m@stervision archives 2003b

★ ★ ★ ★ ★ =すばらしい
★ ★ ★ ★ =とてもおもしろい
★ ★ ★ =おもしろい
★ ★ =つまらない
=どうしようもない



★ ★
サハラに舞う羽根(シェカール・カプール)

まあ、もともとケイト・ハドソンが出てなかったら──そして新宿武蔵野館の閉館番組じゃなかったら──観に行かなかっただろう作品だから大した期待はしちゃいなかったんだが、それにしても支離滅裂な話だな。(大英帝国の植民地である)アフリカくんだりの戦争に行かされるのはゴメンだと言って軍隊を辞めた主人公が、友人たちや婚約者から「臆病者」呼ばわりされる屈辱に耐えられず、意地になってアフリカまで出掛けていく。原題は「4枚の羽根」。主人公は3人の友人たちと婚約者から送りつけられた(「臆病者」を意味する)4枚の白い羽根を肌身離さず持ち歩き、幾度も死地をくぐり抜け、命がけで友人たちの命を救っては羽根を1枚ずつ、つっ返していくんである。「どうだ、これでもおれは臆病者か、え?」というわけだ。えーと、そーゆーのは「勇気」じゃなくて「意趣返し」と言います。サワヤカ顔のヒース・レジャーが演じてるのでつい誤魔化されちゃうが、どえりゃあ執念深いやっちゃのう。てゆーかアンタ、臆病者の栄光プライドも、な〜んも解かっとらんやないの。臆病者の栄光は生き延びることだ。臆病者のプライドは殺す側にまわらぬこと。たしかにアンタなんぞに「臆病者」を名乗る資格はない。 ● メインのキャラたちがチャチい分だけ得をしてるのが、主人公を助ける地元部族の戦士を演じるアフリカ人俳優 ジャイモン・フンスーである。「トゥームレイダー2」では屁のような扱いだったが、本作では腰蓑(?)ひとつで全身に石灰水(?)を塗ってスクッと立つその肉体美でキャラ立ちまくり。誰よりも強くて誰よりも頼りになる この助っ人が出てくると、途端に映画が面白くなる。だが、そんな立派なアフリカ人が、なんでまたイギリス人を助けるのかが謎なのだ。劇中では「そこに山があったから」とかなんとかワケわからん理屈を付けてるが、それってあれですか? インド人のシェカール・カプールさんとしては「イスラム教徒をブッ殺すためだったら、親の仇のイギリス人にも喜んで手を貸しやすぜ」ってことですか? 無宗教のおれにはようワカランよ。 ● お目当てのケイト・ハドソンも(べつに悪女の役じゃなくてヒロインなのに)それまでまわりも羨むアツアツぶりだった婚約者が出陣拒否したと知るや掌返しで臆病者と罵り、あまつさえ白い羽根まで送りつけ、絶望した主人公が姿を消すと、自分に惚れてることは先刻承知の「主人公の親友」にすかさず急接近。戦場と熱いラブ・レターを交わしていた仲なのに、そいつが片端になって帰還すると途端に冷たい態度。そこへ友人を救出した主人公が「英雄」となって帰国したもんだから「わたしが間違っていたわ。やっぱりあなたを愛してるの」だって。なんちゅう女や。しかもケイト嬢、こういうシリアスな演技はあんま上手くないことがバレバレだし、うーん…。

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ドラゴンヘッド(飯田譲治)

プロデューサー:平野隆(TBS) 脚色:NAKA雅MURA・斉藤ひろし・飯田譲治
撮影:林純一郎 美術:丸尾知行 視覚効果デザイン:樋口真嗣
VFXプロデューサー:浅野秀二 VFXディレクター:立石勝

望月峯太郎の原作コミックスは未読。映画だけを観ての評価である。 ● 出だしは決して上手くない。物語の構成上「密閉空間での出演者3人だけの心理劇」という、いきなり演技者の力量が問われるシークエンスから幕を開けるのだが、若手演技者たちの底の浅さがブザマに露呈して痛々しいばかりだし、飯田譲治の演出も、妻夫木クンがやたらとコケるのは「体力が衰弱している」という表現なのかな?…とか、その「コケたところに好きだった女の死体が転がってる」なんてホラー映画の基本中の基本のカット繋ぎすら満足に出来ないのでは、この密室場面だけ日本のスタジオで別の監督で撮ればよかったのでは?と思ってしまう。 ● だが外へ出てからラストまで延々と続く地獄行の仕上がりにはビックリした。飯田譲治にこのようなビッグ・プロダクションを完遂させる統率力があったことも驚きだが、下手するとゴールデンタイムには放映できないかもしれない内容のトンデモ映画を作り上げたTBSの社員プロデューサーの度量に感服する。なにしろ出てくるのは右も左もキチガイばかり。ヒーローたるべき妻夫木クンは最後まで半泣きで逃げ回るばかりでヒロイックな行動を何ひとつとらず、作者は主演者のアイドル2人をトコトンまで苛めぬく。起承も転結もなく串団子スタイルで、人類に牙を剥く大自然の凶暴さと、人間の精神の脆さをこれでもかと畳みかけ、最後にはジョージ・A・ロメロ「ゾンビ」のラストにおける「燃料残りわずかなヘリで脱出」のごとき申し訳程度の希望を示して終わる。 ● 説明不足のところ辻褄の合わない点は山ほどもあるが「終末SF」をやるんだという確固たる意思に免じて不問とする。なんで密閉されたトンネルや水路内に光が差してるんだよ?とか、水なしじゃ3日と持たずに死ぬだろとか、いっさい問わない。ただ、どうしても納得できないのはSAYAKAは終始、制服のミニスカートのまんま斜面をよじ登ったりスッ転んだりしてるのに一度もパンチラ・ショットが無いのは不自然だろ。いや、なにもおれは松田聖子の娘のパンチラが見たいと言ってるのではない。ただそんなに見せたくないなら、冒頭の新幹線の場面で死んだ男子生徒のズボンに穿き替えさせればいいではないか。どー考えてもそのほうが実用的だろう。ミニスカは「穿くなら見せろ。隠すなら穿くな」──この大原則を各自、徹底してもらいたい。以上、業務連絡。 ● パナビジョン・レンズを装着したソニー・シネアルタによるHDビデオ撮影。荒廃した火山灰と土煙の世界…という設定なので、ビデオ撮りでも画質は気にならない。火の色がビデオビデオしてしまうのは、まあ致し方ないか。ただ、ラストの[青空]だけはもっと非現実的なまでに[青い]色であるべきだったと思う。それにしてもこういう映画を観てしまうと・・・ああ誰か今のCG技術で、本気で「漂流教室」をリメイクしないものか! ● [追記]「妻夫木クンがやたらとコケる」のは、あのシークエンスは初号試写まではほんとうに「真っ暗闇」という設定だっので「前が見えなくてコケている」ということらしい。試写であんまり暗く写ってるんでどこぞの配給会社からクレームがついて、公開用プリントを無理やり明るく焼いてしまったってのが真相らしい。それって作品を殺してるじゃん>東宝。


