感じるままに vol.6



  目覚めた時、俺は紙切れを握っていた。


「朝練だから先に行く。
体調悪かったら今日は休めよ。
担任にはうまく話しとくから。
                和義」


 慌てて起き出し、あちこちに痛みが残る身体を引き摺るように、学校に向かう。
だらだらと布団から出ないでいたら、どこまでも気持ちが落ちてゆくようで怖かった。

 重い身体を動かすのは体力的には辛かったが、気分的にはまだ楽だった。

 登校した時、すでに一時限目の終了チャイムがちょうど鳴っていたところで、先生が教室を出ていくのを確かめてから、俺は中に入り込んだ。

 すると、目聡い悟が、早速、俺のところにやってきて、無言のまま空いた椅子にどしりと座る。

「ごめん、悟。できなかった。俺、約束守れなかったよ……」

 その日は約束の期限日だった。
自分がどんな顔してるか、悟の表情からある程度想像できたのが、また情けなかった。

 曲を作ったあとのあのやり遂げた高揚感とは全然異なる疲労と脱力感に満ちた精神状態。

「休むかもしれないって聞いた時、もしかしたらできたのかなってさ。そっ……か、無理だったか」
「ごめん」

 俺は鞄を開けて、一枚の紙を取り出した。
小さく織り込んだそれは、渡すに渡せられなかった例の曲。

「悟、これでよかったら……」

 そんな俺の行動に悟はすごく驚いた顔をして俺と楽譜を交互に見比べ、そのうち形相を浮かべて声を荒げた。

「どうしたんだよ、おい。自分が何言ってんのかわかってるのか?
この間とは全然違うじゃないか。あの時、おまえは泣いて俺に謝ったんだぞっ、克己っ!」

 何度も、俺の肩を掴んで揺さぶる悟。
その悟の興奮した声を佐藤が聞き付けて、俺から悟をはがしにかかった。

「悟っ、放してやれよ。克己の顔、真っ青だぞっ」

 佐藤の言葉にはっと我に返ったようなそんな表情を、悟はした。
俺は椅子に凭れるように腰掛けて、ひとつ大きな溜め息をつく。

 俺の言葉をふたりは黙って待っていた。

 このまま俺が何も言わないで済まそうとしても、この連中は許さないのはわかってた。
だから、俺はそんなふたりをゆっくりと見上げて、重たい口を開く。

「俺、今は克己じゃないんだ。だから、これを演奏しても困る奴はいないんだよ」

 俺の台詞に、二時限目の授業開始のチャイムが重なった。
担当の先生の小柄な身体を認めると、悟は「昼休みになっ!」と吐いて、渋々自分の席に戻って行く。

 俺は、またひとつ胸を上下させて息をついたのだった……。




 昼休みになっても、悟は俺を捕まえることができなかった。
四時限目が始まる前に、俺が早退してしまったからだ。

 十二時頃、電話が鳴ったけれど、俺は聞こえない振りをして取らなかった。

 放課後になるとわざわざ悟が家にやってきて、俺たちふたりはそこでやっとご対面となった。

 悟を家の中に通すと、俺は二人分の紅茶をマグに入れ、悟の前に差し出した途端、ソファーに崩れるように埋まった。

 悟のほうは椅子に座るのももどかしそうに、
「説明してもらおうか。おまえが克己じゃないっていうの、どういう意味だよ」
早口で畳み掛ける。

 悟は「STEP」の練習を振ってまでしてここに来ていた。
練習熱心な悟にしては稀有のことだと言っていい。

「軽蔑するよ、おまえ。俺の気持ち知ったら、きっと軽蔑する」
「いいから話せっ。軽蔑するかどうかは俺が決める!」

 俺は迷わなかった。

 だって、捨てたのだから……。

 克己自身さえも。「KATSUMI」さえも。

「和義が見てるのは俺じゃない。俺の顔を見ながら母さんを見てるんだ──」

 だから、俺は沙和子になるためにひとつだけを残してすべてを捨てた。
あいつの腕に抱かれるために──。

 俺はそう答えた。

「和義の奴が? まさか。あいつがおまえを身代わりにするわけないじゃないか……」

 でも、昨日和義は激しく俺を抱き締めたんだ。
義弟の俺に、あいつの気持ちをあれほど高められるはずがない。

「全然優しくなんかなかった。母さんと思ってても俺の身体だからさ、手加減する必要ないんだよね」

 マグの中の澄んだ液体が揺れた。

「ごめん。今日はこれで帰ってくれる? 俺、少し眠りたいんだ」

 そんな俺に、悟は、「おまえは馬鹿だ」と言った。

「そんなに好きで……、好きだからって自分を殺すのか? 
好きな気持ちだけ残したって、克己自身じゃなかったら骸(むくろ)でしかないんだぞ」

 悟は何もわかっちゃいない。俺の気持ち、全然わかっていない。

「それでもいいんだよっ。俺、和義の側にいられるんならっ。
……あいつ、好きだから。あいつの暖かさを感じていられるんなら、俺、克己じゃなくってもいいっ!」

 居間に悟を残したまま、俺は部屋に駆け込んだ。

 何も聞こえない。何も聞きたくない。

 俺が今聞きたいメロディは、和義の奏でる鼓動の旋律だけ。

 恋に壊れた胸の音なんて──知らないっ!





