眠れる卵 vol.12



 大岩の上にぼくを残して、シンはひとり、ごつごつした岩の壁面から滑り落ちるように泉へと足を踏み入れた。

 水辺近くに生えている中でも特に老いた木を選び、人差し指と中指で軌跡を描くと、シンは水精の助力を得て過去見を始めた。

 情報を能率良く得るために、気の乱れた時間を抜粋して映しだす。
それはカリ・アセルの心の動きそのものであり、彼の恋のあらましだった。

「水温のせいもあってか、昔っからここらには珍しい薬草が多く生息していたようだな」

 今、シンが過去見の力を発動させて、水精の張った薄く透ける水幕に映し出しているのは、薬草を摘むカリ・アセルとその恋人の姿だ。

 互いに好意を持ち始め、告白にいたって抱き合うふたり。
カリ・アセルの表情が村の重圧に憂いた緊張の面持ちから、優しく温和な顔に変化してゆくのが見て取れた。

 ぼくらは彼の時間を──彼の生涯を、ただひたすら追っていった……。



 だが、突然、それは訪れた。

 カリ・アセルとその恋人の過去の中のふたりが深刻に話し合う場面になったところで、突如、画像がぶれたのだ。
水膜に波が立ち、虫食いのような穴が目立ち出す。

「もしかして、風が吹いてる……? 結界が破れたの?」
「あれを見ろ。空間の歪みが見えるか? 結界に小さな穴が開いたようだ」

 結界の外へ通じる穴。そこから、過去見の映像目掛けて、渦を巻きながら風が押し寄せた。
その風力は凄まじく、水膜が今にも裂けそうなほど振動している。

 即座に、シンが水精の加護を強めて補強しにかかった。

「なんて風だ。一心不乱に水膜を狙ってやがる。
ルティエ、向こうは余程、オレたちに過去を見せたくないらしいぞ」
「じゃ、いったん過去見を中止する?」

「次回を許していただけるか疑問だね。こうも波を立てられたんじゃ次も難しいだろう」
「だったら、この風で過去見をしよう」

「向こうの支配下にある風精たちが素直に協力してくれると思うか?」
「でも、あともう少しで糸口が見つかりそうなのに……」

「仕方ない……。
生命を運ぶ風の子らよ、月詠の車輪を宿す我が請う。
ここに舞い降り、そなたらの主の名を我にあらわせ。いざ、我が声に応えん」

 渦を巻いていた風の勢力が、一瞬緩んだ。小さな風の精霊が、ふわりと渦から抜け出して消える。
そのあとを追うように、瞬く間にふわりふわりと風精の子たちが少しずつ渦の形成を放棄していった。

 風の束は拡散し、徐々に崩壊へと突き進む。

 だが、そこに第三者の声が届いた。

「かの月詠の御方の雫を受けし魔導師よ……。小さき子らをいたぶるでないぞ。
そなたの射干玉の月詠の輝きはこの子らには眩しすぎる」

 完全に風精が散った矢先、抑揚のない声が泉の向こう岸から聴こえてくる声に、ぼくらははっと身構えた。

 声のした方向に顔を向けると、雑草から見え隠れする白い蹄が、ぼくらの視線を釘付けにした。

「まさか、一角獣……?」

 一方、シンが張った水膜は風の渦が霧散したあと、再び鮮明な映像を映し出した。
風精に比べて水精の助力による過去見は、曇った低音しか聞こえない、はっきりしない音声がぼそぼそと聞こえるに止どまる程度で、明瞭な音声を望めないのが欠点だった。

 だが。

「──思い知れ。おまえたちの堕落した心がおまえたちを苦しめるのだ……」

 この呟きは常識を逸脱して、ぼくたちの耳に明瞭に響いた。

 誰に向けられたものなのか、それすらもわからないその言葉の明瞭な音質が、これは過去見によるものではないことと、この声の主をぼくに教えてくれた。
 
 不思議な淡い緑の霧の中で、穏やかに話しかけてくれたカリ・アセル。
今、この声の中にあの時の穏やかさはない。

 けれど、これは確かに、淡い緑の霧の中で会った彼の声に間違いなかった。





 蹄(ひづめ)を地面に二度叩き付けた一角獣の表情は、怒りで興奮したものには見えなかった。
ぼくには、どこか辛そうで、何となく気分が沈んでいるような、そんな様子に見えた。

 対して、一角獣のほうは前だけを、シンだけを一心に見て、何度も何度も、首を振っていた。

 そして、シンがゆっくりと泉に近付こうとすると、態度を一変して、一角獣はその前脚を一度高く上げ、地面を蹴った。

「才ある魔導師よ。これ以上の深入りは望まぬ。その神眼の者を連れて即座に去るが良い。
さもなくば我が力を解放し、その身の保証は致しかねよう」

 腹の底から絞りだしたような一角獣の低い声が、天敵を前に威嚇する野生の動物の唸り声のように聞こえた。
その低く響いた聖獣の声にひるむことなく、シンがまた一歩、身を乗り出す。