完全なる飼育 秘密の地下室(水谷俊之)

3作目でついには香港まで行ってしまった「完全なる飼育」シリーズ。ふたたび日本に戻ってきた最新第4作の監督に起用されたのは(おれとはなぜか相性の悪い)水谷俊之。もともとはピンク映画の出身だから内容的にもベストな選択のはずなんだが、じつはこいつはピンク映画時代にも(「セックスを描く」という意味での)「まともなピンク映画」を撮っていないのだ。なにも水谷俊之なんぞを使わなくともピンク映画界には現役の有能な人材がわんさと居るんだから次回作はぜひお願いしますよ>アートポートさん。 ● 脚本は、もういいかげんベテランの我妻正義なんだが、ヒロインは公園の階段から転落して気絶してるところを連れて来られたはずなのに、目覚めた瞬間に自分が「拉致された」ことを自覚してるし。目が覚めて知らない部屋で体の汚れを拭かれて傷の手当てまでされてたら、普通は最初は「ここはどこ? あなたはだれ?」じゃないのか。でもって、犯人が外出中に、うまいこと監禁されている部屋から抜け出せたのに、逃げもしないで家の中をうろついてるし。おまえ、バカじゃないの? 勝手に犯人の箪笥とか開けて「おじさん…」とか呼んで親近感、感じてるし。なに考えてんだか…。 ● 犯人役には、見慣れぬ長髪ポニーテールが気持ち悪い山本太郎。いつも執事のような服装をしている口のきけない気弱な青年…という、およそらしからぬ役が似合わないこと似合わないこと。拉致してきた女子高生に怒鳴られると、それだけでおどおどしてしまって、ミネラルウォーターのペットボトルをゴクゴク飲むのが役作りって、…ぷっ。 そして、ヒロインにはCMなどに出てたらしい(ちょっと佐々木ユメカ似の)新人しらたひさこ。今までよりギャラの高い男優を起用した分だけヒロインのランクを落としたわけですね。…って逆だろそれは! 男優その他の経費は節約してでも、なんかしら付加価値のある女を連れて来んかい! なお今回は始まって30分ほどで しらたひさこの乳すら見ぬうちに途中退出してしまったゆえ諸兄に肝心な情報をお伝えできず相済まぬ。 ● そうそう、唯一のシリーズ・レギュラー=竹中直人も(なんの役かは知らんけど)出てるそうだ。撮影はピンク映画のベテラン、志賀葉一。 [追記]KARTEさんのレポートによると[竹中直人は外科医の役で・・・加藤春子の主治医でした。30分退場は大正解です。だってこの映画その後はクライマックスが近づくにつれてどんどんわけわからん(というか筋の通らん)方向に盛り上がっていくだけ。いくらなんでもラストにはまともな落ちがと思ったけど、そんなものなかったし。エッチシーンはラスト十分前に一度だけで、あまりのことに客が呆然としていた]そうである。報告ご苦労。

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ゲロッパ!(井筒和幸)

前々作「のど自慢」にその萌芽があり、前作「ビッグ・ショー! ハワイに唄えば」で顕著となった「いかがわしい二流の芸能への偏愛」が横溢する井筒和幸の新作。ベタなキャスティングによるベタな演技とベタなギャグによる大衆娯楽活劇である。古臭い、テンポがルーズ、ストーリーが弱い…という大コケした前作の欠点(イコール、長所でもある)をそのまま引き継いでいるが、テレビ出演で顔を売った甲斐あってか今回はクリーンヒット。とりあえず良かったですな。 ● しかし井筒和幸はチラシで「今回の作品は、僕にとっては集大成的な意味合いもあるかもしれない」などと、まるで昔からこのような泥臭い映画ばかり撮ってきたかのような口ぶりだが、この人が本来めざしていたのはもう少しスマートなハリウッド的エンタテインメントではなかったか(いかんせん演出が下手っぴなので理解されにくいけれど) なんだか、テレビであんまり他の映画を「あんなん娯楽映画、ちゃうよぉ」と貶してるうちに自分の言葉に洗脳されてしまってベタベタの娯楽映画を作らなきゃいけないところに自分を追い込んでいるように感じられるのだ。ぜひ次はもっと自由に作ってほしい(…でも、もしも次回もベタベタ路線で行くなら「常盤貴子のストリッパーもの」で森崎東に挑むってのはどうよ?) ● キャストについては、たしかに西田敏行が芸達者なのは認める。あとは、ワンシーンでいいから「やくざの凄み」と、ジェームズ・ブラウンのステージ・アクションを完コピしてくれれば言うことなかった。 弟分を演じる岸部一徳の芝居の上手さは当然だが、エンドロールでのスマートな踊りっぷりに「あれ? この人むかし音楽でもやってたのかな?」とかバカなことを考えてしまった。元 ザ・タイガースなんてこともう誰も覚えてないよな。 常盤貴子も心配したほどのことはなくこの世界に溶け込んでいる。 その「小学生の娘」役に池脇千鶴の年の離れた妹みたいな感じの太田琴音ちゃん。なんとなく西田敏行の顔つきが隔世遺伝してるみたいに見えるところが絶妙。 ● 撮影は三池組の山本英夫。冒頭の、銭湯の脱衣場での乱闘シーンの撮影/編集がなんであんなに稚拙なんだ!? 「誰が誰に対して何をしたか」がまったく描けてないぞ。おれがプロデューサーだったら最初の30分は再編集を命じるね。 それと、おいおい…フィルム上のタイトルがなんで「ゲロッパ!」じゃなくて「GET UP !」なんだ? 「Directed by 井筒和幸」なんてそんなとこでカッコつけてどーするよ!?


