眠れる卵 vol.13



 過去見の続きを見ながら、早速、ぼくらは結果発表会と称して情報交換をすることになった。

「少しずつ移動しながら過去見をしていって、やっと掴んだんですが」

 そう語り始めたジェジェの顔が苦虫を潰したようなものになった。

「およそ五十年前、オッドアイの恋人を追い立てたっていう事実がやっぱりあったようなんですよ」

 そうして、カリ・アセルの恋人だったという元傭兵の経歴を持つ女薬師について話を進めていくうちに、ついに、痛々しい彼女の最期に辿り着く。

「おそらく当事者のひとりだと思うんですが。
あるひとりの男が疑わしい女薬師を崖に追い詰めて始末したんだって、女たちに自慢するように語っていた場面にやっと行き当たりましてね」

 ジェジェが知り得た情報とは、ひとりの女性に偶然降りかかった不幸な事故の全容だった。

 一歩後退すれば足下に森の緑色の絨毯が広がる崖を背した状況下で、前方を鍬(くわ)を担いだ数人の男たちに取り囲まれたカリ・アセルの恋人は、きりりと口をきつく結んで、一羽の鳩を空へ飛ばしたと言う。

 その彼女の不審な行動を目にして、
『ほれ、見たことかっ』
『鳩の足には結び文が括られていぞたっ! それこそがその女が間者であった証拠だ!』
と、男たちが舌打ちをしながら騒ぎ立てては、ますます彼女を追い詰めた──。

「カリ・アセルの恋人っていう女は、無抵抗だったようですよ。
多勢に無勢。きっと俺たちに恐れをなしたんだろうって、そりゃあ声高々にその男は話してましたよ」

『村の男たちみんなして鍬や釜を振り上げたもんだから、きっとびびっちまったのさ』

 顔見知りの村人相手に、その男は「じりじりと相手を追い詰めたんだぜ」と、懇々と酒の肴に語っていた聞かせていたのだと、ジェジェは眉間に皺を寄せながら報告した。

 崖の端まで追い詰めてもなお、彼女を責めなじり続けたカルバ村の男たち。
だが、結局、無抵抗の女薬師を襲ったのは、武器を手にした彼らではなかった。

 一撃を仕掛けようと一歩足先を前に出した男たちよりも一瞬早く、カリ・アセルの恋人を襲ったもの。
それは、不運と言うべき事故だった。

 彼女が男たちの隙を見て逃げだそうとするよりも早く、突如、彼女が立っていた地面が脆く崩れて砕けたのだ。
一瞬にして、彼女は消え失せ、男たちは言葉を失った。

 足下から崖下に向かって瓦礫もろとも垂直に落ちていく瞬間。

『……──ッ…………』

 間者まがいの女薬師は切れ切れの叫び声を上げた。

 唸るような轟音と大きく舞い上がる土煙がしばらく周辺の大地を揺るがす中、あっという間に落ちてゆくそのさまを、
慌てふためく男たちは地面に這い蹲りながら、ただ見届けるしかなかった。

 やっと訪れた静寂に顔を上げれば、遠く西の空まで残照が血を溶かしたように広がっていた。
そして、頭の先から爪先まで血の色に全身を染めながら、カルバ村の男たちは唖然と互いの顔を見合ったと言う。

 詰まるところ、両者の決着はその場にいた誰もが考えつかなかった突発的な事態によって、突然、幕が閉じられたのだった。

『恐らくあの高さでは助かるまい』

 それが男たちの判断で。

『わしらが直接手を出したわけじゃない。長雨でぬかんだ場所に立ったのが不運だったのさ』

 村人たちは弁明にもとれる言葉を繰り返し吐いた。

『昔から言うじゃろが。間諜たる者、生業からしてまともな最期なんぞ訪れんのよ』
『爺さんの言うとおりだわ。日陰者は所詮、日陰者。
お天道様のもとで誰かに見取られながら心安らかに死ぬなんざ、はじめっから無理な話ってもんなのさ』

