夕暮れは時の流れはとても早く、人里離れた場所では特に一気に闇に包まれる。
仮の宿だと連れていかれた村はずれの一軒家の一番広い部屋ではすでに蝋燭が灯されていた。
「おまえ、俺に何をしたっ! この化け物め!」
セシルの肩がぴくんと震えた。だが、それは恐れからのものではない。それまで従順だった相手が突然の大声を出したから驚いたに過ぎなかった。
その証拠にそれ以降いくら怒声を浴びせられても、セシルは視線をぴたりと小太り男に定め、睨みつけている。
蝋燭が揺れにそこかしこの影も揺れ、年齢のわりに大人びたその秀麗な顔半分を覆う影もまた揺らいだ。
部屋の真ん中には縄で括られた小太り男が腰を下している。それを三人の騎士が取り囲み、男の身体を押さえていた。乱暴するわけではない。ただ、拘束しているだけだ。小太り男の正面にはセシルが、セシルの両脇には巡監使ミッターヒルと赤毛の少年が立っていた。
最初は青かった小太り男の顔は今や赤色に変わっている。まさに怒りの色だ。
どうやって自分を嵌めたのかその手段はわからないが、その元凶となったのはこの子どもだというのはわかっていた。
「おまえは化け物だ! 誰かこいつをどうにかしろ! 生かしていたら碌なことねえぞ! 殺せ! 殺せ! その化け物を殺せ!」
罵るだみ声は止まることを知らなかった。部屋中にだみ声が轟けば轟くほど、セシルの視線はますます鋭くなっていく。
「気にするな、セシル」
「はい」
自分を慮ったミッターヒルの言葉にセシルは小太り男に定めていた視線をそっと外す。眼の高さを合わすために床についていた膝を伸ばして立ちあがった。
周囲を見渡せば予想通り、騎士たちの表情はとても硬い。信じられないものを見たかのように唖然と口を開いている者、口を引き結んで子どもと眼を合わせないようにしている者。
そして、なぜか赤毛の少年だけが無表情のままじっと自分を見つめている。その感情を含まない視線がセシルの心にすごく印象に残った。
少年の眼には恐怖も嫌悪感も好奇心も感じられなかった。でも無関心とも違う。強いて言えば、あら探しをしているかのような、まるで試されている感じを受ける視線だった。
こんな眼で見られたことなどなかった。見張られているようで落ち着かない。
別室で監禁されている小太り男の仲間の男の調書はすでに終えていた。
あちらがひとりめ、小太り男はふたりめだった。どちらも嘘偽りない言質も取り終わり、知りたいことはすべてセシルによって尋問済みだ。
最初の取り調べでは、やすやすと尋問を行っていくセシルを騎士たちは脅威の眼差しを投げていた。気持ちが現実に追いついてこないにしても、驚きに声をあげて取り調べの場の空気を乱さなかったのはさすが騎士だけある。半信半疑でいようが恐怖を抱こうが、巡監使の黙っていろの一言を受けて騎士たちは沈黙を守りきった。
質問するセシルとそれに答える男の声だけが部屋を占め、そうして訪れた静寂だった。
「そのへんでいいだろう。次は移ろう。セシル、続けられるかい?」
「大丈夫です。やれます」
小太り男はふたりめだったからか騎士たちにも事前の覚悟ができていたようだった。
「私の眼を見て訊かれたことに答えなさい。あなたの名前を出身をまず教えなさい」
「ここで何をしようとしていたですか?」
「取引に関わるすべての人たちについて話しなさい」
セシルが問えば返事は必ず返ってきた。
まるで三文芝居を見ているかのように、セシルの尋問に対し、小太り男はをごねたり黙りこんだりすることなく、これまたすらすらと素直にしゃべりにしゃべる。訊かれた以上のことまでしゃべるので話好きな性質なのかと疑いたくなるくらいだった。
騎士たちに前ほどの驚きはなかった。二度めの尋問だったからか、少しは慣れたようだった。
とはいえ、最初の比ほどではなくても驚きは隠せない。唾を飲み込む音がそこかしこからセシルの耳に届いていた。