パンチドランク・ラブ(ポール・トーマス・アンダーソン)

世間の評価がどうであれ当サイトにおいては「駄目なほうのポール・アンダーソン」であるP.T.アンダーソンの新作。そもそもアダム・サンドラーが主演じゃなかったら観に行かなかったと思うのだが…始まって3分で後悔した。よほど途中退出しようかとも思ったのだが、今回は上映時間が95分ということで我慢して最後まで観てきた。 ● 脚本自体はスウィートなラブコメ…になり得る話なのである。口うるさい7人の姉たちに囲まれて、精神不安定で入院歴もあり社会適応力に欠け、非現実的なまでに真っ青なスーツを着た、すぐキレる主人公のことを、なぜだか好きになったヒロインがあらわれ、主人公もその初めての恋に一直線に燃えあがる──。実際このままの脚本で(ヒロインだけジョーイ・ローレン・アダムスに代えて)ハッピー・マディソン・プロで映画化したらいつものアダム・サンドラー映画になるんじゃないかと思うのだ。ルイス・ガスマンやフィリップ・シーモア・ホフマンの脇のキャラも良いし、ロバート・アルトマン「ポパイ」からオリーブ(シェリー・デュヴァル)が歌う「ヒー・ニーズ・ミー」を挿入歌に使うというセンスも悪くない。ところがP.T.アンダーソンは肝心のドラマを敢えて不快に不快に演出するのだ。 ● コメディ映画の主人公などというものは、たいがい社会不適合者であったりするわけで、それを映画では「欠点を持つ愛すべきダメ男/女」として描くわけだが、こちらの若き天才監督さまはヒリヒリするような怒りや孤独を前面に押し出す。ラブコメを観に行ってムカムカしたり居たたまれない思いをしたい人にお勧めする。てゆーか、P.T.アンダーソンは頼むからハリウッドから出て行ってくれ(フランスへ行けフランスへ)

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レボリューション6(グレゴー・シュニッツラー)

ソニー・ピクチャーズが世界戦略の一環として中国に次いで鳴り物入りで設立したものの、すでに現在は閉められており、結局は一時の徒花に終わってしまったドイツ・コロムビア・ピクチャーズ・フィルムプロダクションの2001年作品。 ● 二十歳の頃に封印されたタイムカプセルが13年ぶりに開かれて当時の仲間6人が再会する…というリユニオンものである。ただし本作でタイムカプセルの役割を果たすのは過激派の作った時限爆弾。1987年──まだ「壁」が崩壊する前の政治の季節の渦中にあった西ベルリンの廃屋に仕掛けて不発のままになっていた爆弾が、東西統合とボンからの遷都による繁栄と平和を謳歌する2000年のベルリンで爆発したことから、パンクでアナーキーだった昔を忘れ「善良な一般市民」として生きていた(かつての)若者たちは否応なく「過去の自分」に向き合うことになる…。 ● 政治的同窓会ものとしてはアメリカにも、ジョン・セイルズの「セコーカス・セブン」と、そのリメイクといっていいローレンス・カスダン「再会の時」という秀作があるが、「リボリューション6」が大きく異なるのは本作の場合、旧友が集まって若さを懐かしんだり互いに罵りあったりするのがメインではなく、本筋はあくまで「一斉家宅捜索で警察に押収された証拠品(=爆弾製造の過程を解説した、メンバー全員の顔が写っている8ミリ映画)を、警察が中身をチェックする前になんとかして自分たちで取り戻さなければならない」という素人集団のドタバタ・ケイパーものである点だ。 ● 主演は「ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア」「ドリヴン」のティル・シュヴァイガー。かれは、不幸な事故により両足を切断した(ジャック・ブラックみたいな見た目と性格の)仲間の面倒を見ながら、昔のままの不法占拠ビルに暮らしてる時代おくれの革命家で、問題の8ミリ映画を撮った張本人。車椅子のジャック・ブラックを引き連れて、前半は「七人の侍」よろしくかつての仲間を訪ね歩くのだが、かつての過激なジョニー・ロットンは売れっ子 広告クリエイターに、シド・ヴィシャスはお堅い弁護士になっていて、未来のローザ・ルクセンブルクは家庭の主婦で2人の子持ち。そしてサイコーにイカしてた昔のカノジョは…。 ● かれらを追うのはファスビンダー映画の名優クラウス・ルヴィッシュ扮する老刑事。かつて極左暴力担当だった「殴り屋マノフスキー」といえば泣く子も黙るブルドッグだが、昔は良かったという思いは、じつは官憲とて同じで、当時はまだ警察もマスコミの目を気にせず不良学生やヒッピーどもを思うぞんぶん叩きのめすことが出来たのだった。そんな幸せな時代は終わった…という苦い現実認識に基づく名台詞>「右と左の闘いは終わった。いま闘ってるのは〈勝ち組〉と〈頑固な負け組〉だ」 ● 原題は「火が出たらどうする?」というメンバー同士の合言葉から。答えはもちろん「燃やし尽くせ!」 頑固な負け組の意地を快調なテンポで描く(「ラン・ローラ・ラン」以降の)ドイツ映画新世代の快作。三十路を過ぎていまだに大学の学生会館の自治会本部で生活してるような皆さんは必見だ。<いるのか!?そんな奴。 ● 最後に字幕にちょっと文句をつけておくと「ジンジャーが入ってないから割引させろ」って、寿司折りに入ってるのはジンジャーじゃなくてガリだ(もっともそのすぐ後に生姜を齧ってる画面があるんだけど、これは製作者側のミス) あとプロパガンダは「PR映画」とは違〜う!

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ファム・ファタール(ブライアン・デ・パルマ)

