可燃物な日々

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1月15日(木)

 久々に寿司屋で飲んでいたのだが、前回行ったときには大将が「自分の酒の肴」であるウルカを出してきたので、「今日はそれほど飲まないつもりだった」のに、結局大酒飲むはめになったが、今回は、「上手い焼酎があるんだよ」と出てきたのはなぜか熱燗。
 しかも「焼酎」じゃなくて「泡盛」だった。45度くらいあるやつ。
 大将いわく「沖縄の知り合いに、この飲み方を教わってから、フツーのお湯割じゃ薄くってさあ」
 たしかに、度数が高いわりにはスルスルと飲めるのだが、でも、かなりキました。

 あそこの店に行くと、寿命が確実に縮みます。
1月14日(水)

 寒い。
 最高気温は8度だったが、風が冷たく体感温度はもっと低いかんじだったし、日が暮れたら底冷えしていた。
 ま、それでも東京は、最近ではめったに零下にならないので、マシなんだろうけど。

 私は寒いのが苦手なので、本当に寒いところにはほとんど行ったことがない。中学校のときに親に連れていってもらったスキー場(あれ以来スキーしたことがない)で、夜に星空を見たくなり、外に出てみたが、星はきれいだったけど、それよりもキーンとくる「本当の寒さ」にびっくりして、5分も持たずに宿の中に戻った。

 その昔、11月の文化の日に絡めて休暇をとり、イギリスに行ったが、文化の日っていうのは日本でいえば「学園祭たけなわ」な時期であり、私もよく祭りの最中の大学で徹夜で酒盛りしていたりしていたので、東京では「薄いコートがあれば大丈夫」という気候なわけで、すっかり油断して同じような格好で行ったら、東京の真冬並の寒さに驚き、「スコットランドも行ってみたいなあ」なんて思っていたのだが、B&Bの食堂のテレビで天気予報を観ていたら「グラスゴーはブリザード」になっており、「そっか、スコットランドは北海道だったんだな。忘れてたよ」と断念した。

 それに懲りて以来、ヨーロッパにはサマーシーズンしか行っていないし、NYも9月に行ったし、冬に休暇をとるときには、東南アジア専門。仕事だったら致し方ないが、金払って寒いところを旅行する人の気が知れない。
 昔、友達が「冬にフィヨルドとか見てみたいよね」と言っていたが、ぜったいにゴメンである。

 前にも書いたが、私とは全く反対の嗜好の友人がいて、彼は北欧やロシアが大好きだった。「今まで行ったところで、一番南がベルリンかも」と言っていて、私は逆に「一番北がベルリンかも」と言っていたのだが、あとでよくよく調べてみたら、ベルリンよりもマンチェスターのほうが北だった。(そーいや、小学生だか中学生のころ、あのあたりは、なんちゃら海流が来るので暖かいって地理で習ったよな)

 よく女友達同士で「男の趣味が全く違うから、同じ男を取り合うことないようね」という話はあるが、私と彼が共に「世界征服を目指す君主」であったら、上手く領土をわけることができたであろう。

 そんな私がいつも不思議に思うのは、「なんで、そんな寒いところでも、昔っから人間が住んでたの?」ってことである。
 ある程度の暖房や衣服が発達してからならともかく、薪を燃やしたりする程度では、あの寒さの中で生活するのが辛いではないか。まあ、でも住居も工夫したり、毛皮を纏えばなんとかなったのか。それにしても、なんで人間は体毛を放棄してしまったのだろう?北国の人たちが日本ザルみたいにフッカフカの体毛に覆われていたら、別になんの疑問も抱かないのに。
 今の人間の基礎ができあがったのが温暖な土地だったからこそ、こんな衣服に頼らないといけない軟弱な体になったのだろう。そんで、そこで食い詰めた人たちが、だんだん北上していって「ちょっと寒いなあ」と毛皮や繊維を発見したり、煮炊きするだけではなく、暖房用の火の使い方も覚えて、さらに寒いところでも繁殖できるようになったのかなあ。

 そう考えると、太古の昔からヌクヌクと裸で暮らしていた南国の人たちが「未開人」として北国の人たちに制圧されちゃったというのは、「てめーら、住み易い土地でずっとヌクヌクしやがって」という「楽園を追われた者たちの嫉妬心」があったのかもしれない。

 最近、めっきり「タマちゃん」のニュースが流れなくなったが、先日は沖縄にいるはずのないハクチョウが飛来したものの、衰弱しちゃって、地元の獣医の懸命の介護も虚しく死んでしまったというニュースをやっていたが、その獣医師が「迷い込んで来たというよりも、このハクチョウは生態域を広げるためのチャレンジャーだったのだと思いたい」と言っていた。

 そうだよね、タマちゃんだって、もしかして、他にも迷い込んできて、なんとか暮らしているアザラシとめぐり合って、首尾よく繁殖できれば、関東地方に楽園を築けるのかもしれない。(東京湾の漁師さんと揉めそうだが)
 でも、今の人間がわりとイバっている地球では、そういう偶然での生態の変化よりも、人間を媒介した繁殖のほうが多いだろう。通りがかりに近所の庭をなんとなく眺めていると、南国原産と思われる植物がちゃんと外で元気に冬を越していたりする。そういう「寒いところでもわりと大丈夫みたい」な植物は、だんだんと淘汰を繰り返して北上していくのかもしれない。でも、その進化のスピードよりも人間が行う品種改良のほうが早いと思うけど。

 全然関係ないが、近所で時々お散歩中のところを見かけていた黒い犬のご自宅が今日判明した。ちょうど、お散歩に出発するところに出くわしたのである。
 その黒い犬は、ちょっとシルエットが変わっているので、密かに注目していたのだ。
 黒い犬で、大きさは「少し小ぶりのラブラドール・リトレバー」くらいなのだが、毛はフサフサ。でも、ゴールデン・リトリバーほど長毛でもない。尻尾は長く、ピンと真上を向いていて、どことなく、理科の授業で試験管を洗う黒いブラシを思い出させるフォルム。耳は大きくて三角形で、ピンと立っている。

 その犬とすれ違うたびに「いったい、何の血をひいている雑犬なのか、それともああいう犬種なのか?」と不思議に思っていた。あまり見たことのない雰囲気だし、それに、けっこう足も長いシャンとした犬なので、なんとなく「絵本の中に出てくる犬」というかんじがするのだ。
1月13日(火)

 (母が死んでも)私は父や弟妹たちの前では泣かなかったさうです。(中略)私の悲しみは幾らか冷たい壁に張りついた結露のやうな感じであつたのですが、いまとなっては私の心がそんなふうであつた理由も定かではありません。

 冷たい壁に張りついた結露のやうな感じ・・・・・
 冷たい壁に張りついた結露のやうな感じ・・・・・
 冷たい壁に張りついた結露のやうな感じ・・・・・ああん、もうっ!

 とまあ、このやうに、私の心は「晴子情歌」に、お風呂場の石鹸置きの吸盤のようにしつかりとぺたりと張りついてしまつているやうなのですが、今日もなんとか80頁まで読み進みまひたが、なんと言ひましょうか、この小説は、純文学つぽいのですけれども、實はかなあり、ミステリ小説なのですね。

 出鱈目な旧かなづかいはキモいね。
 いやあ、それにしてもハマりますわ。ハリポタ読んでいるバヤイではないぞ、こりゃ。(實は、図書館にリクエストした「炎のゴブレット」はもう届いている)

 ちょっと前に題名忘れたけど、「最後のシーンから遡っていく構成のサスペンス映画」っていうのがあったけど、観てないからよくわからんが、映画でも小説でも、そういう「現在と過去がだんだん繋がっていく構成」というのは、それほど目新しいものではない。映画の「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」も、そんな構成だったような気がする。

 意欲的な脚本家や小説家なら、手を出したくなるようなシロモノなのだろう。
 この「晴子情歌」も、そういう話らしい。「母が息子に書いた手紙」が軸になっているのだが、現在と過去が錯綜していて、その中で、「この家族の現在」が窺い知れるヒントが、ところどころに顔を覗かせ、(外洋船に乗るような息子は大学を出ているとか、その姉は養女だとか)、読者を「砂嵐にめげずにじっと砂丘を掘りつづけると、ジグゾーのピースが一つづつ見つかり、それを組み合わせていくと、なんかいいことあるのかな?でも、砂が目に入って痛いよお」な気分にするのである。

 さういえば、(旧かなづかい萌えケイゾク中)この本は、上下巻だし、なんだかサラサラと読んでいるようなのに、なかなか思うように読み進まず、じりじりとする様子は、大きな砂時計を眺めているかのようである。
 そう。本のいいところって、こうして読んだ分量が目に見えてわかるところなんですよね。
 そして、本に夢中になって、ずんずんと読んでいくときって、間の隙間が広くなって、砂がどんどん落ちているような気分になる。砂時計って最初はジリジリと落ちていくのに、最後のほうはヒュルヒュルとあっけなく、とても早く落ちて行くような気がするが、「面白い本」を読んでいてもそんな感じになる。

 そして、読み応えのある本が、まだ上巻の5分の1しか進んでなくて、その先には下巻も控えていることを知っているという幸福をなんと例えよう。大きな砂時計を抱きしめて、ときどきひっくり返しては「やっぱやめた。もったいない」とまたひっくり返して、いつまでも砂がチラチラと落ちていくのをずっと楽しんでいたいという、そんなかんじなのかもしれない。

 まだ、それだけしか読んでいないというのに、こんなにつらつらと感想文を書き綴ってしまう自分は、かなりのおっちょこちょいだとは思うが、こういう「手紙を主軸にした小説」というのは昔からあったけど(「足長おじさん」とか?)、すでに手紙文化が衰えてから育った我が身としては、「自分の人生を事細かに語ってしまう手紙」というものは、非現実的なものであった。だから、「これは、小説を成り立たせるために、手紙を使っているだけなんだ」と思っていたのだが、しかし、「晴子情歌」の母が息子に自分の家の昔話を綿々と書き綴る描写を読んで、「あ、これはWeb日記だ」と思ったのである。

 いや、ひょっとしたら、最終的には母が息子にこんな長文の手紙を100通も出したという必然があるのかもしれないが、今のところ、「ちょっと書いていたら、いろいろ昔のこと思い出しちゃって、それで思い出すままに書き綴ってしまいました。なんで、あなたにこんな手紙書いているのか、よくわからないんだけど」って感じなので、昭和50年代に60歳くらいの母親だから「手紙」という媒体しか見当たらなかったのかもしれないが、21世紀初頭に37歳の私が「そーいや、こんなこともあったなあ。うちの母がさあ・・・」と突然思い出して、書きはじめてみたら止まらなくなり、「いや、別に他人様に読ませるようなものでもないんですけどね」と頭をポリポリしながらも、なんとなく誰かに読んでもらいたいという気持ちで書いているわけで(そうじゃなけりゃ、ローカルに溜めておけばいいだけの話)、だから、この母がIT時代に「インターネットで日記でもすなるか」と思い立っていたとしたら、今ごろ人気サイトだよ。