「本来、一角獣は人の子への干渉を好まない種族なはずだ。
その一角獣であるおまえがこの村に結界を張ったというのか?」

 ところが、シンが問いを投げかけた途端、一時凪いでいた空気が、ゆらりと揺れて張り詰めたものになった。

「その問いは我が申し出への拒絶となす。そなたがその気なら──」
「ちょっと待てっ、少しくらい話を……」

 聞く耳持たぬ、とはこのことか。

 一方的に話を打ち切った一角獣は、泉の水を高々と噴き上げて、シンに向かって放物線を描いた。

 不意を突かれたシンの痩身がくの字に曲がって水を受け止める。
だが、よろめき片膝をついた魔導師も負けてはいない。次々と早口に呪文を編み始めた。

「清洌なる泉の精よ。その身に抱く熱を高めん。照る陽の五角陣において、我は呼ぶ。
浄化の炎よ、凍結の炎と化し噴水を砕け。──風よ、贈り物だ。主に届けよ……。行け」

 それはとても美しい光景だった。
噴き上がった泉の水が熱をおびて蒸発し、青い炎がその水蒸気を氷結の温度まで一気に下げる。
そうして作られた氷の粒子を、風が緩やかに吹き散らしながら舞うように運んだ。

 きらきらと光を反射して輝くそれは、まさに幻想的な美しさでぼくを惑わす。
一角獣さえもシンの命に健気に働く風を責めもせず、木陰に隠していた白い身体をぼくらにさらして、その光景に魅入ったのだった。

「火精をこのように使うとは……。魔導師よ、そなたは希有な発想をすることよ」



 一角獣とシンのやり取りをよそ目に、過去見はカリ・アセルの日々をめくり続けた。

 この時、焚き火をくべるカリ・アセルのうしろ姿がちょうど水膜に映し出されていた。
カリ・アセルは書物や薬草をその炎の中に無造作に放り投げ、身辺整理をしているようだった。
温泉に集まる兎や山鼠の動物たちの遠目に見守る微笑ましい情景などは、彼の眼中に入っていないらしい。

 カリ・アセルは無表情に黙々と小枝を集め、くべていた。

 動物たちが急にくいっと首を上げた。
一頭の白い馬が泉に足を踏み入れたのだ。
白いたてがみは長く、立ったままでも毛先は水面に届くほどだ。額に飾る銀の角は、螺旋を描いて天に伸びていた。
その銀の角で水を掻き上げ、何度か虹を作って興じる姿が素晴らしく美しい。

 水音を聴き止めて顔を上げたカリ・アセルも、一角獣の美しさに大きく目を見張っていた。

 カリ・アセルが何事か、その美しい馬に声かけた。
一角獣がそれに素早く反応する。
一瞬、時間が止まったかに見えた。

 今、この時、神聖なる契約が結ばれた……。

 そんな美しい出会いが、時を越えて水幕の中で繰り広げられていた──。



「生涯の純潔が契約条件とはなぁ。なるほど、一角獣がもっとも好む条件だ。
一角獣が手の内にあるとなれば、風の制御をここまで完璧に行えたのにも納得がいく。
風と水は本来、月の属性を抱くモノだ。つまり、月詠に属する白き聖獣が得意とするところなわけだ」

 過去見に映るカリ・アセルと一角獣のやり取りから、シンは、どうして一角獣がカルバ村の件に介入することになったのか、その根源にどうやら思い至ったようだった。

 お世辞にも良いとは言えない水幕の過去見のこんな音質では、ぼくにはカリ・アセルが何を言ってたのかさえわからなかった。

 なのに。

「シンにはどうしてわかるんだろう……?」

 ぼくにはすごく不思議だった。

 それに、ぼくは何気なく呟いたつもりだったのに、シンのほうはぼくの言葉をしっかり耳に入れていたようだ。
この緊迫した状況下にありながら、心臓に毛の生えたこの魔導王子は、にやりと笑ってわざわざ説明してくださった。

「唇の動きを読んだんだ」

──なるほど。

 などと、つられてしまって、こっちまで緊迫感が欠けてゆく。

「一角獣の真名を手に入れて最後の詰めをする、か」

 それでも、すっ、と表情を引き締めると、シンはこれから打つべき手段を講じた。
締めるところは締める。それがとても彼らしかった。 

 その、気を集中しかけたシンに向けて、
「魔導師よ……」
一角獣が声を発した──その時、だ。

 過去見の中のほとんどの音声がぼそぼそとぼやけて良く聞こえないのに、過去のカリ・アセルが呟いた一角獣の真名だけが、なぜだかはっきり聞き取れたのだ。

──ラインアーロゥ……?

