眠れる卵 vol.14



 再び瞼を開いた時、ぼくは痩身の身体に抱きすくまれていた。

 とくとくとく、と胸の高鳴りがはっきりと伝わってきて──。

「シン……?」

 ぽたり、ぽたり、とぼくの頬に水滴が落ちてきた。

「ああ、そうだよ、オレだ。ルティエ、おまえは? 怪我してないか?」

 見上げると、しっとりと濡れた黒髪を額に張り付けた、ぼくを気遣うシンの顔があった。
顎から滴る汗が、ぼくの顔にぽたぽた落ちて、服にもいくつもの染みを落としていく。

 その汗の量のすごさが、どれだけシンが懸命にぼくを助けだそうとしてくれていたかを物語っていた。

──ああ、還ってきたんだ……。シンのところに……。

 シンの気持ちに温かく包まれて、心が震えるほどぼくは嬉しかった。

 だから。

「心配かけて、ごめんね……」

 そして。

「助けてくれて、ありがとう」

 ぼくはありったけの想いをこめて、シンの背に両腕を回して力強く抱きしめた。

「ああ。十分な礼だよ」

 ぼくの肩に埋めたシンの唇からくぐもった声が零れて、幸せに震える身体に隅々まで響きわたった。

 首筋にかかる彼の吐息がとても熱くて、逃げるように身をよじった。
すかさず身体を引き戻されて、ぼくはどうにも困ってしまう。

「さすがですね、教授」

 固唾を呑んでいたのだろうか。ふう、と深く息を吐き出して、テラートが目を輝かせた。

「過去見に遠話、時の神聖魔法、水精と風精の精霊魔法……。
それらを一気に発動するあたり、並の神経の持ち主じゃ持ち堪えられませんよ。
学びの塔に報告したら、きっとみんな大騒ぎですよっ。
本当にこんな大きな魔導を発動させるなんて語り草になりますよっ!」

 感心しまくるテラートの言葉に重なるように、
「テラートさんってば大袈裟ですって。この方はただ単に神経が図太いだけですよぉ」
ジェジェが呆れたように溜息をついた。

「わかりきったことじゃないですかぁ……イテッ」

 その口調に反して赤く上気したジェジェの頬に、閃光の拳がすかさず飛ぶ。

 当然、誰が仕掛けたかは言うまでもない。

「それにしても静かだね……。シンったら、今度はどんな魔導使ったのさ。
ぼくら、村の人たちからちゃんと逃げ切れたの?」
「魔導も何も、ただ本当のことを話したまでですよ」

「本当のこと?」
「ええ」

「テラートさん、それだけじゃあ、ルティエさまには通じませんよ。
あのですね、つまり、殿下とルティエさまのご身分を村の奴らに明かしたんですよ。
イクミル王国第三王子にして王位継承権第二位の王子殿下と、ロザイ侯爵家ひとり子のルティエさま。
このおふたりの身柄を拘束したことが明るみになった場合には、当然、カルバ村の信用はガタ落ち。
一度失った信用はおそらく十数年にわたって失墜し、その損失は多大なものになるだろうってね。
ほとんど脅迫に近かったですよぉ」

 見せたかったなぁ、とジェジェは興奮するように顔を上気させ、片目を瞑って親指を立てた。

 権力の前に頭を垂れて跪く、そんな相手かどうかもわからないのに、一か八かの駆け引きを試みようと提案したのはテラートなのか、それとも、シン自身なのか。

──シンのまわりに集まる面々は一癖ある人が多そうだからなぁ。

 朱に交じわれば何とやら……が、ふと頭の隅を掠った。

「でもね、ジェジェ。王位継承権第二位ってのは違ってるよ。
シンはね、王太子、カナン王子に続く第三、位……の…………」

──あ、れ……っ?

 膝の力が抜けて、ガクガク揺れる。身体を支えようと、慌てて壁を求めて手を差し伸べた。

──こんな感覚、知らない……。

 咄嗟に伸ばした腕が空を切って、ぼくは肩から床に倒れ落ちた。
間を置かずして全身に衝撃が走り、激痛とも言える痛みに思わず口から唸り声が漏れる。

 自分の声とは思えないほど獣を想像させるそれは、とてもじゃないが聞いていて気持ちのいいものではなかった。

「おいっ、ルティエ、どうしたっ! 大丈夫かっ?」

 横向きに身体を丸めて痛みを堪えるぼくの曲げていた腕を、シンが優しく解こうとする。
だけど、きつく瞼を閉じるぼくには、少しでも身体を触れられるだけでも辛くて。

「すごい熱だ。おまえ……」
「殿下っ、それより訊かなきゃいけないことがあるでしょう? ルティエさまっ、聞こえてますかっ!
これは、何度目の発熱ですかっ? 大切なことなんですっ、早く応えてくださいっ!」