 ちょっと休載したら、「それで、康夫さんはその後、どうするんですかっ?」ってメールが殺到しそう。


 香港在住のきょうみさんからメールが来て「今日は寒かったので、長袖だった」そうで、こっちは寒くて手袋手放せず状態であったのだが、ああ、来週は私も「ちょっと寒いから、ネルシャツ羽織ろう」な世界に逝くのね・・・・東京よ、もっと寒くなれ・・・・と寒波にエールを送っております。真冬に暖かい土地に逃げたときに、東京があまり寒くないと「お得感」が減るのでありました。

 そして、そのメールには、「なぜか子たちまでが“のんちゃんいつくるの?”とうるさい。母の友なのに何なんだ(笑)」と書かれていて、「若い男に人気が無い」といつも嘆いているワタクシは狂喜乱舞でございます。

 「そ、そうかあ、実は私が行くのを楽しみにしてくれてるんだ。ふふ。実はね、私も、君らの母上とは先日会ったばかりなので、実はどーでもよくって、ほんとは君たちに会いに行くのだよ〜〜〜〜〜コンフーごっこしようね。あと、ハリポタごっこね!あたしがハーマイオニー役に決定!マクゴナガル先生でもいいわよ!」

 と、やはり「友情よりも、男」でしょう。しかも「若い男」が二人もいるわけだし、どっちもピッチピチの小学生!(ああ、きょうみさん、冗談なのよ。ホントよホント)
1月12日(月)

 先月は18日だったので、「もう少しかな」と油断していたら、昼から大当たりしてしまい、慌てて薬局に駆け込んでしまった。しばらく、わりと「遅め」だったのに、急に早くなってしまったようだ。
 女の子は大変です。しくしく。

 ところで、昨日観た「ぼくの妻はシャルロット」は、喫煙シーンが非常に多くて「これはアメリカでは上映禁止なのでは?」と思うくらいだったが、しかも喫煙しているのは女性ばかり(シャルロット、ダンナの姉、ダンナの母、シャルロットのメイク係)であった。しかも、ダンナの姉は妊娠中なのに、バンバカ吸ってんの。

 最近のフランス映画など全然観てないので(「アメリ」の後が「ミッション・クレオパトラ」かな?ってくらい)、こういうもんなのかよくわからないのだが、男性の喫煙シーンがほとんどなかったような気がしたので(ダンナの姉の夫は吸おうとしたら禁煙タクシーだった)、これはなにか意図的な演出なのかね?

 そーいや、昔、それなりにフランス映画を観ていたころ(10数年前は、ハリウッド映画をバカにしてヨーロッパ映画ばっか観ていたような気がする)、パリで通り過がりの人が「火、持ってる?」と声をかけてくるシーンによく出会い、「これは、なんだ?」と思っていたのだが、実際にパリに行ったら、ほんとーに道端で他人同士が「火、持ってる?」ってやっていたので、カンドーしたっけな。

 さて、今日は出勤だったのだが、朝の電車がすでに「シン星人電車」になっていた。「シン星人」は男は黒っぽいスーツを着ていて、女はカラフルな着物を着ていて、なぜか全員、「白いエリマキ・とかげ」になっている。
 お昼を買いに外に出たら、スタバの中には晴れ着姿のシン星人だらけになっていて、たいへん雅やかであった。ちゅーか、スタバにいきなりドレス・コードができたのか?っていうかんじだった。平服の人は足を踏み入れにくいかんじだったさ。スタバと晴れ着はなぜかマッチしていた。マックや、サブ・ウェイもそれなりにマッチしていたけど・・・・晴れ着を着てても全員、ケータイと睨めっこしているから、外見というよりも内面を表現する行為が「マックでお茶」だったのだろう。彼女らもそれをわかっていたらしく、スタバでのケータイ度は低かった。

 今日も兼平さんのところで鍼打ってもらった。
 家に帰る途中、小雨が降ってきて、やっぱり明日は雪なのかも。
 なんとなく、月9の「プライド」を観てみた。いつも主題歌が話題を呼ぶ野島伸司脚本作品だが、今回のテーマ曲はクイーンですぜ、と、きょうみさんに業務連絡である。(「ボーン・トゥ・ラブ・ユー」ってゆうのが渋いね)

 整理中(わざと)なので、なんだか散漫ですが、昨日からやっと高村薫の「晴子情歌」を読み始めたのだが、やっぱ、この小説は挑戦的だ。
 なにが挑戦的かというと、「わたし、けっこう本読むの早いのよ」という人の頭をぐっと押し込むその文章の濃さ。ぜんぜん、読み進まないよ〜。ハリポタがのんびり3日で読めるとしたら、こっちは30日くらいかかっちゃうよ。
 全然前情報なく読んでいるので、「旧かなづかいが多い」くらいは覚悟していたが、いったい今後どういう展開になるのかさっぱりわからないままに、晴子の母の少女時代の記述に突入しちゃって、大正時代の帝大そばの下宿屋の描写なんて、なんて、なんて、私がとっても興味のある分野である。

 どうして、うちの祖母たちは、こんな繊細に当時のことを語ってくれなかったのだろうか?と、自分の祖母たちを「くそばばー、ちっとも役に立たないじゃん」呼ばわりしたくなるほど、緻密な描写。うちの母には、そういう「昔のどうでもいいことを語る才能」が、ややあるのだが、それは多分、もっと才能があった祖父から受け継いだものだろう、「六本木は昔は商売する土地ではなかった。あそこは坂の上だったから、人力車で登るのがきつかったからな。だから、あそこが栄えてきたのは、ごく最近の・・・・自動車が普及してからだな」なんて話を祖父がするのを聴くのが大好きだった。

 でも残念なことに、祖父はあんまし「おしゃべら〜」ではなかったので、そんなに昔のことをベラベラと語ってくれたわけではなかったけど。
 祖父母が最近まで健在だったのに(今でも祖母ズは体は元気だが、頭がもはや・・・)、なかなか当時の生活の生き生きとした描写をしてくれなかったというのに、高村薫のこの描写はなんなんだろう?タイム・トラベルしてきたのか?だって、彼女は、小説に書く舞台をこと細かにロケハンしないと気がすまない作家なのに・・・・大正時代を知る頭がボケてないお喋りばあさん30人くらいにインタビューしたのかもしれない。

 さっきも、兼平さんに「ミヤノさんは作家を目指したりしないんですか?」とお褒めの言葉をいただいたが、こんな小説読んじゃうと、自分が書いているものが、ただの落書きにしか思えない。だって、私が「くう〜〜〜」としか書きようのない気持ちを3ページくらいかけて丹念に描くのですよ。そんで、私が「ぴゅ〜〜〜〜〜〜〜〜」で済ますようなところを5ページくらいかけて説明してくれるのです。

 だからなかなか読み進まなくて、実は、ちょっとだけ「ぴゅ〜〜〜〜〜」でいいじゃん、と思うときもあるのですが、でも、私の感じる「ぴゅ〜〜〜〜〜」が、びっしり5ページくらい延々と描写されているのを読むと、「そうそう、ぴゅ〜〜〜〜〜は実はこんなかんじなの」と、うんうん頷いてしまう。

 というわけで、まだ50ページくらいしか読めてませんが、すでに3冊くらい読み終えたような疲労感を感じつつも、なんと表現しようか、そう、自分が今まさに、超ひさびさに「純文学ってやつを読んでいることよ」という、ヨロコビに打ち震えているというこの快感。
 まだ先はどうなるかわからないが、つかみは「百年の孤独」くらいのもんがあります。(この先、どーなるかわからないというワクワク感と、いつまでもこの世界に浸っていたいという満足感。うまく説明できないが、ページをめくるたびに、説明不可能な充実感があるかんじ)

 しかも、読んでいるだけなのだが「わたしって天才読者かも」と思ったのは、正月に斎藤美奈子の「モダンガール論」を読んでいたりするわけで、今の段階では「モダンガール論」はいい副読本として機能しているのである。(たったの50ページだけどさ)

 斎藤美奈子の主な著書の中で、なぜか「モダンガール論」を読んでなかったので借りてみたのだが、またしても「いいセレクト」であった。そんで、ついでに「L文学完全読本」も借りてみたのだが、そっちはあまり読めなかった。自分が「L文学」とはちょっと距離を置いていること(あまり読んでいないということ)に気が付いただけだった。なんでだろ?と思ったけど、たぶん自分は「自分の人生になんか応用できそうなもの」は苦手らしい。
 全然、実生活には役に立たない「ぶっとんだもの」が大好きなのだ。たぶん。

 で、ある程度「実生活に近いもの」に関しては、小説よりも漫画で十分間に合っているので・・・・・というか、下手な小説よりも漫画の描写のほうがよっぽど、グっとくるので、そっちのほうがいいんだろう。

 出欠多量で、頭に血が回っていないので、まとまりませんが、まとまらないのも日記の醍醐味である、と日記には書いておこう。
1月11日(日)

 今日は珍しく午前中に起きた。しかも、9時半にはコーヒーを飲んでいた。すばらしい〜、やればできるじゃん。
 なので、超久しぶりに「笑っていいとも増刊号」を観ながら、布団干して掃除洗濯。
 やっと床全部に掃除機をかけることができた。やればできるじゃ〜ん。

 これで安心して飛行機に乗れる。
 もしものことがあっても大丈夫。
 このように、なぜか海外旅行に行く前には「もしものこと」を考えてしまうのだが、でも実は飛行機って「もしものこと」に遭う確立は非常に少ないんだよね。正確な数字は知らないが、交通事故に遭う確率とはずいぶん桁が違ったような。

 だから、心配するとしたら「酔っ払って夜中にふらふらと歩く」ほうが心配なので、「今日も飲み会だ。もしものことがあるかもしれないから部屋を掃除しておこう」と考えれば、もっとマメに掃除しないといけないはずなのに、自分の「リスク管理」の甘さを反省するが、反省するだけで実行が伴わない。

 さて、そんなわけで、珍しく午前中から家事をしたので、午後には部屋は、フツーの女性が「今、ちょっと散らかってて」と言うくらいの状態というか、実体験を元に記述すると、友達の家に突然泊めてもらうことになったが、ドアの前で「悪いけど10分くらい外で待ってて」と言われ、5分後くらいに中に入れてもらったときに「なーんだ、きれいじゃん」という状態になったので、「今日のところはこれでヨシ」となり、そうなると、午後が長いよな。

 午後まで寝ていたほうが、暇は持て余さないという効用があるのだな、と思った。ボヤボヤしているうちに暗くなるからね。孤独を嘆く人って、早起きの人に多いのかもしれないな。
 というわけで、ちょっと寂しくなったので、「映画でも観に行くか」ということになった。ちょうど、三茶の映画館で「マイ・ビッグ・ファット・ウェディング」を上映しているのだ。

 m@stervision の映画評を読んで、ちょっと観てみたいと思ってた。
 化粧もせずに外に出て、イタトマで軽く食事してから映画館に入る。ここの映画館は、レトロな雰囲気でなかなかいいのだ。ロビーに置いてある石油ストーブには、ヤカンがかかっているんだもん。

