眠れる卵 vol.11



 銀の使徒の記憶が、ぼくの胸を熱くする。

 ぼくにこれらを見せた意図はどこにあるんだろう?

 スィヴィルの真意が見えない──。



「我が手に宿りし過去見の剣よ、我が呼び掛けに応え、ここに在れ。──去留剣(きょりゅうけん)!」

 かすかに聞こえたジェジェの声にまぶたを開けると、真っ先にシンの心配そうな顔が飛び込んできた。
余りにも間近に迫る綺麗なそれに、切なさが込み上げる。

「ルティエ、気がついたか。良かった……」

 額にかかるぼくの前髪を払いながら、シンは深く息を吐きながら呟いた。

「ぼく、戻ったのか……。あ、どれくらい意識失ってた……?」

「気を失ってたのは正味半時ほどだ。
それよりおまえ、家の中に飛び込んで来たと同時に気を失って倒れるもんだから、心配したんだぞ。
髪がもとの色に戻っているし、いったい何があったんだ?」

 何から話したらいいのか。
さっきまで、ぼくは物質的な器である身体から離れ、スィヴィルの表層意識に触れていた。
たくさんの想いが交差した長い長い「時」の歴史を駆け足で駆け抜けたのだと、脳裏に息衝く記憶の重さが頭痛となって証明している。

 ぼくを襲う多くの残像──。

 シンの繊細な容姿が、愛しい者の亡骸を涙を溜めて抱き締めた哀しいかの人を思い出させた。

 どうしてだろう……。
黒い髪、頬の線、形の整った顎。そのすべてがカンギール王子を彷彿させる。

 だが、さらに記憶を辿って、かの古の王子の容貌を想い浮かべると、もっと酷似している人物に思い至った。

──彼は、シンよりも、むしろスィヴィルに似てるんだ。

 聖なる者と銀の使徒──彼らが同一人物でないとわかっていながら思い違いをしてしまいそうなほどに、髪や瞳、肌などの色彩はともかく、その容貌はうりふたつだった。

「聖なる者……カンギール王子……?」

 呟きが大気に溶ける。

 あれからの彼の行く道は、ウル・ゲルの死の影響を強く受けていた。
ふたりの別れを思うだけで、切なさが込み上げて胸が痛む。

「何で泣くんだ、おまえ」
「ごめ、ん……」

 ぼくがカンギール王子の立場だったら、と思うだけで怖くなった。
半身を失う哀しみを想像するより先に、悪寒が背筋を駆け上る。

──彼のようにはなりたくない……!

 そう思う一心で、古(いにしえ)の呪縛を振り切るように顔を上げた。

 すると、真剣な面持ちで意識を集中しているジェジェの姿が目に留まる。

「……っと、ちょっと待って。ジェジェって初級魔法さえ使えなかったはずじゃ……?」

 赤銅色のジェジェの左の手のひらに、白い十字の傷が浮かんでいた。
信じられないことに、その傷跡から銀の剣柄が現れる。
柄の中央に掘られているのは、「再生」の車輪──月詠の紋章だった。

 月詠の紋章を手のひらで覆い、ジェジェの右手がそれを引き抜くように取り出した。
青白く冴えた幅のある長剣が、赤毛の勇ましい体躯の剣士の手に握られた瞬間、妖しく閃光を発する。

──こんな大技を隠していたのなら、どうしてシンはジェジェのことを、ああも馬鹿にしていたのだろう。

「ちょうど過去見を始めるとこだったんだ」
「過去見? ジェジェがするの?」

 過去見や先読みの古代魔法は、射干玉の月詠の民の力の片鱗によるもの──と、今のぼくには知識がある。
「恒久」そして「不変」の陽の標(しるべ)である不死鳥の足を象る五角陣に対して、回る車輪は満ち欠けを繰り返す月の輪廻の意を持つ。

「意外そうだな。
まあ、あいつの場合、神聖魔法も精霊魔法もからきしダメなのに過去見だけは適性持ってるっていう珍しいタイプだからな」
「初級試験、すごく落ちたってジェジェ言ってたよ。
過去見なんてすごい特技持っているのにどうして落第するんだろう……?」

「過去見だけできてもなぁ。ジェジェが塔に来たのは確かに過去見の才を買われてだけど。
方向性がいかんせん大ざっぱというか、全然使いモノにならなくてな」
「でも、あの剣……」

「ああ。あれはオレが古代魔法の研究をしてた時に好意で造ってやった依りしろだよ」
「ルティエさまぁ、お間違えなく。純粋な好意からじゃありません。恩を売るつもりで、ですよぉ」

「うるさいな」
「図星でしょ?」

──ふたりとも、全然、緊張感がない……。いいのかな。こんなんで過去見って本当にできるのかな?

