《ロギの針鼠》は慎重な男のようだった。小太り男からをあらかじめ男の特徴を聞いていなければわからなかっただろう。
約束の大衆酒場は流行っている店だった。陽が暮れたと同時に席があっという間に埋まっていく。
大きな行商箱を背負った男がやってきた。女中に声をかける商売品の簪やブローチなどを取り出して、商売をはじめる。女中は今は忙しいからまた明日にでも見せてくれとでも言っているのか、装飾品に眼を惹かれながらも少々困り顔をしている。すると主人が奥からやってくると行商人は愛想よく挨拶した。女中が後ろ髪を引かれつつ仕事に戻ると、あとは頷くだけでふたりの間では通じるのか、何を話すというわけでもなく、主人あとに続いて行商人も奥の扉に消えていった。
次の客もやはり店に顔を出してすぐに主人が出てきて奥に通されていった。どこかの貴族に使える使用人らしく、ほかの男たちと比べて服の仕立ても良さそうだ。焦げ茶色の髪をうしろに撫でつけて、普段から身綺麗にしているようだ。小太り男が言っていた《ロギの針鼠》である。おっとりとした風貌の中年の男だった。大それたことをするようなふてぶてしさふてぶてしいところなどどこにもない。
「あんなのが極悪人とは。悪人世も末だな」
「まったくだ」
店の隅のテーブルで飲んでいた田舎地主の放蕩息子風の若い男とその供の男が差し向かいに飲んでいた。田舎にしては仕立ての良い上着の胸には花をあしらえて気取っている若い男の杯はほとんど減っていない。お供の男もちびちびと舐めるように飲んでいた。
主従の会話が対等であることに気付いた者は誰も入ない。店の客はいい具合に酔いしれているし、店員たちはテーブルからテーブルへ蜜を集める蜂のように注文に追われて客の会話に耳を澄ます余裕はない。 若者の酒杯の中身は流行の《柑橘水》だ。だが、せっかくの発泡酒なのに時間が経っていまってすでに泡は打ち止めになっていた。
小太り男の話では今夜、三人の仲買人が集まる予定だと言うことだが、まだふたりしか来ていない。
なのに早々と行商人が奥から出てきてしまった。眼で頷いて、ふたり同時に席を立つ。
しばらくすると茶髪の使用人も出てきた。別の客ふたりも即座に勘定を済ませて店を出た。
その夜、巡監使一行は新たにふたりの仲介人を捕まえることに成功した。セシルによる尋問も滞りなく進み、次の取引場所へと足を向けた。これだけ調子よく捜査が進むと気分も足取りも軽くなるというものだ。
それから二カ所ほど取引場所を張り込んだ。市街地の繁華街から少し入った裏通りにあるしなびた安宿、小さな村と村の狭間にある共同水車小屋。同じ場所で取引するのを避けている節がうかがえた。
それにしてもまさかこれほど贋金に携わっている輩の数が多いとは巡監使一行にとって予想外だった。仲買人や仲介人の数多さに辟易しながら、一行は大元締めの情報を求めて捜査を重ねてゆく。
巡監使一行の使命は贋金をばらまいている連中の身柄を拘束だけではない。その繋がりを探り出し、製造元を叩き潰し、贋金を押収する。とにかく徹底的に贋金の痕跡を絶つのが役目である。自供に贋金の隠し場所の話が出れば、当然、詳しい場所を突きとめ、市場に出回る前に押収するよう動いた。
隠し場所は人里離れたところに建てられた空家だったり、樵しか知らないようなの山の中の掘っ建て小屋だったりと、いかにも人目を忍ぶような土地柄にあった。悪人たちなりに用心に用心を重ねているつもりなのだろう。どうやら自分たちが危険な綱渡りをしているくらいのことは充分理解しているらしい。
現場周囲の地理や環境など事前の状況調査に抜かりなく眼を光らせ、協力者がいればそれもいぶりだす。それも任務に含まれていた。
一行は主に実行部隊と残留部隊の二手に分かれ行動し、実行部隊の騎士たちは時間を許す限り、旅の途中で宿に立ち寄った客や買い付けにきた商人、下級貴族などを装って、張り込みや聞き込みに散らばった。
尋問担当のセシルは決まって残留部隊に組み込まれていた。
