逃げた馬が近くの泉で水を飲んでいるところを捕まえたのは幸いだった。お蔭で近衛騎士たちは無事ふたり揃って馬上の人となって帰還することが叶った。馬が見つからなければ王都までの帰路は大変な苦労になっていたはずである。
ふたりの任務はセシルを巡監使ミッターヒルのところまで連れて行くことであり、セシルの任務については聞かされていなかった。多少の躓きがあったが、待ち合わせの場所に程近い手前で巡監使一向と合流できたことは偶然とはいえ彼らにとって僥倖となった。
セシルは近衛騎士たちに礼を言い、近衛騎士たちの帰路の無事を祈った。
これはすべて、小太り男が連れて行かれたあとの一幕だった。
巡監使は息子ほどに年の離れた相手を見つめる。
カンギール人の特徴でもある乳白色の髪は真っ直ぐに伸ばされ、肩の上で綺麗に切りそろえられている。すっと伸びた鼻筋に小ぶりの唇。とても整った容貌をしていた。野に咲く小花の可憐さというよりも、この年齢にして、森の緑の中に流れる落ちる滝のような大人びた清麗さが目についた。あと五年も経てば、どれほど匂わしい美貌となるか。
特出すべきはその左右異色の瞳である。金に緑の斑の左眼と夜明け前の一瞬の狭間の空を思わせる灰色がかった青色の右眼には、信念を貫く強い光が差していた。
領主代行を務めるセシルが女性化を選ぶとは思えない。これほどの逸材を世の男どもは諦めなければならないとはこの国の損失だなと巡監使は心中、惜しんだ。
セシルは繊細な外見とは違い、物怖じしない子供らしかった。自分が所属する小隊の隊長格にあたる巡監使が面倒見の良さそうな人柄らしいと見抜くと、礼儀をわきまえつつもいろいろなことを質問してきた。そういうところはとても子どもらしく、殺伐とした任務から一瞬の解放を求めて、巡監使はこのひと時を楽しむようにどの質問にも丁寧に答えた。
「ミッターヒルさまは巡監使でいらっしゃると聞きましたが?」
「ははは。そう畏まらずともよくではないですか。ここは王都ではないのですから、ミッターヒルで結構ですよ」
再びセシルは馬上の人となり、手綱は赤毛の少年が握り、引き馬を引き受けてくれている。
夕暮れが周囲の草木を赤く染めていた。巡監使も馬と並んでともにのんびりと歩いている。
実はこのような道行となるまでに一悶着あったのだった。
当初セシルは自分が歩くので巡監使が馬に乗ったらどうかと申し出た。自分の上司にあたるであろう人を歩かせることに抵抗があったためだ。だが巡監使は子どもの足では余計な移動時間がかかってしまうと言い、断ってきた。ではふたりで乗ったらどうかと提案すると、王都からここまで走ってきた馬に自分の体重は負担をかけすぎる、いいからそのまま乗っていらっしゃいとこれまた促されてしまう。そこまで言われてしまうと、セシルもさすがに引き下がるしかなく、結果、巡監使と少年が徒歩で行き、セシルは馬で行くことになった。
そんなやり取りを経て、自分ひとりだけ馬に乗っているこの現状を心苦しく思っていたところに、今度は呼び捨てにしろと言われて、セシルはぎょっとした。
「目上の方に向かって呼び捨てなど、そんなことはできません」
「ここは市井ですぞ、オトゥールどの。堅苦しいとかえって目立ってしまいます。我らはこの先、隠密で動かなければならないのですぞ」
任務に支障が出ると言われてしまっては我を通すわけにもいかない。
「……わかりました。では、ミッターヒルさんと呼ばせていただきます。私のことはどうぞセシルとそのまま呼んで下さいませ」
「セシルどのではいけませんかな。あなたは伯爵代行として伺候なさっておられるのですから。つまりはご領主代行であられる」
「お言葉を返すようですが、このような十歳の子ども相手にあなたのような立派な大人の方が敬称をつけて呼ぶのはとても不自然です。どうぞお気になさらずに」
「これは一本取られました。まったく打てば響く方ですなあ。では失礼して、セシルと呼ばせていただきましょう。セシル、ついでに言葉遣いのほうもお互いもう少しくだけるよう心がけましょうか。このあたりはまだ人気がないので、盗み聞きする者もいないかとは思いますが、今後町中に移動することになるでしょうから」
「はい」
「よろしい」
ふたりは納得したようだが、そばで聞いていた赤毛の少年は全然納得がいかなかった。これのどこがくだけた言葉遣いなんだと声を大にして言いたかった。
常識を知らなすぎるふたりは先程初めて会ったというのに年齢の差に関係なく楽しげに会話を続けている。ふたりの穏やかな会話が耳に入ってくるたびに少年の表情はますます呆れたものになっていった。
──ここはなにか、装飾豪華な貴族屋敷か。違うだろう。こんな村はずれの田舎道で気品を無駄にばらまくんじゃねえ。