「去留剣はジェジェの過去見の力を吸収し、一定方向に放出する。
ついでに増幅装置の役割も兼ねてるから、あいつはあれで二百年くらいはイケるんだ」

 気を取り直して、ジェジェが去留剣を肩に構えた。
色褪せた木目の浮き出た柱目掛けて、大きく弧を描く。

「其の記憶、我に解放せん。五十五年前の在りし日をここに。再現!」
「水精よ、さざ波の幕を張り、記憶を映せ」

 ジェジェの剣の軌跡に続いて、テラートの呪文があとを追う。

 部屋の空気がピリリと震えた。

「この気──以前より鋭くなってるな。それにこの感じは……。なるほどね」
「シン、何……?」

「いや。それより、過去見だ。ジェジェにしてはいい対象を選んだようだな」
「あの柱、相当年期がいってそうだね」

「古木ってのは記憶を大事にしてるからな、見やすいんだ。
ほら、テラートが張った水膜にこの家の過去が浮かんできたぞ」

 過去見は、水か大気の助けを必要とする、とシンが説明してくれた。
今回は風精が現れないので、薄い透明なカーテンのような水の幕を部屋を横切るように張り、そこに過去を投射する方法をとったようだ。

「映しだすのにも音を発するのにも『波』がいる。
風や水の精霊の加護を得られないジェジェは、つまり、ひとりじゃ過去見ができなってことさ。
ったく、本人が抜けてるからこのありさまだ」
「言い過ぎですよ、教授」
「いつだって意地悪なんですよ、この方は。心広ぉーく、ワタシが我慢するしかないんですぅ」

「阿呆か。オレが寛大だからこそ、おまえは過去見ができるんだろうが。
減らず口きくならその去留剣、今すぐ返せ」
「そんなあ、ちゃぁんと分割払いで返済中じゃないっスかぁ」

「まだ半年だろが。あと九年と少し残っている」
「地獄の日々ですぅ」

「何かモンクあるのか?」
「いえ、ワタシの口は貝となりました。何も申し上げることはありませんっ」

 魔導師の助け手の条件に、水の精霊魔法の使い手を挙げた理由がこれでわかった。
ジェジェの不完全な過去見の補足も兼ねていたのだ。

「なら、それこそシンが手を貸せばいい話じゃないか」
「何だ、急に」

「どうしてシンが、ジェジェの加勢をしないんだろうって話」
「二手に分かれて見たほうが早く済むだろ? 過去見はそのモノが記憶した映像しか引き出せないんだ。
二手に分かれて多くのポイントを攻めたほうが過去の出来事の流れが掴めるだろが?」

「ルティエさま、この家はもともと例のオッドアイの住まいだったそうですよ。
彼は──ほら、あそこの……、カリ・エラの祖母の実兄だったそうです」

 ジェジェの視線の先に、黒髪に白いものが混じった老女がいた。
小柄な老女のかたわらに、寄り添うようにカリ・エラが座っている。
ふたり並ぶと目や鼻の形が似ているのが知れた。

 カリ・エラの祖母と呼ばれた女性が、緊張の表情を崩さないまま、ぼくに向かって簡単な会釈をした。
でも、彼女の関心の多くはぼくにではなく、テラート、もしくは、彼の張った空中に浮かぶ水幕に向けられているようだった。