カンギール人という目立つ外見を隠すのには限度がある。一度見たら忘れられないということは、人に紛れて行動するのには不向きだということだ。外では頭からすっぽり外套をかぶり目立つ髪も瞳も隠すように移動した。皆が出払っている間はじっと空家に閉じこもり、時には何日も留守を預かる。仕方がないことだが、セシルはそれも自分のすべきことだとちゃんと理解していた。
五十日伺候中の立場を慮ってか、それともひ弱な子どもを守るのは大人の義務だと騎士道精神が働いたのか、セシルには最低ふたり以上の護衛がつき、主に後方で全体指揮を執るミッターヒルとその従者であるエルウィンのふたりが居残ることが多かった。
仲買人同士が落ち合う取引の日はミッターヒルも当然、先頭を切って出払って行く。そういう大事のときはエルウィンのふたりだけで取り残された。エルウィンの剣の腕前を信用しての人選なのだろうが、自分より五、六歳年上の赤毛の少年に対するミッターヒルの信頼の深さがセシルには少し不思議でならなかった。
ただの従者に上位貴族の護衛を一任するなど常識では考えられないことだ。とはいえ、人手不足の任務中に常識などあってないようなものとも言える。何事も臨機応変に行動すべしということか。
巡監使一行の中で、従者はエルウィンひとりだけである。
一行の身の回りの世話全般を担う従者の仕事は多岐にわたる。宿に泊まれば主人や女将がいろいろ手伝ってくれるが、野営の場合は食事の支度も少年が受け持っていた。近くの農家から食糧を買い取れれば運がいいほうで、必要に応じて森で兎や鹿を仕留めたり、川で魚を捕ったりと、少年は器用に食材を集めた。騎士たちも手が空いている時は猟を手伝ったが、少年の狩りの腕前は騎士たちの上を行く。かえって足手まといになった。
「エル坊はうまいこと短剣を投げるな。気持ちいいくらいに吸いこまれるように獲物に飛んでいく。まるで神業だなあ」
「それほどの腕前になるまでには余程練習したのだろう?」
「まあそれなりに。無理やりですけど。もう昔のことです」
「短剣投げを無理やりにか? まったくどんな育ち方したんだ」
「旅芸人一座に世話になっていたんですよ。芸ができなきゃパンのひとかけらすら食わせてもらえなかったからそりゃ必死に覚えますよ」
少年の獲物を仕留める的中率には誰もが眼を見張っていた。どんなに俊敏に逃げようと狙った獲物は一度として逃がさない。少年は足も速かった。そんな優秀な狩人が仲間にいるのはとても心強いことかった。食糧の心配をしないですむのは有難いものだ。
「すげえな。一芸は身を助くってやつだな」
「食いはぐれがなくてよいではないか。いざとなったら山で兎を捕ればいい」
「誰もが隠れた才能って奴をひとつくらい持っているもんだ。そのお蔭で我らは肉にありつくことができる。エルウィン、感謝するぞ」
「そりゃあどうも」
皮をはぐのも、肉のさばき方もエルウィンはうまいものだった。野宿するのも手慣れている。
いくら慣れているとはいえ、少年の仕事はとても多かった。鼠のようにあちこちに走り回って、じっとしていない。
セシルは拾ってきた枝をくべようと黙々と手を動かす少年の忙しさにじっとしていられなった。風よけくらいにはなれるだろうかと寄っていく。すると。
「俺に近づくな。余計な手出しはするんじゃねえ」
手の届く距離に入った途端威嚇してくる。
共に行動するようになって十日過ぎているというのに相変わらず、少年は領主嫌いを隠そうともしていない。身体に染みついているようで、騎士たちにはそれなりに礼を尽くしているが、セシルに対しては遠慮がなかった。
本来、領主代行のセシルと従者のエルウィンでは主従の関係と言ってもおかしくないくらい身分が違う。。騎士たちへの対応からそんなことはわかっているはずなのに、この従者はまったく従者らしくなく、最初のうちはちょっと近づくだけでもセシルは怒鳴られていた。
「エルウィンよ。おまえにもいろいろ思うところがあるのだろうが、セシルどのに八つ当たりするのはやめておけよ」
「そうだぞ。こんな小さな子相手に意地悪するのは大人げないぞ」