話の途中で仲間の男の話にはなかったある商人の話になった。鍋や釜、包丁などの台所商品を主に扱う金物商だという。商人の話になると周囲に緊張が走り、ミッターヒルまで身を乗り出してきた。巡監使一団にとって新たな手がかりになるかもしれない情報だ。喉から手が出るほど欲しかった獲物を前にして、皆が殺気立つ。
金物商はどうやら小太り男よりも立場が上にあたるらしい仲買人らしい。小太り男は取引上の際、《ロギの針鼠》と呼んでいたようだ。もちろんこれは暗号名である。
小太り男は《ロギの針鼠》の外見や容貌の特徴、次の取引の場所など、知ってる限りの情報をまるで受け取ってくれと言わんばかりに差し出した。
《ロギの針鼠》に関すること以外については仲間の男の話と重複していたので、嘘の自供をしてわけではないようだが、あらかじめ裏で話を合わせるように仕組んでいる可能性もあるとミッターヒルは考えた。だが、それにしては捜査をかく乱するためとはいえ出鱈目を言っているわりには自供の内容が詳しすぎだ。
「待ち合わせは月一って決まっている。決まった宿の決まった部屋で会うんだ、その宿の女将がいい女でよう。宿の飯も結構いけるんだ。あいつが来るのは夕方から夜にかけて決まっちゃいねえ。だから俺はあいつが来るまでちびちびやってるのだ。もちろんお代は向こうもちだ。当たり前だろう、俺は長々と待たされてるんだから。宿の定番料理は豚の煮たので、野菜と一緒に煮込んであるのがまたいいんだ。こう油がのってる豚の肉がぷるんとしててよ、ああこの間御代わりしようとしたらあいつが来ちまったから。ったくもう少し遅く来いってんだ」
とても臨場感にあふれる自供は料理の味まで批評をしてくれた。どんな材料でどんな味かをとくと説いてくれるほどに詳しかった。
「あいつは要領がいいだけで俺があいつに劣ってるわけじゃねえ。たまたまこの仕事に先に就いただけの話なんだ。この悔しさがわかるかい?」
宿の料理の批評ががひと通り過ぎると今度は愚痴を言いだした。
小太り男は《ロギの針鼠》に妬みがあるようで、自分がどれだけ悔しい想いを抱いているかを延々と語り続け、何とミッターヒルに向かって昔馴染みに語らうように、「おめえもそう思うだろ。なあ、頼むよ。おめえだけでも俺の味方でいれくれよ」と縋ってきたのだ。たいそう無茶苦茶な話である。
取り締まる側と取り締まられる側で敵対関係にあるのに、味方でいてくれはないだろう。それもこの中で一番立場が上のミッターヒルを捕まえて、するような話ではない。
だからこそ、自供の内容に信用がおけた。
「おいそこまでだ。もういい加減にしておけ。セシル、これ以上は無用だ。終いにしよう」
「はい。わかりました」
セシルが小太り男に合わせていた視線を逸らし、わずかに距離を置いた。途端、それまで静かだった小太り男が突然喚きだした。例の化け物騒ぎである。
急に態度を変えたのも不自然だったが、子ども相手に化け物呼ばわりとはいただけない。
「俺が言ったのは嘘っぱちだ!」と怒鳴ったそばから、「俺に何をした!」とセシルを恐れ暴れる小太り男の身体を騎士たちが抑え込んだ。
「あっちの男以上に使えるなあ、おまえ」
「言うんじゃねえ! 俺の口はそんな軽いもんじゃねえんだ。あんなの嘘だ、信じるんじゃねえ!」
ミッターヒルの唇がゆっくりと弓のように曲がる
「喚いたところでもう遅いわ」
小太り男の態度を観察していれば仲間の男を蔑んでいるのは明らかだった。始終、自分のほうが立場が上だと誇示しつつ、 《ロギの針鼠》には下卑た劣等感を抱いている。
「貴様には礼を言うべきかな。貴様が教えたくれた情報を精々役立ててくれるわ。豚の煮つけも機会があれば食してみようぞ。どれだけうまいか私も食いたくなったぞ。そうそう、次は新月の夜だったな。件の食堂に食いにいくついでに 《ロギの針鼠》を待っていようか。うまくすれば贋金作りに加担した者たちすべてをこれで捕まえられるかもしれんしな」
「うるせえ。そんなわけあるか。豚の煮つけなど知らねえ。どこで聞いたか知れねえが、そんだけ食いてえのなら勝手に食ってろ。 《ロギの針鼠》なんて奴も知らねえ。知らねえ奴の話なんかすんじゃねえっ!」