●「ぼくの妻はシャルロット・ゲンズブール」

 併映はこの作品。題名通りに、「妻がシャルロットなんで、大変なんです〜」という内容らしい。
 監督・脚本とシャルロットのダンナ役は、実生活でもダンナだかパートナーらしい、イヴァン・アタル。

 まあ、けっこう軽いラブ・コメで観ていて疲れないけど、それは私があまりシャルロットに思い入れがないからで、もしシャルロットが好きだという男性が観たら、これってムカつく映画のような気がする。想像してみよう。キアヌと結婚した女優が女性監督になって、「キアヌと結婚すると大変なのよ〜」な映画を作ったとしたら・・・・「殺す」ってかんじ。

 それはいいとしても、最近、シャルロットの映画なんて観てないし、熱心な映画ファンでもなくなってしまったので、今現在のシャルロットの映画界での位置がよくわからん。でも、ロリータ路線バリバリだった昔に比べると、フツーの人気女優ってかんじになったみたいだ。
 長い首は相変わらずだし、ほんとに細いねえ。ときどき、やっぱりジェーン・バーキンくりそつの表情をするので、ハっとするが、でも、久々にシャルロットの美麗ショットを次々を観ていたら、ふと、昔思っていたことを思い出した。実は、ヒロスエが人気出てきたころ、「この子は、もうちょっと工夫すれば、和製シャルロットになれるような」と思っていたのである。
 そんな多大な期待を抱いていたのに、ちっとも私の期待する色気が出てこなくて、今に至る。

 映画の本筋とは関係ないが、ロンドンでロケするシャルロットを訪ねるために、ダンナはユーロスターで往復。そうなんだよね、今はロンドン−パリ間は、飛行機よりもユーロスターのほうが便利だよね。私も数年前に利用して、あっという間だったのでその便利さに感動したもん。でも、なんだか東京−大阪間ってかんじで、有り難味がないよな。
 そんで、ロンドンに行くたびに、「ロンドン・コーリング」が流れるので、一人で爆笑してしまいました。

 あと、シャルロットを誘惑する熟年俳優がテレンス・スタンプで、私にとっては「コレクター」だったり「テオレマ」だったりするのだが、すっかり老けて、アンソニー・ホプキンスみたいになっちゃったんだな。そんで、優雅に小娘を口説いているというのもなんだか泣ける。

 「渋谷系カノジョとのデート向け」としか言いようのない映画だが、主人公のダンナの姉の出産話が絡んでいて、子供を割礼するかどうかで夫婦ゲンカしているエピソード(姉の夫はユダヤ系ではない)がスパイスとなっているのだが、スパイスなだけで、あまりダイレクトに主人公たちの物語に絡んでいないのが気になったが、でも、それはなんと併映の「マイ・ビッグ・ファット・ウェディング」とは見事に繋がるテーマだったのだ!と後で気がついた。このカップリングをした人に拍手。(まあ、ただの「ラブコメ繋がり」だったとも思えるが)

 まあ、あと、A嬢のダンナであるフランス人O君は、なんかいつもネガィブなことをゴチャゴチャ言う人で、たとえばテレビでスーパーモデルが出てくると「ナオミ・キャンベルは超ワガママなんだ!」とか、どうでもいいこと(ナオミの性格が悪くても、どうでもいいじゃん?)をネチネチ説教したりするが、シャルロットのダンナもそういうことばかり言う人で、「誉める」ことをせずに、あくまでも「けなし系」だったので「ああ、やっぱフランス人ってこういう人たちなのね〜」と思った。DVD化されたらA嬢にもお勧めしておこう。
 だって、自分がうんざりしていることをあのシャルロットも同じようにうんざりしてれば、ちょっとは慰めになるじゃない?

●「マイ・ビック・ファット・ウェディング」

 というわけで、m@stervision氏が書いたとおりに、日本人にもすんなり受け入れられるお話。
 日本で暮らしていると、アメリカちゅうのは人種のるつぼであって、異民族間の結婚なんて日常茶飯事と思いがちであるが、実は日本で「パキスタン人の彼と結婚したいの〜」と言ったくらいの騒動を巻き起こすものであるということは、映画や小説で学んだ。

 その昔、タダ券もらって、「ミシシッピー・マサラ」っていう映画を岩波ホールで観たな。あれはインド人女性と、黒人男性の結婚話。けっこう地味な作品だったが(なにせ「岩波ホール」だし)、その後、その映画に出ていた黒人男性が駆け出しのデンゼル・ワシントンだったということに気が付いたりした。

 笑いどころも、気が利いていて、ほんとに佳作ってかんじ。清教徒的な良家のお育ちで、けっこうハンサムな彼が、なんで普通のワスプな女性と付き合わず、ギリシャ系の女性に惹かれたのかっていう説明があまりされていないのが気になったが(もっと、自分の家庭のギスギス感などを描いてくれれば・・・)、でも、テンポも良いし、小ネタの伏線も最後のほうで地味に集約してくれているので、気持ちよく笑えた。

 そして、ワーーーーっと大騒動であれよあれよとう間に行われる結婚式本番のシーンを観て、「別に結婚したくないわけではないが、結婚式するのだけは死んでもいやだ」という確固たるポリシーを持っている自分が(「花嫁さんになりたい」と思ったことは物心ついてから一度も無い!)、「こういうんだったら、結婚式も披露宴もやってもいいかも」と一瞬でも思ったのだから、それは凄いことである。

 新郎新婦が教会から出て、恥ずかしいほど飾られたデカいリムジンに飛び乗るところとか、ちょっとやってみたくなったもん。そんで、披露宴は「アフロディーテ・パレス」とかいう、玉姫殿(死語?)なところで、そこで親戚一同が集合して大宴会・・・・祭りだ・・・・・そして、お堅い新郎の両親も、祭りのムードにあてられて、ギリシャ・ダンスを踊っちゃうわけで、うーん、楽しそうだ。

 というわけで、この、あたくしですら、ちょっと「ぽーーーーっ」となってしまった強力な映画だったので、付き合っている彼女にプロポーズしたいんだけど、そのタイミングが・・・・とお悩みの紳士がおりましたら、ぜひ、この映画を一緒に観ることをお勧めしたいと思いました。


 しかし、こんな極上の「カップル向け映画二本立て!」だったけど、三連休の中日で好天だったわけだし、三茶のさびれた映画館にいるのは、「どうもモテそうもない男子」「いかにもモテそうもない女子」「中年女性二人連れ」「中高年男性、家にいるのが辛くて逃避」という冴えない面々ばかりで、カップルの姿はほぼ皆無。

 悲しいほど、持ち腐れてました。

 私も「ハッピーな気分」を家まで持ち帰ったのですが、なにせ「咳をしてもひとり」状態なのですが、ふと、鏡で顔を観てみると(映画館は乾燥していたのだが、リップクリームを忘れたので唇がガサガサになったので)、「ハッピー気分」の充填により、なんだか無意味にアドレナリンが分泌されたようで、スッピンの顔が、なんだか紅潮していてツヤツヤしていることに気が付き、「あたし、今・・・・なんだか無駄にカワイイ」とガッカリしたのでありました。

 つーわけで、この映画は「わたしのこと、幸せにしてして」という「してしてオーラ」が30分くらい持続するようなので(もう、とれた)、「長年付き合っているけど、なかなかプロポーズしてくれない彼氏とのデートの30分前」に観ておくと効果的かもしれません。

 さて、明日は世間的にはお休みのようですが、私は出勤です。早く寝ようっと。
1月10日(土)

 ひー、やっとお休みだし、と一安心してしまったのでっていたのだが、昨日の夜は一人でガバガバとビールを煽っていたのだが、タモリ倶楽部を観終わってから、「そうだ、NHKでダーマ観なくちゃ」と思ったら、とほほ、大島弓子原作で泉ピン子主演の「ちょっと待って神様」の今週の再放送が始まっちゃったよ。

 なんだかとっても悲しくなる。
 そして、だんだん怒りが込み上げてきたので、「この気持ちを浄化しよう」と思い、本棚から「秋日子かく語りき」を出してきて読んだ。
 ついでに、セットで「泣き必須アイテム」をなっている「つるばら つるばら」も読んで、酔っ払ってたから気持ちよく号泣できました。

 「秋日子かく語りき」は、とても微妙なバランスを持っている作品で、たしかにストーリーは「女子高生の体の中にオバサンの魂が入っちゃった」という、かつて一斉を風靡した男女入れ替わり青春もので映画では「転校生」だったかな、とにかく当時のコバルト少女文学の金字塔であったあの作品と似たような構成なのだが、でも、それとはちょっと違うニュアンスなわけですよ。

 何が一番違うかというと、いかにも「典型的なオバサン」と、「不思議ちゃん」な女子高生が入れ替わっても、それほど違和感が実は無いということが描かれているからです。

 「綿の国星」の連載終了から、「サバと私」の世界に突入するまでの大島弓子の一連の作品には、そういうテーマを含んだ作品が多い。どういうテーマかと言われると説明が難しいが、「アイデンティティー」という確固としたものは実は無いという世界観とでも言えばいいのだろうか?

