眠れる卵 vol.15



 ぼくの腕の中で、愛しい人が眠ろうとしている。

 会いたくて、触れたくて。

 ずっと一緒にいたいと、幼い頃から願っていた。

 かつて、彼が欲しくて、ぼくは使ってはいけない力を使ってしまった。
カンギール・オッドアイの神力を無意識に使用してしまうほど、たまらないほどぼくは彼を想っていた。

『シン……。ぼくを抱いて。きみを受け止めて女性化したいよ』

 十歳の幼い子供が望むには背伸びをし過ぎていた。

 急ぎ過ぎたぼく。

 その望みは力を使って叶えられるべきものではなかった。



「最初はルティエを……恨んだ、んだ……。オレに力、使うなんてって……。子供、だったよな……。
おまえの、気持ち、溢れるくら、い……オレ……想ってくれてたって……気付く、まで……。
だか……ら……、も、オレは……おまえを離さない……って……」

 決めたんだ──。



 シンの閉じられた瞼の縁から一筋の涙が、つうっと頬を伝った。
紫色に変色した唇が小刻みに震えている。

 ぼくは、と言えば、受け止めきれない現実に声も出ず、動くこともままならない。
そのくせ身体は熱く活性化していて、心と身体のバランスが狂い過ぎて気分が悪くなっていた。

 藁を掴む思いで、唯一可能性の光明を見せてくれそうな人物に視線を投げる。
彼の銀の瞳も、赤く染まった痛々しいシンの姿に釘づけになっていた。

「カンギール……」

 スィヴィルもまた、過去へと想いを馳せていたのだった。

──この状態を何とかしたいっ!

 乱れた息遣いがますます弱々しくなるシンの背に腕を回して抱きとめる。
彼を失う恐怖が背を這って首筋に纏わりつく。冷や汗が額に散りばむ。

「スィヴィルっ、あなたならどうにかできるのでしょうっ? お願いだよ、シンを助けてっ!」

 神官長たちが懸命に繰り返す回復呪文に、その治癒魔法の効果が知れようものだ。

「死は自然の摂理。治癒は傷を治すもの。死に逝く者を生き帰らすものではない」
「そんなこと言わないで、お願いだよ。シンを……シンを助けてっ……!」

 声が掠れて、切れ切れになる。

──誰でもいい! どんな手段でもいい! シンが助かるなら、ぼくはどんなことでもしてみせる!

 神官たちの懸命な介護とぼくの強い懇願を面前にして、緊迫した文庫室にスィヴィルの吐息がわずかに漏れた。

「方法がないわけではない。私と『鮮血の誓い』を交わせばいい。
我が血は彼を人外のモノに変えてしまうだろうが、生命のほどは助かるだろう」

 スィヴィルはシンをじっと見つめていた。

 大量の気の消耗に加えて、大量の出血。
もう一度、スィヴィルと「鮮血の誓い」をするしか方法がないと言うのなら、ぼくはシンにそれを受け入れてほしい。

 けれど、シンは即座にそれを拒絶した。

「銀……の使徒の……永遠の……生命、人の……子のオ、レには重す……るな……──」

 つかえながら、意思表示だけははっきりとするシン。

「こんな時に何わがまま言ってるの! 死んじゃうかもしれないってのにっ。ぼくは許さないよっ!
ひとりで逝くなんて絶対許すもんかっ! 鮮血の誓いをぼくとしたんだろうっ!
ぼくの生命が消える時、一緒に西の楽園に旅立つと誓ったんだろう?
それなのにどうして……。お願いだよ。おいてゆくなよ……。
ぼくと婚儀するって言ったじゃなか……。ねえ、シン……!」

