眠れる卵 vol.16



 精霊の道は暗黒の空間ではなく、予想に反して、カルバ村の霧のように真っ白な世界だった。

 身体の浮いた感じが慣れなくて、自由に動けない。
そんなぼくをスィヴィルが支えながら、力を抜くよう導いてくれた。

「カリ・アセルを一心に思い浮かべることだ。そうすれば一気に移動する」

 カンギール人特有の乳白色の彼の髪、そばかすが散った彼の頬。彼の声音、彼の仕種。
思い出せる限りの彼に関する情報と記憶を辿って、頭の中にカリ・アセルの姿を映し出す。

 すると、まわりに景色が一転して、緑の霧に覆われた幻想的な景色と変わった。

「ここは……、カリ・アセルと初めて会った場所……?」

 ぼやける視界の先に、何かの大きな影が黒くぼやけて見えた。
歩を進めると、前にここに時と同じように、かたわらに一角獣を侍らせて大木に寄り掛かるカリ・アセルがいた。

「カリ・アセル……」

 カリ・アセルはぼくの来訪に特別な驚きは見せなかった。ただ、じっとぼくを見つめ返した。

 そして。

「ほお。おまえが月詠への可能性だったのか。眠れる卵は脱ぎ捨てたのか?」

 ぼくは彼の問いに頷くことで応えた。

「こんなところでうろちょろしてていいのか? おまえはそいつの大事な月詠への道標なのだろう?
おまえは早くおまえの恋人の腕の中に帰れ。そこのスィヴィルもそうしてくれって顔しているぞ。
せっかく掴んだ月詠への手掛かりだ。スィヴィルはおまえを生涯手放さないだろう」

「ぼくのことよりも今はあなたのことだ、カリ・アセル。あなたはもう西の楽園へ旅立ったほうがいい。
カルバ村の人たちはもう充分苦しんだんだ。だから、もとある姿の大地に戻してあげてよ」

 すでにカリ・アセルという名の人の子はこの世に存在していない。
人の子のカリ・アセルは五十年前、十七歳の若さで息絶えていた。

 ぼくはそのことをスィヴィルの記憶の中で学んだ。

 スィヴィルは多くの憐憫な情を心の奥底に隠していた。
人の子の生に関与しないよう慎んでいた銀の使徒は、必要以上の感情で自分の心を乱すことを禁じていたのだ。

 ウル・ゲルが望み、カンギール王子が心を殺すことで生まれたカンギール人。
中でも、王子と同じ左右異色の瞳を持つ存在がスィヴィルを弾きつけたのは、稀代の未来読みショルナ・ウル・ゲルが黒い瞳のカンギール・オッドアイの出現の予言だけが理由ではない。

 スィヴィルはきっと、そんな予言がなくても、ぼくらに惹かれずにはいられなかった。

 ぼくらのこの片方の金に緑の斑の瞳は、彼が心から仕えた陽神のそれと同じものだったから。
だから、彼は陽主に繋がるものを愛せずにいられなかった……。

 スィヴィルは態度に出さないけれど、ぼくは彼の心を知っている。

 スィヴィルはこの五十年、カリ・アセルの意と罪を見逃していた。
陽主と同じ瞳をその身に抱くカリ・アセルを彼は見捨てることも諌めることもできずにいた。

 まして、銀の使徒の孤独を癒し、ただ慰めとなるだけのためにカンギール人は生み出され、利用されているのだと考えるカリ・アセルだ。
そんなカリ・アセルにスィヴィルが必要以上に近づけるだろうか?