 我慢するのが精一杯の激痛に、意識が遠くなりかける。
ジェジェの声も自分の息切れに重なって、よく聞こえない。

 それでも何とか、「初めて」だと吐きだした──。

 その後のシンの行動は素早かった。
治癒の神聖魔法の呪文を唱え、その効力が及ばないと判断するや否や、テラートを呼び出した時と同じ方法で、遠く離れた王都のシルヴィ王宮、その一画に併設されている第一大神殿に知らせを送ったのだった。
それも、水鏡に出た相手先は、第一大神殿最高位の神官長、その人である。

 挨拶もそこそこに、シンが現状を簡潔に説明すると、
「治癒魔法が効かないとなると厄介ですな。とにかく、こちらに戻ることが得策でしょう」
老齢の神官長が渋面を作りながら、強く何度も頷いた。

「これ以上の発熱はどうしても避けたい。だから、ルティエの『時』を止めようと思う。
繊細な魔法だから極力成功率を高めるために神殿の地脈を利用したいんだ。
すぐに例の部屋を用意しておいてくれ」
「殿下、その魔導は……。どうしても今、必要なのですか?
今の御身にとって、それが最良の策なのでしょうか」

「時間がないんだ。こうしてる間にも一度目が終わる。二度目が来たら万事休すだ。
だから、可能性があるなら、どんな小さなものでも今はしがみつきたいんだ」
「──承知致しました。そこまでおっしゃるのであれば。ただし、こちらも数名用意致しますよ。
ルティエさまに効果がなくても、殿下には効果があるかもしれませんから」

 それから、神官長とシンのふたりは迅速に行動し、ぼくを大神殿に移動する手配を即座に整えた。

 シンが示した可能性とは、イクミル王国において最も魔導に適した地で「時の魔法陣」を作ることだった。
神聖魔法最高の難易度であるそれは、大神殿の神官長と言えど発動するのは容易ではないと聞く。

 第一大神殿の地下には「地脈」と呼ばれる大地の息吹の濃厚な気の道筋が通っている。
大神殿内にある数多くの部屋の中でも、特に地脈の気の影響が強い部屋は、同じ魔導を発動するにしても地脈の大地の気の効果で、魔道の効力を最大限に高めることが可能だと、シンがぼくの身体を摩りながら語ってくれた。

 大神殿地下にあるその部屋を選んだ一番の理由。
それは、難易度の高い魔道発動の成功率にあった。
加えて、王国内の大神殿の中でも、もっとも豊富な人材揃えているその整った環境こそが、魔導における最高にして最善の対処を可能にするのだ。

 シンは、後々の細かな憂いの種をも考慮して、事前にさまざまな手を打とうとしていた。

 すべてはぼくのために──。





「私はこちらに残ってもう少し情報を集めておきます。教授、どうか無理をなさいませんよう。
ジェジェ、また会いましょう」

「あとでじっくり釈明とやらを聞かせてもらうぞ」
「御意」

 テラートをカルバ村に残し、シンはすでに自分の足で歩くのもおぼつかないぼくを抱きかかえて水鏡の移動空間に入った。
一瞬で聖水がなみなみと汲まれた口の広い大瓶に出る。

 水精王が訪れた時だけ聖水の交換が許されるという水精王の恩恵を受けた真水は、大神殿が誇る地下に奉られた大瓶の、瓶というよりは浅い皿に近い陶器の入れ物に満たされていた。

 その貴重な聖水を派手に零して、突如、三人の人の子が移動してきたのだ。
待ち構えていたとはいえ、集まった数人の神官の、その水浸しの光景への嘆きようもさることながら顔の青ざめようといったら、それは気の毒なほどだった。

 そんな彼らを尻目に、ぼくはシンの両腕に揺られながら、即座に別室に連れて行かれた。
シンと神官長の計らいで特別に用意されたその部屋は、表向きは古書専用の「文庫室」。

「地脈に最も近くに接する場所と知って、ここに出入りする者は滅多にいない。
もう少しの辛抱だ。頑張れ、ルティエっ!」

 シンは出入りするものは滅多にいないと言ったが、今は古書独特のかび臭いが漂う部屋の中に、目の隅にざっと映っただけでも五人の神官服の神聖魔法を操る魔導師たちが、すでに準備万端の面持ちで待機していた。
一般参拝の表の神殿の顔とは異なり、大神殿地下は魔導王国と謡われたイクミル王国が誇る神官の位を持つ魔導師の巣窟である。
そのことは、王宮に一時身を寄せていたぼくにとって常識のようなものだった。

