歯科医のお義父さんが岡山での学会に出席することになった。
木曜日の午後に開かれるらしい。
「ふうん。だから歯医者さんって木曜日の午後を休診にしてるのかなあ」
せっかく岡山まで行くのだから、と、お義父さんは、「三泊の予定を組んで、帰りは京都でも観光してきたいんだ」と言った。
「お母さんも連れて行くよ」
母さんは少し照れながら、「あのね、新婚旅行なのよ。いいでしょっ」と片目を瞑った。
「ねえ、沙和子さん。ホントは海外が良かったんじゃない? 父さんも以外とセコイよな。
学会のついでにだなんて、沙和子さんが可哀相だ」
「あらぁ、いいのよ。ふたりで旅行できればどこでもいいの」
ご馳走さま、と肩を竦めた和義が、ちょっぴりだけど寂しげに見えたのは気のせい──?
そうして、曲の期限もあと一日という木曜の朝、仲良く肩を並べてうちの両親は出掛けて行った。
俺も和義も炊事はできるほうだったから、そういう心配はふたりともしていないらしい。
母さんなど食費代を渡す時、「よろしくね」と嬉々としていた。
その日は運動部の代表委員会があったため、各運動部の放課後の練習は少し遅れて始まることになっていた。
バスケ部も例外ではない。
六月の引継ぎで、部長になるのが決定してる和義と、副部長内定の徳永が代表委員会に出席しているものだから、いつもは急いで部室に向かう大森と篠田も今日は余裕たっぷりと俺と一緒になって、四時過ぎのこんな時間になってもいまだ教室に残っていた。
和義はよく徳永と一緒に行動している。
ふたりとも一年時では別のクラスだったらしいけれど、バスケ部内では名コンビで通っている親友同志の仲らしい。
最近では、「STEP」の連中も、この間渡した曲を料理するのに忙しいらしく、悟などはそそくさと逃げるように消えていた。
「親がいないなんて気楽じゃん。したい放題、羨ましいなあ」
俺が旅行に出掛けた両親のことを話すと、篠田が口笛をヒューっと吹いて、「いいな、いいな」と連発した。
「春の古都をふたりで歩く、か。雰囲気あるなあ」
大森は俺の机に腰掛けて、うんうんと頷いている。
こんな、今年十七にもなる大きな子供がふたりもいるってのに、新婚旅行だなんて。
俺としては少し恥かしいんだけど。
「克己の母さんって、ピアノを教えてたんだろ? 実はうちの妹が習ってたらしいんだな、これが。
気さくな美人なんだってな?
でも、克己は母親似だと言われるわりに、おまえ、美人っていうか、綺麗ってんじゃないよなあ」
それから篠田はちょっと考えて込んで、
「う……ん。どっちかって言ったらかわいいって感じなんだよな。
眼鏡をかけちまうとそうでもなくなるけど。そう思わん?」
と、結局大森に同意を求める。
褒められてるのか、けなされてるのか。
どんな顔したらいいのかわからなかった。
一応、褒め言葉と受け取っていいのかな。
でも、眼鏡ひとつでそんなに俺の顔って変わるものだろうか。
「それでも、やっぱり似てるよ。親子だよな」
へ? 大森って俺の母さんを知ってるの?
「何だよ、おまえ、克己の母さん、知ってたなんて一言も言わなかったじゃんか」
篠田も驚いてるみたいだ。
俺たち母子が工藤家に入ってから、俺も和義もまだ一度も友達を家に連れてきたことはなかった。
だから、俺もすごく不思議だった。
「だって、あれだろ? 沙和子さんって言ったら、カズの好きだった人じゃんか。
親父に持っていかれたって、あいつ去年言ってたじゃん」
「…………──…………」
和義は女の子から手紙を貰っても、
「今は誰とも付き合うつもりがないから」
そう言って、全部断ってるって聞いた。
入学当時から、ずうっとそうしてきたって。
それは今でもらしい。
ふいに辞書とか借りに部屋に行くと、ときどきテーブルの上にさまざまな鮮やかな色の手紙をみつけた。
でも、まだ一度も封を切ったものは見たことがない。
「返事をするのも大変だね」
俺は先日、初めて、それについて触れた。
手紙のひとつひとつに、あの曲と同じ想いが込められてる。
そう思うと、それ以上の言葉は続かなかった。
「まあな、顔も知らない娘だと本人を探すのがまず大変なんだ」
和義もそう応えただけ。
その時、俺は思った。
──今のところ、あいつには好きな人はいない……?