 それでなくても、ぼくやカリ・アセルが持つこの瞳は、スィヴィルをとても傷つけている。
彼の陽主と同じ瞳は、スィヴィルがこの世界にただひとり残された使徒であることを改めて彼に思い知らしめるものでもあるのだから。
その瞳にきつい眼差しを向けられりとわかっていて近付く覚悟がスィヴィルにあったかどうか……。

 カリ・アセルはスィヴィルの事情をわかってて、それでも、絶対認めようとしないでいる。
認めてしまったら、 カリ・アセルは自分の存在意義を認めることになるからだ。

 だから、スィヴィルのことも、カンギール・オッドアイの存在意義も、そのオッドアイを利用し続けたカルバ村のやり方も。
カリ・アセルは認めることはないし、憎べきものだと思っている。

「カルバ村だと? おまえを捕獲して再びオッドアイの力を利用しようとしたそんな輩を、おまえはまだ庇うのか?
懲りてなどないのだよ、昔も今も、奴らは」

 ここにあるのは、カリ・アセルとして生きた彼の未練。つまり、復讐の塊となった彼の残留思念だ。

「彼らが何かにすがり付こうとするのは、生活するのに困るほど切羽詰まっているだ。
そこまで陥れたのは、カリ・アセル、あなただ。あなたはやりすぎたんだよ。
豊か過ぎた時代を忘れられないほど貧しい土地にしてしまうのはよくないよ……。
その地の持つ特性を歪めてはならないんだ。
本来の大地の在りようなら、カルバ村は周辺の村とそれほど生活水準の差がないはずなんだ。
裕福だった昔のカルバ村でも、食べるのに困る村でもない。本来の村の姿に戻るのが一番いいんだよ?
それに村人たちだって、豊かでもなく貧しくもない生活ならば極端な言動はしなくなるはずだよ……。
こんなこと言ったらきつい言い方になるかもしれない……。だけど、あえて言う。
あなたはあなたの恋人の死をすべてカルバ村の人たちのせいにしているけれど、実際、あなたの恋人は間者だったんだ。
でも、彼女が本当にあなたのことを好きでいたなら、彼女はきっとあなたへの好意と裏切りの狭間で苦しんでいたはずだよ」

 どうにもならない状態になるまで悩んで。それで、精根疲れ果てて。
村の人たちに追い詰められても命乞いする気力もなくして。

「あなたは彼女が間者だと知ってたんだろう?
だから間者だと知った時から、あなたは彼女の心に疑念を抱いてしまったんだ」

 彼女が優しくしてくれるのは間者という役目のせい? 彼女の本当の好意はどこにある?

 カリ・アセルは悩んだのだ。疑心暗鬼になる自分の心と彼女の真心の狭間で──。

──ぼくがそうだったから。その気持ちが痛いくらいわかる。

 オッドアイの力を使った報いで、ぼくはずっとシンの気持ちを素直に信じることができなかった。

「彼女の死は直接的にはあなたのせいじゃないけれど、あなたの罪でもあるんだよ」
「オッドアイに生まれたのが罪だと?」

「そんなこと、ぼくは一言も言ってないじゃないか。
あなたの罪は、彼女の苦しみを受け止めなかったことだっ。
本気だったんなら村を出るなりして、あなたは彼女と共に歩む道を選んでもよかったんだよ。
恋人同士……が、想いのままに素直になれなかった。それはきっとふたりの過ちなんだ」

 そう、真剣に想うなら駆け落ちするのもありだって、シンは言っていた。

──本当にそうだね。きみの言うとおりだ。

 誰かが困るとしても、自分の幸せを追求する──。そんな選択肢だって許される時がある。

「私が村を出ればよかった……? 馬鹿なことを。そんなこと無理だった! 無理だったんだ!
カルバの村は私を頼っていた。出られるわけがないっ」

「でも、あなたの力で自然の恩恵に預かり過ぎていたと言うなら、あなたがいなくなったとしても、それは在るべき大地の恵みに落ち着くだけだったんだ。
自然の姿に戻るだけだったはずなんだよ……。
村を思うあなたの気持ちが、逆に村の人たちの貪欲さを増長する役を担ってしまったんだ。
あなただけが悪いわけじゃない。でも、すべてを村の人たちのせいにしちゃいけないと思う」

 誰もが少しずつ間違いを犯して、それが大きな罪になる。
ひとりひとりの甘えと奢りが、運命の歯車を変えてゆく。

 カリ・アセルの場合、彼の中の弱さが歯車を狂わしたのだろうか。
だとしても、その弱さをぼくには諌められない……。

 けれど、彼は自覚しなければならないのだ。

 カルバ村のために……?