 魔道書は貴重な本だ。
でも、魔導師が勉強するのに必要な教科書でもあるわけだから、大神殿の地下にたくさんあるのは当然だと、ぼくは軽く考えていた節があった。

 好奇心旺盛な幼馴染みの王子に付き添って、この部屋ではないが大神殿の特別閲覧室などには何度か入り込んだこともあったので、大神殿が所有する多くの蔵書の重要さや貴重さを改めて説かれても、ぼくはそれはど大きな衝撃や感動を受けなかった。

 だが、初めて大神殿に足を踏み入れたジェジェは違ったようだ。

「これは塔が温存している魔導書に匹敵する量ですよぉ。マジにその質も引けをとらないっス。
まるで学びの塔がもうひとつあるようで怖いですぅ。
こんなすごいとこが王宮内にちゃんとあるってのに、なんでまだ殿下は学びの塔になんかわざわざ入ったんですかねえ。
ここだって魔導師にとっちゃ最高の環境が整ってるってのに……」

 痛みに慣れて、少しまわりに意識を向ける余裕が出たぼくは、右に左に忙しく首を捻るジェジェの様子がおかしくて、つい笑ってしまう。

 すると、
「痛っ……」
それまでとは違った動きをしたせいか、再び痛みが込み上げた。

「阿呆、調子に乗るな。もう少しだけおとなしく待ってろよ。すぐ楽にしてやるから」

 案の定、シンに睨まれてしまった。

 それでも、すぐにその細めた目が微笑みのものに変わって。

「でも安心した。思ったより余裕あるんだな」

 そう言うシンも超然としていて、切羽詰まった焦りが見えなかった。
だから、ぼくは、シンこそ余裕があるのだと誤解をしてしまったのだ。

 微笑みを真剣な眼差しに戻して、シンは魔法陣を描く用意をする。
聖水を惜しげもなく床にまき、その場所を清めて火精を召喚した。

 手のひらに点された紫の炎が、床に飛び火し聖水を燃やす。
聖水と浄化の炎、二重に清めをほどこさねばならないほど、これから始めようとしているものは、微妙な調整を必要とする神聖魔法最高難易度の「時の魔法陣」だった。

 最高難易度の魔法の発動──そのことにぼくは早く気付くべきだったんだ。
せめて、シンが長い詠唱に入る前に……。

「春の時、夏の喜びをしばらく延ばし、大地の眠り、この地に訪れんことを許せ。
風よ、時の穴に気の凝りを。茜さす照る陽の恩恵を我に、その久遠の恒久なる時の息吹きをここに。
射干玉の月詠の連鎖の波をその陽をもって影となさん」

 シンが膝を屈したのは突然だった。
眉間から顎を伝わった汗が床にぽとりと落ちて、聖水に混じった。

 だが、その間も詠唱は途絶えることはない。
彼が再び立ち上がろうと膝に手を置いた時さえも、呪は完全に紡がれていた。

「創始より綴る時の糸の流れ、緩やかに止まれ。魔法陣に我が意を汲めん。
清浄の地に祝福を。すべての加護を我は乞う。
──時の氷結っ、発動!」

 部屋の中央に光の柱が現れ、いくつかの息を呑む音が薄暗い空間中に響いた。
光の柱は太い円柱となって広がり、床に魔法陣が浮かび上がる──。

 シンがぼくの腕を取って、魔法陣へと誘った。
彼の顔色はすでに青く変色していた。なのに、休むまもなく守護の呪文を唱え始める。

「この者の身、この地に属すもの。時の眠りの受諾を得ん」

 魔法陣には、茜さす照る陽の民の象徴の太陽と、射干玉の月詠の民の再生の三日月が描かれていた。
ぼくはシンに背中を押され、ゆっくりと魔法陣に一歩足を踏み入れる──と、光の柱は瞬時に消えた。

 淡い光で編まれた魔法陣は、変わらずぼくの足下に描かれている。
その魔法陣を踏みしめた途端、身体の痛みやほてりが跡形もなく消えたから、確かに最高難易度の魔方陣の発動に成功したのだろう。

 ぼくの身体の時間の流れを止めるための魔法陣が治癒の効力を発揮したのは、シンがあらゆる祝福と加護を願ったからなのか。

 ただ、その魔導の効力が壮大な分、シンの心身に大きな負担がかかったのは明白だった。

 魔導は本来、発動させる者の精神力、つまり「気」に関与している。
強い気を持つ者は同じ呪文を唱えても大きな効果が得られる。
とはいえ、強力なもの、難易度の高いものになるほど、その負担は発動させた者に跳ね返る。

