感じるままに vol.3



 翌晩、和義の部屋で、俺はジャズを聞かせてもらった。

 思春期という枝を飛び越えていく小鳥たちは、行く手に聳えるものも知らずに前だけを見てる。
羽根を折るかもしれない、真っ白な身体を汚されるかもしれない。

 それでも前をゆく──そんな俺たちくらいの世代を奏じたものだった。

「うしろを振り返るのは老いぼれてからでいい。
天空はいつだって腕を拡げて若鳥を受け止めてくれるんだ」

 和義はCDを操作しながら熱っぽく俺に語った。

「後悔さえしなければ、顧みた想い出はいつだって暖かいはずさ」
「じゃ、和義は今まで一度も後悔したことないの? いつも自信を持って生きてきた?」

 俺たちが生まれ落ちて、まだたったの十六年かもしれない。
けど、俺にはたくさんの諦めや後悔があった。

 父さん似のそんなに丈夫じゃない、無理をするとすぐ熱を出してしまう身体。

──俺が一番最初に諦めたもの。

「男の子は母親に似るって言うけど、克己はお父さん似ね。
女顔はお母さんのほうに似たけれど……。
やること成すこと後悔はするわ、臆病だわ、ほんと気弱なところなんかあの人そっくり。
どっちかっていったら目立つタイプじゃないのよねえ」

 母さんはそんな俺に「お父さんの子だっていう証拠よ」と、明るい口調でよく言ったものだ。

 それでも父さんが死んだあと、母さんが俺のこの身体の分だけ苦労してきたのを俺は知ってる。
家でピアノを教えて、その上和裁なんかもやっていた。
そんな背中をずっと見てきたのだから。

 そして母さんは、俺が熱を出して寝込むと、決まって最後にこう語った。

「目立たなくてもいいのよ。
克己がふっとそこからいなくなったとき、いなくなったのがわかってもらえればね、それでいいの。
多くのことを望まないで。
誰もがあなたを見ていなくても、そこにいることを誰かがわかってくれればそんな幸せなことはないわ」

 お父さんはそんな人だったわ……、と。



 眼鏡を壊した二月のあの日、和義は禄に階段も降りられなかった俺を支えてくれた。

 眼鏡を作りに行った帰りに初めて工藤宅を訪れて、俺は母さんの再婚を知らされ、とても驚いたけれど、これで母さんも幸せになれるんだって安心して……、どこか、ほっとしている俺がいた。

 お義父さんは、初めて会った時の印象そのままの温和な人で、「小春日和に一緒に縁側でお茶を飲みたい人」と、母さんは評した。

「苦労はかけないつもりだよ。
わたしには息子がひとりいるが、実はもうひとり息子がほしいと思っていたんだ」

 ほんとに小春日和のような人なんだ。俺が反対する理由もない。
それに、母さんの人生なんだもの。

 母さんは父さんを忘れたわけじゃないって、俺はちゃんとわかっていたから。

 加えて。

 あの日、お義父さんは俺の弱い身体も承知してたんだ。

「天然性では仕方あるまい。熱を出しやすいと言うなら他人よりたくさん眠れていいじゃないか。
その分、克己くんは考える時間が多いんだ。きっと優しい子になる。
きっと、君のお父さんのような素晴らしい人に、ね」

 ありがたかったよ。こんなお荷物でしかない俺にそう言ってくれたのだから。

 そして、確かその一週間後に、俺たち母子は工藤家に移ったのだった──。



「克己は後悔してきたのか?」

 ベッドに寄り掛かる俺の隣りに回り込んで、和義が訊いた。

「後悔したことない、って言ったら嘘になるかな。
小学校の時の修学旅行、俺、熱出したんだ。前の晩、嬉しくて眠れなくてさ。それで、ね……。
友達と一緒に泊まるってあんまりないだろ? すごく行きたかった。……でも、行けなくなっちゃっただろ?
みんなが旅行に行ってる間、学校行っても先生もいないからって、俺、家にずっといたんだよね。
旅行から帰ってくればで、クラスの話題は旅行話で持ち切りだったし。
そうそう、体育も持久力が必要なやつってダメでさ。
校内マラソンとかってのもあんまり参加したことないんだ。
中一の時も走ってぶっ倒れたし。
長時間走るのってみんな嫌がって俺みたいなの羨ましいって言うけど、終わるの待ってるだけってのも結構辛いんだよ。
やっぱ、もっと丈夫だったら良かったのになって思うよ。後悔っていうか、これは希望なんだけど」