それは、すごく救いだった──。
「…………──…………」
──救いだったはずなのに……。
(沙和子さんっていったらカズの好きだった人じゃんか……)
カズの好きだった人……。和義の好きな人。
……う……そっ……そんな…………!?
和義の──?
…………母さん…………っ!?
ああ。恋に破れた胸、の──音…………。
今ならわかる。今なら……。
音にならない音。
息が詰まる。
哀しみだけ、俺の胸目掛けて駆けてくる。
でも、熱くもない。冷たくもない。
身体はいつもの体温を保ってる。
ただ、時間が一秒一秒経つほどに、哀しみに混ざっていろんなものが俺を目掛けて集まってくる。
俺の胸を目掛けて射る──。
(…………カズの奴、克己に関しては父親してるもんなあ)
(沙和子さん、克己、学校で熱出してた)
(以前に写真を見たことあるけど、そっくりってほど似てるわけじゃないのな)
(おまえの顔、好きだな。眼鏡外したほうが似合う)
過去、現在……。ぐちゃぐちゃに混ざって俺を襲う。
自分の中に、こんな渦が生まれるなんて……っ!
「克己、カズたちが来たから俺たち行くな。じゃあ、また明日」
「バイっ」
残された俺はちゃんとひとりで歩いていた。
ふっと振り返ると次の角まできてて、考えなくても身体が帰路へと向いていた。
家に着く頃には、何で和義が俺を大切にしてくれていたか、鈍感な俺でもわかったいた。
すべて、母さんのため。すべて母さんの息子だから。
そして、母さん似の俺の顔にあいつは母さんを重ねていた。
だから、コンタクトにさせた。
だから、俺を頼れって言ってくれた……。
そう。和義は新婚旅行を心から喜んでいなかった……。
そんなに母さんが好き? そんなにお義父さんが羨ましい?
好きな女がほかの男に抱かれるなんて、そりゃやっぱり辛いよね。
恋敵が自分の父親なら尚更だ。
そんなに……、母さんがいいの……?
ねえ、和義──。
闇夜。真っ暗な部屋。
最初の晩の食事は、母さんが今朝作ってくれた暖めるだけのビーフシチュー。
でも、俺は鍋にも触らなかった。
身体がだるくて……。
だから、帰ってすぐ横になった。
七時を過ぎて、部屋のドアが開いた。
ノックが聞こえたけど、応える気力もなかった。
「食事しないのか? 昨日、遅くまで作曲してたのが効いたんだろう」
優しいね、和義。いつだって、母さんの息子には優しい。
「気持ち悪い? 熱でもあるのか?」
ベッドの傍らに来て、和義は俺の額に触れようと手を伸ばした。
つうっ……と指が触れた瞬間、俺の身体が凍り強張る。
和義の手は冷たかった。手を洗ったのか、少し濡れていた。
「起きられるか? シチューを暖めたけど食べる?」
ゆっくりと身体を起こすと、自分が制服のままで寝ていたのに気付いた。
和義も制服のまま。帰ったばかりなんだろう。
「克己、どうした? 寝ぼけてるのか?」
「頭はしっかり働いてるよ……。いま、階下に降りていくから……先に行っててくれる?