2日続けて観に行ってしまった(火暴) えーと、これは明らかに観客を選ぶ映画なのでレビュウの前に適性検査を実施します。まず「ファム・ファタール」って言葉の意味自体を知らない人はこの映画を観る条件を満たしていません。この本を読んでよく勉強してから出直しましょう。それから過去のデ・パルマ映画のうち、たとえば「スネーク・アイズ」「レイジング・ケイン」「ボディ・ダブル」「ミッドナイトクロス」「殺しのドレス」「愛のメモリー」「キャリー」「ファントム・オブ・パラダイス」「悪魔のシスター」の中から3本以上観たことがないという人──あなたにとって「ファム・ファタール」は筋のとおらぬ出来損ないでしかありません。悪いこたぁ言いませんから他の映画を御覧なさい。ただし、たとえ上の条件に当てはまる場合でも、もし あなたが男子中高生であるなら、何をおいても映画館に駆けつけるべきです。 ● さて、ではいいですか。もう一般の人は居ませんね? では本題に入ります。「ファム・ファタール」──これは尻尾の先っちょまでデ・パルマ映画の醍醐味がぎっちり詰まった、言うなればデ・パルマ曼陀羅。骨の髄までこってりデ・パルマ。あまりにデ・パルマ過ぎてお腹いっぱい…という下品なB級映画である。四の五の言わずにただ酔い痴れて(まわりのお客さんの迷惑にならぬ程度に)爆笑していればよろしい。酔い痴れて星3つ止まりかよ!というツッコミは禁止だ。ちなみにこの映画、製作がクインタ・コミュニケーションズ(Quinta Communications)という耳慣れない会社だったのでググってみたら、タラク・ベン・アマールなるアラブ人プロデューサーが率いるフランスの製作会社だった。つまりフランス資本によりフランスで撮影された英語とフランス語の台詞によるフランス映画なのだ。それって、もうアメリカでは誰も相手にしてくれないってことっスか(泣)>デ・パルマ。 ● 「X-MEN」のミスティークとしてボディ・ペインティング全裸は披露済のレベッカ・ローミン=ステイモスは、今回はじめてのピンの主役とあって全体のほぼ半分ちかくを半裸に近い姿で過ごし、あまつさえ扇情的なストリップティーズまで披露するのだが、乳首の露出だけは「いま脱ぐかここで脱ぐか」と思わせて最後まで引っ張るあたり、ブライアン・デ・パルマの演出はさすがの名人芸である(そんなとこ褒められても…) しかしこの人、素顔をよくよく見ると「美女」というよりはリンダ・ハミルトン/モーラ・ティアニー/ネーヴ・キャンベルと同カテゴリーの下アゴがっしり系なんだよな(ま、あれだけスタイル良けりゃ文句はありませんが) CM/予告篇で諸兄の目に焼きついた黄金の蛇ビスチェ(≒ブラジャー)を躯に巻き付けて登場するのはレベッカ・ローミン=ステイモスの親友で、レベッカ自身の推薦で抜擢されたというモデルのリエ・ラスムッセン(撮影時19歳!) ちなみにあの蛇ブラ、乳房をこれっぽっちもホールドしないばかりでなく、歩いてると乳首がチラチラ見えちゃうという嬉しい 役立たずな一品。あれで街 歩いたら逮捕されますぜ。え? なんですか「お前は乳しか見てないのか」って? そうですちち、違いますよ、ヤだなあ。これから御覧になる皆さんにネタバレしないよう気を遣って書いてるんじゃないですかぁ。 ● 冒頭にビリー・ワイルダーのファム・ファタールもの「深夜の告白」が(ヒロインが観ているテレビの映像として)かなり長めに引用されるんだけど、あそこは同じく1944年製作の[フリッツ・ラング「飾窓の女」]でも良かったかも。 続くカンヌ映画祭のメイン会場@本物では「イースト/ウェスト 遙かなる祖国」がプレミア上映されていてレジス・ヴァルニエ監督@本人とサンドリーヌ・ボネール@本人が出演してるんだけど、こんな映画の中で喜んで肴にされてオチョクられてて2人とも寛大だなあ。 その場面に流れる劇伴がもう誰が聞いてもラヴェルの「ボレロ」の編曲にしか聞こえない代物なんだが、パンフで坂本龍一が必死になって「あれはデ・パルマの命令で仕方なく書いたのだ。だから意趣返しで曲のタイトルを『ボレリッシュ』と付けてやった」などと強弁してるのが可笑しい。アンタ、最初っから弁解が必要ないレベルの曲を書きなさいよ。てゆーか、やっぱり音楽はピノ・ドナジオでいってほしかったですなあ。 それと演出としては、一連のシークエンスの最後に「蛇ブラ女」が逃げ出す際に警備員にぶつかってワザと贋物のブレスレットを落とすところをもっと強調しておくべき。 唖然としたのは(おれ、2度 観たので確かだけど)ヒロインがバスタブに浸かってる最初のシーンで、バスタブの縁/ヒロインの二の腕の陰になんとゴキブリが写ってるんだよ! そんなカット、NGにしなさいよ。撮り直し出来ないんだったらCGで消すとかさあ。 ● あと関係ないけど、映画ライターでいまだに「ブライアン・デ・パルマ」を「パルマ」って略す人がいるけど、それ、変だろ。スティーブ・マックイーンを「クイーン」って呼ぶようなもんだぞ。

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天使の牙 B.T.A.(西村了)

おお、これは──!? 大沢在昌のベストセラーを映画化した「フェイス/オフ」の日本版なのだが、それよりなによりまず本作は、ほぼ完璧な香港映画のイミテーションなのである。脚本の存在が疑わしいトンデモな物語、演出の呼吸、エモーションのチープな盛り上げ方、劇伴の付け方、照明の当て方からCGのショボさにいたるまでそっくり。それが証拠にヒロインがゲロを吐く(!) 意味もなく教会が出てきたりすんのはジョン・ウーだし。終盤の次から次へと畳み掛ける怒濤のトンデモ展開は圧巻である。香港映画ファンとトンデモ映画愛好家に強くお勧めする。なお、エンドロールの後にまでトンデモ・エピローグが付いてるのでお見逃しなく。 ● ヒロインに抜擢された女性誌の人気モデル・佐田真由美は、目線の強さと「サイボーグ009」の002みたいな鼻が意志の強さを感じさせて適任。そのわりには劇中ではメソメソしてるばかりで期待したほど活躍しないのが残念。「弾けなかったはずのピアノを弾かされる」場面として処理される「別人の躯に脳だけを移植されたヒロイン」という設定がらみのサスペンスは、誰が考えたって「ショーケンとのベッドシーン」に設定されるべきでしょーが。それと(いくら「香港映画」とはいえ)あそこはやっぱ脱がないと。あと、ラストにせっかくそういうシーンがあるんだから思いっきり(香港映画の定番である)[白痴]演技をしてくんないと。 ● ヒロインの脳移植前の体を演じる黒谷友香は(彼女自身は悪くないんだが)佐田真由美とのコントラストからいったら、もっとレズのタチっぽいタイプか、あるいは逆にコドモコドモした感じの人にすべきだった。 あと、ショーケンと佐野史郎は役が逆でしょ。 ● この映画、パンフには「全篇 銀残し」って書いてあるんだけど、ビデオ撮りじゃないのかなあ? 全体にピントが甘い感じだし、だいたい冒頭のワーナー・ロゴの青空からして濁ってるぞ。いいのか? …ところで「B.T.A.」って何の略?(サブタイトルとして残すんなら劇中で説明ぐらいしなさいよ)[追記]「B.T.A.」はBrain-Transplanted Angel(脳移植天使)の略なんだだそうだ。それじゃたしかに台詞には使えんわなあ。佐野史郎が「彼女はB.T.A. …Brain-Transplanted Angel。つまり脳移植天使だ」なんてムチャクチャ説明台詞になっちゃうし。ま、もっとも大沢在昌はへーきでそーゆー台詞を小説内で使ったりする傾向があるけど(火暴)

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ワイルド・スピード x 2(ジョン・シングルトン)