 魔導とは、分をわきまえ自分の実力相応以上の難度なものは避けること、が基本だった。

 そして、確かにシンの努力は報われたのだろう。
この魔法陣の中にいれば、ぼくの身体の「時」は止まったままだ。

 この中にいさえすれば、痛みもなく、空腹にもならず、睡眠も必要ない。
この先、魔法陣を作ったシンが死を迎えるまで、ぼくは老いることもなく生き続けられるのだろう。
けれど、それは生きていると本当に言えるのだろうか。
一歩もこの魔法陣を出ることを許されず、ただこの狭い空間に存在するだけのこの状態で。
まるで風切り羽を切れらた鳥のように、この地に縛られたまま、鳥籠の中でただ空を焦がれるように、眠れる卵の短い一生と引き換えに、ぼくはぼく自身の自由を失うのだ。

 壁に寄り掛かるシンのけだるそうな姿が目に痛かった。
ぼくのために、それこそ気力を尽くして、魔法陣を編んでくれたシン。
彼は神官たちに囲まれて、治癒魔法を受けていた。

 気の消耗の回復を早めるための治癒魔法だが、その消耗した気の量が半端でないので、入れ替わり立ち替わり神官たちが死力を尽くすのだが、シンに際だった回復の様子は見られない。

 しきりに神官長が様子を伺っていたが、とうとう最後にはシンが判断した。

「無駄だ。ここまで落ちたら治癒は効かない。あとは自然に回復を待つしかない」

 そうこうしているうちに時間は経ち、食事やらの所用で部屋を出入りする者が出てきた。

 人の子である以上、それが自然な姿なのだと思う。
ぼくのこの状態が、自然の理から外れているのだ。

 一刻、二刻……。ただ待つばかりの現状に、「退屈」の二文字が芽生える。

 これがこの先ずっと続くのかと思うと、ずしりと気が重くなった。
身体的には楽になったが、精神的に今にも追い込まれそうだった。

 そんなぼくに気を使って、みんなが何かと話題を提供してくれる。
そのひとつに、シンの王位継承権の順位繰り上げの話があった。

「あれっ、ご存知じゃなかったんスか? カナン王子、この秋にご結婚なさるんですよ」
「あっ、そうなの? おめでたいね──じゃないっ。
あのさ、ジェジェ。カナン王子がご成婚して正妃を迎えられたら、それこそ王統は固いものになるじゃないか。
お子さまだってお生まれなるだろうし。
シンの王位継承の順位が下がることはあっても繰り上がることはないはずだよ」

「それはですねえ……」

 ジェジェが続けようとした台詞を拾ったのは渦中の第三王子サマだった。

「カナンの相手ってがベリュートナラのお姫さまなのさ。
ルティエ、ベリュートナラ王には王女ひとりしか御子がいないのくらい知ってるだろ?」
「当たり前じゃないか」

 ベリュートナラ国と言ったら、シンとふたりの兄王子の御生母である王妃さまの故国だ。
ベリュートナラの現国王は、王妃さまの実の兄上にあたる御方である。

「婚儀が成立した暁には、カナンはベリュートナラの王と養子縁組をする手筈になってる。
それはすでに元老院でも承認済みだよ。
ロザイ侯は元老院の議長だから、てっきりルティエは知ってるとばかり思ってたんだが」
「まだ未公表なんでしょ、それ。
父さまは元老院の極秘事項はいくらお祝い事と言えども他言する人じゃないもの」

「もう極秘じゃないさ。今夜の大舞踏会で発表することになっているはずだからな。
すでに、カナンはかの国の王立議会の可決を得ているし、次代のベリュートナラ国王になるのは決定事項なのさ」

 他国の王位継承権を持つ者がイクミルの王位継承権を重複して持つことは、基本的には認められていない。
養子縁組後、必然的にカナン王子はイクミルの王子の身分を剥奪される。
つまり、そのため順位の繰り上げが起こり、シンの王位継承権は第二位に改まる、という筋書きらしい。

「母上がルティエを舞踏会に呼んだのは、オレの継承権承認式が大舞踏会で行われるからだ。
オレがこの時期に学びの塔を出ざるを得なかったのは、それが理由でもある。
でも、重なる時は重なるもんだ。
偶然にも、教授職のかたわら二年以上も塔長のもとでしていた修行が一段落したのもその頃で、オレ自身、もともとその魔道を会得したら塔を出るつもりでいたのさ。
言ったろ? オレにはオッドアイの神力は効かないって。
オレだっておまえを恨んだ時期があったし、何であんなことしたんだって憤慨した時もあった」