 罪悪感を感じるからこそ口に出さずにいられない男たちの責任転嫁が無情に空(くう)に溶けてゆく。

──カリ・アセルはどんな気持ちで、彼らの言葉を聞いたんだろう……。

 故郷の村に対する疑心暗鬼と憎悪の念。
その種を最初にカリ・アセルの心に植えつけたのは、ほかならぬ当の村の人たちだった。

 芽生えてしまった暗くくすぶる闇色の感情の上に、多くの想いが積もり積もって次第に大きく育ってゆく。
そうして、闇の中に咲いた復讐の花は、心から求めた幸せの代償を得るまで、カリ・アセルの中に咲き続けるのだろう。

 大切な恋人を追い詰めるだけ追い詰めて、結果的に彼女を死なせたカルバの村に。カルバ村に属するすべてのものに。
自分と同じ──いや、それ以上の苦しみを必ず背負わせようと固く心に誓ったカリ・アセル。

 カルバ村の最後のカンギール・オッドアイは、村にとってこれ以上のものは大きな打撃を与えんがために、自然の恩恵を打ち切るという稀有な左右異色の瞳を持つ彼にしか成し得ない方法を用いた。

 何年も、何年もかけて。

 彼は彼の苦しみを、村人たちに示してきたのだ……。



 ジェジェは地面に唾をひとつ吐き出して、最後にこう締め括った。

「カルバの奴らは、自然の恩恵と当然の権利とを履き違えてしまったんですよ。
それは今でも、きっと五十年前のまま変わらない。奴らはこの地のあるべき姿を忘れてしまってる。
ここはもともと地形が地形だし、よしんば結界が解かれて風が吹くようになっても、やっぱり霧が立ち込みやすい場所だと思うんです。 
それがこの地の自然の姿なのに、いくら説明しても多分奴らは納得しない。
奴らが奴ら自身の意識改革をしない限り、このままじゃワタシたちがやろうとしてることは報われずに終わるんッス」

「オッドアイに頼る生活が慣習になっているとなると、カリ・エラたちがルティエを隠そうとしたのも納得がいくな」

 それは、嬉しくない「納得」だった。

「それで、テラートはどこ行ったんだ?」
「カリ・エラの恋人さんが村長の家に行ったと聞いて、そっちに向かいました。
さすがに隣村に住んでるだけあって、テラートさんはここの事情を良くご存じでしたよぉ」

「そりゃ知ってるだろ。ルティエをここに呼びつけたのは、ほかならぬあいつなんだから」
「ええっ?」
「何ですってぇ!」

 ぼくとジェジェは同時に驚きの声を上げた。

「どうしてそう言うことになっちゃうの?」
「ホントですよ、もぉ。お願いです。説明してくださいよぉ」

「そんなの簡単だ。ルティエ宛の手紙にほどこされていた魔導の気とテラートの気は同一だった。
オレが知ってた塔にいた頃のテラートの気はもっと穏やかなものだったから、手紙を見せてもらった時点ではわからなかったが……。
テラートがジェジェの過去見に水精の助力を補助した時のアレではっきりとわかった」
「でも、だったらどうしてあの人、この時期になってわざわざぼくを呼んだんだろう。
もっと早くほかの人にでも相談すればよかったのに」

「村の悪行を公にするのは勇気がいったんだろうな」
「テラートさんから聞いたんですが、彼の塔での修行は十五年の約束だったらしいですよ。
ですが、テラートさんの魔導師としての腕の良さを知った彼の出資者である隣り村の村長さんのほうが欲が出たようで、もう一度塔に戻って修行期間をあと五年ほど伸ばすようにって勧めていたようです。
どうやらテラートさんってば、もうちょっとで上級に受かるって時期に塔を出たようですしね。
ほんと、もったいないことしますよ。それじゃあ、その村長さんじゃなくても惜しんで当然ですって」