「身体鍛えようとか思わなかったのか?」

「よく小学校って、朝、学校へ行ったら校庭を走ったりしてたろ? あれだったらね。
タイム、気にしないでよければ走れないわけじゃないんだ。
ゆっくりだったら疲れるって言ってもその時だけだから。
けど、大会ってなると体力的にも精神的にも参っちゃって、翌日はもう布団のお世話。
情ないよなあ。俺、中学になると女子の距離でさえ走ると熱出してたんだ」

「けど、頑張ったんだろ? それなら全然、情けなくないじゃないか」
「でも身体だけじゃないんだ。俺、自分に自信がないんだよ。自慢できるものもないし」

「作曲っていう特技があるだろう?」
「そんな……あれはただの趣味だよ。特技っていうんじゃない」

 俺は頭を左右に振った。

 詩は俺の代弁、メロディは俺の鼓動。
ひとつひとつの曲が、それぞれの想いを身体で表現できない俺の代わりに語ってくれる。

 だから、下手でも曲を作るのは止められなかった。一種の鬱憤晴らしなんだ。
思いっきり言いたいこと叫ぶのと同じ。

 しばらくして、和義は小さく「克己」って呟きながら、俺の肩に腕を回した。

「俺な、初めて沙和子さんから藤井克己のことを聞いた時、千葉のバンドの『KATSUMI』だとは思わなかった。
『KATSUMI』の曲、以外と有名だぞ。好きな奴って多いんだ。おまえ、知らないだろう?
おまえと千葉、よく一緒に帰るだろ?
千葉がさ、克己の曲を貰うとき、克己の気持ちになりきりたいから、特にその時期は金魚の糞になってるんだ……って言ってた。
惚れてるんだよ、おまえの曲に。千葉は千葉なりに。
俺も聞かせてもらったけど、おまえの曲好きだな。綺麗だよ、とても。ほんと克己らしいよ」

 初耳だった。聞いてくれてたなんて。
だって、悟たちが演奏する機会なんて、文化祭以外だと五回ほどしかないから。

「和義、来てた? だって、おまえ来たら誰かしら騒ぐし、気付くと思うんだ。
俺、自分の曲だけは聞き逃さないんだけど……知らなかったなあ」

 褒められて嬉しいような恥ずかしいような……。う、照れるようっ。

「部のほうで体育館に用事があってね。その時、ちょうど千葉のバンドが出てたんだ。
それに、確か一月の中頃だったかな。女子部のほうで軽音のコンサート、全部録音してる娘がいてさ。
ちょっと頼んで『KATSUMI』の曲を編集してもらったんだ。……ほら、これ。
一応、俺だって義弟になる奴のこと知っておきたかったからな」

 和義はラックからひとつMDを抜いて、ぽいっと俺に投げ渡した。

 ラベルに丸っこい文字で「KATSUMI 〜 BY STEP」って書いてある。
「STEP」は悟のバンド名だ。

 上から順に見ていくと、去年の春に作ったものら始まって……、サマーコンサート、文化祭、ウインターコンサート、それに喫茶店を借り切ってやった二度のライブのために書いた曲のタイトルがずらり。

 うそっ。これって、もしかして……。

「悟に渡した曲、全部入ってる? すごい……」

 感動だよ。

 俺も「STEP」の演奏は全部録音してもらっているけど、俺の曲だけ、なんて編集はしていない。

 なのに、和義は持っていた。「KATSUMI」だけのMDを!

「おまえ、もっと自信を持っていいんだ。克己が作る曲、こうして持ってる奴だって中にはいるんだからな」



 今日、曲を書いたらどんなのが仕上がるか、目に見えるようだ。

 初めて自分を好きになれたときの、そんな想いをこめたもの。
自信を持っていいんだって言われた俺の喜びを、いっぱいに染み込ませたテンポのいいやつ。

 そう、パーカッションを利かした。明るく楽しい感じにまとめた一曲。


 そして、もうひとつ。曲はふたつ生まれるだろう。

 悟がほしがっていた恋の曲。でも、片想いの曲。

 きっとスローな寂しいものになるはず。



 俺、どうすればいい? おまえ、どんどん好きにさせるんだもの。
おまえの言う通り自信を持っていいのなら、少しは俺を好きになってくれる?

 俺、おまえの側にいていい?



 瞬間、俺はぞくっ……とした。

──恋に破れた胸は、どんな音を奏でるのだろう。

 そう、想像していたんだ。






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