 シンがぼくを恨んだとしても、ぼくはただ頷くしかできなかった。
だって、恨まれてもなじられても当然なことをぼくはしたのだ。

 他人の精神を、それも純粋にむけれくれるその真心を歪めた事実は、月日がいくら経とうと消えてはくれない。

 だけど、シンは、
「それでもオレはおまえに会いたかったんだ」
だるそうに身体を起こすと、もうこれは重傷だな、と苦笑いしてくれる。

「一度オッドアイの力を誇示したおまえは素直にオレに会わないだろうってのもわかってた。
おまえが考えそうなことだからな。だから、オレも考えた。考える時間だけはたっぷりあったから。
そして、おまえに再会するためにはオレが誰の影響も受けないことが必須だと行き着いたんだ。
だから、修行を塔長に願い出た」

 わかってくれ、とシンは真摯な眼差しを向けてきた。
そして、オレはおまえに早く会いに行きたかったんだ、と語ってくれる。

「おまえとオレが本当の意味で向き合うためには必要なことだと思った。
カンギール・オッドアイの神力は真名を読む力にある。真の名はそのものの本質を表す。
おまえは自分でも知らないうちに相手の真名を読んで、相手の意思を自在に操ることができるんだ。
だからオレは真名を隠す魔道を学ばなければならなかった。
おまえが安心してオレと会えるようにするために、その成果が得られるまで、塔を出るのを伸ばすしかなかったんだ」

 お陰で七年も経ってしまった、と少しだけ唇を尖らせて、照れたように髪を掻いた。

 その十七歳らしい仕種に、
「七年でそこまで上り詰めるほうがどうかしてますよ」
ジェジェが本気で呆れたような声を出す。

 からかい混じりに尊敬の眼差しを向けるそんなジェジェに、シンがわざとギロリと一瞬睨み返すと、主人の身を案じて離れようとしない剣術指南役にして不肖の弟子は、
「おー、怖っ」
恋に狂った男は始末に終えませんね、と笑いながら小さくごちるのだった。

 それから、シンは、半年前のことも話してくれた。

「王宮に戻ったあと、おまえに会うのを半年も待ったのは、母上とロザイ侯爵夫人に止められていたからだ。
あれはちょうど、おまえがわずかなことにも過敏になっていた頃で……。
出塔したその足でロザイに行こうとしたら、かの御夫人方に頭ごなしに却下されたというわけさ。
あなたはルティエを潰すつもりなの、とあのおふたりに言われたら、もう引くしかないだろう?」

 半年前のシンの帰還の噂は、ぼくの胸に嵐を呼んだ。
物思いに耽る時間が多くなり、ささいななことに過敏に反応してしまう日々が何日も続いた。

 もともとこの稀有な瞳のせいでロザイの屋敷の外には滅多に出ないぼくだったけれど、それでも、天気のいい日は敷地内を乗馬したり、庭を散歩しては季節を愛(め)でたりしていたのだ。

 だが、シンの帰還を耳に入れてからというもの、ぼくは人の噂話が怖くなり、貝のように耳を閉じて部屋に閉じこもり、できるだけ外聞から自分を切り離そうとした。

 シンの帰還を意味するもの。
その時のぼくには、その理由が彼の祝い事しか思い浮かばなかったからだ。

 学びの塔に行ってしまったからか、元老院の議題にシンの縁談に関するものは今まで出なかった。

 すでに正妃を迎えられている王太子には、王女がひとり誕生している。
また、次兄のカナン王子には、シンが王宮を出奔した頃から各国から申し出が殺到していたので、この二、三年間は特に、元老院と王家が何度も話し合いの機会を設けて正妃候補の協議に入っていたことは、貴族ならば誰もが知ってることだった。

 だから、次はシンの番だとぼくは覚悟していた。
シンはすでに十七歳。
適齢期を迎えたシンの祝い事が突然話題に出たところでおかしくないと諦めていた。

 なのに、実際、シンが塔から出てきて、王宮に戻ったと聞いた時は息が止まった。
覚悟をしていたつもりでも、それでもまだまだ足りなかったのだと、その時ぼくははっきり悟った。

 好きな人が幸せになる。それをどうして素直に喜べないのだろう。

 半分、もう会うことさえ諦めていたくせに。

 次に会えるとしても、それは彼の婚礼の時かもしれないと。
もしかしたら、彼と彼のお妃さまがふたり並んで微笑む中、ロザイ侯爵家からの祝辞を届ける用向きが、ぼくと彼との再会の機会かもしれないと、心のどこかで諦めていたはずだったのに……。