「もしかして、塔に戻るのが決まっていたから急いでたのかな?
ここにいる間にカルバ村のこと、何とかしたかったのかもしれない」
「でも、テラートさんがとった方法はおかしいですよ。
奉仕精神から思いついたにしちゃ素直なやり方じゃないですよぉ」

「そうだな。どうしてそこまでしてテラートがカルバ村を救おうとするのか。その真意が見えないな……」

 ふと引かれるように水幕に目をやると、過去見に変化が訪れていた。

 ついさっきまで元気に動きまわっていたカリ・アセルの頬が引きつり、苦痛に歪んで苦しみ出したのだ。
ヘンに身体が震えて、見ているだけで音が聞こえそうなくらい膝が危うげに揺れていた。

 カリ・アセルが地面に弾むように倒れ込んだ。全身の震えが細かくなる。

 自分の身体を抱き締めようとしたのだろうか。
わずかに持ち上がったカリ・アセルの腕はぶるぶる震えていて、自由に動かせないようだった。

「どうしよう、シン……」
「オレたちは傍観者なんだ。すでに起きてしまった過去は変えられない。
だから、あんまり感情移入するなよ。おまえと彼とは時の流れが違うんだから」

 大岩の上で過去見を見ているぼくたちは、この現在(いま)を生きる存在でしかない。
カリ・アセルが五十年前に生きた存在である以上、助けたくてもどうにもならない。

──それはわかってる。でも、ただ見ているだけってのは辛いよ……。

 彼がこれからしようとしていることがわかっていて、それを止められないことがすごくもどかしい。

──確かに過去見は過去のみを映しだすものかもしれないけれど。
それでも、未来に続く道もぼくは見たいよ……。

 そして、ぼく、シン、ジェジェの三対の瞳が過去を映す水幕に集中していると、
「あそこだ! あそこにいるぞっ!」
突如、草と草の隙間を風が駆け抜けるような雑音を伴いながら、男たちの声がざわざわと遠くからいくつも重なり合って聴こえてきた。

──そうだ。ぼくの置かれた立場は何も変わっていなかったんだ。

 いまだ緊迫する現状に、緊張感が一気に我が身を襲う。

 ぼくの身体がぶるリ、と大きく震えた。
その震えが鎮まらないうちに、新たな危険の警告が発せられる。

「教授っ! 大変ですっ。村の人たちにルティエさんのことが漏れましたっ!
村の男たちがみんなしてこっちに向かってますっ! とにかく、ルティエさんを連れて早く逃げてっ!」

 テラートが胸を大きく上下させ、息を切らせながら、なりふり構わず駆け寄ろうと近付いてくる。
もがくように草を掻き分けてやって来る彼のその慌てぶりが、この現状をゆっくり閑談する余裕などまったくないのだと教えていた。

 息を切らしながら叫ぶ彼の背後に、村人の切羽詰まった顔が蟻の群れのようにたくさん集まってくる。

「危ないっ! 後ろっ!」

 とうとう、ひとりの男がテラートに追いつき、彼の腕を掴みあげた。
前のめりになったテラートの背の上に三人の別の男が覆い被さり、彼の自由を素早く奪う。

 男たちの先頭に、こちらを指差すムスタムの姿があった。
先導していたのは彼だったのだ。

「あそこだ! あそこに求めるべきオッドアイがいるぞっ!」

 大声で叫び喚いて、カリ・エラの恋人は顎に汗を滴らせながら、男たちを煽(あお)っていた。

「あいつっ! 恩を仇で返しやがったっ!」

 短く舌打ちをして、ジェジェが村人の勢いを止めようと駆け出した。
まずはムスタムの頬に拳を決めて、その身体ごと吹き飛ばす。
その身体は後続のふたりに向かって倒れ、仲間の身体を受け止められなかった男たちは自然と共倒れになった。

 その横たわる男たちのだらしなく伸びた身体を避けて走り寄ってきた別の男の腹にジェジェは膝頭を食い込ませ、くの字に曲がった上半身の背中を、両の手を組んで上から叩きのめした。