 いや、違う。彼自身のために、だ──。

「あなたはあなたの罪に気付かなきゃ。
それに彼女のことに関しては、ぼくらがどうこう言ったところで全部想像でしかないよ。
彼女の心のうちは彼女しか知らないんだ。だから、西の楽園で彼女に逢って直接訊いてみたらどうかな?
あなたはもっと彼女を知らなきゃ。彼女を知る努力をすべきだよ」

 はっとカリ・アセルは顔を上げて、何かを悟ったような表情を浮かべた。
彼は今気付いた何かに衝撃を隠せないようだった。

 復讐に燃え、他人ばかり責め続けた長い年月。
恋人の心情の中にある真実と、カルバの檻から出るという焦がれながらも思い切れなかった後悔。

──カリ・アセル、お願い、わかって。
このままではカリ・アセルも、カルバ村の人たちも、みんな幸せにはなれないんだ。

 突然、カリ・アセルが立ち上がった。額に深く皺を寄せて、ぼくをきつく凝視する。

 彼の目付きは怒りを含んだように鋭くぼくを突き刺した。
だが、それは、事実を向き合おうとする彼の真剣な決意表明にほかならなかった。

「かの射干玉の民の属性は、未来読み、過去見の力に長けていたと言う。ならば、銀の使徒よ。
おまえならば見ることが可能なのだろう? 私に見せろ。彼女の心を!」

 カリ・アセルの左右異色の双眸が乳白色に変色した。
銀の使徒に向かって、彼はその眼力を一瞬にして解き放った。

 だが。

「無駄だ、カリ・アセルよ。私を縛れるのは『月詠』の存在のみ。そなたでは無理だ」

 静かに応える銀の使徒の真実に、カリ・アセルは無念の面持ちで乳白色の瞳の力を退くしかなかった。

──でも、これじゃあ、カリ・アセルが哀しすぎるよ。

 彼の傷心が痛いくらいにぼくの胸に染みてゆく。

「スィヴィル、ぼくからもお願いするよ。カリ・アセルに過去を見せてあげて。
それで彼が、長年縛られ続けたこの地から解放されるなら、彼は見て知るべきだと思う。
どうかお願いだよ」

 ぼくはスィヴィルに深く頭を垂れて願った。

 だが、スィヴィルは、
「ルティエよ。そなたの願い叶えたくとも、私には不可能なのだ」
とても残念そうに唇を噛んだ。

「私に過去見や未来読みの力はない。
それは射干玉の月詠の民と、白石に縁のある一部の人の子だけに与えられた希有な力なのだよ。
本来、私は陽のもの。この身がいくら月詠の属性を纏おうと、私は私。
射干玉の月詠の民の陰の真の力を使うすべなど、私は持っておらぬのだ……」

 銀の使徒は万能ではない。

──そうだよ、なぜぼくは気が付かなかったんだ!

 スィヴィルに過去見や未来読みの力があったならば、「月詠」という半身の存在の行方を捜すのに、きっと彼はウル・ゲルの未来読みに頼らなかった。

 聖獣の身体とともに本来の使徒の力を眠らしてしまうほどの、ぼくには絶えられないくらいくらいの長い時をかけて、スィヴィルはウル・ゲルの未来読みを信じて、ずっとひとりきりで「月詠」を探し続けたのは──。

──スィヴィルはただひとつの未来読みを信じるしかなかったんだ……。

「ゆえに、ルティエよ。そなたが願いを叶えてみてはどうだろう」
「ええっ! ぼ、ぼくっ?」

「その漆黒の瞳は我が『銀』よりも月詠の属性の濃さを物語る。
それには射干玉の月詠の民の強い力がおそらくこめられているはずだ」

 ぼくは魔導に精通しているわけではない。
過去見どころか初級の精霊魔法さえ会得していいない。

 ぼくが昔、精霊を操れたのは、すべて精霊たちの温情のお陰だった。

 この左右異色の瞳の向こう側に広がる神々とともに在った古の時代。
ぼくの瞳を見ながら、多くの精霊たちがかつて在りし日を懐かしんだ。
そうしていつも、彼らはぼくに厚い温情を表してくれた。

──精霊魔法さえ危ういぼくなのに……。過去見だって?

