた。

 だから……。

──頼むから、ぼくのそばでそんな期待させるような言動はしないでほしい……。

 シンは馬具の調子を確認しながら、ジェジェにこの夜の情報の流出口を吐くよう厳しい眼差しで迫っていた。
それでも、ぼくの視線に気付くと、ふっと表情を和らげて微笑んでくれる。

「そんなに不安そうな顔をするなよ。参ったな。
ジェジェは魔導の才能はともかく、剣のほうは言葉通りだ。オレより数段腕がいい」
「昔、きみもよく剣術師範に褒められていたものね。きみより凄腕なら本当にすごいんだろうな」

「それは確かに昔の話だな。
そりゃあ、十やそこらの子供にしてはオレはつかえたほうだったかもしれない。
けどな、今もオレはその十やそこらの腕前から全然進歩していないのさ」

 ヘタすると劣ってるかもな、の呟きが夜明け前の風に消されてゆく。

「そんな、冗談ばっかり言って……」

 久しぶりのシンとの語らいは泣きたくなるほど胸が軋(きし)んだ。
会わずにいた年月の寂しさと後悔、そして、もう二度と帰らないあの一緒に過ごした日々への懐かしさが、ぼくの心の奥底に入り混じって染みてゆく。

 幼い頃の思い出が、今、鮮やかに蘇る──。



 十歳になるまで王宮にいたぼくは、護身用のひとつとして、シンとともに剣術を習っていた。

 だが、同じ先生に同じだけ時間を割いてもらっていたのに、ぼくらの成長は開くばかりだったので、あの頃は、同い年のくせに剣を自在に扱うシンがとても羨ましくて妬ましかった。
 
 剣術師範の先生が、誇らしげに、
「シン殿下には才能がおありでございます」
満面の笑みで、王妃さまと談笑なさっていたの物陰から見たこともある。

 そして、シン本人もまた、練習を積めば国一番の剣士も夢じゃない、と瞳を輝かせてぼくに語っていた。

 明るい未来を夢見ていたあの頃のきみ──。



 そのきみが、今もあの時の実力しかないと言うのか?

 そんな馬鹿なことがあるわけがない。

 だが、シンは何でもないことのように、
「ま、こればかりはどうしようもないな。鍛錬を怠れば進歩など望めるわけないんだから」
自分を卑下することなく、さらりと言う。

「ジェジェの言っていた保険の話は本当だ。
もし、この旅で剣使いを相手にしなきゃならなくなった場合、剣でまともに向かい打っても多分オレに勝ち目はない。
ルティエ、おまえだってどうせ護身用程度なんだろう? 昔から、おまえはそういうの苦手だったからなあ。
その点、ジェジェは元傭兵だからな。
かつては剣で身を立ててたくらいだから、一応それなりに頼りになる。
こいつが学びの塔にやって来たのも、より強くなるため。魔導剣士を目指した所以だ。
結局、魔導の才能の無さを認めて、オレと一緒に塔を出て来たけどな」

 何もオレについて来なくてもよかったのに、と苦虫を潰したような顔でぶつぶつ言いながら、シンはにこにこと笑うおふざけ剣士を睨みつけた。

 けど、ぼくには感じられた。ふたりの間に、互いを認める信頼感というものが存在することを。
少なくても、ジェジェはぼくより今のシンのことをよく知っている。

 さっきシンは、「おまえをカエルにしてやるぞ」と口にした。
そして、シンがその部類の神聖魔法を使えることを、ジェジェは当然のように受け止めていた。

 シンと離れていたおよそ七年間の年月。

 この時間の空白はとても大きいのかもしれない──。

「さあ、行こう。急ぎの旅だろ?
ルティエ、おまえの体力に極力合わせるが、馬の速度は落とさないつもりだ。
辛かったらちゃんと言えよ。休みをとろう」
「ではお先に。殿下、ルティエさま」