 だが、状況は厳しかった。
ジェジェひとりがいくら男たちをなぎ倒したところで、あとからあとから湧いて出てくる村人の足を完全には止めることは無理だった。

「ジェジェっ、目を閉じろっ!」

 業を煮やしたシンが、一角獣に放ったのと同じ光の球を作り出した。
直視できない眩しい閃光が一瞬とは言え男たちの足を完全に止める。

「ルティエ、こっちに飛べっ、早くっ!」

 シンがぼくに向けて手を差し伸ばした。

 この手をとって飛べ、と誘う──。

 だが、うしろに迫る男たちの気迫に慌てたぼくは、男たちに掴まりたくない一心から逃げたい気持ちが先立って、大岩を強く蹴っていた。

 気が付くと、ぼくはシンの手さえも振り切るように、泉めがけて飛んでいた。

「何をするっ! 止めさせろ! その泉は底無しだぞっ!」
「ああっ! 大切なオッドアイが……っ!」

 いくつもの絶叫が、ぼくの背を追いかけた。
続いて、シンの水の加護を要請する呪文がぼくを包むように飛び舞った。

 ぼくは水面にぶつかる衝撃を覚悟して目を閉じた。

 だけど。

 水の感触は一滴たりとも訪れなかった。

 その代わり、服の焦げる臭いが鼻についた──。





 閉じた瞼が赤く染まる。突然、胸に息苦しさを覚えた。
丸く身を抱え込んだ瞬間、ぼくの身体は投げ出されるように硬い地面に転がり止まった。

 目を開くと、依然として変わらない靄のかかった泉の幻想的な風景があった。
それなのに、投げ出された方向を振り返ると、あるはずのない焚き火のうねる炎がそこに存在していた。

 炎の向こう側には、さっきぼくが飛び下りた大岩があった。

──シンたちが追っ手を遮ってくれたんだろうか?

 だが、その疑問は瞬時に消えた。

──ぼくの足下に誰かが倒れている?

 それは見たことがある風景だった。
そこに倒れていたのは、確かに見知った人の子だった。

「もしかして、カリ・アセル……?」

 横たわっていたのは全身を細かく震わすカリ・アセルの実体だった。

──これは過去見で見たあの場面と一緒だ……。でもあれは映像だったはずで……。

 わけがわからなくて、頭の中が混乱した。

「シン、どこっ? ぼくを追ってきた村人たちはどこに消え……」

 周りを見渡しても、シンやジェジェ、追っての男たちの姿は人っ子ひとり見られなかった。

 小鳥の囀りが頭上から聞こえた。風が葉を揺らして、乾いた音を立てながら逃げてゆく。
虫が水面に落ちて、幾重にも水面に波紋を描いた。
ゆらゆらと木漏れ日が動いて、柔らかな陽の光が足元を斑模様に照らしていた。

「まさか、ここは過去……?」

 シンの過去見によって映し出された過去の世界。それが実在となって、ぼくの存在を許していた。

──どうしてこんなこと……。

 早くなる鼓動に、落ち着け落ち着けと言い含ませながら、ゆっとりと記憶を振り返ってみる。

「確か、ぼくは泉に飛び込むつもりで過去見の焚き火の中に入ったんだ……」

──それが悪かったのだろうか。過去の時間に割り込んだのは必然か?

 こんな状況になってしまったのに、いつの間にか胸のドキドキがおさまっていた。
結構、冷静に判断しているなぁ、と自分のこの落ち着きようがとても不思議だった。

──とにかく、何かしないと。

 今、すべきことは何か。
そんな毅然とした意識がいつの間にか涌き立ち、大きく育ってぼくの心を占めていた。

「うう……、くっ……」

 うめき声にはっと振り向く。
すると、苦しみながらも驚愕の視線を投げるカリ・アセルと目が合った。

──そうだっ。まずは、彼の容態を診なきゃ!