 涙が邪魔だった。シンがよく見えない。

 ぼくの腕の中で息も絶え絶えに、「婚儀、か……」と呟く弱々しさがシンらしくなくて、胸がぎゅっと締め付けられた。

「きみを失くしたままひとりで生きてゆくなんてこと、ぼくは絶対認めないっ!
ぼくは絶対、きみとともに生きてみせるっ!」

 キッと睨んだ視線の先に、スィヴィルの繊細な面立ちがあった。
無表情が常だったそれにわずかながらに感情が浮かんだかのように見えたのは気のせいだろうか。

「今また卵が孵る、のだな……」

 スィヴィルが赤く染まったシンの左腕に視線を落としながら、何かを決心したようにひとつ大きく頷いて、
「ならば、ルティエ。そなたが昏々たる眠りから我が身体を覚醒させればいい」
ぼくらの未来へと続く道をを再度提示してくれた。

「我の生命の気を分け与えれば、まだ事切れてないのだ。その魔導師は助かるだろう」

 だが、そのスィヴィルの提案は、ただの人の子であるぼくの耳には酷なものとして響いた。
彼の記憶を覗き見たぼくには、現在この時点において、銀の使徒の本体が覚醒する可能性はないに等しいとわかっていたからだ。

 彼の本来の力と気を宿した聖獣の身体は今、深い眠りの中にある。

 それを覚醒させるためには──。

「スィヴィル、それはぼくがあなたの求める可能性であることが前提でしょう?
あなたは黒い瞳のカンギール人が現れるまで聖獣である本体を眠らせた。
ぼくの瞳は黒くない。そんな気休めは言わないで」

 彼が求め続ける「月詠」の発現は、黒い瞳のカンギール人が握っている。
彼は「月詠」への指標である黒い瞳のカンギール人を長い間、探し続けていた。

 生命の気を分け与える──。
それは、無限の力、強靭な気を、その身に秘めた銀の使徒であるからこそ、結実しえる案だった。
が、それも本来の聖獣の力と気があってこそだ。

 長い年月を駆け抜けてきたスィヴィルはわずかな手掛かりさえ掴めない現状に、とても疲れを感じていた。
だから、彼は随分と前に、一縷の望みをかけた「標」の行方が見つかるまで聖獣本体を深い眠りの中に沈めたのだ。

 そして彼は、求めるもの以外のために本体を目覚めさせるつもりはない。

 確かに生命の気を分け与えば、シンは助かるかもしれない。
でも、それはスィヴィルでさえ聖獣本体失くして叶えられない方法なのだ。
平凡な人の子には到底、不可能でしかなかった。

 でも。

 今のぼくは……。

 今のぼくだったら──?

 最初から諦めていては何も得られない。僅かな可能性であれ、賭ける価値があるのなら──。

「スィヴィル、その方法、ぼくを使ってやってみて。自分でもわかるんだ。
今のぼくはすごい勢いで女性化している。
この全身にみなぎる力を生命の気だとするなら、これをシンに与えてみて。
どんな小さくても可能性があるなら、ぼくは諦めたくないんだ」

──ぼくにできることがあるのならば、やって見る価値はある。

 だが、ぼくが、今のぼくにしかできない提案をした途端、
「そんなことして、今度はルティエさまが危なくなったらどうするんですかっ。
殿下だってそんなの望みせんよっ!」
ジェジェが吠えるように叫んだ。

「死ぬつもりなんかさらさらないよ。ぼくはずうずうしいくらい欲張りなんだ。
ぼくは『ふたりは末永くずっと幸せに暮らしました』じゃなきゃ嫌なんだよ。
心配しないで、ジェジェ。大丈夫だから」

 ウル・ゲルとカンギール王子の二の舞いになってはいけない。
どちらか片方だけ生き残っても幸せにはなれない。
ふたり揃ってじゃなきゃ意味がないんだ。

 それはあのふたりが教えてくれた……。

「良いのか?
確かに、王子の血を飲み干したことで性の強制選択がなされ、急激な女性化を遂げようとしている今のそなたならば、生命の気を分け与えたところで死ぬには至らぬだろう……。
だが、その大量の生命の気は、本来、そなた自身が女性化するための糧(かて)だ。
魔導師たる王の子に与えてしまったら女性化に歯止めがかかり、この先々不完全な女性化の状態が維持されるかもしれぬぞ」