 すでに夜明けは近かった。東の空は赤みを帯びながら白み始めている。

 春だというのに、まだ風は冷たかった。





 ことの起こりは、一通の手紙が届いたことから始まった。
ロザイ侯爵邸に届いたそれは珍しくぼく宛ての手紙で、当然、差出人に思い当たりは全然なかった。

 その日のぼくは、国王主催の舞踏会に出席するため、翌日には首都のシルヴィ王宮に入城しなければならないという現実に、とても気を重くしていた。
年に一度、春に催されるそれは、貴族社会の交流を促す目的で開催される一年の中でも最も大きな国王主催の舞踏会だった。

 とはいえ、その中身は年頃の新参者のお披露目会に過ぎない。
加えて、条件の良い結婚相手の品定めする場にちょうどいいお見合い舞踏会で知られていた。

 例年、舞踏会は八夜、王宮で行われる。
七夜、小さな舞踏会に当たる夜会が連夜開かれ、その夜会を経た最後の八日目の晩、国王夫妻臨席の大舞踏会が催されるのだ。
大舞踏会に出席できずにして貴族の名は語れないと言わしめるほどの、歴史と威厳のある舞踏会である。
この舞踏会に招待されることは、貴族にとって権利と誇りを顕にする打ってつけの機会であり、また、横の繋がりを強めるための縁故作りには持って来いの、まさに一石二鳥の社交の場だった。

 連夜の夜会では、多くの人の子たちの語らう姿が見受けられる。
特に年頃の息子や娘を持つ貴族たちは身を乗り出して、条件のいい、将来有望な相手を見定めようととても必死だ。
社交界に入ったばかりの貴族の子女は、この舞踏会に足を踏み入れた瞬間、品定めされる立場になり、その逆も当然、然りとなる。
夜会は大舞踏会で一緒に踊る相手を見極めるための、つまり、「出会いの提供」が目的と言っても過言ではないもので、その踊り相手との縁はその場限りでは終らず、翌年の舞踏会にはふたり手に手をとって、夫婦、もしくは婚約者同士として出席するのが慣習とされていた。

 そうして、翌年の大舞踏会で国王夫妻に結婚、もしくは婚約した旨をお知らせし、国王から祝言を賜って初めて貴族社会において正式にふたりの仲が認められたことになるのである。

 ロザイ侯爵のひとり子であるぼく宛てへの招待状には蜜蝋で封印された書状が添えられてあった。
一夜目の夜会から出席するよう認(したた)めてあったその書状の押印はイクミル魔導王国王妃……陛下のもの。
できれば行きたくない舞踏会だけれども、王妃さま直々の招待とあっては欠席したいなどとは恐れ多くてとても言い出せない。
ぼくの母、ロザイ侯爵夫人と親しい間柄の王妃さまは、カンギール・オッドアイを持つどこの馬の骨ともわからないぼくにでさえ、出会った当初から優しく接してくださった御方で、ぼくは王妃さまに返しきれない恩義があった。

 ぼくはロザイ侯爵夫妻の養子である。
二歳で今の両親に引き取られて三年、ぼくは五歳になるまでロザイで過ごし、その後は王都に移って王宮で暮らすようになった。
王宮に連れてこられた五歳というのがぼくがやっと母に慣れた頃だったらしく、だからなのか、人見知りがとてもひどかったらしい。

 王都には王宮の目と鼻の先に立派なロザイ候の別邸がある。
だが、両親──特に公爵夫人である母アイリアは、ぼくが十歳になるまで王宮内に居住を構えた。

 そして、幼いぼくを案じて、ぼくが母と王宮で一緒に暮らせるように配慮してくださったのが、かの王妃さまだった。
十歳の年、ぼくがシンとの婚約を解消して王宮から去る時も、ぼくたちが馬車に乗り込むまで見送りをしてくださったほど、王妃さまはとても心を砕いてくださる御方で、感謝の言葉を尽くしても尽くしきれない尊い女性だ。

 ぼくを避ける人の子が多い中、王妃さまの優しさはしみじみと身に染みるもので、だから、王妃さまというご身分に恐縮してではなく、あの御方のご好意だからこそ、ぼくにはお断りすることなど到底できなかった。