 難解な古代魔法である過去見の制御が、素人のぼくに本当に可能なのか?

「頼む。彼女の心を知りたいんだ……。
もしもそれが無理だとしても、もう一度彼女を垣間見れるなら……。ただそれだけで……。
それだけで本望なんだ……」

 そう嘆願して、カリ・アセルはぼくの前で膝を折った。

 ぼくは慌てて彼に駆け寄る。

「そんな、やめてよ。手を上げて、カリ・アセル。ぼくでよければできる限りのことはするから……」

 やるしか、なかった。

 スィヴィルに目配せをして、合意を得る。

「過去見を投影する水膜は私が補助しよう。そなたは過去見に集中すればいい」

 集中しろって言われても、どうすればいいのか。
過去見のやり方さえわからないのに。

 戸惑っているぼくを察したのか、スィヴィルが、私の知り得たものは少ないが、と前置きをして、
「そなたは力の開放と、見たいものを心に念じることだ。
焦点が狂うと記憶が暴走する。一番大切なのは何の記憶を見るかだ」
精霊の道を通った時と同じだと、知っている限りのコツを教えてくれた。

「大丈夫。ルティエにならきっとできる」

 そうして、スィヴィルが誇らしげ笑ってぼくを見る。
何でもいい、縋れるものがあるなら縋ってしまえ、と願いを込めながら、ぼくも強く頷いた。

 その時だ。ぼくはふと、シンの言葉を思い出した。

──そういえば、シンが過去見には古木や石が適しているって言ってたっけ……。

 でも、カリ・アセルの見たい記憶を持つモノは、この広いカルバ村に広く点在している。
それらひとつひとつ探すのは困難だ。

──だとしたら、どうする? このカルバの地の出来事をすべて記憶するものなどあるんだろうか?

 カルバの地、すべてを……。

「そっ、か……。すべてを見たいなら……」

 そして、ぼくは大きく息を吐いて、覚悟を決めた。

『制御はできてるんだ──』

 ぼくのオッドアイの力をシンはそう評価した。今はその言葉を信じよう……。





 力を抜いて、心を澄ませる。

 ただひとつ、過去の在りし日を見たいと望む。

 目が潤み、熱を持つ。
気が高揚し、瞳の色が変わるのが感じられた。

──金に緑の斑、漆黒の瞳の左右異色のぼくの瞳よ……。

「変われ! 乳白色の双眸へ! ぼくは今こそ、心からこの力を使いたいと望んでいるんだっ!」

 完全に気が高みに上りきるのを、じっと待つ。
身体が熱くなって、皮膚が外に引っ張られるような、ちりちりとした感じに襲われた。

──今だ!

 そう思った瞬間、心に「ある者」を思い浮かべ、一気に、そのうちなる記憶の開放を望んだ。

「カルバの大地を守護する地精の王よ。ぼくに力を貸してっ。大地の記憶の開放を認めてくださいっ」

──アシュラザーン……!

 自然と口からその名が出ていた。
頭に思い浮かんだと同時に勝手に口が動いていた──。

 途端、大地から木の根が大きく盛り上がり、幹となって葉をなした。
次第に大樹は人型に成長し、大地に這わしていた根であったものが脚部になる。
そして、下半身についた土砂を轟音を鳴り響かせながら振り払うと、堂々と大地にすっくと立ち上がった。

 今、この瞬間。

 ぼくの前には、カルバの大地のすべてを知る者がいた。

 その者とは──。

「地の精霊王……。ほんとにぼくの呼びかけに応えてくれたんだ……。よかった……」

 安堵に零れた一筋の涙が、つうっと頬を伝わった。

「我が真名を知る者がこの世界に存在するとは、ほんに久しいことよ。
そなた、我が記憶を所望するか、神の民の瞳を抱く人の子よ。我が真名に誓い、我はそなたに従おう」

 地の精霊王が葉に覆われた腕を一振りすると、緑色の霧がきらきらと輝きだした。

 葉を揺らして腕を高く上げれば、葉と葉の間に蕾が現れ、花が咲き。
咲き乱れると、ひとつひとつの花から柔らかな黄緑色の光の粒子を天空に撒き散らした。
まるで粉雪が森の中で木漏れ日を浴びたように、きらきらと淡く明るい緑色に光り輝きながら、しんしんとぼくらの上に降り積もる。