 それでも。

「シンがいないのに女性化してもしょうがないもの」

 すると、突如、銀の瞳が生き生きと輝いた。

 きらきらと朝露にように目を輝かせて、優しくぼくの頭をくしゃりと撫でる。
彼のそんな仕種が、ぼくにはとても新鮮だった。

「承知した。──そなた、ウル・ゲルと似ているな。
選ぶ道は違えど、おのれを投げ捨ててでも半身を救おうとする覚悟、そして、この私を揺り動かす言動……。
そなたが月詠であったら、私はとても嬉しく思うだろう」

 うっすらと微笑むスィヴィルの銀の瞳が微笑ましいくらいに、悪ふざけを企てた子供のように煌いていた。

「駄目だよ。ぼくはスィヴィルの月詠にはなれないよ。スィヴィルだってそれはわかっているんでしょう?
だって、今さっきだって、スィヴィルがその口でぼくの半身はシンだと言ったんじゃないか」
「そうであったな……。だが、ルティエ。おまえは我が眠りを妨げるに充分な存在であるよ」

 愛し子を見守るような温かい視線は不快じゃなかった。
恐れ多いことに、銀の使徒と呼ばれ尊ばれるスィヴィルが、すごく身近な存在に思えてしまう。

 スィヴィルの右手が大きな弧を描く。
すると、その指先の先の床に、漆黒の円が現れた。

 彼は穏やかに微笑んでいた。
その優しい微笑にすべてを包み込む無償の愛がこめられている。

 漆黒の闇は空虚の世界だった。
漆黒の円の縁の橙色の炎の揺らめきは、闇の円に影を落とすことない。

 そして、橙色の揺らめく光が今、繊細な銀色の存在を照らしだした。
漆黒の、射干玉の月詠の民の瞳を思わせるその闇に、輝く銀毛が見え隠れする。

 銀の聖獣の体躯が燃え盛る炎の輪をくぐってこちらにやってきた。
空虚の闇から出現した美しい聖獣の姿。これこそスィヴィルのもうひとつの、伝承そのままの真の姿だった。

 頬まで避ける口に犬歯が覗き見える。
無駄のない筋肉を誇る銀の体躯は、人の子で例えるならば鍛え抜かれた戦士のそれだ。

 だが、豹のようであり、狼のようでもある不思議な聖獣の身体はぴくりとも動かず、姿形の迫力はあっても気迫はない。
それは息衝くモノではなく、まるで史上最高傑作の銀の造作物のようだった。

 ところが、人の子の姿のスィヴィルの手のひらがその輝く銀毛に触れた瞬間、聖獣を取り巻く気が一変した。
美貌の人型の肢体を吸い込んで、置物であったはずの聖獣が新たな息吹を取り戻したのだ。

 天と地ほどに違う底知れぬ大量の気と存在感。
その本来のスィヴイルの在りように、鳥肌が立つほど、ぼくは心から感動していた。
彼こそ、茜さす照る陽の民の地と射干玉の月詠の民の地を行き来した、唯一、銀をその身に纏う伝説の使徒にほかならなかった。

「ルティエ、よろしいか」

 その低い声音も迫力が増していた。
落ち着き払った静かな問いに自信のほどが伺えて、わずかな不安さえ抱けなくなる。

──何と頼もしい……。

 彼ならきっと大丈夫だ、と心から信じられた。絶対、うまくいくと、確信があった。

 だから、あとは……、ぼくらの問題だ。

「シン、ぼくの身体、曲線美の豊満な肢体じゃなくてもいいよね?
胸がぺちゃんこでも嫌いにならないでよ」
「阿……呆……」

 無理をして、シンが笑った。

「子供も……多分、無理かもしれない。それでも、ぼくでいいかい?」

 不安と期待が入り混じる瞬間。

 でも、シンの応えは聞かずともわかってた。
なぜか、揺るぎない自信がぼくの中にあって、いつからこんなに自信家になったのだろうと、そんなことをぼくは悠長に考えていた。