「それにこんなに小さくても、領主代行さまだぞ。今は捜査中だから済まされて、本来ならば許されないことだぞ」
騎士たちの忠告に、「へーへーそうですね」と軽くいなして何も聞かなかったことにするのはエルウィンの常套手口で、「今更だろ」と態度を改めようとはしなかった。
ミッターヒルは少年を叱ることはしなかった。だが、「これだけは言っておこう」と前置きしてから穏やかにこう言った。
「似たような大きさの小石であっても同じ形、同じ色のものはない。それはわかるな、エルウィン」
「当然でしょう」
「だったらいい」
ある日、贋金の隠し場所に向かう山越えの途中、山の中腹で一行は足を止めた。陽が暮れてきたのだ。夜暗くになる前に野営の準備に取り掛かる必要があった。
もうすぐ夏になろうとするこの季節、野営するのはそれほど辛いわけではない。山は冷えるが、冬の寒さまではいかない。今が真冬でないことに一行は感謝していた。
薪にするための枝を探しに皆で手分けして森に入る。黙ったままセシルがエルウィンのあとをついてきた。最初のうちは枝を拾っていたセシルがそのうちに大木に巻きついた蔓や子どもの両手ほどの大きな葉も集めだしたのでエルウィンはいらついた。
「手伝う気がないなら先に帰ってろ」
「手伝います。でもちょっと待っててください」
申し訳なさそうに言ってくるわりに、しきりに蔓や葉を集める手をとめない。
「そんなもん拾っても火はつかねえぞ」
「火をつけるためではありません。これで桶を作るんです」
「はあ? 桶だと?」
「そうですよ。桶があれば水を汲むのが楽になるでしょう?」
飲み水の確保は死活問題につながる。
随時、巡監使一向は川や泉に出あうたびにおのおの皮製の水筒に水を汲むようにしていたが、料理用の水の確保はエルウィンが一手に担当していた。
野営地に帰るとセシルはさっそく蔓を器用に編みだした。丸い形に編みだして、だんだんと立体に編んでいく。あっという間に底の丸い半月の形の編み籠を作りあげると、内側に大葉を幾重にも重ねていった。
エルウィンは手先の器用な奴だなと感心した。貴族の子どもは編み物も習うのだろうか。
その頃にはさすがにエルウィンにもセシルが何でも与えられ我がまま言い放題に甘やかされて育った貴族の子弟ではないのだとうすうす感づいていた。
蔓と大葉で作った編み桶はちょっと見たところうまくできている。だが、実際に水を入れてみなければ本当に使えるかどうかなどわからない。
完成した編み桶を抱えてセシルは立ちあがった。
食糧にありつけなくても水さえあれば二、三日は生きていけるものだ。エルウィンは優秀な狩人でもあったので、一向を餓死させることはしなかった。山も怖さも知っている彼は、水源の確保にも余念がない。
この日、野営地から少し歩いた先に川が流れていた。
「ひとりで行動するな。おまえのことはミッターヒルから頼まれてるんだ。俺の眼の届く範囲にいろ」
「はい。すみません」
「俺も行く」
「はい」
山から流れる水はとても冷たかった。川は浅瀬で、数人の騎士が魚を捕っっている。澄んでいるので川底まではっきりと見えた。
足取り軽く川まで行き、「お水さん、漏らないようお願いします」とセシルは呟くとさっそく編み桶で水を汲んでみた。
「へえ、意外に使えるもんだな」
「葉の表面がざらざらしている使うのがコツなんです。葉を重ねてもずれないんですよ。ホントは幹を薄く削いで細長く切って編むと丈夫なんでしょうけど、この蔦は結構強くてよかったです。大丈夫そうでですね。お水さんもありがとう」
領主は嫌いだと明言している少年に対し、セシルの態度は柔軟だった。媚びるわけでもなく、馴れ合おうとするわけでもなく、避けるわけでもない。普通に相対している。
──子どものくせに度胸が据わっている奴だ。
気に食わない相手だった。だが。嫌いな相手であろうとその実力と努力を認める度量をエルウィンは持っていた。
「どうぞ。よかったら使ってください」
「……ああ。有難く使わせてもらうとするわ」
