ハーシェル関連史料
カロライン・ハーシェルの彗星捜索望遠鏡(2)


兄の居ぬ間に

 1783年の年末の日記に、カロラインは「私の彗星捜索は20フィート大望遠鏡の観測を手伝うために、少しもはかどりません」と書いています。

 この年、兄が口径47.5cm、焦点距離6m(20フィート)の大望遠鏡の製作に忙しかった間、カロラインは一人で観測していたのです。しかし完成してからは兄の助手をしなければならず、つい愚痴になったのでしょう。カロラインが兄の記録係から徐々に観測者としての自覚を持ち、彗星捜索に情熱を傾けていく姿がうかがえます。

 カロラインが彗星捜索をするための障害になったのは兄のウィリアムだった、とは過言でしょうか。1784年12月31日、ウィリアムは雪が積もった20フィート大望遠鏡から落ちて骨折してしまいます。年が明けた1785年には病気になり、医者の勧めでオールドウィンザーのクレイホールヘ引っ越します。引っ越し早々、さらに大きな口径1.2m(40フィート)の望遠鏡の計画に取りかかり、国王から下賜金を得て製作を始めます。幾度も失敗をしたために4年の歳月がかかるのですが、始めはしたものの家主の理解が得られず、1788年4月にスラウヘ引っ越します。もちろん、相変わらず販売用の望遠鏡を作り、観測を行いながら、40フィートの工事や鏡面研磨を指図していますから、なんとも落ちつかない生活です。バースでも15年間に5回移転していますし、演奏旅行も多かったのですが、音楽家をやめても天文学者として講演などの旅行をしています。そんな旅行中の1786年8月にカロラインは捜索に専念し、初めての彗星を発見するのです。彗星の発見により、カロラインは年50ポンドの下賜金を与えられるようになりました。

 次の彗星発見は1788年5月に兄が結婚した年の12月で、この結婚にショックを受けてこの頃の日記を破り捨てたと伝えられています。兄の結婚で近くの家に別居してから彗星捜索に時間を取れるようになった1790年には、1月と4月に彗星を発見しました。このような状況で彗星が見つかるのですから、彗星がカロラインを待っていたとしか思えません。兄は天王星も初めは彗星と思ったくらいで、一つも彗星を発見していないのです。(妹に彗星の発見を譲ることはしません)。

謎の5フィート望遠鏡

 この4個目の彗星を発見してから、ウィリアムは妹のために新しい望遠鏡を作ります。ウィリアムの心境は複雑で、自分の観測には妹が欠かせない存在でしたが、妹の目覚ましい成果(幸運)が今後も続いてほしいと考えていました。

 1791年に口径23.4cm、焦点距離160cmの望遠鏡を完成させ、カロラインに贈りました。その年の12月にカロラインは早くも彗星を発見しています。カロラインは、この大きな彗星捜索望遠鏡で1795年までに3個の彗星を発見します。(8個目は4等級で、望遠鏡を使う前に肉眼で見つけました)。

 1号機はW. H. スミスの著書「天体の運行」(1844年)に掲載された図があり、形状が分かっているのですが、この2号機は「1号機と同様の形式」と記載されているだけで、具体的な形が分かりません。

 1793年当時、王立天文学者だったネビル・マスケリン(後のグリニッジ天文台長)がエドワード・ピゴットに宛てた手紙に、望遠鏡の様子がうかがえます。

 私は7週間前にウィリアムと力ロラインを訪ねた。カロラインはウィリアムが作った5フィートの彗星捜索機を見せてくれた。それは口径が9インチあり、倍率が25-30倍、実視野は10°49′のニュートン式だった。…それはとても高性能で、押したり引いたりするだけで水平回転する。以前のニュートン式望遠鏡のようにロープで高度を調整できる。接眼鏡の高さは地上から天頂まで捜索するときに少し変わる。彼女は(水平回転の)操作を6〜8分行い、少し高度を調整して再び水平向転を行って捜索していた。この作業はウィリアムのアドバイスで、彼女はメシエのリストにある全ての星雲を一晩で見分けた。

 さて、この望遠鏡はどんな形なのでしよう。まず、1号機の架台を流用して大きな望遠鏡を取りつけた場合を図1にしました。ところが、これでは鏡筒が円形の台に当たって45°以上に向きません。マスケリンの手紙にあるように天頂近くまで捜索できたはずですから、1号機の三脚部分をなくし、大きく作り直した図2のようなものでしょうか。

図1 架台を流用した場合       図2 木村の想像図

日本ハーシェル協会ニューズレター第101号より転載


カロライン・ハーシェルの彗星捜索望遠鏡(3)

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