──本当なら余裕なんかないはずなのに。

 これから起こることは大したものではないと超然と受け止めている自分がちょっぴり不思議で自慢だった。

 ぼくはぼく以外にはなれない。
男であれ女であれ、性を決定したところで、ぼくはぼくでしかない。

 ぼくでいいと言ってくれる人がいる。
もしかしてそれは、ものすごく幸せなことなのかもしれない。

 感慨に、嬉し涙が零れた。

 そして、その涙が一瞬にして乾いてしまうほど、ぼくから放出された生命の気は熱い気の力となって突き刺さるようにシンに向けられたのだった。

 身体の内側から外に向かって飛び出そうと、何かが皮膚を引っ張った。
その感じが消えた瞬間、身体が急に重くなる。

 目の前には薄暗闇。

 その闇がだんだんと深くなってゆく。

 全身が脱力感に包まれ、腕を動かすのも億劫になった……。





「ルティエ、この馬鹿。無茶するなって何度言えばわかるんだ。眠れる卵のままじゃヤバイんだぞ。
何のためにオレが『鮮血の誓い』をしたと思ってるんだ」

 責める口調に反して、深い青の瞳はぼくの身体を心配していた。
止血が済んだシンの体調は悪くはない。
青褪めていた顔色もそんなに酷いものではなくなっていた。

「もう、卵は孵ったよ。でも、親鳥にはなれないかもしれない。
シン、雛鳥のままでも我慢するんだよ? 婚約はそれが条件だ」

 シンはぼくを傷つけた。死を厭わずに「鮮血の誓い」をした。
もしも最悪なことになって、ぼくひとりが生き延びたとしたら、ぼくは悔やみに悔やみきれなかったろう。

 ぼくもシンを傷つけた。
完全な女性化を望んだシンの瀕死の行為を無下にして、ふたり共に在ることを優先した。
そのためにぼくの身体が女性としては不完全なものになったとしても、ぼくを見るたびにシンがうしろめたさを抱くとしても、ぼくは絶対後悔しない。

 互いに傷つけ合ったのだから、ぼくらは共犯なのだ──。

「ぼく、シンとは同等でいたいんだ」

 シンの腕がぼくを包み込んだ。

 これがきみの返事。

 条件は、呑まれた……。



 きみのためにぼくは生きよう。
「鮮血の誓い」はきみを生涯縛りつけるだろう。
ぼくはきみの生命を握る代償に、ぼくはきみといつまでも生きよう。

 やっと自信を持って明日を夢見ることができるから。だから、今ならきみに言える。
ぼくの初めて告白を、どうかちゃんと受け取って──。

「愛してるよ、シン。ぼくの無鉄砲な王子さま」

 途端、シンが春の日差しに目を細めるように微笑んだ。
それはとても清々しい微笑みだった。

「やっと言ったな。でも、無鉄砲は余計だ」

 互いに生きている喜びを、ぼくらは抱擁で確かめ合う。

 銀の使徒が目を細めてぼくらを見守っていた。

 彼はぼくらの上に何を見ているのだろうか。

 きっとそれは、未来の──。





「その言葉をずっと聞きたかったんだ。おまえに絶対、言わせたかった」

 そう囁いて、シンは口付けをしようと顔を近づける。
大きくなるシンの笑顔に目をゆっくり閉じようとした。

 だが、訪れるはずのキスはいくら待っていても訪れない。
ぼくは何と言うべきかわからないまま、じれったい気持ちを言葉にしようと口を開きかけた。

 その時──。

「おまえの左目、黒くなってる……?」

 シンが疑念の呟きをぽつりと零した。

 即座に身を躍らせたのはスィヴィルだった。
ぼくらへと駆け寄り、その獣の足で傷つけないよう心砕きながら、ぼくの顎を優しく引いた。

 鼻先が触れるほどに頭部を寄せて、ぼくを、ぼくの瞳をゆっくりと覗き込む。
スィヴィルの瞳に映る、ぼくの色違いの瞳。
絡み合う、金に緑の斑の右瞳、漆黒の左瞳と、未曾有の銀の双眸──。