 ぼくの宿命、カンギール・オッドアイ。
ぼくの瞳は、右が金に緑の斑、左が青みのかかった灰色をしている。

 乳白色の髪のカンギール人は、髪の色だけでなく、その性体制においても特異だ。
生まれつき、男女の性が決まっておらず、性の選択は、普通の子供の二次性徴にあたる時期に自分で決める。
つまり、人生の伴侶を選ぶ際、相手に男性を選んだら自分の性は女性となり、女性を選んだら男性となる。
ただし、完全な性に身体が変化するには、性の選択時から二、三年、長くて五年ほどかかるのが一般的だ。

 ぼくの母アイリア・ソルセイユ・ロザイもカンギール人である。
水色の瞳に乳白色の髪を持つ優しくて美しい女性だ。
彼女の両親はカンギール人ではない。彼女は隔世遺伝で生まれたカンギール人だった。

 他国に比べ、乳白色の髪を持つ子供がイクミル国内に多く生まれる理由は、この地の歴史が教えてくれる。

 およそ七百年前、このイクミルの地は淡い色の髪を持つ古代イクミラール人が治めていた。
カンギール人と呼ばれる乳白色の髪をした人の子たちは、その古代イクミラール人の王侯貴族の一部に存在していた。

 だが、隣国の古代サザ国の侵略により、平穏な世から一変して、古代イクミラール人たちは多くの犠牲者を出し、その数は激減した。
そして、やっと生き残ったとしても、敗戦国の民として、その日の食事にも困るといった過酷な日々が今度は彼らを襲ったのだった。

 その後、周辺国の古代メルダ国がサザ国との戦いに勝利し、この地を没収。イクミル王国の誕生となる。
つまり、イクミル王国を建国したのは、古代メルダ国と生き残った古代イクミラール人、そして、人質としてサザ国に幽閉されていたカンギール人たちだった。
カンギール人たちのそのほとんどが王侯貴族出身だったことが幸いしたのだろう。
彼らはその少ない数をほとんど減らすことなく生き残っていた。

 一方、古代イクミラールはその後の古代メルダ国出身者優遇制度に耐え切れず、カンギール人をこの地に残し、自分たちの大地を目指してイクミルの地を去ってしまった。

 そうして、カンギール人は数を減らしながらも、さまざまな運命を乗り越え、結婚をし、子孫を残し、次代へとその稀有な血を残しのだった。
伴侶になったのは、無論、古代メルダ国の民。彼らのほとんどは黒髪に青い瞳をしていた。

 もともと数が少なかったカンギール人である。
加えて、混血を重ねたためか、カンギール人たちの乳白色の髪は七百年も経つと人込みにおいてもハッと目を引くほどに、年々その数を激減していった。

 世間では、乳白色の髪の人の子というだけで、「カンギール人」と呼んでいる。

 歴史をなぞればわかるように、イクミル国民の中にはカンギール人の血をひく者も多い。
彼らの外見上にカンギール人の特性が出るか出ないか、ただそれだけの話のはずだった。

 ところが、一方で、
『乳白色の髪のカンギール人は真のカンギール人ではない。七百年前のカンギール人でさえ――』
そんな思想も存在する。

 それは、
『カンギール・オッドアイこそカンギールの始祖の姿なり――』
このような古来よりの伝承に因るところが大きい。

 そのカンギール・オッドアイを持つ子供が、十四年前、ロザイ侯爵によって保護された。
イクミル王国の柱とも呼ばれる大貴族、ロザイ侯爵レイチェルンド・ロジーラ・ロザイの侯爵領内で起きた、孤児を専門に扱う人買商の摘発後の調査中に偶然発見されたのだ。

 ロザイ侯爵は、若くして爵位を継いですぐに着手した農地改革と農作物の品種改良に続き、その良質の作物で得た利益を、工芸の発達、技術者の育成、教育機関の充実に注いだ辣腕家(らつわんか)である。
お陰で今やロザイの生活水準は王都に引けを取らないものに成長している。

 一方、ロザイ侯爵は恵まれない者たちにも支援の手を伸ばす気配りを見せ、特に、十四年前、侯爵邸にひとりの子供が迎えられてから、ロザイ領内の孤児院の見直しが急激に行われた。
孤児の数に対して孤児院の数が足りているか、親を失った子供たちにとって愛情ある家であるか。
今現在も、時折、ロザイ候夫妻が直接視察に訪れては、改良の余地を細かく指示していることは、ロザイ領の多くの領民の知るところである。