ある時、前日の雨でくべようにも枝が湿気てなかなか火がつかなかった。その日の留守番仲間の騎士も手伝ってくれたが、どうにもいぶすに至らない。
「お手伝いします」
「余計なことするな。おまえには無理だ」
「水の精霊に頼んでみます」
「はあ? おまえ、どう見ても魔道師じゃねえだろうが?」
「はい。でも機嫌さえよければ何とかなると思います」
「機嫌って……、なんじゃそりゃ」
すると、セシルは半乾きの枝に向かって、
「お願いです。水精さん、ちょっとどこからどいてください。今から火をつけたいんです。あなたがいると火がつきません。火精さんも意地悪しないでぼわっと大きく踊ってください。でないと私はご飯を食べられないんです。このままでは皆お腹がペコペコです。どうぞよろしくお願いします」
と丁寧に頭を下げているではないか。
「そんな願いごとまがいの呪いなんぞ、効くわけねえだろう、阿呆が。魔道師たちの呪文はそんなんじゃなかったぞ。第一、おまえ、精霊が見えるのか」
「はい」
「セシルどの、そりゃあすごいな。さすがに聖王家の末裔だけあるな。とはいえ見えるだけではエルウィンの言うとおり、どうしようもないぞ。精霊と言えば呪文。呪文といえば魔道師だ。魔道師といえど修業を積まねば精霊たちを使役することなんぞできないだろうしな」
「魔道師かあ。イクミルあたりに行けば結構いるんだろうな。うちの王宮にはふたりしかいないからなあ」
「エルウィンは魔術師に会ったことがあるのか?」
「まあ、ちょっと」
「へえ、どこで会ったんだ?」
「……学びの塔です。連れて行かれたんですよ、滅茶苦茶強引に」
「学びの塔ぉ!? おいおい何でまた魔道師の巣窟なんぞへ」
「魔剣士の才があるかもしれないって言われたんです。結局ありませんでしたけどね。まったく、いい迷惑でしたよ」
「そうか。でも考えようではすごい体験ではないか。学びの塔なんて滅多に入れれんと聞くからな」
「何事も経験だよ、エルウィン」
「そんなもんですかね。俺は勘弁してほしいですよ」
だがそのあと、騎士たちは「うわっ」とのけぞることにはめに陥った。突如、ぼわっと薪に火が灯ったのだ。
エルウィンは呆れ顔でセシルを見やった。
「このガキ、ホントに火をつけやがった。あんなへなちょこ呪いが効くとは……信じらんねえ」
「呪いじゃありません。お願いしたんです。たまに言うこと聞いてくれるんですよ。だから言ったじゃないですか。機嫌がよければって」
「こらこら、エルウィン。セシルどのをガキ扱いするんじゃない」
「そうだぞ、俺たちがここまで何とか来れてるのもセシルどのの神力さまさまなんだ。もうちょっと敬え」
「けっ。そうですかね。そりゃあすみませんでした」
その日以降、野営で食事の支度をするときは、種火の準備を手伝うセシルの姿が見られるようになった。当然、食事担当のエルウィンと石を積んで作った即席の釜を囲んで仕事をすることになる。
騎士たちはともかく、代行といえど領主であるセシルが自分のごく近いところでちょこまかと動いている、この現実をエルウィンはどうしても認めたくなかった。
憮然とした顔で野菜を短剣で細かくする自分の横で、枝を小山のように積み上げ、ブツブツ願い事を呟いては丁寧にお辞儀をしているこの不可解な生き物はいったい何なのだ。カンギール・オッドアイが稀有な存在なのは周知に事実だが、この子どものやることは洒落にならない。
しかし一番洒落にならないのは自分自身だ。少年は苛立たしかった。次代の領主にも関わらず、この自分がこの子どもを隣りに置いている。信じられないことにそれを許している。
──いや、許しているんじゃねえ。勝手にこいつがいるだけだ! 振り払っても寄ってくるんだから仕方ねえのか。
自問自答をしていると、「ほかにお手伝いありませんか}と人形のように整った顔で隣りで首を傾げてくる。
「……ああ、こいつで終わりだ。明日は宿に泊まれそうだってよ。お互い仕事が減ってよかったな」
「はい。寝台で寝れるのは久しぶりなので嬉しいです」