 自分にできることは思った以上にたくさんあるようだった。

 散らばった薬草の中から、鎮痛、解熱の作用のものを掴み、手早く指で刻んだ。
カリ・アセルに細かく刻んだ薬草を飲ませ、ぼくとほとんどかわらない体格の彼をやっと背負って彼の家に運んで行く。

 次に、ぼくは過去であるこの世界の秩序を乱さないよう、人前に出るのは極力控えた。

 夜、暗くなってからの外出はこちらの姿が闇に紛れるのはありがたいが、目的の物を見つけるために結局、
灯りを点(とも)さなければならないので、かえって目立ってしまうことになる。
だから、薬草や食料になりそうな木の実などを捜しにどうしても外に出なければならない時は夜明け前の一刻に出掛けるようにして、それ以外はカリ・アセルの看病に徹して、できるだけ家の中で過ごすようにした。

 五日を過ぎる頃になるとカリ・アセルの発熱もやっと下がりだし、それに伴って彼の表情も和らいだものとなった。
全身の痛みもほとんど治まったようで、時折、笑顔も見られた。
順調な回復に、ぼくもようやく肩の力を抜くことができた。

 起き上がれるようになるほど、カリ・アセルの病状が落ち着くと、
「絶対、ほかの村人に、きみの存在を知られちゃだめだ」
彼はぼくの考えとは違う理由で、ぼくに外出禁止を言い渡した。

「ルティエ、きみも鳥籠に押し込められたくはないだろう?」

 何度も「誰にも内緒だ」と説く彼の理由。

 それが、この村に染みついたオッドアイ依存症による左右異色の瞳への利己的な固執と執着だと容易に察しがついたので、
「わかってる。ぼくがここにいることは誰にも知られちゃいけないんだ」
彼の助言にぼくも素直に頷いた。

 加えて、カリ・アセルは、
「早くきみのいるべき場所へお帰り。ここにいられたら迷惑なんだ」
決まってぼくの瞳を見るたび、そう繰り返した。

 迷惑なんだと言いながら、寂しそうに彼は笑う。だから、ぼくは言葉に詰まる。

 ぼくがここでどうこう言ったところで、彼が決めてしまった運命をもう変えることはできないのだろう。
すでに起こってしまった未来を知るからこそ、それは骨身に染みている。

「これからカリ・アセルがやろうとしていること、ぼく、知ってるんだ。
村の人たちに反省するべきところがあるのは確かだけど、それでもやり過ぎはだめだと思う。
よく考えて、カリ・アセル。このままでは犠牲者が増えるばかりで反省する余裕すらなくなってしまうんだよ」

 彼の遠縁にあたるカリ・エラの事実上の身売りにしたってそうだ。
それですら貧困の結果が生み出した哀しい選択にほかならない。

 それに、苦しいのはカリ・アセルも同じはずなんだ。

──ずっと慈しんできた故郷が寂れてゆく……。
そんな移り行く姿を、本当にぼくと同じその瞳で見続けるつもりなの?

「他人の心配より、自分の心配をしたらどうなのさ。ルティエ、きみだって眠れる卵なんだろう?
私のようになってもいいのかい? 二度目が訪れたらもう引き返せないよ?
好きな相手がいなくても、一応、性だけでも選んでおいたら?」
「そんな……! 一応だなんて。軽い気持ちでなんか選べないよ。
カリ・アセルだって、だからこそ選べなかったんだろう?」

「選んでいたさ。男になろうと思ってた。けど、その必要がなくなっただけだ。
彼女も含めてみんながみんな、自分のことだけしか考えてないんだ。
それなら、私だって勝手にしたっていいだろう? お互いさまさ。
この気持ちは本気で惚れたことがないやつにはわからないよ。残された者はどんな理由でさえ辛いんだ」
「残された者……?」

