ずっとそばにいたい。近くにいたい。
好きな人ができれば誰もがそう思うはずだ。
──お願いだから、一番近くにいさせて……。
俺たちは義兄弟だったから家に帰れば一緒にいられた。
二年の現在は同じクラスだけれど来年は志望別でクラス分けされるから、きっと一緒じゃなくなるだろう。
けど、それでも家に帰れば一緒にいられるのは変わらない。
家に帰りさえすれば……。
夕食前、悟たちが入浴しに部屋を空けた。
ふたりきりでいられる短い時間に、俺はどことなくワクワクしていた。
口付けを受けながら、俺は和義の腕の中にいた。膝の上に俺を乗せて、あいつは俺の髪を撫でていた。
「克己と旅行できてよかったな。当分こんな長い旅行はできなくなるから」
「受験だもん。仕方ないよ。でも、せっかく滑れるようになったのに残念だなあ。
毎冬、スキーに連れてってもらおうと思ってたのに」
和義は髪を梳く指を止めて、その手を俺の頬に当てた。
包まれたその部分は熱いくらいだ。
「俺さ、おまえには自分の脚で立っててもらいたいんだ。
俺がいなくちゃ何もできない奴になってほしくないんだよ。
だから、今回のスキーも千葉や徳永に頼んだんだ。おまえ、俺が相手だと甘えるだろう?
俺だって克己相手じゃつい甘くなるし……」
「……うん。そっかあ、そうだよなあ。でも、ちょっとは滑れるようになったんだ。
今度は和義に教わりたいな。来年はダメかもしれないけど、翌々冬だってあるじゃない?
大学生って自由になる時間が多いって聞くしさ」
「…………」
「ね、そしたらまたスキーしに行こうよ」
「克己……。俺がもし志望校に受かったら喜んでくれるか?」
「もちろんだよっ」
「俺が家を出るとしても?」
──え?
「もし受かったら、多分帰ってくることはあるとしても、あの家で暮らすことはないと思う」
「下宿するっこと? でも大学は休みが多いんだろう?」
「──卒業後も帰らないと思う。就職口がこっちにないんだよ」
「就職って、おまえ歯科医になるんじゃないの? お義父さんの跡を継ぐんじゃなかったの?」
「歯科医にはならない。医院も継がない」
「うそ……」
だっておまえが家に医院を継げば、お義父さんだって喜ぶし、俺だって一緒にいられるし……。
「おまえは大学どうする? 行きたいとこ、まだ決めてないのか?」
皆、もうちゃんと決めてるんだ。俺だけ決まっていない。
「じゃ俺、和義の大学に近いとこに入る。頑張って勉強して……それで一緒に暮らそうよ」
「おまえ、俺が行くからってそんな理由で決めるのか? 自分の意思は?
克己のしたいことはどうなるんだ? 俺は嫌だぞ、そんなおまえと暮らすのなんて。
それに俺の行きたいとこ全寮制なんだよ。ヘンピなとこなんだ」
「そんな……。和義、そんなに俺と暮らすの嫌なわけ? 俺は一緒にいたいよ。
いつだって一緒にいたいっ」
大学……都内の大学を受けるのなら通えないことはない。
なのに下宿をするなんて、関西とか地方を狙ってるってことじゃないか。
「都内の大学じゃダメなの? 違う大学で同じ学科はないの?」
俺は和義の首に腕を巻き付けて抱き締めた。
お願い、遠くに行かないでよ……と。
それでも。
「──あるけど……。第一希望のとこを出てたほうがのちのち就職にしても都合がいいんだよ」
もう和義は決めてしまっていた。俺の頼みなんか通るはずがない。
でも、大学が終わったら──。
「なら四年だけ我慢するっ。だから大学卒業したら帰って来てくれよ。歯科医じゃなくてもいいから、ねえっ」
「家からじゃ通勤するの無理なんだ。勤め先の関係上……」
「どうしてっ。そんなの……俺、嫌だよ……」
和義は黙ってしまった。何も言ってくれない。
──ねえ、和義。一緒にいたいと思っているのは俺だけ?