「さ、行こう。オレたちは別の場所で過去見をするぞ。時間は有効に使わなきゃな」
「ジェジェのほうは見なくていいの?」

「ある程度の情報を集めてから、それぞれ持ち寄って話を詰めたほうがよさそうだ。
それに、おまえに話があるしな」

 部屋から出るシンの背を追って一歩踏み出した……のだが、ぼくは何気なく水幕を振り返った。

 揺らいだものから、焦点の合ったものへ──。

 薄い水幕は、あたかも大気に溶けているかのように「水」を感じさせない。
この部屋の五十五年前の姿が当時のまま、映し出されようとしていた。

 部屋の中央の空間に、過去の時を生きていたふたりの人の子の姿が、まるで現在(いま)を生きているかにように、今ここに蘇っていた。

 ひとりは、二十代半ばの豊満な肉体を持つ女性だった。
ほとんど露出のないぴったりと張り付くような衣装が、成熟な肢体を、より妖艶に引き立てていた。
わずかにのぞく赤銅色の手首。動物の皮を鞣(なめ)して造った手袋の指先が青汁で染みていた。

 背には藤の籠を背負い、籠の中には溢れるほどの雑草が摘まれている。
彼女は肩に掛かる赤茶の髪を無造作にかきあげ、腰に下げていた短剣と共に、籠を床に降ろそうとした。

 それを手伝おうと、もうひとりが駆け寄る。うなじを隠す揺れる乳白色の髪。
この方向からは見えないが、きっとぼくと同じ瞳をしているに違いない。

 きっと、彼がここに住んでいたカンギール・オッドアイだ。
相手の女性の大柄な体躯と比べて、頭ひとつ分ほど背が低かった。

 籠に摘まれた雑草は、目を凝らしてみると薬草だと知れた。
彼が屈んで多くの中から紫炎草だけを選ぶ。それを赤茶の髪の女性に渡していた。

 紫炎草はその紫色の花弁を煎じると、強心剤、気管支拡張剤の効果が得られる。
そう、スィヴィルの知識がぼくに囁いていた。

 そうこうしているうちに、背を向けていた彼が立ち上がった。

 こちらに歩み寄ろうと、俯いていた顔を上げると──。

「まさか……?」

 確かに彼の瞳はぼくと同じオッドアイだった。
それよりも何よりぼくが驚いたのは、頬にそばかすを散らした彼の平凡な容姿が、ぼくにとっては見知った顔だったからだ。

 つまり、カリ・エラの大伯父とは、緑の霧のなかで一角獣と共にいた、あのカリ・アセルのことだった──。





 陽が西に傾き、辺りの霧を淡い朱色に染めてゆく。うすぼんやりとした樹々が影を深めて日没を待つ。
あと一刻もしないうちに夜の帳がおりる、そんな昼と夜と狭間の刻限。

 シンがぼくを連れだった先は、一角獣の髪を拾った沼より東の、清涼な雰囲気を醸し出す墓地だった。

 正方形に切られた土台石に大小ひとつずつの丸い石が積まれていた。
正方形の土台石の側面には、故人の名、もしくは墓碑銘が彫られている。

 墓地にはイクミル国の一般的な墓標様式の墓石が、大小は様々ではあるが、一定の距離感を保ってところ狭しと並んでいた。

 多くの墓石が立ち並ぶ中、歩き回っていたシンの足がひとつの墓石の前で止まった。
その土台石には、かつてこの地に生きた人の子の名が刻まれていた。

──カリ・アセル、十七の年に神の目を閉じる……? え? 十七歳?

「おまえが気を失っている間、カリ・エラの祖母だというエラインと名乗る女性が、このカルバ村の最後のオッドアイとなった兄の話をしてくれたんだ。
兄と言っても、実際は『眠れる卵』のまま、かの西の楽園に旅立ったらしいが。
エライン自身は十四で近隣の豪商の家に作法奉公に出たため、兄の死には立ち会っていないと言っている。
この地では、名の頭に『カリ』がつくのはカンギール人の印で……。
ほら、この柵のなかの墓石には、すべて『カリ』の名が彫られているだろ。余程、特別扱いだったんだろうな」

 墓地には他の墓石と区切られた、一見して、特別な墓石が集められていると知れる一画があった。
一画は、錆びた柵によって四方を張り巡らされており、シンの言葉どおり、柵の中の墓石には、すべて「カリ」から始まる名が彫られていた。