 一面の景色を柔らかな黄色の光を帯びた明るい緑色に染めて、地の精霊王はゆっくりと大きく広げた腕を引き寄せ、祈るように手を合わせて、胸の前で輪を作った。

 途端、大地に降り積もった光の粒子がゆらりゆらりと空に浮かび上がる。
その浮かび上がった淡く光る粒子のひとつにそっと触れてみると、指先からかすかに大地の気が感じられた。

「人の子よ、見るがよい」

 そうして地の精霊王は、淡く光る粒子を指先で摘んだぼくに向き直ると、
「そこにこの地の記憶がある」
一面に彩り増した大地を指して、そう言った。

──これが、大地の記憶?

 次の瞬間、ばらばらに浮かび上がった淡い緑の雪の結晶のような粒子が少しづつ集まり、小さな集団を作った。
それが次第に溶けて緑に透ける水滴になり、その一滴一滴の水滴がゆっくりとより高く宙に浮かびあがる。
そうして、水滴は徐々に塊になって、空中に浮かぶ鏡面のような淡い緑色の大きな水膜をいくつも作り出していった。

──これはスィヴィルが起こした快挙だ!

 スィヴィルの手の動きにそって、空中に複数浮いていたそれらがある形を作ってゆく。
大地の気を織り込まれた水膜は、正五角形と正六角形の大きさで隙間なく並べられ、遠目においては球体に見える緑に輝く大きな宝石になった。

 その大きな球体が地上に墜落しそうなほどにぼくらに近付くと、カリ・アセルを中に捕りいれる。
それは琥珀に閉じ込められた小さな黒い虫をぼくに想像させた。

 水滴でできた水鏡はカリ・アセルを傷つけることなく取り込み、彼を球体の中心に置いた。

「ルティエ、これがおまえが解放したカルバの記憶だ」

 スィヴィルのその言葉が合図だったかのように、突如、たくさんの水膜ひとつひとつにありとあらゆるカルバの大地に繰り広げられた過去が映し出される。
それは、まさにぼくが望んだとおりの、カリ・アセルの生きた時代の記憶を集結した映像集団だった。

 そしてそこには……。

 その中心には。

 静かに。

 とても静かに。

 積年の想いをこめて、目を見開いて涙を流すカリ・アセルの姿があった──。





 彼と彼の恋人の生きた証しが、そこかしこに存在していた。

 泉に抱きあう恋人たち。
薬草を共に摘むふたり。
向き合って食事をする湯気のなかの幸せな時。
手を繋いで散歩する夕暮れ。

 それら多くの過去の記憶の中、水鏡のひとつが緊迫した情景を映し出していた。
カリ・アセルの恋人を崖に追い詰める男たち。

 金に緑の斑、青灰色の左右異色の瞳がその場面に一心に集中する。

「音、拾えないかな。水膜だと音質は期待できないだろうけど。
それでも、何を言ってるかくらいはわかるよね」
「誰が作ったと思っている? 最高の最良品質の出来栄えだ。臨場感さえ期待してくれて結構」