 そう、ぼくも残された者だった。
ぼくからの申し出とはいえ、シンが婚約解消をすんなりと受け入れ、学びの塔に旅立ってしまった時はとても辛かった。

 嫌いになって別れようとしたんじゃない。
ぼくがぼく自身を、そしてシンの心を信じられなくて……。

 オッドアイの力で振り向いてくれても嬉しくない。

 素のままのシンの気持ちがほしかった──。

「ぼく、好きな人……、いるよ。残された気持ちもわかる。だから、カリ・アセルは孤独じゃないよ」

「性の選択もしてないやつに言われたくないね。
だいたいオッドアイは人の子を伴侶にするには不向きなんだよ。
私が知っているほかのオッドアイの場合、ひとりは同じオッドアイを選び、もうひとりは精霊王を伴侶にしていた。
オッドアイの呪縛とオッドアイの存在自体によって生じる疑心暗鬼の念。
このふたつに耐えられる人の子は少ないだろうからね。ふたりの選択は妥当だと思うな」

「何をわかったつもりでいるの。カリ・アセルは人の子に恋をしたこと後悔しているの?
そうじゃないでしょう?
ずるいよ、それ……。オッドアイの力が忌むべきものかどうかは、受け止め方次第だ。
ぼくはそんな力、ずっといらないものだと思ってきた。
けど、カンギール王子の想いを知ってしまった今は、そうじゃないと思えるようになったよ。
彼はぼくたちに『どんな相手を好きになっても想いをとげられる可能性』を与えたかっただけなんだ。
カンギール人が未確定の性で生まれてくるのもそのため。
彼はウル・ゲルを愛するように、ぼくらを愛しんだんだよ。
カリ・アセルだって本当はわかっているんでしょう?」

「性を決定する勇気もない奴に私を責める資格はないさ。
偉そうな口を利く前に眠れる卵から孵ったらどうだい?
ルティエだって、いつ『一度目』が来るかわかったもんじゃないんだから」
「カリ・アセルだって今なら間に合うんだろう?
二度目の発熱が来る前に男性化を選べばいいじゃないか」

「簡単に言ってくれるね。
女性化だったら性交渉をすれば即効性に女性化するっていう手を使えるが、男性化の場合、自分の心理的な選択のみに限られてしまう。
それに多分、そんな時間は私には残されてないさ。『二度目』はすぐ来るんだから。
もしかして、ルティエ、そんなことすら知らなかったのかい?」

 カンギール人の男女比は、いつの次代も女性化のほうが多かった。
それは女性化しやすい利点があったからだ

 数の減少が貴重価値を高め、需要があるために人身売買という供給手段が根付く。
そうして扱われたカンギール人は女性化する者がほとんどだ。

 以前、ロザイの父もぼくにこぼしたことがあった。

『眠れる卵の状態でほしがる客の分を除いては、すべて強引に女にしてしまうのだよ。
かわいそうに、心身の自由だけでなく、性の選択権さえ奪われてしまうのだ。
──おまえは運が良かった。幼かったから助かったのだ』

 ぼくはずっと女になりたかった。シンが男だったから、女でないと意味がなかった。
だけど、シンと婚約を解消したあと、ぼくは男にも女にもなりたくなかった。
女性化すれば、きっと父はシン以外の男性を連れてきてしまう。