喚き声はすべて無視された。
ミッターヒルが両脇の騎士ふたりに小太り男を連れて行くよう手を振る。部下たちは男を力ずくで引きずっていった。
「俺がしゃべったことは嘘八百だ。俺は女みてえにペラペラしゃべるような男じゃねえぞ。そうだろう、ええ? それにこんな子どもになんかにペラペラしゃべる奴がいるもんか。これは何かの間違いだっ」
どんなに喚き散らしたところでまともに相手をする者などひとりもいない。
小太り男が部屋から去り、再び静寂という名の平穏が訪れると、セシルはほっと胸を撫で下ろした。
だが、まだ完全な平和が訪れたわけではないこともわかっていた。自分というカンギール人が他人の眼にどれほど脅威に映るのかを物心つくと同時に言い聞かされてきたセシルである。きっとこの人たちも見る眼を変える。伺候任務を聞いた時からそれは覚悟をしていたことだった。
だが、周囲の態度はセシルの想像を超えるものだった。
「これはすばらしい」
「いや、まさしく」
騎士たちが褒めちぎりながら、乳白色の頭を撫でてゆく。
「セシル。よくやってくれた」
ミッターヒルも小さな肩をポンと気安げに叩いてきた。
「さすがは宰相補佐官が推薦しただけはある」
「は? 宰相補佐官どのの推薦?」
それを聞いて、セシルだけでなく騎士たちも驚いた。
「あ…りがとうございます……。万事うまくいってよかったです」
そう返すのが精一杯だった。
「すごいですねえ。宰相補佐官ですか」
「なるほどなるほど」
「それにしてもなぜあんなにすんなり奴らは話す気になったのでしょう」
「この子は何者です? ただの領主代行ではないのでしょう?」
「見間違いかもしれないが、彼の眼の色が変わったような気がしたような……」
セシルは尋問した男たちの前では決して見せなかった狼狽を見せて、あたふたしている。驚いた。創造していたのを全然違う。意外でしかたなかった。自分は嫌悪される存在ではないのか。そんなふうな、いかにもどうしたらいいのかわからないといった十歳の子供らしい動揺するさまはとても愛らしく、大人たちの庇護欲をそそった。
騎士たちはミッターヒルに詰め寄り、とうの上司は驚愕とも恐怖とも言える体験から離脱し、いまや興味津々の部下たちの視線を楽しげに受けとめていた。
そうして部下たちひとりひとり順繰りに見まわしてゆき、ひとり平然と無関心を装っている少年のところでぴたりと視線を止め、にたりと笑う。
「エルウィン、さすがにきみは知っているようだな。みんなに説明してあげなさい」
「おお、エル坊。おまえは知っているのか」
「いいから話せ」
「さっさと話せ」
少年は先輩騎士たちから頭や肩を小突かれ、ムッと憮然の表情を浮かべていたが、ミッターヒルの命に背くことはしなかった。赤い頭髪をガシガシかきむしるその仕種はいかにも面倒くさいと言わんばかりだったが大人しく口を開く。
「わかりましたよ。えっと、こちらの小さな領主代行サマがカンギール人ってのは皆さん、わかってますよね?」
「エルウィン、おまえ俺たちを馬鹿にしているのか? そんなこと言われなくても見ればわかるわ」
「カンギール人ってのはアレだろ? 乳白色の髪で、生まれた時はまだ男女の区別がないってのが特徴の、聖なる者の紛れもない子孫って言われてる人の子のことだろう?」
「我が国ではほとんどいないが、隣国のイクミルではちらほら見かけると聞くが、そうなのか?」
「そうですよ。そこまで知っているなら話は早い。そのカンギール人の名前の由来のもとになった聖なる者カンギールは左右異色の瞳を持っていたんです。で、カンギール人の中でも彼のようにオッドアイを持つ者は特殊で、瞳に神力を持っているんですよ。その力を使う時、瞳の色が変わるって聞いてたんですが、本当だったみたいですねえ。さっき皆さんも見たでしょう? そこの領主代行サマのカンギール・オッドアイが乳白色に変わるのを」
「そうだったか?」
「俺は見たぞ」