「そりゃそうだ。騎士ともなれば戦地での野営も珍しくねえだろうが、おまえは違うもんな」
ある意味、この子どもはよくぞこの任務について来ていると思う。
エルウィンは十歳の頃、ほとんど野宿生活をしていた。だが、上位貴族の子どもがこうも何日も野宿生活をするなんて驚きだった。伯爵家の子弟となれば、すべて侍女や侍従任せの生活を送っていたはずなのだ。自分では服も着れない、顔を洗うのさえすべて使用人に手伝ってもらう。そんな貴族の生活とは一変したこの隠密生活である。貴族の子どもはもっと軟弱で無理難題を言ってくるような手におえない生き物だと思っていたのに、この子どもはよく耐えている。
特に我がままをいうわけではないこの小さな領主代行に、少しずつ嫌悪感を抱かなくなっている。そんな自身の変化をエルウィンは認めざるを得なかった。
野宿をした翌朝のことだった。陽が顔を出すと同時に起きて食事をし、片づけをしているところへミッターヒルがやってきた。
「エルウィン、これからセシルが身体を洗にいくから付きやってやれ」
「はあ? 今からですか? 今日は皆さん、これから移動ですよね?」
「そうだ。次の休憩場所に丁度良く水場があればいいが、そんなことはわからなんからな。とにかく今のうちに水浴びさせてくれ。とにかく、川に流されないようにセシルのことをしっかりと見ててくれ」
「水浴びねえ」
巡監使一行は男の集まりだ。恥らうことなど何もない。これまでにもエルウィンや騎士たちは時間を見つけて水浴びをしていた。だが、よくよく思い出してみるとセシルが自分たちと一緒に水浴びをしている記憶がなかった。
「すると何か。おまえはここにきて一度も身体を洗ってないのか?」
「すみません。でも身体は拭いてました。それに今日は山を下りて、町までいくのでしょう? 結構大きな町らしいし、今夜はちょっといい宿に泊まれるかもって聞いていますから。その時にでも入らせていただきます」
巡監使一行にセシルが合流してから宿に泊まったのは三回。うち二晩は安宿だった。もちろん風呂の用意などない。食事をして寝るだけだ。翌朝、陽が出るに前には出発していた。それでも久しぶりのちゃんとした料理に皆、腹を膨らしものだ。
安宿でも風呂に入れないことはない。それなりに親切なところは風呂用のタライを貸してくれる。だが、湯を用意してくれる安宿はほとんどないと言っていい。湯を沸かす手間も時間も宿側にとっては正直、大きな負担なのだ。料金を加算するにしても労働力を差し引くとなると割に合わない。湯の風呂に入りたければ、もう少しましな宿に泊まるしかない。ただし、その宿でも湯は用意してもらえても、その湯を部屋まで運ぶのは客自身がすることになる。一般の宿屋は一階は食堂、二階が客室になっている。一階から二階に何度も往復して湯を運ぶのは結構な労力がいるのだ。
巡監使には支度金が用意されているので、安宿をわざわざ選んで泊まっているつもりはない。ただし、これまでの道中は田舎や山間での移動が多く、宿に泊まる機会が少なかった。宿に泊まれたとしても、たどり着いた町に安宿しかなかったり、ちょっとましな宿に泊まったとしても、夜更けに到着し早朝に出立するとなると皆、風呂よりも睡眠時間を選んだので結局、風呂には入らずに宿をあとにしていた。
だが、この朝はそうも言ってられなくなった。セシルが肌を掻きむしっているのをミッターヒルは見てしまったのである。よくよくセシルの肌を見れば、首のところや腕に湿疹が出ている。即座に、「今すぐ川で洗ってきなさい」と命じた。
今日、騎士の半分は別行動をとることになっていた。仲介人のひとりが、この先の山小屋に住みついているという情報を得たためだ。先日の取引現場でこの仲介人だけ早めの時間にやってきて、これまた先に去ったため、取り逃してしまった。今日あたり、山小屋にもどってくるらしい。麓の農家が食材の頼まれ者をしていて、その約束の日が今日なのだと言う。いつも月の半分は出かけているというのも農夫の言葉だ。