 白い獣の真名はシンにも聞こえたようで、シンは「しめた」と短く歓喜の声を漏らした。
そして瞬時に、舌を転がすようにその名を呟く。

 途端、一角獣が慌てたように言葉を紡いだ。

「大気に紛れた水よ、魔導師の腕より逃れ、我がもとに集まれ」

 一角獣の声に呼ばれ、水幕を形成していた水が即座に反応を示すかに思われた。
が、いつまで経っても水膜に変化は訪れない。

「主である一角獣の真名をほかの奴によって紡がれたんだ。水精が誤解してもおかしくないさ」

 一角獣はすでにオレの支配下に置かれてしまったとな、とシンが口元に薄く笑みを浮かべた。

「シンが呟いた角獣の真名が水精を混乱させたってこと?」
「真名そのものを手に入れずとも、正確な発音を発せさえすれば、多少なりともその本質に影響が出るってことさ」

 だが、一角獣は諦めずに次の手段に移ろうとしていた。
次の瞬間、離散した風精を集め、態勢を整えようとする。

 だが、それを指をくわえて待っているシンではない。
即座に、両手いっぱいの大きさの、密度を高めた光の精霊の球を、宙に舞う氷の粒子にぶつけたのだった。
無数の粒子に無数の屈折を繰り返し、爆発の閃光が、七色のガラスが弾けるように一瞬にして四散する。

 咄嗟にぼくは目を覆った。
それでもその照明弾のような爆発の残像は、ぼくのまぶたの裏側にしばらくちかちかと残った。

「急にこんなのっ! シンったら何を考えてるんだよっ!」

 ぼくは咄嗟に苦情を吐いたのだが。

 ぼくの声は緊迫したふたりの耳に届くことはなかった。
ぼくの声を揉み消すように第三者の声が介入したため、彼らはそちらに気がそれていたのだ。

「目立つことしてますねぇ。ホント、探す手間が省けるっつーか。いったい何やってるんスかぁ?」
「え? その声……。もしかして、ジェジェ?」

 点滅する残像から復活したぼくの視界に、ジェジェの赤毛がくすんで見えた。

「そうッス、っていうかっ、うわっ! い、一角獣じゃないっスかぁ。初めてっス。感激ですぅ」

 遅れて、白い聖獣に気付いたジェジェが、感涙極まりなく興奮の歓声を上げた。
すごいすごい、と歓喜するジェジェの興奮状態は、この空気が張り詰めた状況にまったくそぐわなかった。

 そんな鈍感な赤毛の闖入者に対し、最初のうちは一角獣も無視を決め込んでいたのだが……。

「ぜひ、ひと撫でたりとも触らせていただきたいですぅ」

 好きな男を前にして恥らう乙女のように頬を上気させながら、胸の前で両の指を絡めてお願いポーズをするジェジェのこの一言には、さすがに一角獣も悪寒を隠しきれなかったのか、
「魔導師よ、契約遂行の邪魔立ては控えてほしい。我は強く願うぞ」
軽く尾をはたいて、逃げるように──それでも悠々と、ぼくらに背を向けた。

 一角獣の気高さは去り際でさえ微塵の崩れも許さなかった。

 そして。

 そんな一角獣に向かって、シンはぽつりと小さく呟く。

「美しいもの、無垢なものを好むおまえのその嗜好……。
姿形の外見ではなく内面の美しさに食指を伸ばしてほしいんだがなぁ」

 それは、ぼく自身の胸に響いた、とても印象に残る言葉だった。

 ぽとんぽとん、と泉の岸辺に落ちたようなその言葉。
もし、シンじゃなくほかの人の子の口から出されたものであったても、ぼくにとってはそれはとても意義あるものだったから、その言葉が聞けただけで嬉しかった。
けれど、その言葉をシンが言ってくれたという付加まで付いて、ぼくはますます胸が熱くなった。

──シンは、オッドアイという強い光に隠れそうになるぼくという個の存在を、きっとみつけてくれている。

 そんなふうに思えることができたから。
それだけでとても嬉しかった。

 そうしてぼくら三人は白い姿が完全に見えなくなるまで、いつまでも一角獣を見送った。

「しっかし、一角獣を触りたいだなんて無茶を言う奴だな。
ジェジェのあのたった一言で追っ払えられたんじゃ、対戦させられていたオレの立場がないだろうが」
「ワタシが御邪魔したとおっしゃるんで?」

「男のおまえに触れられでもしてみろ。一角獣ってのはな、その存在が無に帰(き)するんだ。
こんな時、無知ってのは暴力だとオレはつくづく思うぞ」

 そんな会話の間にも、過去見の映像は続いていた。

 水膜の中の在りし日の一角獣もまた、この過去の時間の泉から去ってゆくところだった──。



 結界の糸口は一角獣にある。
すでにぼくらははっきりとそう悟っていた。

 それに、かつてこの泉で一角獣の真名を得たカリ・アセルの、あの過去見で映し出された白いうしろ姿を見送った時の彼の表情が、ぼくらの予想を確信に変えた。

 カリ・アセルは、手に入れたばかりの美しい駒の使いように思いを馳せ、薄くほくそ笑んでいたのだった。
それはイタズラを企んだ子供が浮かべるような、何かを予感させるような笑みだった。

 そして、消え行く寸前、水幕の中のカリ・アセルは、大きな口を開けて笑いながら、涙を幾筋も流していた。

 涙が頬を辿って顎を濡らして、ぽとりと落ちる。
ぽたぽた、と落ちる涙はすぐさま地面に吸い込まれていった。

 あの涙はいったい何を意味していたのだろうか?

 カリ・アセルは嬉しくて泣いていたのだろうか?

 それとも……。






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