 会いたくても恋しくても、シンにしてしまったことを考えれば、のこのこぼくから会いにゆくなどできなかった。

 それでも、シンの帰還の話を聞くまでは夢見てられたのだ。

 シンと並んで歩いてゆく未来──。

 夢見るのは自由だったから。

 だから、ぼくは……。

 ぼくは──。



 シンの帰還の意味するものを考えてしまうほど眠れない夜が続いて、ぼくの身体は食事もあまり喉を通さなくなっていった。

 そんな折、ぼくはひどい風邪をひいてしまったのだった。

──そういえば、なかなか熱が下がらないぼくを母さまがとても心配してたっけ。

「塔から出てきて王宮で足止めくってる時、おまえが熱出したって噂を聞いて。
『一度目』が来たのかと思ってすごく焦った。
いてもたってもいられなくなって、夜、王宮を抜け出たこともあった。
ジェジェにすぐ見つかって、母上の知られるところとなったのは失敗だったけどな。
魔道を使うのもやぶさかではなかったが、王宮に詰めていたロザイ候がとにかくいい顔をしなかったから。
だからロザイ領に早馬を飛ばすしかなかったんだ」

「早馬?」
「ああ。ロザイ侯爵夫人宛にはルティエとの縁談承諾を願う旨を認(したため)めて。
おまえには王宮に赴くよう何度も要請したんだが……。おい、もしかして受け取ってないのか?」

 左右にぶるぶると首を振ると、シンは、してやられた、と眉間にぎゅっと皺を寄せた。

「道理でおまえから音沙汰なしだったわけだ」

 あんのぉ古狸め、と舌打ちするシンと、「古狸」と呼ばれた相手。
自分の想い人とロザイの父の、彼らふたりの世間的立場と身分を考えるとくらりと眩暈がしそうになった。

「父さまも悪気があったわけじゃないと思うけど……?

 声がだんだん小さくなるのは仕方がないだろう。
仮にも育ての親とはいえ、父である。弁解したくもなるというものだ。

 だが、シンはそれがとても面白くなかったらしい。

「おまえは知らないようだから教えてやるが、確かに返事はロザイ候から毎度毎度送られてきた。
候宛になんぞ、オレは手紙など一度も書いてないってのにな。
それも返事の中身はいつも『大切な用件は後日直接伺います』だ」

 王宮から早馬が何度か来ていたのは知っていた。
けれど、それはすべて、元老院議長である父の職務関係のものだとばかり思っていた。

「まったく、風邪なら風邪だとさっさと返事を寄越せばいいのに。何が『直接』だ。
おまえの熱がなかなか下がらなくて、『無理して起き上がったらルティエが倒れた』と侯爵夫人から再度手紙が届いた途端、さっさと王宮からロザイへ引っ込んでしまった侯爵にどうやって直接会って話をしろと?
それも、遠話を使おうものなら、『魔道程度で済ますなんてシン殿下のお気持ちも底が知れてますな。
真心というものは魔道ごときでは伝わりませんよ』ときたもんだ。
ホント、『ただの風邪ですのでご安心を』と侯爵夫人から丁寧な文を頂いた時には、人騒がせなとおまえら親子に本気で呆れたよ。
ま、それはそれで安堵したから、よしとするかって思ったけどな。
でも、あの時つくづく、もう待てないって思い知らされた。
ちょうど、舞踏会の時期が近づいていた頃で、だから、これはいい機会だと思って、継承権承認式へのルティエの出席を父上と母上に願ったんだ。
いい加減、オレもブチ切れそうだったからな」

 王妃さまからの書簡がロザイ領のぼくのところに届いたのは、季節がめぐって、ぼくの体調が少し落ち着いた頃だった。

「それだったら、どうして……。どうして、承認式のこと言わなかったの……?
初めからそう言えばよかったじゃないか」
「話したら、おまえ、ちゃんと出席したか? そりゃ、ロザイ侯の代役としてなら出席はしていただろう。
でも、オレは……、ルティエには、オレの婚約者として出席して欲しかったんだ」