半月分の食材にしてはは結構の糧だった。ひとり分にしては多い。山小屋に仲介人のほかの仲間がいる可能性もあった。もしかしたら仲介人の家族なのかもしれない。もしくは仲間がいるのかもしれない。
騎士たちは農夫から服を貸してもらい、麓の男の装いで出かけて行った。
エルウィンはセシルを伴い、川までやって来た。子どもひとりで水浴びさせるのはとても危険だ。一昨日、雨が降ったからか、川の水は豊かだった。その分、流れも速い。ミッターヒルが案じるのも頷けた。
岩石で自然にできた窪みに川の水が入り込んで、流れが一時的に止められている場所を見つけると、エルウィンはここで身体を洗うようセシルに言った。
「ここで流されないよう見張っててやるから。はやく済ませてこい」
だが、セシルはなかなか服を脱ごうとしない。
エルウィンの胸の高さほどしかないセシルである。上から見下ろすと、首や腕以外にも服の隙間からのぞける肌にも赤い湿疹が出ているのがが見えた。
「早く脱げよ」
「服を脱ぎたくないのです」
「はあ? 服を脱がなきゃ洗えねえだろうが。何か、おまえ一丁前に恥ずかしいのか?」
セシルは俯いたまま、黙り込んでしまった。
エルウィンは思わず怯んでしまった。いつも子どもらしからぬ毅然としたセシルはそこにはいなかった。そこにいたのは涙をぽろぽろ落として川石を濡らす小さな子どもだったからだ。
「女じゃあるまいし、俺のことなど気にするな。おまえだってそのままじゃまずいのはわかってるだろう。その湿疹、放っておけば化膿するぞ。身体を綺麗にして来い。あとで薬を塗ってやるから」
だが、セシルは首を振った。必死に振った。
何がそんなに気に食わないんだ、とエルウィンはいらついた。恥ずかしいにもほどがあるだろう。
「おまえはカンギール人の眠りの卵で、今は男でも女でもないんだろう? だったらそんなに恥ずかしがることねえだろうが。それにおまえは将来、男になるんだろう? こんなことぐれえでめそめそすんな! 言いたいことがあるなら言ってみろ! とりあえず聞くだけは聞いてやる!」
セシルは涙で濡れた左右異色の瞳をエルウィンに晒した。濡れた瞳は川の光を反射して綺麗に輝いていた。
「私は二年前まで……、娘として育てられました。けれど、父と兄が死んで、伯爵家の跡を継ぐ者がいなくなって、祖父は私に将来、男性化するように言いました。男になるのが嫌なのではありません。ですが、ずっと淑女の教育を受けてきたのです。夫と医者以外の男性に肌を見せる行為がどれだけ卑劣なものか、そのように教えられてきたのに……。私は将来、妻を持たなければならないのはわかっています。けれど、まだ私の中には淑女の教育が染みついているのです。申し訳ありません。わかってくださいとは言いません。けれど、服は脱ぎたくないのです」
エルウィンは思わず唸った。まさに目の前にいるのは貴族の生娘にほかならないとやっと理解したのだ。だとしたら、この子どもの言葉も頷ける。貴族の娘は結婚するまで乙女を貫くのが不変の常識だ。エルウィンにとってはただの水浴びが、淑女のセシルにとっては夫以外の男に肌を晒す破廉恥な行動となってしまうらしい。
かと言って、このままでは確実にあの湿疹は化膿する。肌を見せなくないからと言って、ひとりで水浴びさせるには心もとない。子どもの体重は軽い。川の流れに巻き込まれたら一気に流されてしまう。そうなれば、一瞬で命の危険に晒される。
さて、どうするか。
「……なら、俺も一緒に入ってやる。ああ、慌てるな。俺はこいつで目隠しするから、おまえの肌は見ない。俺が両手を広げているから、その中で身体を洗え。いいな、へたな動きはするなよ。流されても眼が見えない俺は咄嗟には動けないんだからな」
「でも、それではあなたも服を脱ぐのですよね?」
「当然だろ。服を着たままじゃ流されたとき泳ぎにくい。水を吸って重たくなって溺れてくれって言ってるようなもんだ」
「でもそうなると、私はあなたの肌を見てしまうことになります」