前作の主役だった俳優がそのまんま主演してるというのにスピンオフのようなパチモン感ただよう続篇。それもそのはず、本作は「改造日本車による違法公道レースの世界」というコンセプトだけを受け継いで、舞台をLAからマイアミに移して映画化されているのだが、思い出して欲しい──「ワイルド・スピード」という映画の魅力の半分は、ヒスパニックを中心とした非白人コミュニティの活き活きとしたリアリティにあったのではなかったか。夜は「族」をやってるあんちゃんたちが、昼は宅配ピザを食いながら「ドラゴン ブルース・リー物語」のビデオを観たり、狭い裏庭でバーベキューしたり…という日常性が、ヴィン・ディーゼルやミシェル・ロドリゲスやジョーダナ・ブリュースターを「生きたキャラ」にしていたのだ。 ● ところが、そうした日常性と人間関係の描写をほとんど排除してしまった本作では──デヴォン青木の、あまりの下手さに呆然としてしまうほどの大根ぶりも相俟って──とってもアタマの悪〜いB級アクションになっている。じっさい仮にもメジャー・スタジオの製作で、これほど知能指数の低い作品はめずらしい。いったいどこの新人監督じゃい…と思ってたらエンドクレジットで「監督:ジョン・シングルトン」と出たので椅子からコケた。黒人が監督してんのになんでこんな「白人の映画」になっちゃうんだよ!? ポール・ウォーカーが「ガキんときからの大親友」の黒人タイリースを一貫して「bro」と呼ぶことに、日本人のおれですらムカついたというのに、あんたは気にならんのか? 「シャフト」のレビュウでも書いたが、もう一度 言う──シングルトンよ、あんたはいいから「アタマの悪い同胞への啓蒙映画」でも撮ってろよ。 ● 売り物のカースタントもまた、前作のほうが格段に迫力がある。クライマックスのジャンプ・スタントなど(CGではなく本当にやってるのならば)ロングのワンカットで見せなくては意味がない。 ヒロインの、口元のエロぼくろが垂涎の、エヴァ・メンデスの撮り方にもまったくスケベ心(=愛情)が感じられない。ゲイかよ?>ジョン・シングルトン。

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コンフェッション(ジョージ・クルーニー)

チャック・バリス。1960年代から1970年代にかけて「パンチDEデート」(の元ネタ番組)や「ゴング・ショー」といった「素人がテレビに出て嬉々として恥をかく」タイプのバラエティ・ショーを最初に考えだしたテレビ・プロデューサー。つまり今日のテレビの基礎を築いた男である。だから現在のようにそればっかりになってしまって視聴者の感覚が麻痺してしまう以前には「テレビを白痴化してる」だの「社会に害毒を及ぼす」だのとずいぶん罵られたわけで、そこでこの男が書いたのが、「害毒を及ぼす」だって? guess what? じつは、おれはCIAのコントラクト・キラーだったんだよ。33人殺したプロの殺し屋なんだよバカチンが!…という奇想天外な自伝「危険な心の告白(=原題)」なのである。 ● 本作を「ビューティフル・マインド」と対比させる評をよく見かけるが、あれは断じて妄想ではない! すべて本当にあった話である。「信じられないような実話の映画化」ということではスピルバーグの「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」と同ジャンルなのである。だから、これが初メガホンとなるジョージ・クルーニーが、本作の製作総指揮を手掛ける盟友スティーブン・ソダーバーグではなく、「オー・ブラザー!」に出演して薫陶を受け、新作「Intolerable Cruelty」も待機中のコーエン兄弟の演出タッチを手本にしているのは、正しい。もちろんまだ新米監督なのでコーエン兄弟のようなスリックな手触りには欠けるし、軽快な音楽にのせてノリノリでCIAの「仕事」をこなしていくスコセッシ・タッチのシーンが絶対に必要だろうとは思うが、1本目としては合格点だろう。 ● 役者陣ではジュリア・ロバーツがミスキャスト。もっと色っぽい女優さんじゃないと(まあ、お友だち価格での友情出演なので、ジョージ・クルーニーとしちゃあ「まあ、そう言うない」ってとこなんだろうけど) 対して、ドリュー・バリモアが素晴らしい。いつもながらダメ男の女神ですな。 あと久々にハリウッド映画のちゃんとした役でルトガー・ハウアーが観られたのがとても嬉しいぞ。 ワン・シーンだけど、FCC(連邦通信委員会)の指導員に扮して「オンエアで卑語を使ったら即刻逮捕だ!」と脅すロバート・ジョン・バーク(「スティーヴン・キング 痩せゆく男」の痩せゆく男)がサイコー。 ● さて、本作の問題は撮影にある。たぶんビデオ撮り。クレジット上では、一時期 ブライアン・シンガーが監督するはずだった名残りで「X-MEN 2」「スリー・キングス」「ゴールデンボーイ」「ユージュアル・サスペクツ」のニュートン・トーマス・サイジェルが撮影監督ということになってるが、じつはソダーバーグが自分で撮ったんじゃないの?と疑いたくなる汚い画面なのだ。この映画に相応しいのは、それこそ「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」(撮影:ヤヌス・カミンスキー)のようなルックであって、演出をコーエン・タッチにするのなら、どうしてカメラマンも(コーエン一家の、そして「ビューティフル・マインド」の)ロジャー・ディーキンズを呼んでこなかったのか。あるいは「クイズ・ショウ」を撮った(そしてもちろん「グッドフェローズ」の)ミヒャエル・バルハウスとか。 コンピュータ・ポストプロの人工的な着色はまだ我慢できるが、階調がツブれてしまって肌が汚いのと、ピントの甘いのは我慢できんので星2つとする。

この映画って日本でもリメイク出来そうだよな。吉本興業の製作で「横沢彪はやくざの親分だった」なんてどうよ? 1980年代、ひょんなことからフジテレビにスカウトされた やくざの親分が「THE MANZAI」や「オレたち、ひょうきん族」などで一大お笑いブームを作り出す一方で、本業でも荒稼ぎをしてバブルの時代の夜明けから終焉までを駆け抜ける…という時代のグラフィティ。若き日の横沢さんに扮するのは諏訪太朗。クライマックスはお台場の利権をめぐる関西との激突である。また、ドラマの幕間には当時の出演者が磨りガラスの向こうで、横沢さんの「裏の顔」がいかにヤバかったかをコメントする。でもコメンターの正体は声でバレバレ。たとえば、西川のりおが「山一戦争を終結させたのは横沢さんだった」と語ったり、ビートたけしが「やくざの世界のことはぜんぶ横沢さんに教わった」と衝撃の真実を明かしたりするわけだ。安岡力也は組長のボディガードとしてスタジオに出入りするうちにタレントに転じた元・本職だったりする。愛人役に八木亜希子。もちろん、現在は吉本興業の専務にまで登りつめた横沢彪 本人も登場して、好々爺然として当時を振り返るのだが、吉本東京事務所に詰めている若い者にはなぜか眉毛が無かったり、部下が哀川翔だったりする。面白いと思うんだけどなあ。監督は細野辰興あたりでどうよ?