少年から湧き出る怒気を感じたのか、馬がヒッと慄いた。少年は即座に反省し、悪かったなと心の中で謝りながら栗毛の身体を優しく撫でる。
「そうそう先程の質問の答えですが、私は確かに巡監使ですよ。もともと地方をふらついてそれぞれの領地の治世を監査するのが本来、巡監使の務めですからなあ。この任務に私が関わっていることに違和感を感じても当然です。地方を回っているといろんな話が耳に入ってきましてな、時にはきな臭い噂や不自然な出来事に出会ったりするもんです。今回も贋金を取引している仲買の情報をたまたま得ましてね。この際ばらまいている奴らはもちろんのこと、ついでに贋金製造をしている場所も突き止めるよう方針が決まったのです。ご存じのとおり、先の戦いのせいでこの国は人手不足ですからなあ。王宮も然り。それで今はこのとおり、王宮騎士たちを取りまとめる役を命じられました。このまま人手不足ともなればこの任務が完了したのちも巡監使を続けるのは難しいかもしれません」
「ではミッターヒルさんはしばらくしたら王宮のほうに移られるご予定があるのですか?」
「実はうちうちに打診が来ています。偉い知人がいまして、親切だかそうじゃないんだかわかりませんが、内緒で教えてくれました」
「そんな内密のお話をいいのですか?」
「構いませんよ。どうせそのうち皆の知るところになることですから」
「はあ、そうなのですか」
「ええ。そうなのです。実はこれでも勲章のひとつやふたつ、持ってるんですわ。私は長いこと騎士生活をしてきましたから、巡監使をさせておくより騎士隊を取りまとめさせておくほうがいいだろうと上層部が判断したのやもしれません」
「それはミッターヒルさんがすごい人だということではありませんか。優秀でいらっしゃるのですね。ではそうなります巡監使は別の方が新しく……?」
「おそらく」
「あの……」
「何でしょう」
「このようなこと宮仕えの方には申しにくいのですが、巡監使になれる方はそれほどいらっしゃらないのでは?」
「ほう、そこに行きつきますか。さすがに最小年齢で文官伺候試験を通っただけはありますな。そうですよ、セシル。あなたが案じているように普通の監査官であれば文官でも務まりますが、巡監使となると文官と武官の両方の才が必要になる職ですからなあ。なり手はぐんと減ってしまいます。巡監使は監査職の中でもその任務は特殊です。隠密にひとりで辺境を回ることもしばしばだ。野盗に襲われる危険もあれば、一癖も二癖もある領主相手に厚顔でもって立ち向かうときもあれば、破落戸どもに制裁を与えるときもある。この物騒な世の中です、多少腕がありませんと務められません。日頃から領地から領地へ物見遊山しているものですからね、はたから見れば何事にも縛られずに自由奔放な閑職そのものでしょうが、自分で言うのもおこがましいが、攻防ともに腕に自信がなければやっていけない監査職だと自負しています。机上でしか物事を考えられない頭の固い文官や筋肉に脳が詰まっているような武官では到底務まりますまいよ」
セシルは強く頷いた。聞けば聞くほど巡監使が務まるの官吏はごく少ないだろうと思った。
文武ともに才ある者などほんの一部だ。それに、才あって向上心がある者というものはだいたいにして出世欲も比例してあるものだ。
巡監使はほとんど名誉職のようなもので、王宮の官僚たちと比べてしまうとその地位は低かった。志が高く、実力を備えている人材となるとさらに少ない。
地方の各領地を見て回る巡監使は契約を監査するのが本来の任務だ。この場合の契約には広い意味がる。例えば、貴族が王家から領地を賜るとき、正しく領地を治めるという宣誓をする。これは領主となるものが王家とその領地にたいして交わす契約である。
巡監使は正しく契約がなされているか見て回る。不正が行われていないか、能力が足りているか。監査権のもと、領主が行う治政に教示や諫言をすることが許されている。地方においては領主と同格の権限の行使も許されている。領主にとっては巡監使とは、心強い助言者でもあり、恐ろしい弾劾者にもなり得た。
地方巡りが主な仕事となれば自然と王都への足は遠のく。必然的に社交界とも遠ざかり、貴族同士の付き合いも減る。たまに社交界に出ても、田舎を生活ばかりしていて鄙びた印象もあるからか、一緒にいては自分も鄙びてしまうと言わんばかりに寄ってくるものは数少ない。監査の仕事をするのにはそれくらいが丁度いいのだろうが、貴族、特に領主と呼ばれる貴族たちには煙たがれるのは必然であった。
そのような名誉職である。当然、敬遠するものが多い。