 途端、銀の聖獣がゆるりと揺れて、瞬時に人型へと変化した。
咄嗟に神官長が、美丈夫の裸身に幅広の布をかけて覆った。

 そして、スィヴィルらしくもない今にも泣き出しそうな、情緒に歪んだ顔を一瞬だけ見せて、その白い腕でぼくをきつく抱き締めた。

「感謝する、ルティエ。可能性は得られた……。月詠の標は確かにここに、我が手に在る──」

 彼の抱擁はとても激しく、息をするのが大変なほどぼくを苦しめたけど、それでもぼくの心は温かい気持ちで満たされて、ぽろぽろと涙が止まらなかった。

「ウル・ゲルの先読みは、きっとここから叶えられてゆくのだろう」

 スィヴィルはいずれ出現する半身に想いを馳せ、遠く未来に惹かれていた。

 スィヴィルはずっと笑顔のままだった。

 シンが怒気を散らしてその腕を引き剥がすまで、まるで駄々を捏ねる幼子のように、ぼくにしっかりと抱きついて放さなかった。

 そんな彼にぼくはどことなく愛しさを感じていたことは、絶対、シンには内緒だ──。



 どこからか。

 心地好い春の風が淡い黄色や薄紅色の小さな花びらをまき散らした。
風が大地の薫りを運んでくる。

「ようございましたね、使徒殿。ウル・ゲルもこれで本望でしょう」

 突然、空(くう)に風の精霊王が姿を現した。
聖水からは水の精霊が頭を垂らし、細かい飛沫が部屋に潤いをもたらす。

「心からお喜びを。月詠の誕生を心待ちにしております」

 水精の女王が祝詞を読み上げ、聖水がきらきらと煌(きらめ)いた。
部屋を点す松明の炎より出現した火精の大トカゲが聖水に影を落として、長い尾をくねらせる。
光の粒子を聖水へと降り積もらせ、聖水の煌きは七色に変化し鮮やかさを増した。

 すると、水精の女王が慈しみの微笑みでそれを迎えた。

「そなたたちもともに喜んでくれるか。ありがとう」

 銀の使徒が花を綻ばせたように微笑むとすべての精霊が微笑み返した。
精霊王たちはひとりずつ銀の使徒の手の甲に優雅に口付けを落として、おのおのが頭を垂れて退く。

 一礼して消え去っていく姿は、誰もがほう、と感嘆する美しさだった……。

 素晴らしく華やかなひとときは瞬く間だった。
気高くも美しい来訪者たちの残像は、その場に居合わせたすべての人の子たちの心に深く刻まれ、いつまでも薄らぐことはなかった。

 夢の後先。興奮冷めやらず──。

 ましてや、銀の使徒の満面の笑顔がその残像をより華やかに彩った。

 感動が吐息となって、多くの人の子の唇から、ゆるゆると幾度となく漏れたのだった。



 しばらくして。

 夢のようなひとときを打ち破る無粋な音が響いた。
慌てたように扉を叩いて、伝令の神官が入室して来たのだ。

「殿下、神官長。おふたりともどうぞお急ぎください」

 夢見心地のぼくらを現実の世界に引き戻したのは彼ひとりだけではない。

 表舞台の様子を伝えるべく、次々と神官や侍従たちがやってきて、とうに開催時刻を過ぎた大舞踏会の模様を神官長に伝えていった。

 少年のように頬を染めて感動に震えていた大神殿最高位に座する高齢の神官も、はっと我に返って、
「シン殿下、お時間が」
真剣な表情をシンに向ける。

 今宵、大舞踏会の会場では、第二王子カナンの婚儀、および、ベリュートナラの王との養子縁組の公表と、第三王子シンの王位継承権第二位の授与が執り行なわれることになっていた。