「……いいさ。俺は気にしねえ。女に裸を見られるのが初めてってわけじゃねえし。まあ、おまえは女じゃねえけどな。言っとくが、だからと言って俺は露出狂じゃねえぞ。自分からわざわざ人前で脱ぐ趣味はねえ。さあ、さっさと済ませるぞ。とにかくおまえはちゃんと洗え! 洗ったらこの薬を塗っとけよ。背中は俺が塗ってやる、ああ泣くな、泣くんじゃねえ! 背中だけだ。仕方ねえだろう、おまえ自分で塗れねえんだから。背中塗ってる時、ほかの肌が見れないようにちゃんと隠しとけばいいだろうが。それくらいは我慢しろ、わかったな!」
さっさと服を脱ぎ去ったエルウィンがざぶざぶ川に入り、岩の窪みにたどり着いた。手持ちの布で眼を隠した。「いいぜ、来いよ」と水面に浮かべるようにして両手を広げる。しばらくして水音があがり、近くに子どもがやってきた気配がした。
「いいか、絶対流されるなよ。いざというときは声をあげろ」
「はい、わかりました」
「ちゃんと擦って垢を落とせよ。じゃねえと湿疹は治まらねえぞ」
「はい」
ごしごし身体を擦っているのか、水の跳ねる音がする。まるで小さな魚がパシャパシャ飛び跳ねているようだな、とエルウィンは思った。
しばらくして、川の流れに足を取られたのか、子どもの身体が一瞬、左手に触れた。「きゃっ」と小さな悲鳴が聞こえたと同時にすぐに離れる。
「大丈夫か?」
「は、はい。大丈夫です。ありがとうございます」
そのうち、「洗い終わりましたので出ます」と声がかかった。
「薬を塗ったら知らせろ。それまで俺も水浴びしてる」
セシルの気配が完全に離れていってから川岸に背中を向けて、自分の身体もついでに洗った。まったくどこの深窓のお姫様だと言いたくなる。あんなんでちゃんと男性化できるのかねえ。
薬を塗り終わったと声がかかり、エルウィンは目隠しをしていた布を取り去るとセシルのところに戻っていった。
セシルは川に背中を向けて腰を下ろしている。乳白色の髪は濡れたまま、毛先から水がぽたぽた滴っている。柔らかな白い色合いがいつもよりも深かった。
腕や首が緑色に染まっている。どうやらちゃんと薬を塗ったらしい。
「背中を見せろ。塗ってやる」
セシルは嗚咽を噛み締めながらうしろを向いて上半身を晒した。もちろん、胸元を腕で隠している
──泣きたいのはこっちだっつーの。
だが、エルウィンの災難はこの朝だけに留まらなかった。
「え? こいつと部屋が一緒ってどういうことです?」
久しぶりに宿に泊まり、満足いくまで夕食を済ませ、今日はちゃんとした寝台で久しぶりに寝られる、ぐっすり寝てやるぞと思いきや、宿の女将に「こちらのお部屋です」と二階に案内されて唖然とした。
部屋には二台の寝台が置かれている。それはいい、それはいいが──。
「どうしておまえがここにいる!?」
驚いたのはカンギール人の子どもも同じだったようだ。
「怒鳴らないでください。ここで寝るよう言われたのです」
「おまえは仮にも領主代行だろう? ひとり部屋、もしくはミッターヒルと一緒にこの宿一番の上等な部屋を使えよ!」
「でも……」
「どこのどいつだ、おまえをここに寄こしたのは!」
エルウィンの問いに答えたのは、ひょいとドアから顔を出した巡監使だった。
「ああ、それは私だよ。これからもセシルの風呂の世話をよろしく頼むよ、エルウィン。下に湯を頼んでおいたからあとで取りに行くように。セシル、きみはとにかく清潔にして、早くその湿疹を直すことだ。じゃあ、明日は早いからね、ふたりとも早く寝るように。ではおやすみ」
こんちくしょう、と歯ぎしりした程度では気が治まらない。
──また風呂かよ、この糞ったれ。ああ、わかったよ。やりゃあいいんだろう、やりゃあ。
大きなタライを部屋の持ってくるとエルウィンはドンと大きな音を立てて床に置いた。わざと音を立てたようだ。
階下からお湯が入った桶を両手にふたつ運び込み、何度か往復してタライの半分までお湯を注いだ。宿の女将が気を利かせて石鹸を用意してくれたのは、肌にとっては有難い心遣いだったが、セシル本人にとっては果たしていかがなものか。