 男性化は、内乱の種になる可能性を持つため、ぼくには絶対に許されなかった。
何よりも、シンを諦め切れないまま、ぼくが男性化するはずがなかった。

 自分のことを、「ぼく」などと呼ぶようになったのも、それに起因する。
女性化を食い止める、ささやかな抵抗だったんだ──。

 笑ってしまえるほど、それくらいしかぼくにできることはなくて。
ぼくは縋るように、「まだ女性化しちゃ駄目だ」と自分自身に言い聞かせてきた。

 シンのいない間に女になるのだけは嫌だった。
シンと生きてゆく未来への可能性を完全に断ち切られるのが怖かったのだ。

 ずるいのは、ぼくだ。
いつだってシンを手放したくないと思っていたのだから。

「早くお帰りよ。好きな相手がいるんだろう?
どんな相手でも力を使えば手に入らないことはないんだから」

 それは、力を使ったために別れることになったぼくにとって、ひどく酷な台詞だった。

 これだけは言える。
カンギール王子の願いの中でオッドアイの神力だけは余計な産物だった。

──性の選択の自由だけで十分だったはずなんだ。あとはそれぞれの努力に任せればよかったんだ。

 なまじ力があるからこそ駄目になる場合だってあるのだから。
そう、ぼくのように。

「たとえ、シンの心が手に入らなくても……、もうシンに力は使わないよ。ぼくはそう決めたんだ。
それに信じてるんだよ。絶対、シンならぼくを探し出してくれるって」

 銀の使徒の記憶の中には過去を渡る方法は刻まれていなかった。
だから、ぼくはただ待つしかなかった。

 けれど、こんな不安定な時なのに、ぼくはすごく嬉しかった。

──シンなら何とかしてくれる……。

 そう素直に信じられるのが。





 一月もしないうちに、その時がやってきた。カリ・アセルに「二度目」が訪れたのだ。

 一度目と同じように、発熱と全身の痛みで彼は五日間苦しんだ。
熱が引いた時、彼はしばらく惚けて気力を失っていたが、そのうち「それ見たことか」とぼくに再び催促した。

「これで私は眠れる卵のまま生涯を終えると決まったわけだ。さて、ルティエはどうするんだい?
私と一緒に殉じるかい?」

 その時にはすでに、はっきりと自信を持って、ぼくは首を左右に振ることができた。

「ぼくは女性化を望むよ。シンがぼくを待っててくれるなら、ぼくは何年かかろうと女になるよう努力するよ」

 はにかむぼくに、カリ・アセルは初めて満面の笑顔を返してくれた。

「ルティエが決めたのなら、それでいいんだよ。
──ああ、ちょうど迎えが来たようだ。さあ、お行き。きみはきみの道をゆくがいい。
私は私の選んだ道があるのだから」

 カリ・アセルの指した先を見ると、真新しい水瓶が置かれてあった。
その水瓶の模様には見覚えがあった。
カリ・エラの家──つまり、この家で、テラートを呼び出したりするのにシンが使用した、あの時の水瓶が確かにこれだった。

 その真新しい水瓶の中になみなみと汲まれた水が震えている。
じっと見つめているとだんだんと水面が光を帯び、水面に接した大気がずっと聞きたかった声を届けてくれた。
今では懐かしささえ感じる、ちょっと強引な、そのくせ甘く聞こえる恋しい声。

──まさか、これは……。ああ、シンの声だ。シンの声が聞こえるっ!

「ルティエ、聞こえるかっ? 今、過去見をしながら時の開放を試みているんだ。
早く、オレの手が取れたら掴まれっ。すぐ引き出してやるからっ!」

 水瓶を覗き込むと、テラートの時と同じようにシンが水面に手のひらを当てていた。
ぼくは決意をして、その大きな手に手のひらを重ねてみた。

 咄嗟に、哀しい運命を選んでしまったその存在を思い出して、カリ・アセルのほうを振り向くと、
「お行き。きみの帰るべきところへ」
互いのオッドアイの視線を絡み合わせて、彼は綺麗に微笑んでくれた。

 ひとつ大きく頷いて、ぼくは早口に、希望という名の確かな約束を結ぼうと急(せ)く。

「また会えるからっ。その時はきっとぼく、女性化して……」

──ああ。言葉を最後まで紡げない……。

 そうして、シンに腕を引かれるまま、ぼくは水瓶の中に身を沈めた。

 ぼくの言葉が彼にちゃんと届いたのかはわからない。
けれど、カリ・アセルが、そうだね、とふわりと笑ったのがとても印象的だった──。





 希望は確かにぼくの中に息衝いている。

 あの時も。今も。ずっと。





 カリ・アセル……。

 ぼくはちゃんと女性化して、いつかきみの前に立ちたいよ。
それにね、男性化したカリ・アセルにも会ってみたいな。

 きっと、ぼくらはお互い慣れない姿にくすぐったくて、くすくす笑っちゃうだろうね──。






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