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さよなら、クロ(松岡錠司)

「学校に住み着いたイヌ」の話かと思ったら、ちょっとイマドキそれはどーなのよ?というほどの石坂洋次郎ものなのだった。じっさい「さよなら、クロ」のお話はプロローグで終わってしまって、本篇は第1部が高校3年の男2人&女1人(もちろん2人とも彼女に惚れている)の「クロといた青春」篇。それから10年後…という設定の第2部が「クロのおかげでまたきみと出会えた」篇。クロは(まさに上野の西郷さんが連れているイヌの銅像のように)人間たちの物語を見守る存在として点描されるのみで、本筋はあくまでアナクロなラブ・ストーリーのほう。とうぜん2003年を背景にしては成立するはずもなく、第1部の舞台は1960年代。かれらがデートに行く松本東宝セントラルで上映されているのが「卒業」(日本公開1968年6月)、次に「俺たちに明日はない」(日本公開1968年2月) 当時はまだ全国一斉公開のシステムが普及する前だから第1部の時代設定は「1968年の後半から1969年にかけて」ということになる。となると第2部は自動的に「1978年/1979年」だ(上映作品は1977年4月 日本公開の「ロッキー」) ええぇー!? いくらなんでも1979年にあんなアナクロな奴はいないだろー。だって本編の主人公のツマブキ君は中学生じゃあるまいし18歳にもなって女に好きだとも言えず28歳でようやく「好きだ」と告白するんである。それも駅のホームで。別れ際に。扉が閉まって──。おい、それでしまいかい! セックスは無しかい!(28歳で!) てゆーか「一緒に東京へ行こう」ぐらい言えよ! ● この第2部には高校OBとなった主人公たちとは別に「現役生徒」として「学校IV」の金井勇太クンが「家が貧乏なので進学をあきらめて、それでちょっと不良になって無二の親友との仲も(そいつの家が金持ちだってだけで)険悪になり毎日ケンカしている」という山田洋次ワールドからそのまま越してきたみたいなキャラで登場するのだが、かれは軽音楽部かなんかの部長をしていて、無理して(家が金持ちの後輩から)ローンで買ったエレキ・ギターで弾き語りするのが なんとチューリップの「青春の影」なんである(シングル盤発売1974年6月5日) それって「1979年当時の高校3年生」としちゃあ思いっきりダサいと思うんですけど。1979年と言やあ、もうセックス・ピストルズ以後なんだぜ。いくら田舎の高校生だからって、せめてアリス甲斐バンドにしときなさいよ。 ● いや、おれだってなにも七十八十の爺さんが撮った映画だったらこんな重箱の隅ばかりは突付かんよ。「けんかえれじい」的 旧制高校メンタリティはキライじゃないし。だけど松岡錠司は1961年生まれなんだぜ。つまり1979年に監督本人が高校3年生だったのだ。それでなんでこれほど「時代考証」に鈍感でいられるのだ? それがおれには理解できない。それとも長野県 松本市なんて1979年でもあんなもんだと思ってるならそれは地域差別ってもんだ。田中知事は松岡錠司に厳重に抗議すべきだと思うぞ。てゆーか、ひょっとしてあれか? 松岡の地元・名古屋では1979年当時、チューリップがナウかったのか!? うむ、名古屋なら有り得るかもしれんな<おい。 ● おれの感覚/記憶ではこの話は少なくともあと5年は過去(1964/1974)にしないと成立しないと思う。演出と脚本(松岡錠司・平松恵美子・石川勝己)も通り一遍の無難なもので才気を感じさせる台詞や演出は皆無。「仔犬ダンの物語」の澤井信一郎ならばたとえば、第1部の終盤で伊藤歩が病院に駆けつけたとき、妻夫木聡はまず彼女が手にしている親友の赤いマフラーに目がいくはず。そもそもラストの「クロの学校葬」を あれだけベタに演出しておいて、エンドロールのタイトルバックに「在りし日のクロ」の回想シーンを流せない終わり方にしちゃった時点で失敗作でしょう。 ● 演技陣ではやはり「イヌ嫌いの教頭」塩見三省が泣かせるのと、学校葬で渡辺美佐子 校長が泣かせの弔辞を読みあげる中、カメラが主要キャラの顔を1人ずつヌイていくシーンで、1人だけ「感極まって涙をこらえる表情」を作らなかった柄本明は、いい役者だなあと思った。 しかし葬式をやってあげんのはいいけどイヌに経を読んでもしょーがねーよなあ。あと、クロは いくら躾が良かったとはいえ、室内犬じゃあるまいし校内で小便(マーキング)しちゃったりしないものか? それと、どーしても納得できないのはこの映画、実際にクロが居た長野県の松本深志高校でロケしてるのだが、なんで伊藤歩と三輪明日美ちゃんの制服がスボンなの?(長野県ってそうなの?)

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マイ・ビッグ・ファット・ウェディング(ジョエル・ズウィック)

脚本・主演:ニア・ヴァルダロス

原題は「MY BIG FAT GREEK WEDDING(わたしの どえりゃあ ごっつぅ ギリシア式 結婚式)」 「ギリシア式」ってとこがポイントなんだから邦題から省略したらダメじゃん…と、観るまでは思ってたのだ。でも、そうじゃないんだ。この映画がアメリカであれだけヒットしたのは、これが「ギリシア移民の一家のお話」だからじゃない。どのような民族的出自を持つ人が観ても「ああ、これは自分たちの家族の話だ」と思えるだけの普遍性があったからだ(おれがワーナー映画の宣伝部長だったら「マイ・ビッグ・ファット・ファミリー・ウェディング」と付けるね) いや、日本人とて例外ではない。これは下町の定食屋の いきおくれの三十路娘が、下町で中学校の先生をしていた鳩山由紀夫の息子と恋に落ちてしまって、昔気質の娘のおとっつぁんやら、お節介なパーマ屋の伯母さんやら、親戚知人隣人商店街一同が頼みもしないのに首を突っ込んで、てんやわんやの大騒動。長年のあいだ、葛飾の団子屋のフーテンの甥っ子の話に一喜一憂してきた我々にとっては、じつに見慣れた世界ではないか。この映画を夏休みの旧・丸の内松竹チェーンにブッキングした松竹の編成担当者はじつに慧眼と言えよう。もちろんこのタイトルだからどー転んでも最後にはハッピーエンドが待っている。笑って笑ってあっという間の96分。どうぞお父さんお母さんと一緒にご覧なさい(だから少しぐらい入りが良くなくったってお盆休みまではかならず上映してね>松竹編成室) ● ひとつ指摘しておきたいのは本作が、家族の猛反対に遭って「いっそ駆け落ちしてラスベガスで結婚しよう」というヒロインに対して、男が「いや、ぼくはきちんときみの家族の理解を得て、家族の一員として受け入れられたい」と主張することで、これは「結婚とは当人同士の愛情だけでなく、家族と家族の結びつきなのだ」という、いまどきインド映画ぐらいにしか生き残ってない価値観を堂々と前面に押し出した映画であるということだ。おそらくこのあたりにもヒットの要因があると思う。 ● みずから演じた一人舞台を映画化して40歳での遅咲きデビューとなったニア・ヴァルダロスは、本作がテレビシリーズにまでなって、いちやく売れっ子となったが、たぶん「映画の主演女優」としてはこれ1本でしょう。あとはトークショウの司会者とかになるんじゃないかと思う。 相手役にエドワード・バーンズ系の(ちょっとヒロインには不似合いなほどの)ハンサム、ジョン・コーベット。 ストーリーに惚れ込んだリタ・ウィルソン&トム・ハンクス夫妻が製作を手掛けているが、じつはリタ・ウィルソンもギリシア系で2人もまたビッグ・ファット・グリーク・ウェディングの経験者なのだとか。ギリシア人の大群に囲まれてぎこちなくニコニコしてるトム・ハンクスの姿を想像するだに可笑しいなあ:) ● 最後に戸田奈津子の名訳をひとつ。結婚式の朝。親戚の女衆一同であーでもない こーでもないと大騒ぎしてヒロインの身支度を整えて、最後に伯母さんが ひと声「She's ready!」を「出来あがり!」