「婚約者? 何を今更、ぼくたちはもう……」

 シンのことは好きだ。
けれど、婚約破棄を一度申し出ておいて、おめおめと再び婚約者面して王宮を闊歩できるほど、ぼくは厚顔ではない。

「シン。きみもわかっているだろう? ぼくらはすでに正式に婚約を解消しているんだよ?」
「だから、舞踏会までにおまえを説得しようと思ったんだ。七日七晩かけて」

「七日七晩?」
「ああ。オレは継承権承認式までにおまえを口説き落とすって決めてたんだよ」

 だから王妃さまはぼくに夜会初日から出席するよう招待状にしたためられたのか。
シンがあの夜、ぼくの前に現れたのは、すべて計画のうちだったんだ。

 ただひとつ、彼の誤算はぼくに届いたロザイ村からの一通の手紙。
あれのせいで、ぼくが王宮を抜け出すという突拍子もない行動に出てしまった──。

 そして、シンのところに王妃さま経由で母さまから連絡が行っていたということは……。

「侯爵夫人はいまだ脈ありと教えてくれた。
そう聞いた時、オレがどんなに嬉しかったか、おまえわかるか?
この世界のすべてに感謝したい気持ちだったよ」

 壁に寄り掛かるシンが上体を起こして手を差し伸べてきた。
だけど、その手は魔法陣の外にあるものだから、魔法陣に遮られて、ぼくには触れることができなかった。

 この中にいる限り、ぼくはシンに触れることはない。

 ぼくは魔法陣という檻の中で生命を繋ぐ代わりに、目の前に指し伸ばされた手を諦めなくてはならないのだった。

「畜生っ!」

 シンが床を拳で叩いた。

 ぼくを睨むように、じっと見詰めたまま。

「いっそ、今すぐ婚儀を挙げるか? この魔法陣を解いて……。幸い神官長もこの場にいるぞ。
第一大神殿の神官長の立会いならば、王家の婚姻として正式なものとなる。
ロザイ候にも文句など言わせない。オレがおまえを抱けば、眠れる卵でなくなるんだ。
性選択さえ済ませれば、おまえは二度と苦しむ必要がない……。
このままじゃ……。好きなヤツがこんなに近くにいて触れならないなんて──。
おまえを失うのに比べたら諦めもつくかと思ったけど、やっぱり嫌だ。
オレ、思ったこと行動にする質だし、欲張りなんだよ。おまえは知ってるだろ? オレの性分」

 意のままの行動。障壁さえも糧として貫く──。

 今までも。これからも、きっと。

 王子の身分よりも、シンの人となりが周りの者を動かし、彼の努力が実を結ばせてきた。
人の子を惹きつけ一筋に道を切り開くそれは、一見、我精なものともとれるが、戦乱の世ならば王たる素質に値するものだった。

 現在の魔道師としてのシンの実力は、人一倍の努力の結晶に違いない。
学びの塔が誇る魔導師になる道程は、才能を花開かせるまでの地道な蓄積があったからこそだ。

 誰も、努力なしに花は開かない。
そして、シンはいつだって、その「根」の部分を語ることはない。

 幼い頃、剣術に頭角を現したのだって、ひとり居残り、熱心に稽古を積んだからだった。
いつだって、シンはその実力を得るのにそれ相当な努力をしてきたのだ。

 彼の欲する結果を得んがために。

「ルティエ……。、魔法陣を消し去って、今すぐおまえを抱いていいか?」

 シンは本気だった。その瞳に、覚悟のほどが見えた気がした。

「シン……」

 続く言葉が喉から離れようとする。

 だが、ぼくが返事をする前に、
「無駄だ」
横から断定的な応えが投げ掛けられた。

 突然の訪問者のその声にひどく反応したのは、老齢の神官長だった。

「スィヴィル……、やはり銀の使徒はオッドアイの転機に訪れるのか……?」

 呟き漏れたその言葉を、シンが敏感に聞き留める。

「神官長、あなたは以前にも彼に会ったことがあるのか?」
「これが二度目です。私がまだ神官見習いだった頃、兄弟子にカンギール・オッドアイがおりました。
スィヴィルが彼のところに訪れた時、たまたま私もその場に同席していたのです」

「なぜ、銀の使徒はオッドアイのもとを訪れるんだ? 神官長、何か知っているのか?」
「銀の使徒はカンギール・オッドアイというより、眠れる卵のもとに現れるのだと思います。
古来より、オッドアイは珍重され、神聖視されていました。
ですから、神殿が彼らを保護する機会も多々あり、今もその記録がいくつか残っています。
若かりし日、私と兄弟子は、それらの記述の中に銀の使徒の来訪に関するものを見つけ、来訪の共通点が、『性選択を延ばす眠れる卵』にあると気付きました。
実は兄弟子もそうだったのです。
当時、カンギール人の兄弟子は十六歳になるというのに、まだ性の選択をしていませんでした。
『そなたが性選択を拒むの者か?』──そこの銀の使徒は、そう兄弟子に問うてました」

「性選択を拒むの者……?」

 口の中で転がすようにシンは呟いた。

 スィヴィルはその様子を観察するように見詰めていたが、やがてその薄い唇で語り始めた。

「魔導師よ、よく聞くがいい。
一度目でも覚醒の発熱が訪れてしまった以上、性行為による性の選択はすでに効かない。
魔法陣の解除はそなたの気の消耗を無駄にするだけだ。
そなたは魔法陣から出た場合のルティエの悶え苦しむ姿に絶えられるのか?
やがて訪れる二度目のその時を、そなたは固唾を飲んで待てるのか?」

 銀髪を額に垂らし腕を組んで壁に寄り掛かる痩身の人の子の姿からは、四肢の聖獣の姿は想像出来ない。
でも、ぼくの中のスィヴィルの記憶が、短い銀毛に身を包む四肢の聖獣の神秘な姿をぼくの脳裏に見せていた。