 蔦が絡まるその柵は、いかにもカンギール人を囲う檻のようだった。
彼らは生前も、こんな檻に囲まれた生活を送っていたのだろうか。

 銀の使徒は全知全能ではない。
彼の記憶からは、生前のカルバ村のカンギールたちの詳しい生活ぶりを伺い知るには至らなかった。

 ただ、カリ・アセルに関しては、ある時期までの情報は把握していた。
かつて彼もぼくと同様、銀の使徒の表層意識に触れ、互いの記憶を読み合っていたからだ。

 スィヴィルの記憶に、その後のカリ・アセルの生涯に起きた出来事はほとんど刻まれていない。
けれど、カンギール・オッドアイの出現の意味するところを知ったカリ・アセルが、スィヴィルに対してあまり良い感情を抱いてはいなかったことは知れた。

「エラインは家族にカンギール人がいたせいかな。
当時、若かったわりには、この村の彼らの事情をある程度把握していたよ。
まず、この村の代々のカンギール人は同胞のカンギール人を娶らされたらしい。
この村にカンギール人がいなければ、近隣の村からも探してくる念の入れようだ……。
カンギール人の夫婦からは高い確率でオッドアイの子が生まれる。
そんな先々を計算しての政略結婚だったみたいだな。
自然の恵みを村にもたらす生き神様を得るために村の外からも連れてくるほどの力の入れようとは恐れ入るよ。オッドアイの力で築いた繁栄など、永久に続くわけないのにな」
「この御時世じゃ考えられない話だね。オッドアイなんて、もうぼくくらいだし」

「それでも、百年くらい前からすでにカンギール人の減少は激しかったはずだ。
今よりかは随分マシだろうけど、やっぱり、カリ・アセルやエラインの生まれた頃にはもう、オッドアイは稀になっていたはずだから。
きっと、彼への重圧は相当あっただろうな。
大切なオッドアイ、村あげて守りましょうって、いったい何を守るのだかな」
「何だか、守るというより監視ってカンジだね」

「……生まれ育った村だからな、カリ・アセルもそれなりに村に尽くしたそうだ。
だが、村の人たちは大事なことを忘れてしまっていた。
オッドアイであろうと人の子に違いない。人形とは違う、意思を持っているんだってな。
結局、欲が自滅の道を呼んだんだ。自業自得さ。
当の本人の意向を無視した身勝手な策略は崩れて当然だよ」
「カリ・アセルには好きな人がいたってこと? シンは見た?
ジェジェの過去見に映ったあの女性……。彼女かな?」

「さあな。
エラインは、他国から薬草を求めて流れてきた、女性には珍しい傭兵あがりの薬師だと言っていたが。
ま、カルバの村人たちがふたりの間を認めれば、話はめでたしめでたしで終わったろうけどな」
「認めずに追い出しちゃったのかい?」

「もっと酷い。傭兵あがりってとこを湾曲して解釈したんだ。
自分たちの宝を狙う、他の村、もしくは国の回し者だと思い込んだのさ。
カリ・アセルの知らないところで、彼女を殺そうと村ぐるみで襲ったんだ」
「冗談っ! そんなの許されるわけない!」

「それだけカルバはオッドアイの力に依存していたってことだ」
「思い込みって怖いな。それにそんな重圧、嫌だよ」

「おまえも同じような立場じゃないか。下手すればイクミルの国の犠牲になりかねないだろ?
婚約解消を言い渡されてからというもの、オレがどんな気持ちだったと思う?
学びの塔にいる間、ずっとヒヤヒヤしてたんだぞ。
ロザイ侯がいつ、おまえに新たな相手をあてがわないかってな」

 なんて的を射た発言なんだ。

──もしかして、シンはぼくと父の間に交わされた約束を知っているの?

「今はカリ・アセルのことだろ? ぼくの話なんかこんなところでしなくてもいいじゃないか」
「ずっと心配してたんだ。だけど、『眠れる卵』がこんなヤバイ状態だなんて、想像以上だった。
カリ・アセルの場合は、それを逆手にわざと性の選択を拒んだようだが……」

「きっと村の人たちさえふたりを認めていたら、カリ・アセルは男になっていたんだよね。
だからあのエラインも、お兄さんって呼んでるのかも。
恋人が去ってしまった時点で、彼にとって性の選択の意味がなくなっちゃったのだとしたら哀しいな……」
「そうだな。……じゃ、そろそろ始めるか」