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パイレーツ・オブ・カリビアン 呪われた海賊たち(ゴア・ヴァービンスキー)

製作:ジェリー・ブラッカイマー

ウラを取らずに書くがおそらく「ウォルト・ディズニー・ピクチャーズ」ブランド史上で初めてヒロインの濡れ下着の透け乳首が描写された作品である(ひょっとしてG指定じゃないのも初めて?) さすがはブラッカイマー。他人の出来ないことを成す──大物プロデューサーと呼ばれる所以である。 ● 原題は「カリブの海賊たち ブラック・パール号の呪い」。アメリカでは海賊映画は絶対に当たらないという「海賊映画の呪い(ジンクス)」を吹き飛ばすスーパー・ヒットを記録しているが、それもまた当然──だって、これ、海賊映画じゃないもの。エロール・フリンの昔から(…って、また観てもいないのに知ったかぶりするけど)海賊映画とは、すなわち剣戟映画のことであった。そして日本の剣戟映画=時代劇の基本に武士道の精神があるように、海賊映画の根底には騎士道精神が宿っている。いや「騎士道」と言うとちょっと違うか。海賊という「海の荒くれ男」たちの話だが、その豪快さの裏には、木と布で出来た船で荒れ狂う七つの海を渡って来た者たちだけが解かり合える「生き抜いた者への敬意」が脈づいている。粗にして野だが卑ではない。本作で海賊たちがなにかと言うと「掟」「掟」と言ってるのはそれだ。そうした中に在るから「卑劣な悪役」がまた際立つのだ。「パイレーツ・オブ・カリビアン」に登場する海賊たちからは残念ながらこの「海の男の心意気」が感じられない。たしかにジョニー・デップの怪演は愉快だが、その名を聞いただけで船乗りたちが震え上がる海賊船ブラック・パール号の船長がカマ歩きのずる賢いネズミ男であっていいはずがないではないか。もっとも作者たちもそのことは認識していたようで、本筋が片付いた後のエピローグには一瞬たしかに海賊映画の息遣いが感じられたし、手慣れの演出家にかかっていたならば さぞやニヤリとされられたであろう台詞もあるにはある。たとえばこんな>「壊れたコンパスでどうやって目的の島を探すんだ?」「たしかにコンパスは北を指さないが、おれたちゃ べつに北を目指してるわけじゃない」 ● ひとつ、最近ばくぜんと感じていたことを本作ではっきりと意識したのだが、なんだか最近のハリウッドのアクション映画って下手になってない? おれは撮影・編集のプロじゃないので具体的に指摘できないのがもどかしいんだけど「カットがうまく繋がってない」というか「(無意識に)予測していたものと違う構図が来る」というか。はっきり言っちゃうと「画面で何が起こってるんだかよく判らない」んだよ。いや、べつに1つ1つのカットが短いわけじゃなくて、「部分」を写したカットを組み合わせて「全体」を見せるのが「場面」になるわけじゃない? それがうまく機能してないというか。本作は演出・撮影・編集ともそれなりのベテラン揃いなわけだし、観客に「画面で起こっている動作(アクション)を伝える」という基本的なスキルが無い…なんて恐ろしい事態は考えたくもないので、単に「おれがモーロクしただけ」であってほしいのだが…。なお、画面には多少の「銀残し」処理をしているように見えるが、こういう映画なんだから彩度を落とす必要なんかないのに。 ● ヒロインに贋ウィノナ・ライダーことキーラ・ナイトリー。さすがは「」で16才のおっぱいペロンを経験してるだけあって、本作でも開巻早々のサービス・ショットでおれの心を鷲づかみ。まだ18歳になったばかりのピチピチしたお転婆ぶりが可愛らしい。 卑劣な海賊船長を思う存分、怪演するのはジェフリー・ラッシュ。やっぱ肩にはお約束の小動物を乗っけてなくちゃね。 ● SFX指揮は(Adobe Photoshopの生みの親でもある)ILMのジョン・ノル。はっきり言ってデニス・ミューレンが率いたA班の「ハルク」よりも出来が良い。 クラウス・バデルトの書いた「いかにも海賊映画」って勇壮な劇伴が素晴らしい(スコア・プロデュースはハンス・ズィマー) なお本作は、夏映画でヴォーカル曲がエンドテーマを中断しない唯一の作品でもあるので、ぜひエンドロールの最後の最後まで堪能されたし。 ● しかしこれ、なんで邦題が「カリブの海賊」じゃないの? いやカッコイイとかワルイとかの話じゃなくて、そもそもこの映画ってディズニー・グループの意思としてはディズニー・ランドのアトラクション「カリブの海賊」のプロモーション/相乗効果のために製作されたんでしょ? 表記が違ってたら意味ないじゃん。

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セクレタリー(スティーブン・シャインバーグ)

神経質な赤ペン男DOMと、小学生の頃から自傷癖のあるSUBが「弁護士」とその「秘書」として幸せな出逢いをするちょっといい話。べつにヒネっているわけではなくて、「D/Sもの」としてはしごくまっとうなラブ・ストーリー/ラブ・コメディである。この愛情関係の根本をなす「支配と服従」というベクトルが決して一方通行のものではないことを示すラストは、日本の「SMもの」にも通じる定番の展開。permissiondiscipline といった言葉を「愛の言葉」として認識できる大人の皆さんにお勧めする。 ● ジェイク・ジレンホールの姉 マギー・ジレンホールは美人ではないが愛嬌のある顔で(つまりキューザック姉弟におけるジョーン姉ちゃんですな)おどおどした雰囲気がピッタリだし(ちゃんと脱いでます)、変態弁護士にジェームズ・スペイダーというのは、これはもう他の役者など考えられない(ベストどころか)オンリー・キャストである。音楽:アンジェロ・バダラメンティ。淫靡なセット美術も素晴らしい。 ● しかし、どーでもいいけど「宣伝:ギャガGシネマ 風」ってなんだ?「風」って!?

