夕食が済んでも俺たち四人はそのままテーブルで飲み物を囲んでいた。
和義たちはコーヒー、俺はミルクティーのカップを手にしていた。
「昔から漠然とだけど描いてたんだ。真面目に考えるようになったのは克己の話を聞いてからかな。
熱を出して旅行に行けなくなった時こと話してくれたろ? あれだよ」
徳永と悟は少し離れた席にいた。
俺は和義と向かい合ってて、ほかのふたりは耳だけの参加を許されていた。
「うん……。覚えてるよ」
俺が「自信」をみつけた時だ。
「あの時、おまえをいろんな場所へ連れていってやりたいと思った。
熱出して不参加に終わった旅行なんか比べもんにならないほど、さまざまなものを見せて、多くの体験をさせてやりたいと思ったんだ。
視野の拡がりは克己にとってすごいプラスになる。曲を書くなら余計だ。──それが始まりかな。
考え始めたら絶対そっちに進みたくなって。こうしておまえを泣かせてしまった」
俺はもう泣いてなんかいないのに。ちゃんとこうして聞いているのに。
「体質のせいで簡単に旅行できなかったって話聞いちまったら、ますます連れて行きたくなってさ」
悟が少し離れたところから、「わかる、わかる」と頷く。
「だから、克己。俺は来年、航空大学校を受けるよ」
航空大学校? それって、和義の夢って。
「パイ、ロット……に、なりたいの?」
誰もが夢見る職業。けれど、実際なろうなんて考える奴は少ない。
和義が荵かれたのはそんな操縦士。
なんて大変な夢──。
「受かるかどうかはやってみなくちゃわからない。三次試験まで行けるかどうかも、な。
けどさ、俺はもう受かるつもりでいるんだ。おまえを世界中に連れて行きたいんだ。
それも、俺自身の手で。
いずれパイロットの特典をフル活用して、俺はおまえに世界を見せてやるから。
だからわかってくれよ。おまえをいろんな場所へ連れてくのに俺が選んだ、一番俺らしい楽な道なんだ」
楽──だなんて。
和義は「少しは感動しただろう?」などと茶化してくれちゃってるけれど、パイロットになるのがそんなに簡単なわけがない。
航空大学校なんて普通の大学受験とはわけが違う。
「でも、もし落ちたら……? そしたらどうするつもり?」
「おまえねえ。こんな感動的なこと言ってやってるのに。まったく現実的だなあ。
この言葉、口にしたくもないけど──。落ちても再来年また狙う。
それでダメでもまた、な。おまえは待ってくれるんだろ?
ただで俺が世界に連れてってやるって言ってんだから、それくらい当然だよな」
紅茶はすでに冷めてしまっていた。
隣りの居間でトランプに熱狂している連中の叫びがここまで聴こえてきた。
和義の言ってることは矛盾しすぎていて俺には難しかった。
パイロットになったら空港沿線に住まなくてはならなくなる。
自宅から成田までは二時間半もかかるし、羽田も結構遠い。自宅からの通勤なんて絶対無理だ。
本当にパイロットになるとしたら、あの家を出ることが前提条件となる。
「そうなったら、もう家に帰ってこれない……ね」
一時的に休暇として帰ってはこれても、パイロットになったらあの家で一緒に暮らすことはない。
和義が言っていた通りだ。
「まあね。父さんたちはうるさい息子がいなくなってかえって喜ぶんじゃないか?」
「そんなことないよ。お義父さん、きっと寂しがるに決まってる」
「いいの、いいの。あの人には沙和子さんがいるんだから。
それよりおまえだよ、克己。俺はおまえに、俺がいなくなってもひとりで立っててほしいんだ。
俺だけ見ててほしい気もするけど、一個の人間として輝いてくれるほうが俺も嬉しい。
おまえはね、ひとりなんだ。克己はひとりしかいない。
そのひとりをこうして俺は千葉たちと分けなくちゃならないんだから……。俺の苦労もわかってくれよな」
「もとはといえば、おまえが横から出てきたんだぞ」
そう、悟が和義に食ってかかってきたけれど、俺は突っ伏してしまっていたのでそんなこと一々聞き止めてなんかいられなかった。
だってあと一年してもし本当に合格したら、和義は遠いところへ行ってしまう。
俺をいろんなところへ連れてってくれる──。
それは嬉しいけど、それより俺はいつだって、和義がすぐ近くにいてくれるほうが嬉しいんだ。
わかってる……。和義の言いたいこともわかるけど、俺の本心はそうなんだ。
涙は誰にも見られたくなかった。これは俺の我がままだったわかっているから。
そんな俺の頭上で、徳永が千葉に向けて言葉を投げた。
「千葉、おまえもね、もっと言葉を選んだほうがいいんじゃない?