「俺もだ。ではセシルどのが質問に正直に話すように言った途端、あいつらがペラペラしゃべりだしたあれは瞳の神力によるものだというのか?」
「そうです。カンギール・オッドアイは真実の言葉を引き出せるんですよ。学びの塔の魔道師たちは真実を見破る力だと言ってます」
騎士たちは騒然とした。それは偉いことだとさすがに悟ったようだった。
「だから、宰相補佐官が推薦なされたのか」
「つまり、セシルどのがいれば楽に供述が取れるってことだな」
「そうだ、これでわかったか。セシルは我らの救世主なのだよ。贋金が王国中に出回ったら、本物の貨幣の信用問題になる。国内のみならず他国との取引もできなくなること請け合いだ。早急に贋金作りをしている輩を取り押さえなければ王国内外で多大な混乱を招きかねん」
騎士たちは改めて自分たちが負っている悪人たちの罪悪の重さを感じ入った。
自分たちは早急な解決を期待されている。カンギール・オッドアイを送り込んでくるといった直接的な後援をしてみせたのは宰相補佐官だが、つまりこれは宰相の真意であり希望に違いない。悪人たちの繋がりを突き詰め捕縛し偽造貨幣の流通をくい止めるため、宰相はその捜査の突破口にカンギール・オッドアイを選んだのだと、そう理解した。
「すごい力ではないか。なあ」
「そうだ、その通りだ。セシルどのは本当に嘘を見破れるのだな」
「こりゃあ将来、セシルどのの結婚相手は浮気はできないなあ」
「おうよ。隠したところで無駄になるだけだぞ」
小太り男を連行した騎士ふたりも戻ってきて、仲間うちから話を聞くと騎士仲間と一緒になってわははと笑った。
「セシルどの。貴殿の力はすばらしいなあ」
「なあなあ、ものは相談なのだが、今度ぜひ会わせたい人がいるんだ……。実はいくら好きだと伝えてものらりくらりと交わす女がいてな。俺に気持ちが本当にあるのか、ちょっとその力で確かめてくれないか?」
「おお。そういう使い方もあったか。なるほど、ではオレもぜひとも頼む」
俺も俺もと言われて、セシルは唖然としてしまった。
「浮かれてるな」
「浮かれてますね」
ミッターヒルは薄くなりかけた前頭部を撫でながら苦笑する。一行の中で一番下っ端の立場にあるはずの少年も上役に倣って頷いた。
「何か月も進展がなかったところにこの急展開ですから、気持ちはわからないでもないですけどね」
「それにしてもだ。女の気持ちを確かめるのにカンギール・オッドアイを使うとは、なんと図太い神経している奴らだと思わないか」
「そう言いつつも顔が笑ってますよ、ミッターヒル」
「ふむ。そうか。笑っておるか」
「ええ。思いっきり。それに意外と有意義な使い道だと俺も思いますけどねえ。身近なところで個人の幸せのために利用するなんて、すげえ微笑ましいじゃないですか。外交担当に紛れ込ませて相手国に圧力掛けるとか、聖王家の末裔だって言って神輿に乗せて王位を狙わないだけましですよ」
「おいおいエルウィン、怖いこと考えてくれるなよ」
「別に深い意味はありませんよ。過去の歴史を振り返ってみれば、そういう使い道もあると言ってるだけです。まあ、悪だくみに使われたくないのなら、俺だったらあの領主代行サマに女性化するよう勧めますね。男性化すれば王族と養子縁組して聖王家末裔として王座を狙う位置に担がれる可能性もありますが、少なくとも女性化すれば王位継承に関わらずにすむし。それに屋敷の中に奥方として籠っていれば、官僚として外で働くより危険視されにくいでしょうしねえ」
「怖い奴だな。きみはどこまで先の可能性を描けば気が済むのだ。まったく、そういうところはさすがに血筋よのう」
「よしてくださいよ。俺は俺です。血筋なんて関係ありませんよ」
少年の疎意を汲んで、巡監使は口をつぐんだ。関係ないと少年は断言するが、生半可は返事をするには確信に近い予感がミッターヒルには多少あった。少年が口にしたのは未来のほんの一部であって、すべてを考えを語ったわけではない。このひとときの会話の中ですら、少年の頭の中には幾枚もの未来図が描かれたに違いないのだ。近い将来、少年は自身が望む人生は歩めなくなるだろう。