 領地内の改革の成功で伺える侯爵の政治的手腕は、イクミル王国の最高議会である元老院議長としても充分に発揮され、その経験と実績を掲げて王国内外にその名を広く轟かしている。

 イクミル王国の現国王は十代の若さで即位し、王の在位は今年で二十六年目を迎えているが、若かりし頃は机を並べて王宮内で教育を受けたと言われている国王とロザイ候は、互いのクセも考えも細かいところまで熟知しているともっぱらの噂で、ふたりの付き合いは四十年弱になるというのだから、ロザイ候の発言力の重さが伺えるだろう。
古株の侍従長などは、侯爵夫妻の婚礼を一番喜んだのは国王陛下だとふたりの深い友情を疑わない。

 だが、国王より深い信頼と友情を寄せられるロザイ候はその地位に溺れることなく、その立場に一番相応しい行動を選ぶ公人であり、国王の片腕であり、王国の支えであり、元老院の中核だった。

 彼にはアイリアという正妻がいるが、彼の妻は彼女だけで側室はいない。
ロザイ夫妻は夫婦仲がよく、嫡出子が生まれれば、男の子なら候爵位を継いでいずれ元老院議長に、女の子ならば一番の妃がねになるであろうことは誰もが知っていた。

 だが、侯爵夫妻はお互い二十歳になる前に婚儀を挙げたにもかかわらず、生まれながらこの上なく恵まれたロザイの赤子の誕生は、多くの人の子を予想を裏切って叶わなかった。

「ルティエ・セイユ・ロザイ」の名は、イクシミライル王国王家の末裔である左右異色の瞳を持つぼくが、元老院と王家からの許認可の上、父の子として正式に養子に迎えられた時、父と母がふたりで名付けてくれたのだと聞いている。
「ルティエ」は侯爵家の始祖の名で、「セイユ」は古く祝福の意を持つ言葉だ。
「セイユ」は春に白い可憐な花を咲かす樹の名でもあり、その白い花はイクミル王国の王花でもある。
母の名の一部にも「セイユ」が含まれているように、しばしば子の成長と幸福を願って用いられるようだ。

 名の意味するところはとても大きい。
魔道の世界においては、「真実の名とは本質を意味する」とも言われているほどに。

 だがら、以前、疑問に思って、自分の本当の名を父に尋ねたら、その時、父は渋々だったが事実を語ってくれた。
侯爵家に引き取られるまでのぼくには名はなく、ぼくは商品管理の便宜上の整理番号で区別されていたらしい。
ぼくはそれを聞いた時、はじめは驚いたが、だけど聞いておいてよかったとも思った。
「おまえの名は最初からルティエ・セイユ・ロザイだ」と父に言ってもらえたからだ。

 だから、「ルティエ・セイユ・ロザイ」は仮の名ではなく、ぼくに与えられた真の名だと今、信じることができる。
そう信じられることはとても幸せなことだ。
そして、それはきっと父が本当のことを語ってくれたから、ぼくは心から信じられるのだと思う。

 ぼくはおそらく、このイクミル王国において、ただひとりカンギール・オッドアイを持つ者、だ。

 カンギール・オッドアイは聖王家の始祖の力をその身に抱く――。
個人の規模では嫌悪されるその力も、指導的立場においては「神聖」となりうる。

 神聖とは絶対的な国力への指標。

 ぼくが男になることを選んだ時、聖王家に連なる者こそ真の国王なり、とぼくを担ぎ出す勢力が貴族間で出ないとも限らない。
いつの世も、現存の内政に満足している人の子だけとは限らないのだ。

 男子にのみ王位継承権を与えらるイクミル王家の継承体制は、養子でさえもその権利が与えられる。
その寛大なる継承体制が存続する限り、イクミル王国筆頭貴族である父ロザイ侯爵の憂いは晴れないままだ。

 母の話によると、ぼくが発見された当時、人々の驚愕はとてもすさまじかったらしい。
だからこそ、カンギール・オッドアイを瞳をした子供が現れた時、父はのちのちの混乱を未然に防ぐため、先手を打つ必要に迫られた。