 事情を知らない忠臣たちが当の第三王子と進行に欠かせない神官長を捜し求めて、「まだかまだか」とふたりの登場を朝の鳥の囀りのように催促するのも、王家の安定、ひいてはイクミル王国の確固たる国権を王国内外に表明するのに今宵以上の機会など滅多にないと充分わきまえているからだろう。

「これ以上は引き延ばせません。殿下、よろしいですか?」

 神官長は詳しい状況報告を受けると焦燥感をわずかに滲ませながら、シンに舞踏会場へ行けるかどうかの伺いをたててきた。

「行くさ、当然」

 シンが体力的には問題がない、と返事をすると、
「ルティエさまはいかがなさいますか?」
温和な老齢の神官長はぼくの身の振りようまで気配ってくれる。

「おまえも行こう。この際、ついでに婚約発表するのもいいだろう」

 シンは笑顔で誘ってくれたが。

「悪いけど、今は遠慮しとくよ。まだちょっと人前に出るには身体が辛いんだ」

 身体が辛いのは本当だった。
気だるさがそこかしこに残って、歩くのさえ億劫だった。

 立てばふらつき、立ち暗みもした。
長時間にわたるダンスやおしゃべり、ましてや、あの貴族たちの執拗な視線にこの体調で付き合うのは勘弁してほしかった。

 シンもぼく同様、魔法陣に始まる一連の出来事のせいで本調子とは言えないだろうに。
公務となれば王子の立場上、欠席が許されないのが辛いところだ。

「シンから王妃さまによろしく申し上げといて」

 休息を願うぼくを残して、「ささ、お着替えを」と侍従たちに急き立てられながら、シンが名残惜しそうに退室する。
去り間際に神官長が、ぼくたち……というか、特にスィヴィルに最敬礼をしたのが印象に残った。

「シン殿下の晴れ姿、本当にご覧にならなくていいんですかぁ?
殿下って外見だけはメッチャいいから、ああいう席ってすごく映えると思いますよ」
「……だろうね」

 ジェジェの言葉に感化され、ぼくはつい、そういえば婚約式の時もすごく素敵だったなあと思い出の中の幼顔に、きゅんと胸がときめいてしまった。

 まして、今のシンは幼さが抜けた分、精悍な男の魅力と美姫と知られた王妃さま似の美貌が合い混ざった面持ちの魅力的な青年に成長している。
魔導師として一流の腕前を持つ彼は、内面の輝きも外見の華やかさに引けをとらない。
王子としての身分を差し引いても、存在感余りある人の子だ。

 そんな彼の正装は、華やかな会場により一層の華を飾らんばかりの英姿だろう。
凛々しく成長した第三王子はきっとたくさんの温かな拍手に迎えられ、多くの女性の視線を集めるに違いない。

「きっとカッコイイだろうね」

 それでも、ぼくはここに残ると決めていた。

「じゃ、ワタシも行きますね。何かあったら遠慮せずに呼んでくださいよ。飛んできますから」

 ジェジェが跳ねるようにシンのあとを追い、神官たちはそんな無作法な赤毛の従者を横目で窘めるようにしずしずとさがって行った。

 そうして、文庫室にはぼくとスィヴィルのみとなった。

「行くのか? その身体で」

 神官長が用意した神官の白衣を身につけたスィヴィルが、ふらつきながらゆっくりと立ち上がるぼくに肩を貸しながら、当然のように尋ねる。

「うん。カリ・アセルの問題は、ぼくと無関係じゃないから」

 ちゃんとけじめをつけなければ。

 今も彼はずっと哀しみを抱いたままだから──。

「移動でしたら、あの道を使えばよろしいですよ」

 再度、空中に降って湧いて現れた風の精霊王も、悪戯をそそのかすように助言をくれる。

「あの道」と風の精霊王が指差したのは、銀の使徒の体躯が隠されていた漆黒の円だった。
それは精霊の道と呼ばれる位相の異なる空間である。

「心に行きたい場所を強く思えば道は開かれます。ルティエ、あなたは必ずカリ・アセルのもとに行けますよ」

 厳しくも優しい風の精霊王。
彼の表情が一瞬憂いたものになったのは、カリ・アセルへの同情だろうか。

「かの者も、道を間違えなければ、あなたのように漆黒の瞳をその身に抱いたでしょうに。
ひとつの選択が大きく道を分けてしまう。
真心を信じきれずに恋人の死だけを認めた時、彼の道は別れてしまったのです」