それに少年の素性は今は本人の希望で隠されているが、いずれ明らかにされる日が来る。そしてその時は必然的に少年はこの王国の最上部の土俵に足を踏み入れなければならなくなる。
「エルウィン、きみの血筋は誇れるものだ。それだけはゆめゆめ忘れてくれるな」
ミッターヒルは少年の出自を知っていた。少年は宰相補佐官ハリー・ハンクス・ハイマイエ・ル・ティモエの実弟だった。ハリー自ら引き合わせたのである。
ハリーとは近衛師団にいたころからの付き合いだが、弟がいるなど初耳だった。しかも少年は王国随一の大貴族直系の出自であるにもかかわらず、貴族としての自覚は爪の先ほどもないというのだから呆れてしまう。
だが、理由を聞いて納得した。エルウィンは幼少の頃に何者かに誘拐され、二年前まで自分の本名さえ知らずに生きてきたのだと言う。覚えていたのはエルと呼ばれていた記憶だけ。十年以上の間、それだけが少年の身をあらわすすべてだったのだ。
エルウィンは自嘲するような薄笑いを浮かべた。
「もういい加減、諦めてくださいよ。今更ですよ。それに俺は貴族って奴がが大嫌いなんですよ。それも領主と言われる貴族が特にね」
とても十五歳の少年のものとは思えない笑みだ。
「この大陸には横暴な領主が多すぎる。領主の理不尽さにどれほどの民が苦汁を嘗めているか、あなたはその眼で見てきたんじゃないんですかね? 下々と呼ばれるものでもね、下々なりに頑張って生きてるんですよ。そういう彼らの鬱憤をいつまでも抑えられると思っているのなら大間違いだ」
「それについては閣僚たちも考えておられるだろう」
「そんなんじゃ手ぬるいんですよ。俺はね、ミッターヒル。絶対に巡監使になってみせますよ。巡監使になって領主という領主を片っ端から糾弾してやる」
エルウィンがこれまで生きてきた人生をミッターヒルは知らない。
ただ、少年の過去をなぞるような壮絶な笑みに思うところはあった。彼の笑みは世間の甘苦を知り尽くし、幾多の荒波を経験したものだけが刻めむことができる、まさにそんな笑みだ。
それほどの深い笑みを晒されて、浮気がばれた亭主が言い逃れする常套文句のような、この場だけ誤魔化せればいいみたいな真実味のない気休めの言葉だけは言うまいとミッターヒルは決めていた。
それに、少年が今まえどんな人生を歩んできたのか詳しいことを知らなくても、彼が改革者であり、この若さでありながら王国の行く末を幾ばくか軌道修正した功績をすでに収めているその事実を知っているだけで充分だった。
その功績のひとつが、シンラスの戦い直後に制定された宮廷伺候試験制度だ。かの制度の草案は少年によるものだった。
草案の時点で現制度ほどではないとはいえ、貴族社会に受け入れられるように配慮されていたと小耳にしている。貴族有利の制度となれば、大貴族の一員として生まれながら貴族社会における教育を受けていない少年にとって自分の首を絞めるのは必定だ。少年にはそれが容易に想像がついたはずなのに、それでも貴族でない者たちにも確実に扉が開くよう制度実現を最優先した。
実現化を最優先するためとはいえ、貴族の尊厳と誇負をうまくくすぐるように配慮するのはとても難しい。駆け引きの見極めをしくじれば、制度が施行されたところで平民に対して門戸を閉ざす結果になっているはずだった。
だが、エルウィンは見事にあの草案をひねりだした。少年自身が望む甘味な夢と現実社会の辛苦の境界線の引き加減を充分理解していたとしか考えられない。
今や、宮廷伺候試験制度が実施され、どれほど身分が高くても試験を受けなければ貴族と言えど官僚として王宮勤めができなくなった。
少年は虚栄と血筋に凝り固まった貴族社会に大きな一石を投じるのに成功したのである。
末恐ろしい少年だとミッターヒルは鼓動を高々に震わした。
つづく
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