「おい、いいか、泣くなよ。泣くんじゃねえぞ。わかったな!」
タライに入り、湯につかる全裸のセシルはずっと泣きじゃくっている。石鹸で身体を泡だらけにした小さな背中を前にしてエルウィンは桶を傾けた。湯を注いでセシルの身体から泡が流す。すると赤く染まった湿疹が点々と散らばる白い肌が現れた。
「こんなの嫌だ! 私が何をしたと言うのだ! 理不尽だ!」
涙でタライが溢れるほど、セシルは泣きながら我慢に我慢を重ねて風呂に入っていた。これまでの従順な態度が嘘のように大声で喚いている。
「小僧っ、少しは大人しくしやがれ」
「小僧ではない。セシルだ! それに私はまだ男ではない!」
「うるせえ、いいかセシル。恨むなら、タライ風呂を恨め! 俺は水浸しの部屋で寝たくねえんだ!」
泡を流さなければいつまで経ってもセシルは風呂から上がれない。二度三度、頭から湯をかけてやった。
さすがに目隠しで桶のお湯を流す勇気はエルウィンにはなかった。ちょっとでも狙いを間違えれば床が水浸しになってしまう。もっと酷く狙いを間違えれば、せっかくの今夜の柔らかい寝床がびちょぬれになる可能性だってあるのだ。目隠しをするかしないか、利はどちらにあるかは明白だった。
「おい、まだ腕に泡が残ってるぞ。もう一度かけてやるから、さっさと流し落とせよ」
タライの中で足を抱えるように座る真っ裸のセシルが耳から首まで真っ赤に染めて震えている。羞恥によるものか怒りによるものかはわからない。だが、その朱色に染まった肌を上から見下ろしながら、エルウィンはふふん、と鼻で笑ってやった。
「手伝ってやってるんだ、有難く思え」
「何がだ! 肌を見ないと言ったのに! 嘘つきめ! 恥を知れ! こんな屈辱、絶対に許すものか!」
セシルは喚き散らしながら、くるりとうしろを振り返った。涙目でキッとエルウィンを睨んでくる。いい眼をしてる。エルウィンはは笑いたくなった。
「このド助べえ野郎め!」
すでに旋毛から足の爪先まで前も後ろもどこかしこも見られに見られまくっている裸体であったとしても、羞恥は留まることを知らない。噴き出す怒りも決して静まることはないだろう。
「ああ、いいぜ。精々恨めよ。ただし風呂は毎日入れるぞ! じゃねえと破傷風にでもなってみやがれ、余計な手間がますます増えるじゃねえか!」
「この横暴男! 私の純真を返せ! 信じた私が馬鹿だった! おまえの穢れた眼に我が身を晒さねばならないとは……。おまえなどにおまえなどに……うっく!」
ギュッと拳を握りしめ、歯をキリキリと食いしばる。無防備な裸の子どもは屈辱に全身を震わした。
「こんな色気も糞もねえ餓鬼の裸を見て誰が興奮するかっつーの。まあ、眠りの卵の生体研究にはもってこいなんだろうがねえ。それにしても上も下もぺったんこだなあ。おまえ、男になるにしても下がこのまんまってのはまじいだろ。これじゃなあ、まるっきり女じゃねえか」
「この糞馬鹿変態野郎! いたいけな子どもの身体をどこまでも愚弄するつもりなのだ! おまえの下卑た目玉をくり抜いてやる! その緑の目玉を私に寄こせ! くべて灰にして墓場にばらまいてやる! 今からでも遅くはないっ! 底なし沼の底にでも棲みついてその穢れた魂を一生をかけて悔い改めよ! 今宵一度の汚点と言えど、それだけの大罪だと思ええええ!」
「あのなあ、言っとくけどなあ、ミッターヒルは五十日伺候中のおまえの風呂の世話、俺に押し付けたんだ。残念だったなあ、今宵一度の汚点じゃなくてよお」
真っ赤を通り越して真っ青になるセシルだった。がくんと項垂れた顎からはぽたりぽたりと滴が小さな膝にしたたり落ちる。
「茜さす照る陽の君、射干玉の月詠の女神よ、この非道をなぜお許しになったか。貴様、覚えてろ! この無念、晴らさずになるものか!」
小さなふたつの拳を、セシルは爪が食い込むほどにいつまでも強く握り締めていた。
つづく
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