宮廷伺候制度が制定される以前にも巡監使という職はあり、当時はとても人気があった。監査権を持っているとはいえそれはただのお飾りで、各地方を回りながら領主と歓談するだけの閑職だったからだ。当時も名誉職と呼ばれていたが、今とは含む意味がだいぶ異なった。
「あまりご心配なさりますな。伺候試験の制定によって、貴族だけでなく平民にも門徒は開かれたのですからこれからは優秀な人材がますます増えていってくれますよ」
ちなみに自分はしがない子爵家の二男なのだとミッターヒルは自分の出自を明かした。
貴族の世界では爵位や領地はすべて男子の長子が受け継ぐものと決まっている。二男以下の貴族の男子は実力で身を立てなければならない。一族当主の補佐にまわるか独立するか。貴族の一員として名誉や名声や出世、報酬を考えるならば、武官や文官として王宮に仕えるのが手っ取り早いが、以前の慣習のままであれば、縁故がなければ王宮勤めなど叶わなかった。
だが今は違う。
「宮廷伺候資格を受け、伺候資格さえ得られれば伝(つて)に頼らずとも正当な手段でもって王宮に仕えることができますからな。私のように二男坊に生まれた者にも希望が持てます。いやはや、本当にいい時代がやってきましたわ」
宮廷伺候資格には武官と文官の二種がある。
武官伺候試験には剣術をはじめとする実技試験と、国史、儀礼、作法、慣習などを含む一般教養問題で構成される筆記試験があり、両方の試験に合格すれば晴れて騎士候補になれる。その後、一年間従騎士として修業期間があり、実技において現役の騎士から推薦を得て、そのあと上官たちによる面接に通れば伺候資格を与えられる。一代限りの士爵位を受爵、つまり、騎士を名乗れるようになる。
一方、文官伺候試験は二種類の筆記試験で成り立つ。ひとつは文官試験の筆記試験と共通問題である一般教養試験。もうひとつは計算力、語学力、思考力、国際理解、戦略構築力、経済理論に関する知識力を問う能力試験。下積み期間を経て、上官たちによる面接を受けるその手順は武官とそれほど違いはない。こちらも文官伺候資格として、一代限りの官吏手形が発行される。
「セシル、あなたは十歳だと聞いていますが、その年齢で文官伺候試験を通るとはものすごく優秀なのですなあ。誰かれかまわず誇ってもよいことですぞ」
「ありがとうございます。たまたま試験に解ける問題出たのかもしれませんし、とにかく運が良かったのでしょう。それに私の場合は必要不可欠というか、切羽詰っての受験だったので、自慢できる話ではないのです」
「次期伯爵であるあなたが切羽詰るとはどのような理由がおありになるのか、まったくもって聞き捨てなりませんな。よろしければ伺っても構いませんかな」
「あ、はい。実は祖父の伯爵が二年前から体調を崩しておりまして……」
「祖父どのが?」
「はい。孫の私が次期伯爵というのはおかしいことだとお思いでしょうが、父はもう何年も前に水難事故で亡くなっていますので、爵位継承は王宮より許可を頂きまして、私になされることに。とはいえ現当主はあくまでも祖父です。当然五十日伺候も祖父が行うべきなのでしょうが、祖父の体調を考えますと二年前の時点で今後、伺候するにしても支障がでてくることは明らかでしたので……。それで制度施行と同時に文官伺候試験に申し込みました。お恥ずかしい話なのですが、我が伯爵家には免除申請する財力などありませんので」
「なるほど。免除申請は財政的にどこぞの貴族もキツイと聞きますからなあ。それにしても、伯爵代行として伺候しなければならなくなるかもしれないと幼心に理解していたとは利発な心がけですぞ。子どもであろうとあなたは立派な伺候資格を持っておられる。これからも堂々となさることです」
「はい。ミッターヒルさん、私は今回、はじめての五十日伺候です。至らぬことや慣れないことが多々あるかと存じます。どうぞご指導よろしくお願いします」
「いやいや、世話になるのはおそらくこちらのほうでしょう。こちらこそよろしくお願いいたします」
通常、五十日伺候は当主が名乗り出るものだが、当主が高齢、または療養中の場合は後継者が代行を務めることが許されている。
だが、現在では五十日伺候するにも伺候資格が必要とされ、武官として伺候するには「騎士の称号」が、文官として伺候するには「官吏手形」がなければ五十日伺候許可が発行されない。簡単に代行を立てられるというわけではなかった。
セシルは小さく呟いた。
「本当は不安だったのです。宮廷伺候試験の受験資格に年齢や性別に制限がなかったのはカンギール人の私にとって幸いでした……。受験資格がもっと厳しかったら今ごろこうしてあなたにお目にかかれなかったかもしれません」
巡監使の耳は良かった。セシルの呟きをしっかりと拾っていた。