いずれ、遠くない将来、『STEP』は工藤宅に通わなくちゃならないんだよ。
カズがひとり立ちできたら克己くんを連れ出すの目に見えてるんだからさ」
「ふん、その前に俺たちで連れ出してるよ」
「それでも克己くんの行き着く先は工藤さんのお宅で〜す」
「徳永〜っ。おまえ、力抜けるようなこと言うなよなぁ」
「事実でしょ? 千葉は将来、パイロットの工藤家で『KATSUMI』の楽譜を受け取ることになるんだよ」
そして、今度は和義が俺をまた泣かせるのだ。
「克己、五年だけ辛抱しろよ。そしたら一緒暮らせるから。
大学校自体は二年八ヶ月くらいで済むけど、上級事業用と定期運送用の操縦士資格は航空会社に入ってから取得することになるんだ。
定期運送用は二十三歳以上の制限があってさ..。
その両方を取らないと民間の定期便の飛行機は操れないんだよ」
あの家でなくてもいい。
俺は和義と暮らせたらどこでもよかったんだ……。
「五年……? そしたらまた一緒にいられる?」
「落第しなければな。和義、おまえ進級しなくったっていいぞぅ。資格に落ちっぱなしでも俺は構わないぜ。
克己は俺たちがしっかり見てやるから」
「千葉ぁ、外野は外野らしくしてろよ」
「克己くん、君の体調によって到着時刻が早くなる飛行機があるってのはいいよねえ」
「そんな飛行機、怖くて乗れるかよ」
「別にいいよ、千葉が乗らなくったって。俺は全然困らない。克己の搭乗さえ気を付ければいいんだから」
「やっぱり和義は敵だよな。克己が肩持つ分、強敵だよ」
ますます顔が上げられなくなったじゃないか。
和義が一人前になって、俺もしっかり自分を定められた頃、そしたらもう一度一緒に暮らす……。
すごく先のことだけど、何もない未来よりずっといい。
ずっといいよ──。
「ほんとに……ほんと?」
俺の声は曇っていた。腕の隙間から漏れていく、か細い声。
「何がほんとだって? どの話を言ってるんだ?」
「パイロットの工藤さんち……」
「それだったらホントのホント。そしたら高給取りだからな。
千葉たちが売れないバンドやっててもおまえは俺が養ってやるよ」
「失礼な。克己の曲は絶対売れるよ。おまえこそ克己の印税で飯食うんだぜ」
夢も、目指す道も違う。
それでも一緒にいられるとしたら、こんな素敵なことはない。
来年、みんながそれぞれ走り出す。
その時、和義はきっと先頭グループで走っているんだ。
「克己、顔を上げろよ。おまえの顔が見たいんだ」
和義の両手がゆっくりと俺の耳から頬に振れて、テーブルを濡らしてしまったのが知られてしまった。
和義の手で滴を垂らす眼鏡が外される。
「また泣かしやがって」
悟の悪態が溜め息に変わる。
そして、和義は徳永に、
「よく見ておけよ」
声を掛けると、俺の頬に流れる粒を掬ったのち、間入れずに唇を重ね合わせてきた。
「やりやがったな」
悟が和義の後頭部をこずくと、柔らかい口付けが瞼に移った。
「あのねえ、カズ……。克己くん、真っ赤だよ。もしかして熱出てきたんじゃない?」
「そうだ、離れろっ。克己、抵抗をしろっ。和義、おまえ、よくも俺の目の前でっ」
「悪いな、千葉。おまえにはちょっと目の毒だったな」
ふう……。半分マジに和義と「STEP」の行く末を案じてしまう。
それに、キスは嬉しんだけど──和義ぃ、少しは羞恥心ってもの持ってほしいよ。
「もしかしなくても照れてるでしょ?」
徳永が、俺の熱い頬に触れながら囁く。
「う……うん」
「カズは強引だからねえ。これからきっと苦労するよ」
どういう苦労だかわからなかったけれど、俺はしっかり頷いてしまっていた。
悟と和義が捲し立ててた言葉なんて耳になんか入ってこない。
ただ頭がぼうっとしていて身体が熱かった。
「そうそう、明日のイヴはゲレンデあげてのお祭りだからね。とても綺麗なんだよ。
克己くん、イヴを楽しみにしてなね。あっと驚く趣向があるんだ」
徳永の言葉だけがぐるぐる頭の中を巡って、俺は潤む瞳で揺れる紅茶の液体を見た。
「克己……克己……」
肩を掴まれたのはわかったけれど、倒れたのだとは気付かなかった──。
俺は気が付くとベッドに寝かされていて、翌朝になっていた。
それは待望のクリスマスイヴ。
けれど、朝から熱を出してしまった俺は、顔を布団から亀のように出して、みんなをスキー場へと送り出さねばならなかった。
「いってらっしゃい」
和義が「行ってくる」と微笑み返しながら、くしゃっと俺の髪を撫でる。
「一度、昼に戻るから」
徳永と悟が部屋からいなくなると、和義はちょっと俺を起こして背中に手を回して抱き締めてくれた。
和義のスキーウエアが滑るような音を立てる。
サラサラサラ、と、それは粉雪が滑り落ちる音みたいだった。
それからしばらくして、部屋の扉が完全に締まると、俺はもう一度瞳を閉じた。
火照った身体が心地よくシーツに沈んでゆく。
だけど、その沈む身体はいつの間には浮かんで……。
俺は真っ青な大空を高く高く飛ぶ夢を見た。
それはとても印象深い青色の、気持ちのいい夢だった──。
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