「始めるって……そこまでわかっていて何を調べるって言うの?
カリ・アセルの死因が明らかなら、もう過去見をする必要性ってないんじゃないの?」
「それでも風が吹かない原因には繋がってないだろ? それにな、引っ掛かるんだよ。
カリ・アセルの恋人だった女は傭兵あがりだったはずだろ?
そんな使い手が、武装に関しちゃ素人同然の村の奴らにそう簡単に殺(や)られるもんかなってさ。
多勢に無勢ったって実力の差ってのがあるはずだ。村人が無傷で済まされるわけないと思う。
エラインは当時の村の痛手には触れなかった。死傷者のひとりやふたり出ても当然なはずなのにだ。
ざっと見たところ該当者はいなそうだしな」

 シンがぐるりと墓石を見渡した。

 てっきり、カンギール人の墓石を探すために適当に墓場中を歩き回っているんだとばかり思っていた。
まさか、カリ・アセルの恋人に戦いを挑んで、逆に討たれてしまった村人の墓を探していたとは。

「だとしたら、その女性が生きて逃げ切れた可能性もあるんだね?」
「それと、回し者疑惑の信憑性も確かめないとな」

──そうだった。

 彼女が一筋の剣先も交すことなくこの村から逃げていたとしたら、カリ・アセルの知らないところで、オッドアイという宝を狙う裏切り者が逃げたことにもなり得るのだ。

「どっちにしても、カリ・アセル……辛いね」
「彼は誰を恨んだんだろうな。カルバの村か、逃げた恋人か」

 彼の気持ちが何となくわかる気がした。

 きっと一度は、オッドアイに生まれた運命を疎ましく思ったに違いない。

──ぼくにはわかる。ぼくも、やっぱりそうだったから……。

「過去見はこの裏手の泉でやろうと思う。彼のお気に入りの場所だったそうだから」
「泉? 沼じゃなくて?」

「ああ。湧き水が出るらしい。低温の源泉のようだ。
たまに猿や鹿が湯治に来るっていう話だから、カリ・アセルもきっと心和んだのかもしれないな」

 ぬかるむ道なき道は起伏の激しいものだった。
盛り上がった土を乗り越えて、ぼくとシンは目的地をとにかく目指した。

「ほんとにこっちでいいの?」

 シンの方向感覚を疑うつもりはないけれど、ぼくを不安にさせるには十分過ぎるほどの形状なのだ。

「多分な。ほら、掴まれよ」

 見渡す限り、大木の根株が土を抱き締めていた。
シンの胸ほどの段差の窪みがあちこちにあり、当然、ぼくの足下にもあった。
手が届かんばかりの大木の幹は傾斜していて、根の半分を大気にさらしている。

 シンが先に飛び下りて、ぼくに向かって手を差し伸べた。

「いいよ、女じゃあるまいし」
「男でもないだろが」

 そう言って、いたずらっ子の笑みを浮かべながら、根気良くぼくに向かって手を伸ばす。

「滑るからさ。ほら、掴まれ」

 羞恥心よりも、シンの手に触れたい気持ちがぼくの中で大きく膨らんだ。

──ぼくが手を重ねるまでずっと腕を上げているんだろうか。
それじゃあいつまでも前に進めないじゃないか。

 それを理由に意を決して指を伸ばした。

 手のひらに四指を乗せ、そっと親指を甲に回す。

──思ったより大きい手。それにずごく温かい……。

 ぼくの手に細長い親指が重ねられた。
それだけで胸の奥に暖かい何かが点(とも)されて、胸の奥のほうから腰に掛けて何が蠢(うごめ)いた。

 シンに微笑みかけられて、つい視線を外してしまった。
目尻が熱くなったので、赤く火照ったのだと察しがつく。

 上り坂と大きな窪みをいくつか繰り返すと、高さがぼくの肩くらい、幅は両手を広げても余るという大岩が行く手を塞いだ。

 向こう側の様子を見ようとしてよじ登ると、大岩の先にはここ一番の岩崖があり、その眼下には霧に紛れて、もくもくと湯気が立っている幻想的な雰囲気漂う源泉があった。

「スィ……ヴィル……?」

 どうしてこんな場所に彼がいるのだろう。

 泉の反対側の岸には、ぼくを見詰める銀の瞳が静かにこちらを伺っていた。

「ルティエ、おまえ今、スィヴィルって言ったか?」
「あ、うん。銀の使徒が向こう岸に……」

 言葉が終わらないうちに、シンはぼくの腕を跡がつくほどの強い力で掴み、引き寄せた。

「ちょ、ちょっと、シンっ!」

 シンらしくない強引な仕草に、ぼくはすごく焦った。

「どうしておまえが銀の使徒の名を知っている? 『スィヴィル』は秘名だ。
学びの塔でも極一部しか知らない、王宮でも神官長クラスの極秘事項だ。
銀の使徒はオッドアイを求めて彷徨うと言う……。他のヤツならどんな相手だろうと負けやしない。
だが、銀の使徒がおまえに魅せられたとしたら……」