 スィヴィルがちょっと気分を損ねたように唇を尖らした。

「ごめん。信用してないわけじゃないんだ」

 即座に謝ると、途端にくすりと微笑み返す。
それは好きな子を苛めて楽しむ子供のような笑顔だった。

「ご覧。カリ・アセルには恋人の最期の言葉が届いている。
大気の振動を極限まで上げよう。ならば、ルティエにも聞こえるだろう」



 村の男たちが一歩詰め寄り、赤毛の女性が背を振り返った。
踵の先には青々と繁る森の緑が見下ろせる。

『間者を捕獲しろ! 抵抗するなら殺せっ!』

 村の男たちの唸り声が次々に連鎖する。

 長い赤毛が崖からの上昇気流に揺れていた。
彼女の赤い髪の色を溶かしたような夕焼けの空が、森の緑をも急激に朱色に染めていった。

 薄く紅を引いた唇が、ゆっくりと、ある形を作りだす。
それを見知ったカリ・アセルの目から涙が溢れた。
彼はずっと聞きたかったその言葉を、やっとその手にしたのだ。

 彼女が綴った言葉が、カリ・アセルの固く凍えた心の鎖をついに解いたのだった……。



 そして、水鏡は「その時」も映していた。

 男たちの鍬を構えた姿に細い足首がじりじりと退き、彼女はとうとう崖の縁へと足をかけた。
女性ひとりさえも支えられなくなった大地が、彼女の足下から崩れ落ちる運命を選んだ──その瞬間、彼女は咄嗟に大声で叫んでいた。

 愛しい恋人のその名を──。



 カリ・アセルは恋人の最期を目にして、ぐしょぐしょに涙に濡れた顔を両手で覆い隠した。

「ターニャ……」

 彼の愛しい恋人の名が淡い緑の水膜に吸い込まれる。

 水膜は恐る恐る崖から下界を見下ろす村の男たちをその後も映し続けていたが、それはもうカリ・アセルの瞳に映ることはなかった。

 彼は知りたかったことをすべて知ったのだろうから……。

「ルティエ、ありがとう。もう充分だ……」

 そうぼくに礼を述べながら再び毅然と立った彼の横顔はとても晴れやかだった。
復讐を誓い、皮肉に微笑んだ、かつて憎しみに溺れた彼の苦しい表情はどこにもない。

 一連の出来事を事実として受け入れた今の彼は、何かを吹っ切ったかのような、そんなさっぱりした表情をしていた。

 それからカリ・アセルは、微笑ましく寄り添う在りし日のふたりの恋人たちを映し出ていたひとつの水幕にふっと目をやると、想いのすべてを純粋に信じる強さを手に入れた者の、生命が芽吹くような眩しいばかりの笑顔を浮かべた。

 ぼくの脳裏にいつまでも残る、まるで、春の訪れを匂わす晴れやかな笑顔──。

 その笑顔は、カリ・アセルのかたわらに控えていた一角獣にも向けられた。

「お別れだ。真の名をおまえに返そう」

 それは契約の終わりを意味していた。

 ふわりとカリ・アセルの手のひらに光の真球が浮かびあがる。

「お行き。愛しい子。おまえは何者にも縛られず、自由気ままに駆けるがいいよ」

 カリ・アセルの手のひらから離れた一角獣の真名は、ゆっくりと空を漂い、最後には白い身体に吸い込まれた。

 真名の返却と契約の解約に喜んだのだろうか。
一角獣は銀の螺旋の角を下ろし、一度だけ頭を垂れた。

 それを了承の意に受け取ったカリ・アセルが、一角獣の白い首に腕を回しながら、
「よく尽くしてくれた。今までありがとう」
涙ぐみながら、穏やかな微笑みを浮かべて目を閉じる。

 そのカリ・アセルの微笑みはとても切なくて。とても綺麗で。

 その場にいたすべてのものの心にとても優しく染みていった……。





 風が、彼の乳白色の髪をもてあそぶ。
視界を霞ませていた霧が、流れてゆく。

 中肉中背のカリ・アセルの身体が淡い光に包まれた。
彼は微笑みを残しながら、ゆるりと姿を透かしてゆく。

「カリ・アセル……!」

 呼び止めるぼくに一度だけ振り返った彼は、
「せいぜい頑張れよ」
そう笑顔で言い残して、一瞬の閃光を発して宙に吸い込まれるように消えてしまった。

 続いてカリ・アセルを包んでいたきらめく名残の光の粒子が彼のあとを追うように、輝き弾けて霧散する。

 カリ・アセルの生きた軌跡を綺麗に清めるその見事な散りざまが、
「今なら……。今なら、秘石の力を使いこなすあの魔導師の言葉の意味がわかる気がする」
カリ・アセルに従うことしかできなかった一角獣に、かつて相対したシンの技を彷彿させたらしい。