そんな時だった。「あー、いい湯だった」と濡れた髪にタオルを巻き付けて悟が入ってきたのは。
「早く入ってこいよ。今なら空いてるぜ」
一瞬にして俺は和義から離れたから、悟は普段と変わらない調子で部屋に入ってきたのだろう。
「身体もあったまったし、ホントさっぱりしたわ」
そうして、荷物をガサガサいじり始めた悟の脇を、俺は用意しておいた入浴セットを持って飛び出すように部屋をあとにした。
和義が追ってくるのがわかったけれど、でも待つことはできなかった。
「克己、待てよ。喜んでくれるんじゃなかったのか。おまえと俺とじゃ夢が違うんだから仕方ないだろっ」
夢? 夢だって?
俺の夢──? 俺はおまえといられればいいんだ。それ以外は何も望まない。
「俺の夢が何だって言うんだっ。和義は何もわかっちゃいない。俺の夢? おまえと違うって……?」
「克己はこれからも作曲したいんだろう?
そっちの大学を狙うかは別にして、おまえの夢はそれなんだから俺とは違うじゃないか」
掴まれた手首が痛い。和義はこんな時だけ俺の気持ちを汲んでくれない。
「違うっ! 俺はおまえの近くにいたいだけだっ」
潤んだ瞳に和義が映る。大きくなってゆくその整った顔。
「克己、互いにひとりで立ちながらふたりでいたいと思わないのか……?」
こんなキス、嬉しくない。
縋ってもいいって言ったじゃないか。頼っていいって……。
「放せよ、放せ……。どうせ遠くに行っちゃうんだろ? 俺、置いて……ひとりで行くんだろっ。
それなら追ってくるなよ……」
「克己──!」
顔を背けた俺。和義はその俺の頭を固定さけた。
唇が重ねられて、舌を絡ませてくる──。
──こんなの……和義じゃない。
一番近くにいながら一番遠い。
どんどん遠ざかって行く。
──哀しいよ、とても。俺はおまえが考えてるほど強くもないんだ。おまえを基準に俺を計るなよ。
まるで存在することを強調するキスだった。
行ってしまうのはもう少し先のことだ、現在はここにいるんだ、と和義の言葉にならない声が聞こえてきそうな、そんなキス。
──俺、こんなキスしてほしいわけじゃないんだよ。和義の馬鹿野郎、こんなのごまかしじゃないか。
だけど、抗うにも力負けしてしまう。俺の細っこい腕じゃ、和義の手を振り切れない。
でも、そこに和義の手の力を緩ませる音が入った。
それほどにシャッター音は廊下に響いた。
俺の腕を掴んだ手が緩んだ途端、俺はそのカメラマンに一瞥を投げたあと、転がるように階段を駆け下りて逃げた。
手ぶらで玄関から外に飛び出す。
白い世界が青く色付いていた。雪が……粉雪が、降っていた。
「克己くん……」
とぼとぼ歩く俺の背に声掛けてきたのは、さっきシャッターを押したカメラマンだった。
「風邪ひくよ。ねえ……」
「──鮎川さんにバレちゃったな。キスしてるの見られちゃった……」
ぽとりと落ちる涙は悔し涙だった。
知られたことに、じゃない。和義のこと、何もわかっていなかった俺自身に対して、だ。
「ごめん、押すつもりなかったんだけど、つい条件反射で……」
「特ダネになる? 相手が和義じゃ、なるだろ?」
「……けど、あたし使わないよ。話聞いちゃったんだ。
和義くんは……、克己くんと一緒に地面にしっかり立ちたいんだよ。
違うものを追うから、今は離れちゃう感じがするかもしれないけど──」
「和義、家を出るってさ。大学卒業しても帰らないってそう言うんだよ? そんなの……」
「じゃ、克己くんはどうしたいの。和義くんに養ってもらいたいの? 専業主婦にでもなりたいの……?」
専業主婦……。俺、それでもいいと思っていた。
和義の側で一生暮らせるのなら、それでもいいと──。
「そんなの『STEP』が許しっこないわよ。克己くんは作曲が好きだからしてるんでしょっ。
和義くんだってそれを知ってるから一緒に連れていけないんじゃないの。
あたしだって『KATSUMI』のファンなんだからね。
プロデビューしたら、『KATSUMI』への最初のインタビューはあたしがするんだからっ。
ね、克己くん。みんな、いずれ食べいかなきゃならないんだよ。
だったら夢で食べていける人ってすごく幸せじゃない?