「今のルティエは、そなたたちが『眠れる卵』と呼ぶ状態にありながら、すでに性の選択が容易でなくなっているのだ。
意思における選択よりも有効な性交の強制選択を無効とするほどに、卵は狂いかけている。
より強い繋がりを強いなければならないほどに腐乱しかけているのだ」

「それでも、性の選択が無理でも、ルティエの生命を長らえる方法はあるはずだ。
より強い繋がりとやらを結べばいいのだろう? 銀の使徒よ、それに違いないか?」
「殿下、何を考えておいでです?」

「閃いたのさ。最強の繋がりってヤツを」

 シンの動作は神官長が何かを言うよりも素早かった。
懐の短剣を鞘から指し抜き、左手首にその刃をあてたのだ。

 赤い血の糸が手首に巻かれ、滴となって滴り、腕を伝う。
袖が赤く染まり、もとより鮮やかな色の衣装であったかのように急速に赤い染みは広がった。

 視覚が、シンの脈動を伝えてくる。

「もとあるべき姿に」

 短い呪文がシンの唇から発せられた。
高温の、パリンと弾けた音が耳に届いて、ぼくの肌に外気が触れる。

 そして、消えた魔法陣とともに訪れる激痛の波──!
ぼくは耐え切れずに膝を折った。
唇の隙間から思わず漏れる声を押さえきるのは難しかった。

「ルティエ、頼む。ちょっと我慢してくれ。すぐに楽にしてやるから。それと……、ごめん。先に謝っておくな。
楽にしてやる代わりに、オレの身勝手を許してくれよ……」

 最後の言葉に悪寒が走り、シンを見上げる。

 壁で背を支える魔導師の身体は揺らいでいた。
なのに、深い青の瞳は強く意思を孕んだまま。
シンの気は衰弱しているようには見えなかった。

 シンは自分の鮮血を口に含み、ゆっくりとぼくのところへやって来る。

 床に触れた手を重ねられて、唇を噛み締めつつ、シンを凝視した。
血独特の鉄分の臭いが鼻につく。
シンの口の端から漏れ垂れる赤い筋に、頭がどうにかなりそうだった。

 記憶が哀しみを連れて、シンの姿が古の王子と重なる──。

 心の臓に一番近いものとされる左手首の鮮血。生命を与えることに等しい行為。
それは、カンギール王子が最愛の恋人を救うためにほどこした最強の束縛の契約、「鮮血の誓い」だった──。

 シンはまさにあの壮絶な場面を繰り返そうとしていた。

「ルティエの生命の炎が燃え尽きたとき、おのれの生命も消え失せよ」

 この呪文を我が耳で聞くことになろうとは。

 シンが強引にぼくの頭を引き寄せ、唇を重ねてきた。舌で口を開き、シンの鮮血を含ませられた。
衝撃が火花となってぼくを襲う。
シンの生命の炎が消えてゆく感じが、ぼくの平静を奪う。

 薄らいでゆく全身の痛みに身体の自由を取り戻して、何かにしがみつきたくて、シンの血がねっとりと染みた衣服を握り締めた。

「……ティエ、もう……、身体、大丈……か……?」

 ぼくを過去から救い出したシン。それだって、複雑な魔道のはずだったのに。
その直後に神聖魔法最高難易度の「時の魔法陣」の発動、続いて今度は最強の束縛「鮮血の誓い」の契約。

 気を使い果たすのは当然だった。即死しないだけで奇跡だ。

「どうして、きみはこんな無茶苦茶な魔道の使い方するの……!
どうして、ぼくのためなんかに。どうしてここまでっ!」
 
 手首からの出血もいまだおさまらず、シンは力なくぼくの肩に頭を乗せる。

 かすかに、おまえが好きなんだ、と風が耳元を掠めた。

「シン?」

 ずしりとシンの体重が重くなる。
甘くとろける抱擁に程遠いそれは、ぼくの胸に不安と恐怖を運び込んだ。

「ちょっとしっかりしてっ! シンっ!」
「とにかく止血ですよっ! まったく、何て馬鹿なことをっ。いくら何でも殿下はひとりで背負い過ぎますっ!」

 普段のおふざけ気味のジェジェとは打って変わっての慌てぶりだった。
血を見るのに慣れているはずの元傭兵の落ち着きない視線に、最悪の結果が脳裏に浮かぶ。

 その間にも、ぼくの身体は高揚を続け、今まで知ることのなかった躍動感に包まれていた。
波打つ鼓動に勢いがある。身体が軽く感じて、動作のひとつひとつにこれまでの感覚がついてこない。

 ぼくの身体は確実に変化を遂げようとしていた……。






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