『姿形の外見ではなく内面の美しさに食指を伸ばしてほしいんだがなぁ』

 カリ・アセルの恋人を想う気持ちは本物だった。

 彼がすべてを受け入れて、微笑んだ時のあの笑顔。その時発した彼の気。
あの澄んだ気は陽の気に比べればわずかだが、確かに月の気が混じっていた。

「彼の瞳に月詠の御方々との繋がりを感じた瞬間、我はもう離したくなかった」

 オッドアイの青灰の瞳は、漆黒、銀に続いて射干玉(ぬばたま)の月詠の民に連なる色彩だ。

 一角獣がかつて仕えた月詠の神々もまた、この世界にすでにいない。
月詠の界に連なるものに在りし日を重ね、わずかながらそのカケラに触れていたいと一角獣が願っても、この世界で月の属性を見つけるのは難しかった。

 彼のオッドアイの青灰の瞳に顕著な月の属性を見つけた時、一角獣が惹かれたのもの当然なのだ。

「まさか、彼の気がこれほど月のものに満ちていたとは……気付けずにいた──」

 すでに西の楽園へと旅立っていった主人だった人の子から真名を取り戻した一角獣は、白いたてがみを一度大きく揺さぶって、
「彼の内面にはとてもたくさんの輝けるものがあったのだな……」
逝ってしまった彼に縋りつこうするおのれの想いに、きっぱりと決別を告げた。

 一角獣の乱れた長いたてがみを、ぼくはそっと直しながら、
「でも、あなたはずっとカリ・アセルのそばにいてくれた。だから、彼はひとりぼっちにならず済んだんだ。
ありがとう。彼のそばにいてくれて」
ぼくはカリ・アセルがしたように、一角獣の白い首に腕を回して頬擦りをした。

「そなたの気は心地よい。またいつか、そなたのもとに訪れてもいいだろうか?」

 一角獣はぼくの返事を聞かなかった。

 きっと応えなど求めていたかったのだろう。

 そしてぼくは、その白馬の影がどこともなく流れる霧に紛れて瞬く間に消え失せてしまったから、返事をしたくてもできなかった。

──いつでも遊びにおいでよ。待ってるから。

 そんなふうに消えてしまった一角獣をぼくが名残り惜しんでいると、隣りでスィヴィルが、
「困ったものだ。あの調子では、あれはホイホイ来るだろうよ」
そう、口をすぼめて言ったのがおかしかった。

「ルティエのそばには私がいるから、あれはあれで別口を捜せばいいのだ」
「まったく。スィヴィルったら、何言ってるの。
未来はどうなるかわからないけれど、今現在、ぼくしかオッドアイがいないって言うのなら、この先、スィヴィルみたいな押し掛けが増えたところできみは文句なんか言えんだよ?
ね、わかってる? スィヴィルこそ、押し掛け聖獣の筆頭なんだからさ」