 その夜も、俺は和義の隣りで眠った。
でも、夜中の二時頃になるとどうしても目が冴えてしまって、俺はベッドをそおっと抜け出た。

 自分の部屋に戻って、白い鍵盤に手をかける。
ひんやりとして気持ちいい。

 軽く小さな音で短い曲を弾いてみる。

 丑三つ時の演奏会だ。

 最初の一曲が弾き終わると、誰もいなかったはずの客席にひとりぽつんと立って拍手をしてくれる人がいた。

 開けっ放しの俺の部屋のドアを背にして、上半身裸の和義が佇んでいる。

「上手いもんだな。一度弾き語りを聞いてみたい」
「ごめ……ん。起こしちゃったんだね」

「違うよ。俺が眠ってなかっただけ。おまえがベッドを出たのも知ってたよ」
「眠ってると思ってた……」

 そう口にしながらピアノを片付けようとすると、「もう弾かないの?」と和義が頭を傾げて言う。

「だって。バスケ部のメニューってきついんだろ? 少しでも眠っておかなきゃおまえバテちゃうよ。
俺は学校休んでも構わないけど、和義はダメだからさ」
「おや、どうして克己だったら休んでもよくて俺だとダメなわけ?
不平等だな、それ。基本的人権の尊重に反してる」

「そんなこと言ったって……。俺はね──」
「克己はどうだって?」

 そう尋ねながら俺に近付いて、そして顎に手をかけてくる。

 両頬をすっぽりと覆われ、俺の顔の上に和義の唇が落ちてくる……。

「……!」

 こんな優しいキスは初めてだった。
触れるか触れないかの軽いキス。

 さっき、ベッドでは、昨日の晩と同じような痛いキスをしてきたのに。

「何?」
「今の……キス…………」

「……ん。キスがどうした、もっとしてほしいのか?」

 俺の髪をくしゃくしゃに撫でて、和義が笑顔で俺の身体を優しく抱き締める。

 宝物みたいに。今にも壊れそうな大切なものを扱うように。

 その抱擁の中で、キスが粉雪のように舞い落ちてくる。

 雪が積もるほどに繰り返される。

──この優しささえも沙和子のもの……?

 わかってる。これは俺が望んだことなんだ。

 それでも、この優しさの中にだけはいられなかった。

 和義の包み込む想いの海から現実に戻りたいっ。

 もっと苦しいくらいに抱いてほしい、と心がざわめく。
和義が抱いてくれてるんだってわかるように、俺の身体におまえを刻むために、もっと強く……って。

「熱が出てきたみたいだな。まったく、おまえの身体ってくせもんだよ。
俺をその気にさせるだけさせといて、『はい、ここまで』だもんな」
「何……和義、馬鹿なことを。手加減なんかしないくせに」

「ストップかかるのわかってるからな。それなら、手っ取り早く済ませたほうが勝ちってもんだろう?」

 済ませる……か。

「では、眠るとしますか。おいで、克己。春といっても夜明けはまだ寒い」

 和義の部屋に戻ると、俺は自分からパジャマを脱いだ。

 和義は「身体のことも考えろ」とは言わなかった。
仕方ないなって感じの微笑みで双の腕を拡げてくれた。

 和義のキスが始まる……。

 こうして俺は、またその夜も沙和子になった。





 翌日は学校を休んだ。
けれど、夜になると、俺はやはり和義に抱かれることを望んだ。

 和義は眠りにつくまで何度もキスをしてくれた。
それは日曜の夜まで、両親が重たそうにお土産を持って玄関先に現れるまで続いた。

 本物の沙和子が帰ってくると、和義は俺に触れようとしなくなり、あのキスも、あの抱擁も、すべて幻であったかのように、三晩の形跡を和義は綺麗に消し去った。

 和義の唇が付けた跡ひとつさえ残っていない。
見事なほど完全に、哀しいくらいに消えていた。

「一応、沙和子さんに悪いからな」

 沙和子となって和義のかたわらにいられた時間は、そうして終りを告げられた。

 新婚旅行は終わった。俺は克己に戻らなくちゃいけない。






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