 命を捨てる覚悟がいる──。

 言葉は囁きとなって、重ねられた唇から漏れた。

 しっとりと合わさる口付けは、ぼくの身体の力を奪ってゆく。

 シンの動揺、ぼくの驚愕。振える鼓動は誰のものかわからなかった。

 つぅ、と離される唇の上に、
「悪い、動転して……。つい、感情的になってしまった」
落ちた呟きが小さくなっていった。

──謝られても、どう応えたらいいか、言葉に困るよ。

 だって。

 まだ鳥肌が立っているほど、ぼくの身体は喜びに満ちていた。

「オレ、おまえを誰にも渡すつもりないから。銀の使徒を敵に回しても、これだけは譲れない。
ルティエは知ってるんだな? あいつが古の銀の聖獣なのか?」

 ぼくを抱き締めたまま、シンは今までになく険しい視線でスィヴィルを凝視した。
その迫力に押され、慌てて事情を説明しようと泉の対岸を見やると、そこにはすでにスィヴィルの痩身の影すら残ってなく──。

「消えたよ。透けるように。おまえをずっと見てた」

 ポツリポツリと、言葉が零れてぼくの額に落ちてきた。

 心配そうにぼくを見るシンを安心させたくて、ぼくはたまらず彼の細い首に腕を回す。

 すると、幼い頃から度胸だけは人一倍持ち合わせていたあのシンが、一瞬驚いて深い青の瞳を見開いた。
が、それも一瞬で、すぐに近頃見慣れたシンらしい、やや神経質そうな、それでいて不機嫌そうな表情に戻った。

 ふたりの鼻先がくっつくほど顔を近付けたまま、
「違うよ、シン。彼が求めてるのはぼくじゃない」
ぼくは諭すようにゆっくりと言葉にした。

 途端、軽やかな春風を思わせる微笑みが、ぼくの瞳に飛び込んでくる。
シンのこの美貌に加えて、こんな素敵な笑顔を向けられてしまったら、誰もがときめかずにはいられないだろう。

 そして、自分の行動の大胆さに今更ながら気付いたぼくは、どうやってこの腕を解いたらいいか、真剣に悩んでしまった。

「ごめん。腕、いい……?」
「このままがいい。オレ、今すごく感動してるんだ。この気持ち、萎えさせないでくれよ」

──そう言われても、困るんだけど。

「過去見するんだろ? このままじゃできないよ。も、離して……」

 最初に仕掛けたぼくの腕。
それを解こうにも、すでにシンの手が背に回されてしまってて、動くに動けない。
ぼくはシンの肩口で文句を並べるしかなかった。

 くすくす、と忍ぶ笑いが耳元で聞こえて。

「やだ。って言ったら? 過去見なんてあとでいい。もう少しこうしていよう」
「蹴るよ、シン」

「怖いな。わかったよ。だけど、銀の使徒の話はちゃんとしてくれよ。
オレの飛び跳ねた心の臓の驚きはまだ健在なんだぜ」

 ぼくは了承のしるしに頷いた。
けど、そのあと、ぼくはついおかしくなって笑ってしまった。

「何だよ」
「だって、シンって昔っからこんなだったなあって思って。そしたら何となくおかしくなっちゃったんだ」

「変わってないのはおまえだって言ったろ」

 耳たぶを擦るようなシンの囁きが少しくすぐったくて、ぼくは身を強張らせた。

 変わらない、とシンは言うけれど、それは少し無理がある。
ぼく自身、確かに変化が訪れている。

 考えるより先に身体が感じてしまうこの事実こそがその証拠だ。

 すでにぼくの心はシンへの想いを認めてしまっている……。



 想いが溢れ過ぎて。

 きみから、目が離せない。

 きみから、離れたくないよ……。

 シン──。






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