 ぼくが呆れたように言ったら、
「ルティエは冷たい」
スィヴィルがいじけたように爪先で石を蹴ったので、これまた笑いが零れてしまった。

 ぼくのまわりはどうやらこれから賑やかになりそうだ。

 そんな楽しい予感に微笑みながら、ぼくは残った仕事を済ますことにした。





 さわやかに吹く風が、肌に冷たい。風が結界の崩壊を告げていた。
少しずつ視界が開かれ、霞んだ世界が明瞭な色彩へと鮮やかさを取り戻してゆく。

「シリル」

 ぼくがひとりの風精の名を呼ぶと、風が透けた姿を作り、徐々に有色を帯びて人型を模(かたど)った。

 風精を助けたのはつい先日のことなのに、その夜さえ今は懐かしい。

「カルバの地の隅々に風を。霧の呪縛からこの村の人たちを解放してあげて」
「承知しました」

 数多の風精がぼくの脇を通り抜け、木々の葉の擦れた音を立てながら四方に散る。
カリ・アセルの憂いを跡形もなく消すように、風は霧を晴らしていった。

 漂っていた霧が風に吹き飛ばれ、視界が開けてはじめてぼくは、自分がどこにいるのか気が付いた。
ここはあの思い出深い泉にほど近い森の入り口だったのだ。

 風が優しく頬を撫でてゆく。

「ありがとう、シリル」

 礼などいりませんよ──。

 遥か彼方から、風精の声がぼくに届いた……。



 肌に突き刺す冷たい風。
その風に、どこから吹かれてきたのか、白い花びらがぼくの肩に舞い落ちる。

「寒いと思ったら、これ……風花だ」

 白い花びらと思ったものは雪だった。カルバ村の青い空に、風花の白さがとても映える。

「あれっ? でも、どうして雪が降ってるの……?」

 見渡せば、辺りの樹々の枝に残る葉の数が極端に少ない。
余り鮮やかな色ではないが、赤や黄色の紅葉の名残が目に付いた。

「この景色……。えっと、これって秋の終わり……?
まさかだよね。もう冬になるなんて言わないよね……?」

 背後に大きくそびえ立つ、オルデ山脈の雪化粧の素晴らしいことと言ったら、言葉がない。

「精霊の道は、時として人界と時間の流れとは異なるのだよ。
すでにいくつかの季節が過ぎ去った可能性は多々あるな」
「ええっ、本当にっ?」

──うっ。ちょっとそれはヤバイかも。

 この秋にはカナン王子の結婚式があるとシンは言っていた。
それも、ぼく相伴の出席が当然のような話し振りで、だ。

「何より黙って出て来たからなあ。今ごろ心配し過ぎて怒ってるかも」

 こんな時に限って、ぼくの勘は恨めしいことに的中する。

 スィヴィルとふたり、森を抜けてカリ・エラの家まで来ると──。

「この大馬鹿者っ! いったい今まで何処にいたんだ!
おまえは黙っていなくなるし、『気』を追って行こうとしても何も感じないし。
こっちは目茶苦茶心配したんだぞっ!」

 深い青の瞳を冷たく光らせた青年が、腕を組んで当然のように待ち構えていた。

「ごめん。こんなに時間が経っているなんて思わなかったんだ。本当にごめんっ!」

「おまえが解放した力の波動を掴まえられたからいいようなものの。少しは反省しろよ」
「うん……」

「これに懲りて、しばらくはロザイ領にいるんだな。
オレの婚約者がカナンの婚儀に欠席するってのは一大事だったんだぞ。二重に反省して──」

 シンがぼくの肩を抱き寄せて、
「少しは花嫁修行にでも勤しめよ」
安堵の中に渋い表情を入り混じらせた顔をぼくの肩に埋めた。

 一瞬、触れた頬がとても冷たかった。

「心配したんだ」
「ごめん」

 きっとぼくを探しに探してくれたんだろう。

「おまえが……この世界から消えたと思ってぞっとした」
「ごめんってば」

 冷え切っていたのは頬だけではない。

 触れ合う黒い髪や、高鳴る鼓動が伝わる胸、ぼくを抱き締める腕。
シンの身体はすべて冷たかった。

 なのに、息だけはやたら温かくて。

「あんまり冷や冷やさせるなよ。おまえの代わりはいないんだから」

 シンの言葉が白い息を伴って、ぼくの耳に深く残った。

 ぼくの──。

 あなたの──。

 代わりはいない……。



 五十年前、かつてこれと同じ言葉を語った女性をぼくは知っている。

『許して、カリ・アセル』

 あの崖の先端で彼女は呟いた。

『私ひとり逃げたとしても、私の心は隙間だらけよ。あなたの代わりは誰にもなれない。
この恋に後悔はないわ──』



 カリ・アセルは後悔のない恋を求めて、遥かなる西の楽園に旅立った。

 きっと今頃、愛しいターニャと抱き合って再会を喜んでいるに違いない。

 カルバの空は青く澄んでとても綺麗だった。

 天はとても高く──。

 彼らが、今はもう遠い存在に思えた……。






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