 まず彼は、自らのもとで監視する目的で、ぼくをロザイの名で縛りつけた。
つまり、ぼくを養子に迎え、自分の庇護下に置いたのだった。

 加えて、一縷の憂いたる謀反の種も葬るべく、懇意の国王夫妻と相談の上、将来確実にぼくが女性になるよう、幼少から男の婚約者を用意した。
王子、それも王位継承権第三位を持つシンの名が挙げられたのは、ロザイ侯爵家が王家と深く関係がある高貴な家柄であることと、第三王子ならば後見に侯爵家が立っても、王家の勢力が割れることなしと考慮された結果である。
いずれシンがロザイ侯爵家を継いで領地を治めればよいと判断されたのだ。

 とはいえ、何処の馬の骨ともしれない子供を侯爵家に迎えるなど、ましてや王族と姻戚を結ぶなどもってのほか……と、当時、一部の貴族たちから認否の声が多く挙がったのも確かである。
だが、父、ロザイ侯爵は、ぼくとの正式な養子縁組の押し通した。

 そのような政略上の婚約とは露知らず、ぼくは五歳から五年間、王宮で王族の方々とともに幸せな日々を過ごした。
その間、いずれ王家の一員になるのだからと、シンの良き妻として恥ずかしくない作法と教養を身につけるために、ぼくはたくさんの授業や習い事に勤しんだ。
母を伴っての王宮での仮住まいの日々はとても忙しくて大変だったけれど、シンとともに過ごしていたあの頃は本当に楽しい毎日だった。

 シンは器用に何でもこなし熱中したが、遊びにもその才を発揮していた。
昔を振り返ると、ぼくもシンと一緒にいつも王宮を走り回っていたような気がする。

 きらきらと世界がとても輝いて見えた日々──。

 ぼくもシンも、ずっとふたり一緒にいられると思っていた。

 ぼくたちを見守るすべての大人たちでさえ、すべてうまくいくと疑わなかった。
正式な婚約式が執り行なわれたその日まで、綻びに気付く者などいなかった。

 だから、婚約式の三日後、突然婚約が破棄され、シンが魔導師を目指して学びの塔に入ってしまうと、疾風の如く走る噂に誰もが驚いた──。





 毎春に催される舞踏会の招待状――。

 本当のことを言うと、ぼくは王宮に行きたくなかった。
去年からシンが王宮に帰って来ているのだ。
王宮に行けばシンに会ってしまうかもしれない。
ぼくには平気な顔をしてシンに会う勇気などなかった。

 二次性徴の時期の終わりにあたるぼくの年齢。
それなのにぼくはまだ、男にも女にもなれずにいる。
軽蔑の視線だけは浴びたくない、とぼくはそれを一番に恐れた。

 手紙が届いたのは、そんな王宮への出立前日だった。

「あなた宛てのものよ。開けてごらんなさい」

 父に仕えている魔導師を伴って、母がぼくへと一通の手紙を持って来た。

 ぼく個人宛の手紙など滅多にないことだったので、ぼくは悪い予感を覚えた。
彼に何かあったのだろうか、と。
思い過ごしであったことはすぐに判明したけれど。
手渡されたそれは無地の薄い紙で、とても質素なものだった。

 そして、とても短かかった。







カンギール・オッドアイの呪いによって、
村は貧困に苦しめられています。

あなたの来訪が、ひとりの娘の人生を左右するのです。
どうか、彼女の未来を守ってください。

せつに願います。


オルデ山脈の麓、カルバ村にて





「これには封印の術が施されていました。
特定の人物以外、開封できぬようどこぞの魔導師が仕掛けたものです。
その人物の設定はカンギール・オッドアイ、要するにルティエさま、あなたさまになっていました」