 個人というものが、しっかりと存在するものではなくて、その境界線はかなり曖昧だという感じ。つまり、個人のパーソナリティというのは、常に外気にさらされており、周囲の温度に敏感に反応して目まぐるしく変化していくものであるように描かれているのである。

 「秋日子かく語りき」では、オバサンが憑依しちゃって奇行を繰り返す主人公をその親友である優等生が冷静に観察する視点も描かれている。親友は、それを「自作自演」と判断しているのだ。でも、一連の事件の中で彼女は自分と秋日子の関係を見直すことになり、そこには短い描写ながらも別の物語が存在するわけだ。
 この「優等生の友人」というキャラは他の作品にも登場して、物語に別な角度で光を差し込む役割をしているようである。

 憑依ものとしては、単行本の「秋日子かく語りき」には、「ロングロングケーキ」という宇宙人が登場する多次元宇宙を描いたSFものの風変わりな作品も掲載されているが(でも、ロマンチック・コメディ調)、「庭はみどり 川はブルー」というのも、ほぼ同じ時期(雑誌掲載年は同じ年)に描かれていて、「死んだ母親が、残された家族が心配で、幼い娘に憑依した」というストーリーで、こっちは「秋日子・・・」のような「入れ替わり」ではなくて、幼稚園女児に部分的に母親が関わるという設定になっている。

 でも、こっちの作品でも、いくら30歳くらいの母親が憑依しようと、ボディは幼女なわけで、幼女がなんか奇行をしても、それは「母親の死で、ちょっとカンが鋭くなり、大人びてしまった幼女」くらいにしか周囲には感じられない。そして、妻亡き後に子育てや仕事に奮闘する父親を見守る視線は、「妻」も「幼い娘」も実は大して変わらないらしいことに気がつくのだ。

 そんで、この二つの作品では、「憑依」というのが本当なのか、それとも憑依された主人公の自作自演なのかが曖昧になるように描かれていて、主人公たちは、たまたま巫女的な素質を持っていたので、そういうことになったが、そういう感受性を持っていない一般人でも「死んだ人が、生きている人たちに影響を及ぼす」ということは、ここまで強烈ではなくても、「あるよなー」ということを考えさせられる。

 死んだ人の魂がさまよう話は、そーいや昔も描いていたな。「四月怪談」だ。
 あれは、女子高生が死んで、幽霊となって飛び回り、自分の周りの人を観察しながら「やっぱ、生きてるほうがいいかな」と思って戻ってくる話だったが、あれが1979年の作品で「秋日子・・・」や「庭はみどり・・・」は1987年の作品。10年後には「もう、戻れない人が、現世にどうあきらめをつけるか」という作品をなぜか連発していたようだ。

 なんか評論チックなことを書いてしまいましたが、「綿の国星」以前の大島弓子の作品は、ちょっとハイ・テンションなものが多くて、けっこうついていくのが大変だったりしたが、「つるばら つるばら」や「秋日子かく語りき」あたりの作品は、「綿の国星」で獲得した、まったりとした世界感でかつてのテーマをおさらいする感じがあったので、とても好きなのだ。

 だから、今でも時々、紐解いて泣きながら読んでいる愛しい作品がドラマ化されて、泉ピン子が出ていると、とぉ〜〜〜〜〜ってもがっかりするので、嘆き悲しんでいる、ということが言いたいだけでございました。

 さて、そんなこんなで、夜中に大島作品のおさらいをしてしまったので、今日は昼頃目が覚めたが、そのままウダウダしていたら午後3時になっていた。今週末こそ「部屋の掃除」をしようと思っていたのに、出鼻をくじかれたようである。

 なんとか夕方には図書館に行って、年末に借りた本を返却して、「炎のゴブレット」を予約したが、「さて、何を借りようか」と書棚をブラブラして、ふと「そーいや、まだこれ、読んでなかったなあ」と高村薫の「晴子情歌」を借りてみた。たぶん、読まないような気がするけど・・・・・。

 そーいや、先日はとうとう「ラスベガスをぶっつぶせ!」を読了。けっこう、あっさりと読めた。「ベガスの裏側暴露本」みたいだけど、でも、これ読むと、ベガスに行きたくなるので、宣伝効果は高いよね。で、結局、この本で描かれた人たちの収支はどうだったのか不明だし、その後どうしているのかも、はっきり書いてないので、後日談のほうが気になるが、今だにカード・カウンティングで食っている人はいるのだろうか?

 日本でもパチプロ集団が「都市伝説」というよりも「梁山泊」みたいに、けっこうマスコミにも露出していて、そういう人たちがいるという事実が、「けっきょく負ける大多数」の心の拠り所になっているわけだから、この「ラスベガスをぶっつぶせ!」も、ベガス協賛本としか思えない。

1月9日(金)

 水、木曜日と日記を書きませんでしたが、その間、こんなことがありました。

●「1の反復数」に刺されて死んだ

 火曜日に、急に「素数って、素数って」と書いてから、布団に入ると、S君から電話があり、「アンディ・ラウの髪型 」について相談された。
 手短に説明すると、彼は今週末に香港に行くのだが、事前リサーチとして「香港ではどういう髪型が受けるか?」と香港在住1年のきょうみさんに相談しており、きょうみさんは、あっさりと「アンディ・ラウ」と答えていました。

 それが香港女性の多くの趣味なのか、きょうみさんの個人的趣味なのか、私にはよくわかりませんが、素直な若者はそれを受け入れたようで、「どーしよー」と私に相談してきたので、「日本で、アンディにしてくれって言ってもイメージ湧かない美容師のほうが多いだろうから、香港でやってもらったほうが確実じゃない?」
 彼はすっかりその気になっていたが、よくよく話をきくと、どうも香港人女性とデートする約束をしているので、それで「香港でのモテ系は?」とマジになっているようなのである。

 うーん、それだったら、そもそも、きょうみさんに聞くのが間違っていると思うが・・・・・私だったら相手に「好きな映画スターは?」って聞いてみるけどなあ。だって、ひょっとしたら、アンディ・ファンじゃなくて、トニー・レオン派かもしれないじゃん!
 ま、でも他人事なので放っておいて、眠いから電話を切った。

 眠りにつきながら、さっき書いたことを考えた。
 どーして、自分は、こうもバカなんだろうか。2003が素数かどうか確かめるのは、そう難しくないと布団に入ってから気が付く。

(以下の記述は「数のセンスの全くない人」にしかわからない、たいへん専門的な記述になっておりますので、そのあたりに興味の無い人は読み飛ばしてください)

 そう、掲示板でもご意見を頂いたが、√2003になるまで暗算すればいいのである。
 しかし、一般の人は√2003がいくつなのか、すぐにわかるのだろうか?
 √10000なら、100×100だとわかるけど、√1000はちょっと難しい。
 でも、√900だったら、ナマクラ暗算でも30×30だとわかる。

 で、40×40=1600で、50×50=2500だから、√2003は40と50の間だ。

 さて、このまま間を詰めていって√2003まで近づけるのと、「50までの素数で割り切れなきゃいいんだな」という方法のどっちが早いのか、ちょっと悩む。
 考えてもわからないので、とりあえずどっちにしろ50に近い数まで割り算をしなければならないので、さっさと割り算すると仮定してみよう。なぜ「仮定」するかというと、だから暗算ができないからである。

 ちゅーことは、まず、2003を割ってみる数は、2、3、5、7、11、13、17、19、23、29?(半疑問形?)・・・・31?・・・・37?・・・・う〜ん、「九九」は全部言えるが、「逆九九」はけっこう難しいのだな・・・・やはり、布団の中でこんなことしていると、いつまでたっても眠れそうにもなかったので、もう止めることにした。

 しかし、頭の中を数字がハッスルしてしまってなかなか気分が落ち着かない。
 ふと、さっき探した素数のページでこんなのがあったことを思い出してしまった。
 これを見たときには、何のことを書いているのかさっぱりわからなかったのだが、寝てからやっとわかった。
 11は素数だけど、111は素数ではないのだ!

 でも、どうやら11111111111111111111111 は素数らしいのだ!

 111111も、1111111111も、同じく「一並び」と呼んでいた「元・芸能界の経理のおねーさん」としては、これは大変ショックなことである。
 「一並び」というのは、「源泉10%引くと、ぴったし1万とか100万になる数」としか考えたことがなく、その奥深さに思いを馳せたことなんて全くなかった。「ロマン」よりも「現実」っていうか、「手取りはぴったし」という貧乏臭い発想が生んだ数字というか金額だとしか思えなかったのである。

 と思った瞬間、私の脳裏に1111111111111111が溢れ出した。

 11111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111・・・・・・・・・
 まるで、不思議の国のアリスがトランプの王国に迷い込んだような状況。
 しばらく「1の兵隊」たちに攻め立てられていたが、いつのまにか寝てしまったようだ。

 水曜日の朝、目が覚めると寒かった。
 そして、右肩がズキズキと痛んだ。

●ミヤノ投手、右肩故障

 こんなことは初めてだったが、どうやら首ではなくて肩を寝違えてしまったらしい。冷えもあったのだろう。
 しかし、なんとなく、「111111に刺された」ような気がしてしまった。だって、なんか尖ってるじゃん。

 痛む肩をだましながら支度し、部屋を出ようとしたときに、ふと、「マトリックス」が目に入った。
 年が明けてから、ミスタ・アンダーソンはちっとも顔を見せてくれない。丸めたコーヒーのフィルターの中でヌクヌクしているらしく、光で透かすと影が確認できた。

 念のため、出掛けだというのに確認してみたら、先日、存在が確認されたのとほぼ同じ位置に影がある。

 「もしかしたら、もう死んでたりして」
 と心配になって、マトリックスを揺すってみたが、変化なし。
 確認のため、ふたを開けて、割り箸でつついてみたが、変化なし。
 さらに念のため、丸めたフィルタを取り出して、中を開けてみた。

●朝っぱらから「マトリックスごっこ」

 いた!
 モゾモゾと動いているから、大丈夫のようだ。朝の貴重な時間を無駄にしてしまった。さっさと仕舞おう・・・・

 と思ったら、アンダーソン君は外気に触れたのに気が付いたのか、急に元気に走り始めた。
 どわわわわっ、と私が不意打ちに慌てていたら、ぴょこんと流しの中に落ちてしまい、裏返しになってジタバタしている。それを素手でつまんで、マトリックスに押し戻そうとしたが、なにせ大事なペットなので、傷つけないように優しく抓んだだめ、今度は床に落としてしまった。

 「うわー、逃げちゃうよー」と大慌て。でも、このまま逃げてくれてもいいかも、とも思ったが、この真冬では外で生きるのも厳しいだろうし、部屋にはまだホウ酸地雷が沢山隠されているから命の保証はない。
 なので、必死に捕まえて、やっとのことでマトリックスに戻っていただいた。

 映画の中ではアーキテクチャさんが「私は、人間と違うから、逃げたいやつは逃がしてやるよ」と偉そうに言っていたが、私はアーキテクチャさんがバカにする「バカな人間」なんでやっぱり逃げる者は追ってしまうようだ。

 というわけで、朝から、マトリックスごっこしてしまいました。

 さて、会社に行くも、肩が痛くて、だんだん熱を持ってきたようだった。
 でも、また蕎麦屋に飲みに行って、社長が現在ちょっとハマっているらしい本(東京に秘密の地下道が!っていう、トンデモ本)の解説を延々と拝聴して、すっかり酔っ払って帰った。

 家に帰ってから、水分補給しつつ、ぼんやりテレビを観ていたら、またS君から電話。デート予定の相手が美人らしく、すっかりテンションが上がっているのだが、どーして他の人に相談してくれないのだろうと思ったら、「他の人に宣伝するのは上手くいかなかったときに恥ずかしい」とかなんとか。なんだか出会い系にハマった人の話みたいなので、私としては全く親身になれないのだが、それでも向こうはお構いなし。なので、腹いせにこうして自分の日記に書くことにした。
 帰ってきたら、また成功談もしくは失敗談を拝聴することになるんだろうな。まあ、事前の「自分の中だけで盛り上がっている話」よりも、事後の具体的な話のほうがいいので、今後は結果だけ知らせてください。(失敗しても別に報告してくれなければいいわけだし)

 というわけで、12時半まで電話に付き合い、朝はちゃんと起きたのだが、肩の痛みが増していた。
 酒飲んだのがいけなかったかしら。
 ずっと痛いわけでもないのだが、「首の寝違い」と同じで、ときどき耐えられないくらい痛い。きっと2日間ぐらいで治るのだろうけど、それにしても痛いので、鍼灸師の兼平さんにメールを打って「今日、空いてませんか?」とSOSを出すと、「夜9時過ぎるけどいいですか?」と返事が来たので、「もー、何時でもいいです。たすけて」と予約を無理やりとって、夜9時半に訪問。