克己くんはその才能を持ってるんだし、君を待ってるのは『STEP』だけじゃないのよ?」
「……悟たちのほかにも誰かいるって言うの?」
「あたしとか、ね。ほかにもいるわよ、たくさん。でも一番待ってるのは和義くんじゃないかなあ。
ほんと言うとね、ふたりとも怪しいなとは前々から思ってたんだ。和義くんの克己贔屓は知られてるからね」
「嘘だよ、そんなの。俺が甘えちゃうだけだよ。今だってそうだ。俺はあいつの夢なんか全然知らなかった。
気付きもしなかったんだ。和義はすぐに俺の『作曲』に気付いたのに、俺には思い付かないんだ。
俺、あいつの夢が何だか知らない……」
盛り上がった雪の塊の上に腰を掛けると、鮎川も俺の隣りに並んで座った。
「だったら訊けばいいじゃない」
そうスパッと言い切って、俺の髪に降り落ちた雪を払ってくれた。
「口があるでしょ、克己くん。声だって出るでしょ? 和義くんには曲が書けないのよ。
自然にわかるなんて虫が良すぎるわよ。君はね、特別なの。心をオープンにしてるんだから。
和義くんじゃなくったって千葉くんにだって誰だって君の気持ちがわかるわよ。
だって、君の作る曲には君の言葉がたくさん詰まっているんだもの。
でもね、それは誰もができることじゃないのよ。少なくとも、和義くんには無理みたいよ?」
「和義には曲が書けない……?」
何でもできるあいつが?
俺にできて、和義にできないことがある……?
「当たり前よ。和義くんは『KATSUMI』じゃないんだから。
『KATSUMI』は君でしょ、克己くん。それとも、まだ和義くんに養ってもらいたいの?
彼だったら君を囲ってくれないことはないだろうけど、その時は……まあ、『STEP』との一悶着を覚悟することね。
彼らは違う意味で君を奪い合いしてるんだから」
うん。「STEP」がほしいのは「KATSUMI」。克己じゃない。
友達の克己を必要としてても、「連れ合い」という言葉を使うとしても、和義のとは意味が違う。
和義の「連れ合い」はもっと暖かくて、もっともっと胸を締め付けるものだ。
「鮎川さん……あの、ネガ……」
「わかってるって。あとでちゃんと渡してあげる。
その代わり、特ダネを棒に振ってあげるんだから、わかってる?」
和義に訊けばいいんだね。
わからなければ訊けばいい。ちゃんと和義の言葉を聞いてから自分を定めよう。
「さ、冷えてきたから帰ろうよ。もう夕飯始まってるかもよ」
鮎川が手にしたカメラには雪なんて少しも付いていなかった。
懐ろに大切に入れていたのだろう。それは彼女の夢に繋がるもの、なのだ。
──きっと、みんな、それぞれ夢を大切にしているんだ……。
「急ごう、食べはぐっちゃうっ」
駆け足で帰っても俺の身体は冷えきったままだった。
二重になっている玄関の扉を開けると、すごく中は暖かく、眼鏡が真っ白に曇ってしまった。
その白く霞んだ眼鏡レンズ越しに、その陰影にさえ恋しく思える人が見えた。
「先に湯船に漬ったほうがいい」
俺の入浴セットをカランっと鳴らして和義が言った。
ずっと玄関先で待っていてくれたのだろうか。
「うん……。そうする」
そして、早々に浴室に向かおうとする俺の脇で、
「ネガを渡してくれないか?」
和義が硬い声音で鮎川の行く手をさえぎった。
だが。
「残念ねえ。もう別の人に渡す約束しちゃったんだぁ。彼との約束は特別なのよ。
何たってあたしも彼の大ファンなんだから」
続いて聞こえた鮎川の声は転がるように笑っていた。
「克己くーんっ、ちゃんと温まるのよお。風邪をひいたら一番最初に移るのは和義くんなんだからねっ」
彼女のからかい交じりの笑い声には別の意味まで込められていて、俺の頬はどうにも熱くなってしまう。
羞恥に逃げるようにその場を去ろうとすると、
「サンクス、鮎川」
今度は和義の優しい声が俺の背中に届いた。
その声は、冷える玄関先に、とても甘く響いて聞こえた。
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