「運も実力のうちと申しますよ。受験資格の緩さがあなたの味方をしたわけですな」
「ええ、そうなります」
受験資格には年齢や性別に加えて身分の制限もない。誰に対しても広く開かれる伺候試験は、貴族でなくても実力さえあれば騎士または官吏になれることから人気が高く、毎年平民出身の受験者も多かった。
ましてや伺候試験のその門は年に一度、秋の収穫祭後にしか開かれないので、受験者は死にもの狂いになる。
「私はね、あの宮廷伺候試験制度の制定はよく考えられていると思うのですよ。制度制定後、実力がない者は伺候することが叶わなくなりました。施行前に縁故で登城していた者も全員が試験を受けて資格を得るようにと言われましたから。結果、無能なものは王宮からいなくなりました。正直言って、どれだけ風通しがよくなったことか。まさに伺候試験さまさまですわ」
よくできているという巡監使の言葉に嘘はない。
「制度が施行される前までは王宮で働く者は貴族と決まってましたし、新しい登用制度の制定が提案された当初は多くの貴族たちが猛反対したもんですが、宰相閣下をはじめとする新制度を促進する高官たちが、貴族としての教養と気品をもってすれば一般教養試験に合格することはそれほど難しくないと貴族の誇りを掲げて力強く説いたのがとにかく大きかった。貴族の誇りとまで言われてしまっては反対論派も試験に受からないから認められないとは言えないですからな。急激に縮小していったというわけです」
セシルは思いきって尋ねてみた。
「制度を制定する際、一部の貴族たちが『これは俗悪の制度である』と叫んでいたと噂で聞きました。そんなことを言う人がいるなんてと私は耳を疑いました。本当ですか?」
「事実ですよ。頭の固い連中の主張はほとんど無視されたわけですからそりゃあ面白くないでしょうから。どうにも燻るところがあるのでしょう」
のちにオルゼグン王国国史には宮廷伺候試験制度の制定・施行について主にふたつの理由から実現に至ったと記されている。
ひとつは、宮廷伺候試験の試験内容が、貴族に生まれた者であれば誰もが知っていて当然の知識が求められている点だ。貴族の嗜みを身に着けていれば解けて当然の問題が多くを占めているので、当然貴族出身者が有利となった。
だが、それは致し方ないことだった。伺候先は王宮なのである。貴族社会の知識や礼儀作法を身に着けていない者に務まるはずがないのである。
もうひとつは、貴族社会において下級貴族が大多数を占めている点だ。下級貴族のほとんどが大貴族と繋がりがないまま暮らしている現況において、貴族とは名ばかりに生活に貧困している者もいれば、二男以下の子どもたちの行く末を案じている者もいた。実力さえ伴えば伺候の機会が開けることに、平民以上に多くの下級貴族たちが期待と歓迎の意を示したのである。
「国王陛下は優秀な人材が発掘、登用されると聞きお喜びになったそうですし、事実、制度施行の翌年からは王宮の人事は活気に満ちました。古い慣習から脱却するのは万時において困難がつきものです。多少の愚痴は聞こえてきても仕方ありません。こうは考えられませんか? 多少の愚痴は大いなる改革成功における置き土産のようなものだと。セシル、この国もまだまだ捨てたものではありませんぞ」
宮廷伺候試験制度は身分に限らず、平等に優秀な人材を発掘、登用する雇用制度である。優秀な人材を適材適所に雇用、任命することで国力向上に繋がる。
約三年年間続いたシンラスの戦いは二年前終局を迎え、オルゼグン王国は新しい国王が戴冠した。その新国王が玉座についてすぐに着手したのは宮廷伺候試験制度の制定・施行だった。
シトラスの戦いのおいてオルゼグン王国の被害も大きかった。傷ついた王国の国力を修復し、盤石とする方針を新国王は示したのである。解釈によってはどさくさに紛れて強行したとも言える。
セシルが受験した昨年は宮廷伺候制度が施行された翌年にあたる。
もしもこの制度が制定されていなかったら、社交界デビューすら許されない年少のセシルが闘病中の祖父伯爵に代わって五十日伺候するなど認可されなかっただろう。
「ええ、本当に。ミッターヒルさん、私もそう思います。この王国には公平無私で優秀な方がいらっしゃる。それがとても誇らしいです」
ミッターヒルとセシルの会話を赤毛の少年は始終黙って聞いていた。
数年後、この出会いが自分の矜持を脅かすことになるとは知らずに、少年はとぼとぼと馬を引く。
見上げた東の空は赤から藍色へと変わろうとしていた。夜の帳が下りてゆく。
夜明けはまだ遠かった。
つづく
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