 一昨日の水曜日も寒くて、「やっと真冬ってかんじ」と思っていたが、昨日は北風ピューピューで体感温度が一気に低下。いったん家に帰ってから、セーター二枚重ねして行きました。おかげで帰りはポッカポカで、家に帰るとすぐに風呂に入り、乾燥機かけてヌクヌクの布団に包まって12時半ごろ就寝。

 朝起きたら、まだ肩は痛かったけど、でも、ズキっとくる嫌な痛みはなくて、「おかげでピークは超えたな」
 昼頃には、肩の痛みはほとんど気にならなくなった。ちょっと肩こり気味ってくらい。

 おかしかったのは、兼平先生のところにも昨日は予約のメールが殺到したらしい。「いつも、こんなに予約が入るとうれしいんすけど」と苦笑されていたが、私は「たぶん、皆さん、正月休み明けで、今日くらいにちょうど調子が悪くなるんですよ」
 それで、すでに土曜日は予約でいっぱいになってしまったそうで、「ああ、きっと、土曜日に治療してもらって、日月の連休はすっきりとまた遊ぼうという計画なんでしょ」

 そんなこと言ってたのだが、今日はクララが「腰が痛い」と言って顔をしかめていたので、やっぱそういう人多いんだな。

●かわいくなったハイジ

 彼は今年から禁煙を始めたのだが、月曜日あたりは超眠そうで、「夜、腹が減って眠れない」とボヤいていた。
 そして、タバコを吸うかわりにお菓子を食べるようになってしまった。去年までは、しょっちゅうお菓子をボリボリしているクララのことを「おまえ、いつも食ってばっかいるな」と笑っていたのに、今現在、総務部の「お菓子ボリボリ頻度」が一番高いのがハイジ。
 しかも、時期的にお客さんが皆お菓子を持ってくるので、山積み状態なのだ。

 「さーて、一服するか」とお菓子の山に恥ずかしそうに近づくハイジは、今週の「総務部名物」となった。

 そして、私も経験者だからわかるが、禁煙すると、ちょっと性格が変わるので、今まで私がちょっかい出すと「ふん」とニヒルに無視していたハイジは、今では私が「あ〜、またお菓子食べてる。太るよ〜」と、からかうと、あくまでも本人比であるが「てへ?」という顔をするようになり、とても愛らしくとっつきやすいので、ずっとあのままでいて欲しい。

 「あいつは愛想がないよな」とハイジを評していた社長にも、昨日の飲み会で、「A君は禁煙してて、女の子たちよりお菓子を食べるようになり、リスみたいで可愛いですよ」とヨイショしておいてあげました。(よけーなお世話とも言える)
 部長にも査定面談のときに「仕事ぶりには不満が無いが、もうちょっと笑顔というか、仕事頼んだときにブスっとするな」という「今後の目標」を与えられたらしいので、このまま禁煙を続けて体重を10キロくらい増やせば、その目標はクリアできるかもしれないぞ。がんばれハイジ!


 というわけで、「仕事始め」だった今週は、なかなか波乱に富んだ一週間だったような気がする。

 最近は、どんどん仕事を他の人に割り振っているので、なんだか私はのんびり。
 でも、ハイジやクララの粗探し(確認作業)してるんだけどね。

 このままだと、いずれ私がいなくても大丈夫になるかもしれない。そろそろ嫁に行けるかしら?

 と、思ったが、行き先も決まっていないので、あまり他人に仕事をバラ撒きすぎると、窓際族になってしまいそうなので、テキトーにしておかないとな、と日記には書いておこう。 

 まあ、でも、おかげさまで、年末年始は人並みに9連休とれて、1月後半は年に一回の連続休暇をとって香港に行くのだが、それでも、そんなに残業しなくても済みそうなので、よかったよかった。

 そーいえば、今朝のワイドショーでちょっとキョトンとしてしまった芸能ニュース。

 元・宝塚トップスター涼風真世が早稲田大学ラグビー部コーチと熱愛!

 「涼風真世」がどんな顔かも思い浮かばないくらいなのだが、ワイドショーをぼんやりと布団の中で「聴いて」いて、「早稲田のコーチ?」と、「そんなやつ、さらに知らない」と思ったのだが、「今泉」と聞いて、ぼやけた頭がだんだんと集中してきた。その名前には聞き覚えがある。

 いまいずみ?今泉?早稲田?

 ああああああーーーーーーーーー! あの今泉か!

 思い出したよ。宿敵早稲田のフルバックではないか!
 あの、キックする前に、一歩二歩と大げさに下がり、早稲田の学生たちは、場内に響き渡る声で「いっち、に〜」と数えていたが、敵対校であった私らは「みんなに数かぞえてもらわないと、自分では数えられないのかよっ!」とヤジを飛ばしていたのであった。

 その後、たしか、普通に実業団に入らずに、どっか外国に行ったんじゃなかったっけ?
 いつのまにか、母校のコーチに収まっていたわけだ。

 しかし、それで「熱愛」のお相手が早稲田繋がりでヒロスエとかだったら、「くっそーーー、何度キサマの左足をへし折ってやろうと思ったことか!」と10数年前の過去のことを熱く思い出すところであったが、お相手が「涼風真世」というのを自分の中でどう位置付けていいのかさっぱりわからなくなり、「とりあえず、トイレに行こう」と、なんとか布団から抜け出られたのであった。

 10数年間、すっかり忘れ去っていたものが、タカラじぇんぬと共に蘇るとは思ってもみなかった。
 ♪すみれの花〜の咲くころ シャン シャン シャン

 ってかんじ、としか言いようがない。
1月6日(火)

 というわけで、今更ながら、ハリポタに夢中(なわけでもないんだけど、クリスマス〜年末年始に読むのにはいいセレクトだった)なわけで、そういう人のことを「ぽったりあん」とか呼んでいたような気もするが、亀谷万年堂の新作だとしか思えなかったなあ。

 それはいいとしても、昨日、日記を書いたあとにふと、「もし、自分が今10歳くらいで、この本を夢中になって読んでいたとしたら、ぜったい箒が欲しくなったに違いない」と確信した。
 前にも書いたが、家にあった箒で魔女ごっこして遊んでいたので、こんな本や映画を観たら「ニンバス」とか「ファイヤ・ボルト」という名のついたハリポタ・モデルの箒を買えと親に迫ったであろう。と、言っても、実際には親におねだりのできない気弱な子供であったので、親が「何が欲しいかサンタさんに手紙を書きなさい」と言ってくれたときに「ファイヤ・ボルト 1/1モデル」と、きっと書いただろうってこと。

 と、確信したので、きっと今どきの子だってそうに違いないと探してみたのだが、「1/1モデル」を発見できなかった。このページで紹介されているのは、「1/1」なんだろうか?もしそうだったら、どこで売ってたの?

 むー、巨大おもちゃ屋に行けば売っているのだろうか?でも、今だとあまり置いてなさそうだから、「アズカバンの囚人」が上映されてから探しに行ったほうがいいかもしれない。

 おいおい、ちょっと待った。別に今の自分はそんなもんで遊ぼうと思っていないのだし、それにうちにはちゃんと「ボーボワール」っていう箒があるじゃないか。

 私が想像したのは、こんな光景である。
 大晦日の午後、母親が私を呼ぶ。
 「じゃあ、ミヤノの分担は玄関ね」
 「え〜〜〜〜〜」
 「文句いわないで、そのために、クリスマスに魔法の箒を買ってあげたんじゃない」
 「これは、競技用なんだよ」
 「でも、箒なんだから、掃除くらいしなさい。なんなら、魔法で掃除してもいいから」

 というように、どこの家でも魔法の箒を買ってもらった良い子が、しぶしぶ玄関や外の掃き掃除をしているのである。「ちぇっ、私なんか、ほんとならシーカーなのにさ」とかブツブツ文句言いながら。

 というのが無理なら、こっちのほうがリアリティあるだろう。
 「ほら、お父さん、早く玄関掃除してよ」
 「おーい、箒がないぞ〜」
 「そこにあるでしょ」
 「これはミヤノのじゃないか?」
 「いいのよ、あの子もうそんなもんに興味ないから、玄関用にしたの」

 ニンバス2000で玄関を掃くお父さん・・・・・・いいなあ。

 というわけで、子供にお手伝いさせるもよし、子供が飽きたら実用品という優れものだと思うのだが、箒業界は何をしているのだろう?(もう、とっくの昔に儲けてたらスイマセン)

 話題転換。
 正月に母と喋っていたら、「なんたら症候群っていうのがあって、それが『レインマン』のモデルになったやつみたいで・・・」「え?あれって自閉症なんじゃないの?」「いや、なんかカタカナの名前だった」

 先日、森山さんの日記経由で、たぶん母と同じ番組を観た人の記述を発見。「サヴァン症候群」というのだそうだ。そういや、なんか聞いたことあるが、それよりも「なんかカタカナだった」としか言わない母は「ああ、やっぱし本当のお母さんだ」と思った。遺伝ってこわいわ〜。

 オリバー・サックスの本にも登場していたが、私はこういう「自分とは違う物の見方をする人たち」がいったいどういう仕組みで物ごとをとらえているのか想像するのがとっても好きである。趣味といってもいい。

 特に自分に全くそっち方面の才能が無いので「数」に対する才能のあるサヴァン症候群の人は、私の夢とロマンを掻き立てるのだ。
 だから、サックスの「妻を帽子と間違えた男」の中でも紹介されていた「素数でお話する双子」の話は、「いったいどうやって何桁もの素数が瞬時にわかるのだろう」と考えずにはいられない。
 2003年が「素数の年号」だったと聞いても「ふーん」としか思えないし、もし私が「ほんとにそうなのかな?」と思ったら、どうすりゃいいんだ?

 えっと、まず、2で割ってみて、3で割ってみて、5で割ってみて、6は違うから、7、11、13・・・・みゅみゅみゅ・・・・17・・・・これやっていると朝になりそうだし、要するに1003÷2以下の素数で割り切れなきゃいいんだろうけど、377が素数かどうか考えるのに、2で割ってみて、3で割ってみて、5で割ってみて・・・・などと、いちいちやっていたら、下手すると朝になっても終わらないかもしれない。

 よく知らんが、「素数」っていうのははじき出すのがとても難しいらしい。コンピュータを使えば、もっと早くできるのだろうけど、そんなもんが発明される前は「素数探し」で一生潰した人もいるだろう。たしかに、かなり暇は潰れると思う。

 というようなことを電車の中で考えていたら、ふと、いい方法を思いついた。もちろん、私には不可能だが、「レインマン」でのダスティン・ホフマンは床に散らばったマッチ棒の数を瞬時に数えられた。そういう能力のある人は、逆に「265」と思えば、頭の中で265個の何かを思い浮かべることができるのだろう。チェスのプロが頭の中で布陣を組めるように。

 実際、私でも10くらいまでだったらなんとかなる。いや、すいません、今やってみたら無理でした。5ぐらいが限界。5だったら頭に思い浮かべて、3つ引くと2が残るというイメージを描くことができる。
 それを「2003」でもできる人がいるとする。
 その人の頭の中では、2003個のパチンコ玉が、ジャンジャンバリバリと転がっている。

 誰かが「2003は素数ですか?」と聞くと、頭の中に2003個のパチンコ玉が現れる。
 そして、可動式の四角い枠も現れる。角は直角だけど長さは可動。辺XとYが任意の整数である長方形ってことだな(わはは、数学っぽいじゃん!