 黒髪の魔導師が手紙に視線を落とした。

「よろしくて?」

 母がぼくに一言断って、黙って手紙に目を通す。

 ぼくの手から離れた瞬間、ぼくはふと手紙の裏の隅に記された文字に気が付いた。

「十七、乳白色の髪の終焉?」

 どきん、と大きく胸が高鳴った。
今まで目を逸らしていた、心の奥底に息衝く不安がむくりと起き上がったような、言いようもない焦燥感がぼくを駆り立てる。

 すぐに母や魔導師も裏面の一文に気付き、その思いがけない内容に、母は口許に手を持っていった。

「カンギール・オッドアイの呪いって書いてあるね。母さま、聞いたことは?」
「ないわ。一度たりとも」

「あなたは、あります?」

 母の問いに魔導師は首を横に振った。

 贈り主たるぼくの名さえ記していないそれは、必ずぼくの手に届くという自信の現れか。

──差出人の名まで控えるとは、それほど出自を知られたくない?
そんなに切羽詰まっているのだろうか。

「ぼくに頼るなど、買いかぶりだろうに」

 否、と心は叫んでいた。
カンギール・オッドアイの宿命から逃れられないのがわかっていて、直視できずに逃げているふがいないぼくなのに、向き合わずにいられないこの鍵となる言葉、「カンギール・オッドアイの呪い」。

──ぼくが行って本当に誰かが助かるのなら……。

 何よりもこの機会を逃したら、この先、ぼくの自由はある程度制限されてしまうのだ。

 動くのならば、今しかなかった──。





 手紙を受け取る二日前、ぼくは突然王都からロザイ領に戻った父に、執務室に来るように呼び出された。

 そして、久しぶりに顔を合わせた父に挨拶をしようと口を開いたその瞬間、ぼくの言葉をさえぎるように、
「私とアイリアは大舞踏会に間に合うようにロザイを発つつもりだが。
ルティエ、おまえは必ず夜会初日から出席しなさい」
そう父からきっぱりと言い渡された。

 厳粛な父の言葉が、重くぼくにのしかかる。

 この毎春に催される舞踏会の真の目的が何であるのか、父は承知の上で言っているのだと気付いた時、ぼくはもう逃げられないのだと悟った。

「自分の立場はわかっておろう。いつまでもおまえをこの状態においておくわけにはいかぬのだ。
王国の平穏を揺さぶるに値する芽は、たとえ小さきものでも息吹く前に摘み取らねばならぬ」

 ロザイ侯爵である父は、「女性化していないカンギール・オッドアイ」という存在的利用価値を見出だす輩の出現を決して許さない。
十七歳という結婚適齢期を迎えようとする今、王権争いの種子となるものは王国内に収まらず、諸隣国に跨がりつつあるのが現状となれば、父が早くぼくを片付けたがっても当然だった。

「今すぐに私の一存で決めてもいいのだがな。
おまえ自身が気に入らねば、結局、いくら私が適当な相手を見つけて婚儀を整えたところで、おまえはその瞳を解放して逃げ出すかもしれん。それでは困るのだ。
だから、私がおまえの意思を尊重する証しに有効期間を与えよう。
この春催される夜会を機会に、伴侶とすべき相手を見つけるがいい。
それでもなお自ら決められぬのなら、私が決めよう。異存あるまい?」

 父にしてみれば精一杯の譲歩だったのだろう。

 舞踏会がその華やかな幕を下げた時、ぼくの身の上には女性化へと進まねばならない現実が大手を拡げて待っている。

 いつか女性化しなければならないことは知っていた。
それが、とうとう期日が定められ、現実となってしまうだけのことだ。

 だけど、心はざわめいた。

──シン以外の男のために女になる? ぼくが?

 駆け抜けた想いは投石となって、ぼくの心に波紋を起こした。





 脳裏をよぎるのは繰り返される父の言葉だった。

『自ら決められぬのなら、私が決めよう──』

 このままでいることはもう許されない。ぼくにはもう時間がなかった。

──このまま女になどなりたくない。誰とも婚儀など挙げたくない。だけど、これからどうしたらいい……?

 自由にならないこの状況から出られるのなら、何でもいいから縋りたかった。

 小さなきっかけでも見つけられたら、それでよかった。

 だから。

──カルバ村に行こう。あそこはぼくの存在を求めている。
もしかしたらぼくの進むべき道が見えるかもしれない。

 こうしてぼくは、王宮の舞踏会にも出席しつつ、カルバ村を訪れるという無謀な道を選んだ。

 まさか、シンの先導で王宮を脱走する羽目になるとは思わなかったけれど。





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