気にしないでよ。ただ、だるいだけなんだ」
食事をして、和義が風呂に入ってる間、皿を洗った。
それから、あいつが出るのと入れ代わるようにして浴室に向かった。
最小限の言葉しか使わなかった。
いや、使えなかったんだ。
余計なことをいい出したら、何を口走るかわからない。
吐いてしまいたい想いや言葉は山ほどあった。
けど、どれもこれも空しいものばかり。
タオルで濡れた髪を拭きながら水がほしくて台所に向かうと、途中居間で和義に会った。
あいつはサイドボードに置いてあったフォトスタンドを手にしていた。
初めてここに越してきた時に四人で撮ったものだ。
真ん中に両親、それぞれの親の隣りに俺たちが並んで写した写真。
俺は和義の横を擦り抜けてコップを掴んだ。
あいつもちらっと俺を見たけど、別に何も口にしなかった。
冷蔵庫から飲料水を注ぐと一口飲んで、そのまま部屋に持っていこうと来た道を辿った。
和義は、さっきと変わらずに立ったままで、写真を見ていた。
「俺にも一口、水くれる?」
俺の手の中のコップを見て、和義は言った。
写真を元に戻して、俺の前に身体を向ける。
俺はコップを和義に差し出して、俺の目の高さで動く和義の、喉が鳴らす音を聞いた。
「曲……上手く書けないのか?」
俺のコップを手にしたまま、和義は尋ねた。
「……書いてないよ」
「昨日はちゃんとピアノの音、聞こえてたぞ」
確かに俺は弾いていた。
悟に渡せなかったラブソングを──。
だけど、昨日の晩に弾けた曲が今日も弾けるとは限らない。
フォトスタンドの中の母さんが俺たちに笑いかけていた。
俺にだけじゃない。和義にも。
そう、おまえはそれを見ていたのか。この三晩、ずっとそれを見ているつもりなの?
おまえ、そんなに母さんを──?
俺は母さんじゃない。克己だ。
「和義……、言ったよね。最後の瞬間は俺の前に立てって……」
「ああ、言ったな」
俺は沙和子じゃないんだよ……。
「俺、そんなに母さんに……似てる……?」
眼鏡を外して、俺は和義の真正面に立った。
サイドボードの上に度の強い近視用のそれを預けると、俺は和義からコップを取ってそれも置いた。
「そんなに似てるかなあ……」
俺、克己なんだ……。
「親子なんだ、似てて当たり前だろう?」
俺、克己だけど──。
「……そっか、親子だもんな。似ていても不思議じゃないんだよなあ……」
今、ここに克己はいない。
和義の瞳に映るのは沙和子。俺でありながら俺の母さん……。
「縋っても……頼ってもいいんだよね?」
ここに克己は存在しないんだ。
──それなら……。
それでも、おまえ好きなの止められないから……。
俺、何もかも捨てておまえの前に立つよ。
克己であることも捨てる。
ただひとつだけを残して、今、俺は沙和子になるから……。
「……和義……キス……してくれる……?」
ただひとつ、おまえを好きだってこと以外は捨てるから……。
だから、俺を……、俺を抱き締めて──。
「おまえ、本気で言ってるのか……?」
俺は和義の首に腕を巻き付けて、木綿のパジャマを透かして和義の鼓動を聞いた。
とっくん、とっくん……。規則正しい。
そしてとても暖かい……。
「克己……。後悔、するなよ」
しないよ。克己は後悔したりしない。
ここにいるのは沙和子なんだろ? 克己はここにいないんだ。
和義のキスは優しい接吻じゃなかった。噛み付くような激しい口付け……。
俺……、やっぱり克己じゃなかったんだ。
涙が出た。狂おしいほどのキスを交わしながら、俺の涙は床へと落ちた。
顎を伝うそれを和義が唇で拭う。
そのまま、あいつの舌が首筋を辿って落ちてゆく。
抱えられるようにして和義の部屋へと連れていかれた俺は、薄暗いナイトスタンドの影が揺らぐのを見ながら、パジャマが肩を滑り落ちる音、それから、嘔吐のような、そんな自分の啜り泣く声を耳にした。
掠れた声で「愛してる……」って聞いた気がしたけど、俺が口にしてしまったものか、和義が沙和子に言った言葉なのか、それは覚えていない。
熱くて、ただ熱くて……。
それでも、俺は満たされなかった。
すべてを、ひとつの想いだけを残して捨てたはずなのに、沙和子であることを受け止めたはずなのに。
俺は沙和子となって和義を受け止めたのに……。
克己が子供のように泣いていた。俺は泣きじゃくっていた。
和義の腕の中で、克己である心が熱さを本当に熱いものだと感じさせなかった。
身体は熱を持っていたのに、ね。
あれほど、焦がれた和義の側でこうしているのに、ね。
克己は「寒い」って泣いてるんだよね──。
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