 その枠を辺Xが1(パチンコ玉の直径)にすると、Yは2003だ。
 Xを2にすると、Yは2002になるが、1個分だけ隙間が空く。きもちわるいので、3にすると、4にすると・・・・・ドドドドドドド・・・・・っとやっていくと、とうとうXが2003になってYが1になる。わー、すげー、2003って、一回も長方形に収まらなかったよ。なんか、可愛いから好き。

 うーん、頭の中で大量のパチンコ玉を操るのは楽しそうだ。これができれば、掛け算も割り算も、瞬時にできる。便利だし、なんだか美しい。

 と、悦に行っていたのだが、ふと気が付いた。「この方式だと、その数が素数なのか、なんの平方なのかはわりと瞬時にわかるが、素数を探すのには手間がかかる」

 うーむ、素数でお話するのは難しそうだ。

 ということを考えていたら、ふと思ったのだが、俳句っていうのは文学の中では素数っぽいよな。

 古池や蛙飛びこむ水の音

 って、もうこれ以上、なんにもいじれないような気がする。(数学的な素数の意味とは違うけど)
 もう 57336415063790604359 ってかんじです(?)。
 と、考えると、例えば三島由紀夫の小説みたいに、なんだか異常に完璧な感じのする小説っていうのは、すごく桁の多い素数のようなものなのかもしれない。うおー、世界最大の素数は630万桁だってさ。すげー。

 それを小説のように読んだら、いったい何ページなんだ?とりあえず400字詰めの原稿用紙が1万枚以上(暗算苦手なのがバレるアバウトな表現)ってことだな?

 というわけで、いったい何が言いたいのか自分でもさっぱりわかりませんが、コンピュータもきっと偉大な長編小説を楽しんでいるのであろうという、ありがちな「擬人化」をしてしまいそうになります。
 私には見えます。
 世界中から集められたコンピュータがバーチャな無限空間に、無数のパチンコ玉を集めて、巨大な長方形で囲んでドドッドドドっとやっている姿が・・・・

 というわけで、明日からパチンコ屋の前を通りがかるたびに「ああ、素数・・・・・」と呟くことになるのでしょう。
 では、今夜はこんな↓夢を見ることにしましょう。

692624557324389620662782322677336711138108482588281739734375570506492391931849524636731866879


 寝汗かきそうです。
1月5日(月)

●仕事始め

 ちゃんと、朝7時に起きた。大人である。

 でも、8時まで布団の中から「目覚ましテレビ」を観ていた。大人だから許される。

 ちゃんと、9時50分には会社に着いた。大人だから自分の食いブチは自分で稼がなければならない。

 で、大人だから、たとえ心の中で「仕事始めなんて、ちっともメデタくねーよ。眠いんだよ、あたしゃ」と思っていても、にっこり笑顔で大きな声で「おめでとーございます」と言いまくった。

 で、こっちが頑張って新年の挨拶とやらをやっているのに、ちゃんと挨拶返せないやつもたまにいるんだけど、大人だから「まあ、しょうがない照れ屋さんなのね」と笑って許す。

 というわけで、昼ごろには「大人使いすぎ」でくたびれてしまいました。

 しかし、午後3時ごろにやっと会計事務所から前期決算の修正伝票が届いたので、「仮受消費税」と「仮払消費税」と「未払消費税」の伝票とか、「固定資産売却損」を「有価証券売却損」に振替える伝票とか、「雑損失」を「特別損失の雑損失」に振替える伝票とかと格闘していると、

 「もー、なんなのこの怪しい呪文の羅列は!私はマルグなのよ!」

 と、キレそうになっていました。

 そもそも、この呪文は似たような言葉だ大変多く、「固定資産」と打てば、候補がズラリと出てくるのですが、

 固定資産売却損
 固定資産売却益
 固定資産除去損
 固定資産評価損

 って、「クイズ・ミリオネアー」で「50/50」を使いたくなるような4択問題か、ごらぁってかんじです。

 正月休みボケの頭で入力するのは、ちょっと強烈でした。
 でも、これを終わらせれば、もう前期とはオサラバできる。会計ソフトの前期と今期を行ったり来たりするのが面倒なので、さっさと前期は封印したかったので(ボケナスが間違って伝票打たないように、入力制限をかける。ちなみに、ボケナスとは自分も含む。ってゆーか、そんなボケナスは8割くらい自分)、無理して今日やってしまったのでした。

 「ボケナス」は絶滅危惧種ではないのだろうか?
 いや、今朝の新聞で「絶滅の恐れのある日本語」という本が紹介されていて、その一例も紹介されており、

 「お天道様に申し訳ない」「夜なべ」「がってん承知の助」「おためごかし」「べっぴん」「おたんこなす」「ちょこざいな」「唐変木」「来たか長さん待ってたホイ」「感謝感激雨あられ」「舟をこぐ」「かまとと」 

 などが上がっていたが、「来たか長さん待ってたホイ」なんかは、別に絶滅してもらってもいいような気もするし、「べっぴん」が絶滅危惧なら、「デラ・べっぴん」という雑誌の立場は?ひょっとして雑誌もすでに絶滅していたのかと心配になり(その昔、弟に内緒で借りて読んでいたのでそれなりに愛着がある)検索してみたら、ちゃんと存在していましたが、思った通りのエゲつないページだったので、このページをお読みの方が家族や同僚の前でうっかり開かないようにリンクはしません。

 そんでさー、朝のワイドショーだかでさー、「イマドキの子は♪かあさんが、よなべ〜をして♪っていう歌詞を夜に鍋をしながらという意味だと思っているらしいですよ」なんて言っててさー、私はそういう無駄な記憶力に優れているので、ちゃんと覚えてますが、私が小学生だった30年前でも、ちゃんと「よなべ」は欄外に解説がのってましたよ。誰もそんな言葉知らなかったもん。昭和40年代でも、すでに死語だったのだが、あの歌のおかげで今まで生き残っていた言葉なのだと思う。

 「よなべ」を存続することよりも、「手袋を編んでくれるお母さん」の絶滅危惧でもしたほうがいいのではないか?
 それよりも、夜中の1時、2時まで平気でテレビ観て起きている人が多くなった今、なにをもって「よなべ」というのかわからなくなってきたよなあ。それよりも、一時期はよく聞かれた「オール」という言葉があまり聞かれなくなったので、その隙をついて、「カラオケでオール」とか「デニーズでオール」とか「クラブでオール」に代えて、「よなべカラオケ」「よなべデニーズ」「よなべクラブ」という言い方を普及させてはどうだろうか?

 「ヒンシュクをかう」とか「やぶさかではない」「ありえない」などの、ちょっと古めかしい言葉は、テレビタレントを通じてわりとすんなり受け入れられるようなので、わりとアリかもしれない。

 まあ、この本の実際の中身を見ていないので、なんとも言えないが、朝日新聞にとりあげられちゃったんだから、きっと「声に出して読みたい日本語」を買った人たちが飛びつくんだろうな。
 でも、このセレクトを見ると、どうやらこれは50年後の「ロンゲ」や「ハブにされた」や「マジっすか?」のような気がするのだが・・・・・「逝ってよし」とかも入るだろうな・・・・・

 ええと、話が逸れましたが、そんなわけで、今日はなんとか会社で一日過ごし切り、定時に帰って、終盤盛り上がってきたハリポタの「アズカバンの囚人」を一気に読み終えました。
 うーん、やっぱこのエゲつないドンデン返しは癖になる。伏線の張り方もうまいねえ。
 ほんとに、下手なミステリー読むよりもよっぽど面白いのだが、「でも、魔法で変身しちゃうのって、ミステリーとしては禁じ手っていうか、そもそもあり得ないけど、ルパンの変装とかも考えてみればかなり無理があったもんなあ」

 てゆーか、よく考えてみると、映画の「チャーリーズ・エンジェル」だって、怪我しててもすぐに治っちゃうし、魔法みたいな技は繰り広げるし、変装しまくりなので、「現実離れ度」としてはほぼ同じレベルだ。

 で、私はやっと今ごろ本を読んでいるくらいなので、映画のほうも全然観てない。「秘密の部屋」にケネス・ブラナーが先生役で出ていたことは知っていたが、原作読んでみて「この役を彼がやったら濃すぎるなあ」と思ったが、「アズカバンの囚人」では、占い学の変な先生役にエマ・トンプソンだって(笑)
 どうも、エマがキャスティングされる前は「ティルダ・スウィントンにオファー?」という噂もあったそうで、そっちのほうが観たかったな。ティルダが占いの先生で、ゲーリー・オールドマンがシリウス・ブラックだったら(こっちは本当らしい)、意地でも観るっきゃないよな。ジュリアン・サンズも出してもらえませんか?
 ハリーのお父さんがヒュー・グラントでもよくてよ。(弱そ〜)
 映画のハグリット役をどんな役者が演じているのか知らないので、私の頭の中では現在ジェラール・ドパルデューが熱演中です。スネイプ先生はリチャード・E・グラント。

 うーむ、なるほど。大人がハマるのもよくわかるな。だって、この本読みながらキャスティング考えるのって、むちゃくちゃ楽しいもん。 
1月4日(日)

●この世の終わりのような連休最終日

 恐れていたこの日がとうとう来てしまった。
 死刑囚が「最後の食事」をモゾモゾと食べるように、今日は午後まで布団の中でずっとモゾモゾしていた。
 しかし、いつまでも悲しんでいられないので、「今日は普通の日曜日なの」と自己洗脳することにして、スーパーに牛乳や砂糖の買出しに行って、帰りにサンドイッチ食べながらハリポタを読んだりして、レコ屋にも寄ったが、最近CDプレーヤーの調子がおかしくて、CDの選り好みをするようになってしまったので、CDを買う行為がバクチになっているのでやめた。

 そうだ、デジカメの電池が充電してもすぐに消耗するようになってしまい、「電池だけ買うといくらするのだろう」と思って調べたら定価で7500円もする。だったら、新しいの買ったほうがいいかも。あのデジカメは初めて手にしたデジカメだったし、祖父が生前に預金を贈与してくれたお金で買った品なので愛着はあるが、今ではかなり「恥ずかしいくらい大きい」ものになってしまい人前で出すのが難しくなってきたので、やはり新しいの買おうかなあ、と思ったのだが、電器屋に行くのも面倒。香港行く前になんとか買おう。