 かつて、預言者ウル・ゲルは、カンギール王子と同じ左右異色の瞳を持つ「性の定まらない者」の中に性の選択を拒む者が出てくる、と先読みした。
その者が射干玉の月詠の民の漆黒の瞳を持つ時、初めて可能性が生まれ、銀の使徒の半身である「月詠」へと続く未来が開けるであろう──と。

「可能性とは、使徒殿が人の子の息衝くこの世界と交わり生きてゆくための糧。
使徒殿の半身へと導く標(しるべ)となり得たのは、あなたが、明日への希望を最後まで諦めなかったからですよ」
「では、カリ・アセルは? 彼は諦めてしまってたとでも……?」

「私にはそのように見えましたが?
村人が持ってきた彼女の最期の報告だけを信じ、確認さえしなかったカリ・アセルです。
心の奥底では『これで永遠に彼女を独り占めできる』と安堵した部分も多々あったと思いますね」

 風の精霊王の辛辣なその言いようは、風の通りをカリ・アセルに制限されたことに幾分気分を害しているのだと含んでいた。

「ルティエ、カリ・アセルのもとに行くなら、彼に気付かせなくてはなりません。
誰よりも大きな過ちを犯したのはカリ・アセル自身であるとみずから悟らなければ、いくら説得しようと無駄に終るでしょう……。
あなたにそれができますか?」
「結果がどうなるかはぼくにもわからない。自信なんてないよ。でも、このままにしてちゃいけないんだ」

「ならば、その身体をまずは何とかしなければ」

 つんとスィヴィルの人差し指がぼくの額に触れた途端、その指先が触れた肌から、すうっと身体が楽になった。

「これでいい」

 そう言って、スィヴィルが満足そうに微笑む。

「どうして……? あなたはずっと今まで人の子の生には係わらないようにしてたはずなのに……」

 銀の使徒は神ではないし、万能でもない。
神々は人の子がこの世界に息衝くことを許したが、人の子のせいで孤独に追い込まれた彼は含むところが多々あったはずだ。

 だから、人の子が闊歩するこの世界に関与するのをよしとしなかった今までの彼の行動は、至極当然なものだとぼくは思っていた。

「ルティエの気は遥か昔の在りし日を思い出させる。それはとても懐かしくて恋しい気だ」

 遠い過去に心を馳せて銀の双眸を伏せるスィヴィルが、ぼくの左右異色の瞳にとても悲しい存在に映った。

 おそらくきっと、いつか彼は彼の半身である「月詠」をその腕に抱くのだろう。
でも、いつ訪れるかわからない「月詠」が生まれ出るその日まで、これからも彼は孤独に生きなければならないのだと思うと、とても口惜しくて切なかった。

「射干玉(ぬばたま)の月詠の民のかの御方を思い出したの? それとも陽主さまが恋しくなった?」
「……ああ、そうであったな、そなたは存じているのだった」

 そうして、うっすらと儚い微笑みを浮かべて、
「そなたと共に語れるだけで、今は満足であるよ」
スィヴィルがこれまた哀しいことを言うから……。

「スィヴィル。あなただってもっと我がまま言ったっていいんだよ。何もかもを我慢することないんだ。
だって、スィヴィルだってこの世界に生きるもののひとつなんだから。
生きていれば誰だって希望や欲望があって当然なんだ」

 この世界にひとり取り残された銀の使徒は孤高の存在だった。
溢れる力と気をその身に宿して、長い間、人の子の中に沈んだかの二柱の恋人たちの想いをずっと見守り続けてきた。