 あーあ、しかし、会社行くのやだなー。
 いったい、去年までどんな仕事してたのか、さっぱり忘れちまったよ。
 えーと、たぶん、年賀状に混じって、請求書がドカドカと届くんだよな。
 そんで、一月の経理的ビッグイベントとしては、支払調書の発行があるのだ。
 あと、給与の源泉徴収票と支払調書を合計して、税務署に提出するんだけど、あれがまた面倒でさ。3月末の労働保険の算定と共に私の嫌いな仕事の一つである。

 支払調書が送られてきて、「ああ、またこの季節か、確定申告めんどー」と呟いている文筆業等のフリーランスの皆様は、「ああ、めんどくせー」とボヤきながらそれを発送している経理のおねーさんのことも思いやってあげてください。

 と、「嫌いな仕事」のことを無理やり思い出して、心のリハビリ中です。準備運動しておかないと、急に出勤したら心臓マヒ起こしそうだし。

 あーそれにつけても、なんだか腹回りがまた一回り大きくなったような気がする。
 ちょっと汗かいてこよっかな。
 というわけで、風呂屋に行って、脂肪分を茹でてきます。(茹でても減らないのはわかっているが)

 たっぷりの熱いお湯で茹でてきました。
 銭湯の脱衣所では、オバサマ方が「も〜、太っちゃって〜」を連呼してました。「太っちゃった」と年始の挨拶がほどよく混じった空間でした。
 「豚の角煮」を作ったことのある方はご存知でしょうけど、肉のかたまりを煮ると、油がたくさん出て、鍋が冷めると白い脂の塊ができます。とある料理番組で「低カロリーな角煮の作り方」をやっていて、いったん煮た汁ごとカラの牛乳パックに入れて一晩寝かすと、脂が上に溜まるので、取り除きやすいと教えてくれたので、私もラム肉をバクテーの素(Mちゃんがマレーシアに行くたびに買ってきてくれる)で煮たときには、あまりの脂の量にびっくりして、その牛乳パックの技を使ってみたら、翌日、厚さ2センチくらいの脂のかたまりがゴーンととれました。

 その光景を思い浮かべながら、銭湯のお湯につかっていると、「自分の脂も、このお湯に浮いたらいいのに」と思いながらも、「でも、これだけ大勢の年末年始の食べ過ぎて脂肪をたっぷりな女性たちの脂がここに浮いたら・・・・」と想像したら、なんだか気分がちょっと・・・・・・・う・・・・・・

 想像力豊かなのも、時と場合によっては、あまり楽しいものではありません。

 家に帰って、テレビをつけると「鉄腕DASH」の正月スペシャルがやっていた。ちょうど「水球で引越しできるか」で、画面に釘付け。
 この番組って、ほんとに企画力あるよな。
 深夜番組でやっていたころから好きだったけど(あのころ、やっとTOKIOのメンバーの顔と名前が一致した)、その企画力は色褪せない。

 しかも、水球とかアーチェリーなどのテレビ的にはマイナーなスポーツに目をつけるところが凄いよね。
 スカイダイビングで風船をキャッチなんて、絵として見応えがあった。一人で見てたのに、スタジオにいるTOKIOのメンバーと一緒に「すげ〜、かっこい〜」と呟いちゃったもの。

 うわーん、カゴちゃんとツジちゃんがモー娘脱退だって。なんとか顔と名前が一致していたのはその二人だけなのに・・・・。でも、年末に妹と話していたんだけど、脱退するとみんな、急にブスになるんだよね。不思議。

 さーて、明日から銀行も通常営業だし、イランに寄付でもしよっかな。宝くじも当たったし、弟夫妻からはキャッシュ・バックされちゃったし。
 でも、阪神大震災でも死者は数千人だったというのに、数万人の死者っていうか、住民の3分の1が死んだってどーゆーこと?イランは過去にも何回か大震災で大きな被害を出しているので、日本と同じくらいの「地震大国」のように思っていたが、耐震構造にするとかそういうとこまで手が回らないのだろうか?

 たしかに、アッバス・キアロスタミの映画を見ていても、家の建築はずいぶんいいかげんで、レンガと土で積み上げていくだけみたいだけど、キアロスタミも震災にあった地域を映画にしていたが、ああいう一度大きな被害にあった場所でも、やはり家を再建するとなると、耐震構造がどうのという余裕はないのかもしれない。

 でも、城塞都市としての歴史は古いみたいだし、あの城がずっと建っていたのに、今回の地震で崩壊してしまったということは、それだけの間、たいした地震に見舞われなかったってことだから、地震の備えなんてしなかったんだろうな。

 人間にとっては、数千年という時間は長いし、その年月はもはや「永遠」に等しいくらいだけど、地球規模で考えると、数千年地震がなくたって、明日はどうだかわからないということなんだろうな。
 そんで、いつ起こるかわからない災害に対して備えるというのは、よっぽど余裕がないとできないんだろう。

 逆にアメリカの竜巻多発地帯では、どうせ巨大竜巻が襲ってきたら、どんなに頑丈に作っても無駄だし、それはコストがかかるので、風呂場とか避難壕だけ丈夫に作って、運悪く破壊されちゃったら保険でカバーという考え方だと誰かから聞いたような気がするけど、ハリケーンとか竜巻とか、ある程度避難できる余裕のある災害だったらそういう手もあるけれど、地震はそうはいかないから難しいよな。

 年末年始でまともなニュース番組がお休みなので、イランの大地震のニュースも新聞やスチール写真でしか知ることができないので、テレビっ子としては実感が薄い。でも、映像で観たからって、理解が深まるわけでもないし、被災地の映像を見たいわけでもないんだけど、あの大震災があと一ヶ月後に起こっていれば、テレビの取り上げ方が違うわけだし、視聴者の関心をもっと集めるのにな・・・・という、不思議さというか、テレビの影響力を改めて考えさせられる。

 アメリカのイラク攻撃で、実際にどれだけの死者が出たのかよくわからないけど、自然の災害でも一瞬にしてそれだけの死者が出てしまうことをどうとらえていいのかわからない。

 そして、地球のどこかに、そいう被害に晒された人が家族を失った悲嘆に暮れていようとも、私の悲劇は「明日、早起きすんのヤだ〜」なのである。贅沢なこった。これは実は、宝くじに当たるよりもラッキーなことなのかもしれない。
 人類全員を分母にして、「明日、早起きするのが嫌です」という程度の悩み(「彼女ができない」とか「年末年始の暴飲暴食で体重が3キロ増えた」も含む)しか持たない人を分子にすると、もしかしたら、すごい確率なのかもしれないもん。
 ユニセフでもどこでもいいけど、そういうのを数字で見せてもらって「宝くじが当たらなかったと嘆いている、そこのあなた!あなたは実はもう、当たっているのです!だから寄付しなさい!」と言ってもらえれば、もっと寄付集まると思うけどなあ。
1月3日(土)

帰ってこれてうれしいわ

 ♪ I'd be so nice to come home to

 やっと自宅に帰り、「ああ、この正月を忘れるような空間!落ち着く〜〜〜〜」と、すっかりマッタリしていますが、とってつけたように、「あけましておめでとうございます」と一応、ご挨拶。

 いや、なんか、久しぶりに実家に3泊もしたので、めちゃくちゃ疲れた。

 大晦日の夜7時くらいに実家に到着すると、すでに弟Sと奥さんのMさんと、その子供のNちゃんが揃っていて、母と妹は丸井に買出し。
 私も丸井に寄って、読者の方が「丸井の国分寺店にクイーンアリスという菓子屋が入ったのだが、そのパッケージが金子国義」ということを教えてくれたので、ちょっと覗いてみたのだが、年末のデパートの高級菓子屋はどこのウィンドーもすっからかんという「どこが不景気じゃあ」な状態になっており、ついついその熱気にあてられて、「また、買っちゃうもんね〜」とAさんちにも持っていった「ゴディバのアイス」一箱1000円を二つ買っていってしまった。

 そんで、母と妹も帰ってきたので、「今年は紅白観ている場合ではない」と息巻く妹と弟の解説付で、「民放格闘技バトル」を堪能。もう、どれがどれだか、よくわからなかったです。「このグレイシーも、親戚なの?」(グレイシーと名乗る人が多いような気がして、どれがどれだかさっぱりわからないし、全部同じ顔に見える)とか解説してもらいながら、「曙VSザップ」も観たが、曙やっぱもうちょっと稽古しないとダメだね。

 いったい何を見ているかよくわからないうちに、気がつくと全部終わっていた。「でも、紅白も『はなわ』くらいは観たいよね」と言っていたのだが、結局見逃したけど、誰も特に悔しがっていなかった。なんか平井賢がキューちゃんとデュエットしていたような気もしたが、すでに酔っ払っていたのでよく覚えていない。

 今年のミヤノ家の年末年始は格闘家や歌手よりも、もっとすごいアイドルが君臨していたので、そっちがメインだったのだ。姪っ子Nちゃんは、すでに家中を走り回るようになり、目が離せなくなった。テレビ観ながら酒飲んでいる場合ではないのである。
 Nちゃんがお風呂に入り、寝てから、「じゃあ、初詣に行くか」と母と私と弟と妹で近所の寺に行って、いつものように大太鼓を叩いてからさっさと帰ってきた。疲れたので、すぐに寝てしまった。

 朝はNちゃんの泣き声で目が覚めたが、私はそのまま頑張って寝ていたが、なんといつも最後まで眠っている妹がNちゃんにつられて起きてしまったようで、9時には「おせち食べるわよ〜」と起こされる。
 おせち食べて、弟夫妻からお年玉をいただく。前にNちゃんのお誕生祝い兼引っ越し祝いとして3万円包んだのだが、それが多すぎたと判定されて、母と弟の嫁さん協議の上、私へのお年玉としてキャッシュバックされたのだ。

 弟も数年前までは、私と似たような「小金持ち」な独身貴族だったので、「ねーちゃん、千円や一万円くらい、どーってことないと思ってんだろ」と言っていたが、弟の奥さんがその発言をたしなめるように「でも、おねーさん、一人で生活しているんだから・・・・」
 実際、この「ねーちゃん」はボーナスを数十万円いただいても、これと言って使い道もなく、ほとんど定期預金にしちゃっているので、「ゴディバのアイス」のハレの気分を買うためだったら、2千円くらいちっとも惜しくないという「ぷち・リッチ」なのだ。それに、年末ジャンボで一万円当たっちゃったしね。

 元旦の日は、お節やお雑煮を食べて皆お腹いっぱいになったので、私が「馬〜〜〜」と騒いで、弟の奥さんは「でも、おばあさんのところに・・・・」と言っていたが、「それは明日にしよう」と弟も愛娘と馬の写真を撮りたくなったようで、みんなでテクテクと農工大まで散歩。

 Nちゃんは、ベビーカーに乗せればいいやと思っていたのだが、どうもベビーカーに乗るのが嫌のようで、結局、Mさんが抱えて歩くことになってしまった。母が「Mさんが、疲れるから」と自分がおぶおうとしたが、ちょっと前までは平気でバーバに背負われていたのに、もうダメみたいで、この世の終わりのように泣かれて断念。
 とにかく、ちょっとお母さんの姿が見えないと不安になって泣くので大変。

 でも、馬が怖いとか、そいう神経はまだ発達していないようで、ぼんやりと馬を眺めていた。妹のほうが「近くに行くとやっぱ怖い」とビビっており、弟はへっちゃらなようで、私は影でこそっと「あいつは、馬に沢山貯金していると思っているので(結婚後はギャンブルからは遠ざかっているらしい)自分が優位だと思っているに違いない」と言っていた。

 Nちゃんは慣れない他所の家に緊張しているのと、ハイテンションになっちゃうのが混ざって、食欲旺盛。
 まだ人間語は喋らないが、タモリの「いんちき中国語」程度には人間語もどきを喋る。
 まだ、「ママ」とか「パパ」という明瞭な言葉は喋らないが、大勢の不審人物に囲まれているときに、ふと「マーマ」と叫ぶ。それでだんだんと「マーマ」と叫べば自分の意思が通じることを学んでいくのだろうな。

 妹と「そのうち、ヘレン・ケラーのウォーター!みたいな瞬間があるにちがいない。その瞬間を観たいねえ」と話していた。

 翌2日は、昼過ぎに出動して、「バーバ巡り」
 まず、小平にいる母方の祖母。元気だった。学生ボランティアがマニキュア塗ってくれたようで、ピンク色の爪が気に入っていたみたい。妹が「今まで観た中で一番元気だった」と言っていたが、ときどき飛ぶけど、一応会話がつながるかんじ。介護士の人たちに、見舞いに来た家族を自慢げに紹介していた。

 それから、また弟の車で父方の祖母のところへ。
 そっちは、入院中よりは元気だったが、やはり足が不自由になっていて、手は動くが自分では寝返りが打てないようだった。頭もぼんやりしてるみたいだったが、喋っているうちに、だんだんクリアになってきたみただけど、「おばーちゃんが入院してるときに、もう死ぬって騒ぐから、みんなでお見舞いに行ったじゃない」と言うと「おぼえてない」
 体も満足に動かないし、目も見えないので「もう天国に行きたい」とぼやいていた。

 無事に「祖母さんツアー」も終わったので、弟一家は食事したら車で帰り、残された父母妹私は火が消えたような家で、ボソボソとチーズをつまみにワインをあけながら「ミリオネアー」を観ていた。

 叶恭子に出された問題「裸の王様」の原題は?で、私は「王様と新しい服」だと主張。「だって、ハリポタの題名が『賢者の石』に『秘密の部屋』なんだよ?そのセンスなんだよ、西洋って」と言い張ったが、やっぱり私が当たり。「ほーほほほほっ!あたくしの教養が勝ったわ」
 問題が出るたびに、父ちゃんはウェブスター英和辞典と広辞苑を取り出すので、なんだか知らんが盛り上がった。
 もひとつ、私の「教養」が勝ったのは「ティッシュの本来の意味は?」というやつで、「ティッシュ・エンンジニアリングっていう、ナノテクとバイオを混ぜたような、組織培養の技術があるから、ティッシュっつうのは『畳む』とかじゃなくて『薄い』だ!」と言い張り、やっぱり正解。

 「ホホホホホっー、あたくしの教養ったら・・・・・もうミリオネアーに出ちゃおうかしら」とイバる私に、妹が冷たく「だって、他にも問題はあるんだよ?」
 父は黙々とウェブスターを引いて「ティッシュとは・・・・」とブツブツ言ってました。やはりお正月のクイズ番組は家族で楽しめて無難みたいです。

 でも、正月のテレビ番組をぼんやり見ていると、野球選手が稼ぎまくっていて泣かせますね。
 でも、ゴルフの丸ちゃんに酷いハンデを与える番組は、父も楽しんでおりました。
 父と会話しないといけないという使命感に燃えた娘は、「すごいね、ドライバーであれだけ細かく打てるんだ」「ああ、ジュニア用のクラブだと腰が入んないからキツいね」と、姪っ子Nちゃんに話し掛けるような必死さで、父に語りかけておりました。

 さて、今朝はNちゃんもいなかったので、みんなで寝坊。
 妹は昨晩帰りたかったのに、母が「物騒だから夜に帰るのは」と引き止めたので、帰れなかった。そんで、ブツブツいいながら、親のマシンを借りて、なにやってんのかと思ったら、ヤフオクだった・・・・・・・

 昼頃起きて、パンとコーヒーで朝ご飯にして、妹と私が帰ることになったが、母は丸井を観せたかったらしく(「丸井も観てるだけで面白くなったのよ」)、妹はとっとと帰ってしまったが、親孝行な姉娘が母との丸井詣でにお付き合い。
 「Nちゃんに大きいぬいぐるみを買ってあげたくてね〜」と年末から父を連れて物色していたそうだが、なかなかこれといったのが見つけられなかったみたい。

 「ほら、みんなも、それぞれお気に入りがあったじゃない」
 実は、私が寝た両親の寝室のタンスの上に、えらくクタびれたパンダの縫いぐるみが置いてあって、電気消そうと思った時に発見して「げ、これ怖いよ」と思ったのだ。真っ黒に変色したパンダさんは、ビニルに包まれて、恨めしげにこっちを見ていた。

 Nちゃん用はいいとして、それを物色しているときに「象さん」も沢山発見したので、「のんちゃんにも、なんか買ってあげる」気満々の母。
 別にそんなもん、欲しけりゃ自分で買う財力のある姉娘(37歳)であったが、ここでなんか買ってもらわないと帰れそうにもなかったので、ブルーナの象さんの小さいやつ(カバンにぶら下げられそうな大きさ)を買ってもらって、「わーい」

 父は買い物に飽きたみたいで「本屋寄って帰る」と言い出したので、母娘で丸井巡り。
 食器売り場も広くなって、母は「見てるだけで飽きないのよね〜」と言うので、ぶらぶらしていたら、ブルーナ食器コーナーを発見し、そこには、象さんが描かれたカップとお茶碗が!

 「ひゃ〜、これ、かっわいい〜」と37歳娘。
 「ほんとだ、前観たときには気が付かなかった」と母。
 「ほしい?」
 「うん、かわいい。Nちゃんはまだ、陶器はダメみたいだけど、もう少ししたら買ってあげれば?」

 Nちゃんのママ(弟の奥さん)は、ブルーナ派なのである。Nちゅんが現在使用しているプラスティックの食器も全部ブルーナ。
 「でも、Nちゃんにはまだ早いし・・・・・のんちゃん、欲しい?」

 なんか買ってもらわないと済まないみたいだったんで、カップとお茶碗を買ってもらいました。
 「今度また、Mさんたち来たら、連れてこよ〜」
 と母はヤル気満々でした。
 弟の嫁も、「のんちゃんには、もう買ってあげたから、Nちゃんにも買ってあげる」と言われたほうが、負担が少ないかも、と思ったのですが・・・・・

 その後、ドラッグストアのコスメショップを見つけ、母に「ほら、アイシャドー安いよ。500円だよ?」と言って、化粧しない母に安い化粧品を買わせました。友達との集まりに化粧して行きたいんだけど、「でも、いきなり化粧したらおかしいんじゃない?」としり込みするので、私が自分の顔に塗ってみせ「ほら、ちょっとチーク入れるだけで、顔色がぱっとなるでしょ?」と見本として見せて、母に試させて「おお、いいじゃん。おかーさん、色が黒いから、ピンクはダメだけど、オレンジ系だと健康的だよ。ほら、ほら」と煽って、アイシャドーとチークの計1000円を買わせました。ふーーーーーーーっ

 他にも「GAPは若向きに見えるけど、ユニクロよりちょっとおシャレで高いだけなんだ。お父さんでもサイズが合えばOKなんだよ。ほら、こんなセーター、お父さんが着たら若返るじゃん!」とGAP巡りをしたり、保守的でケチな母親に「丸井だってけっこう買うものあるよ」と布教しているうちに、いつのまにか5時半。

 やっと開放され、電車に乗ると、疲れがドワッワワーと出て、吉祥寺のマックでコーラ飲んで一休みしてから、なんとか自宅に帰りました。親孝行はほんとに消耗します。

 家に帰って鏡を見ると、母親に「ほら、アイシャドー、こういう明るい色を塗ると表情が明るくなるでしょっ?」とやった顔は、左右違う色で彩られていて、とても変でした。
 母も調子に乗ってきて、「あら、口紅も沢山安いのあるじゃない」と、買う気になってきましたが、前にお金持ちの友達がくれたボビー・ブラウンのを使わないと悪いから、と言って買わなかったが、そのとき2本もらった内の一本は母がつけると映えなかった地味な色で、私がありがたくいただき「ボビー・ブラウン、買うと高いんだよ?」と言って、会社用として現在ヘビーローテーション中です。

 「おかーさん、これ気に入ったって言って、その友達からもっと貰ってきてよ!」

 私もあまり化粧っけが無いので、友達がよくお下がりをくれますが、母もそのようで、しかも、色黒とういか肌色が黄色い母には地味なピンク系やローズ系が似合わないのに、みんなその系統の色をくれるので、そういう「小金持ちオバサンが買った地味は色の化粧品」は、なぜかいつもわりと肌色の白い娘(あたしは、ローズ系が似合う)に流れていて、重宝しているのであった。

 はあ、これで明日ゆっくりしたら、もう明後日は仕事なんだ。
 やーだなー。
 なんか「Nちゃ〜ん」と姪っ子構うので消耗して、姪っ子が帰ってからは「おかあさ〜ん」と母親構うので消耗して、変な話ですが、すっかり便秘気味になり、さっき家に帰ったらやっと腸が緩んで、ドバドバ出ました。

 でも、私は「疲れた〜」で済みますが、弟の奥さんとか、今ごろグッタリだろうな。
 またゴディバのアイスくらいでよければ、ねーちゃんいつでも買ってあげますから、しばくは頑張ってね。でも、弟の嫁Mさんは、すらりとしたスタイルで足が長くて赤ちゃん抱いててもカッコいいので羨ましいわ。妹も昔はもっとスリムだったが、年々私や母と同じような「下半身がっしり」になってきているので、弟の嫁を見ていると「血筋の違い」を考えさせられる。(太らない家系らしい)

 というわけで、また「ハリポタ」の「アズカバンの囚人」の世界に舞い戻ってきました。
 あ、今日は「ホワイトハウス」もやるのよね。いつも見ている番組が始まると「お正月も終わりだな」とほっとします。正月の夜中は「ラブ・ソング」と「天使の涙」とレオン・ライ出演作が目白押しでしたが、どっちも観られなかったからなあ。
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