 自分自身の幸せのために彼が行動したのは「月詠」への標となる黒い瞳を持つカンギール人を探すことくらいだ。
それも、およそ千三百年前、稀代の未来読みショルナ・ウル・ゲルとの出会い以降の話でしかない。

 そんなにも長い間、彼はひとりで生きてきた。

「スィヴィル、ぼくの気をそんなに気に入ってくれたの?」
「ルティエの気は、忘れかけた何かを思い出させてくれる……。温かい何かを──」

 彼だって、ひとりで生きたかったわけではない。
なのに、今はもう、温かい何かを時の彼方に置いてきてしまって思い出せないのだと言う。

──だったら。

 思い出せないと言うのなら、新しい温かさを得ればいい。

「ねえ、スィヴィル。あなたの毛皮姿もすごくあったかそうだよ。今度ぼく、撫でてみたいな」

──ぼくじゃ、あなたの大切な方々の代わりにはならないだろうけど。

 それでも、今のスィヴィルを抱き締めることはできるから。

「ぼく、すごくあなたを撫でたいよ。
あなたが……、きみが温かさを忘れてしまったと言うのなら、勘弁してくれって逃げ出したくなるまで、ぼくが何度でも撫でてあげるよ」

 きみはひとりで生きなくていいんだ。

「そしたらきっと、温かいってどんなものだかわかるから。
それに嫌ってほど撫でられたら、いくらきみでもそう簡単には忘れられそうにないと思うよ?」

 人型のスィヴィルを抱き締めるのに抵抗がなかったというわけではない。
けれど、ぼくは彼の一部で、彼はぼくの一部だった。

「だから安心して、ぼくに撫でられなさい」

 彼の頬を手のひらで包み込んで、それからぼくは彼の背中にゆっくりと腕をまわした。

 冷えた背中を擦るように何度も撫でる。
この手のひらの温かさが早く彼に伝わればいいと願いながら。

「ほら、こうしたら温かいだろう?」

 ひとりきりで生きてきたスィヴィルにひとりではないことを染みこませるように、ぼくは何度も彼の背中を摩リ続けた。

「前言を撤回する。ルティエはウル・ゲルとは似ていない。
ウル・ゲルは……、ウル・ゲルはこんな申し出などしなかった……」

 スィヴィルが天を仰ぎながら、ぼくを強く抱き締め返した。

「スィヴィル、それは違うよ。ウル・ゲルだって本当はこうしてきみを抱き締めたかったんだ。
でも、彼には時間がなかった。
本当はきっとウル・ゲルだってもっとたくさんのことをきみと語り合いたかったんだとぼくは思うな」

 ウル・ゲルはこの世界を愛するように銀の使徒を愛していた。
だから、彼は彼の恋すらもスィヴィルに託くせた。
だからこそ、安心して逝けたのだ。

 大舞踏会の会場からの歓声だろうか。
わぁ、と多くの人の子の歓声が遠く聞こえた。

 ぼくはスィヴィルから身体を離して、
「行こう、スィヴィル」
銀の使徒に手を差し出した。

 そして、ぼくは一度だけ振り返って、シンが消えた扉にふと視線を投げると、正装に身を包んだ華やかなシンの姿を思い浮かべて目を閉じた。

「シン……。必ず帰ってくるから。だから、ぼくを信じて待ってて」

 目に前に広がるのは漆黒の静寂な闇。

「よいか、ルティエ」
「うん」

──さあ、カリ・アセルのもとへ。

 ただそれだけを願いながら、ぼくはスィヴィルとともに漆黒の円へと身を沈めて、カリ・アセルのもとへと一筋に向かった。





 ぼくは今までたくさんのことを諦めようとしてきた。

 諦められるはずもなかったのに……。

 だけど、きみが教えてくれたから。

 ぼくはもう、どんなことにも最後まで諦めないと決めたんだ。

 シン。

 きみだったら、この気持ちをわかってくれるよね……。






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