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トーク・トゥ・ハー(ペドロ・アルモドバル)

極度のマザコンで内向的で小太りでポロシャツの裾をズボンの中に入れて着る童貞男が、いつも窓から覗き見してる向かいのビルのバレエ・スタジオの とある娘に恋をして自宅まで後を付けまわし部屋に侵入して髪留めを盗み、雨の日に娘が交通事故に遭い植物人間になったと知るや、娘の24時間専属看護士として病室に入り込み娘の世話を──すっかり娘の恋人になりきって意識のない娘に話しかけながら点滴をして体を拭きシーツを代えて筋肉を揉みほぐし髪をカットして生理の陰唇を洗い天気の良い日には日光浴もさせ静かな夜には己の陰茎を娘の膣に挿入し射精して娘を昏睡状態のまま妊娠に至らしめたことが病院側に発覚して刑務所に入れられる…という感動的なラブ・ストーリー。 ● 「マルティナは海」の別嬪さん=レオノール・ワトリングが意識のない状態でぷるんぷるんのおっぱいを拭かれたりする描写が多々あるので夜這いフェチとか催眠術フェチの性向をお持ちの諸兄にお勧めする。男が娘に語ってきかせるモノクロのサイレント映画の内容が劇中劇として描かれるのだが、それは「小人になった男が(普通サイズの)女に夜這いをかける」という逆「南クンの恋人」な話であり、巨大なおっぱいの上でぼよんぼよんして、はては等身大の陰唇の中に潜り込んでいく…などという場面があるので巨大女フェチの方には絶対のお勧めだ。 ● これ、じつは4年にもわたって変態看護士に躯を自由にされた娘が「そのことについてどう思っているのか」がスッポリ抜けている非常にズルい脚本で、OLの皆さんがこの話のどこに感動してるんだか、おれにはいまひとつようわからんのだが、上に記した以降の終盤のアクロバティックなストーリー展開は、たしかに(「技術賞」としての)脚本賞に相応しいとは思う。ラストの台詞はやはり「わたし…あなたを知ってる」と言ってほしかったな。


シティ・オブ・ゴッド(フェルナンド・メイレレス)

極端に短いカットを矢継ぎ早に繰り出し戯画化された劇中世界に力ずくで観客を巻き込んでいくオープニングに「DEAD OR ALIVE 犯罪者」のそれを想起し、おお、こりゃ三池崇史だ!と洋の東西を越えたシンクロニシティにひとりコーフンして途中まではたいへんに面白く観ていたのだが・・・1時間で途中退出。たとえそれがどれほど現実に即したものであったとしても、子どもを残酷に撃ち殺すような描写を娯楽として供する意義など、おれは絶対に認めない。

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ターミネーター3(ジョナサン・モストウ)

「マトリックス リローデッド」「チャーリーズ・エンジェル フルスロットル」と映画でないものを2本続けて観たせいもあって、「T3」を観てなんかほっとした。タイトルも「リローデッド」とか「フルスロットル」とかややこしくないしな。製作はマリオ・カサール&アンドリュー・バイナの帰ってきたカロルコ2ことC2ピクチャーズ。夏の3大作のなかでは一番しっかりとした「映画」なのでトラディショナルな映画ファンの皆さんにお勧めする。 ● ジェームズ・キャメロンの前2作(おれはどちらもその年のベストワンにしている)を「U-571」「ブレーキ・ダウン」の監督が引き継いでの、12年ぶりのパート3である。いや、「T2」を超えた!などと言うつもりは毛頭ない。「T3」は「T2」を超えてはいないし、また簡単に超えられるものでもない。それを誰よりもよく知っているのが当のジョナサン・モストウ自身だろう。モストウは、自分がキャメロンのような天才でもヴァーホーベンのような変態でもサム・ライミのようなオタクでもないと判っているから、どこかの新人監督のように「誰も見たことのない映像を見せてやる!」などとイキがることもなく「腕のよい職人監督」として出来る精一杯のことをした。すなわち「T1」と「T2」を何十回も繰りかえし観て、印象的な場面や決め台詞をカードに書き出してズラーッとテーブルに並べ、そしてそれらの要素を「T3」のなかに出来得るかぎり忠実に引用した。つまり「ターミネーター」ファンへのサービスに徹したのである。驚くべきことに、その意図は成功している。1時間50分というコンパクトな(アクション映画として息切れすることのない)上映時間の、前半を新型ターミネーターの襲撃や、ジョン・コナーを前にして新旧ターミネーターの遭遇、そして超重量級のカーチェイスといった「T2」の記憶の再現に充て、後半をストーリー展開の妙で魅せる。サイモン・クレーン監修によるアクションは流行の華麗なるカンフーやVFXではなく、「重力」と「痛み」を感じるゴツゴツとしたもの。もちろんCGやワイヤーワークも使ってはいるが基本はあくまで「生身の迫力」だ。そして悲愴感あふれるラストは、紛れもなくこれが9.11を経た「2003年の映画」であることを示している。 ● ただ、なまじ出来が良いだけになおさらエドワード・ファーロングが降板してしまったのが残念でならない。後任のニック・スタールは(見た目はともかく)たしかにそれなりの演技力を見せるが、ここはどうあってもエンドワード・ファーロングが演じるべきだった。かつてのように美しくなくたって、ヤク中明けだっていいじゃないか。いや、まさにそれこそ本作でのジョン・コナーに相応しい。なにしろこれは「自分を見失っていた青年が、生きる目的を取り戻し、ついに自分の運命を引き受ける覚悟を決めるまで」の映画なのだから。 ● ドラマの主役の座をジョン・コナーに譲って今回、シュワルツェネッガー=ターミネーター T-101型はコメディ・リリーフ担当。英語があんまり上手くなくって、でもじつは真理を悟っている心優しい力持ち…というキャラクターはあれですな「白人に協力するインディアンの大男」のイメージの巧みな流用ですな。(劇中には示されないが)パンフに拠るとT-101型のバージョンがT-800からT-850にアップグレードしてるのは、きっと「駐車中のクルマのキーの隠し場所を知っている」からですね:) <てゆーか「T2」とは別の個体だったんじゃないんかい! <てゆーかキーが車内にあるんなら窓をブチ破らなくてもカギ開いてたんじゃねーのか!? ● サラ・コナーに代わる新ヒロインにクレア・デインズ。大学 行ってる間にますますおばさん顔になってきてちょっとツラいものがあるがリンダ・ハミルトンの後任としては正しいのかも。 女性型ターミネーター「TX」に新人 クリスタナ・ローケン。女であろうと関係なくきちんと「時間転送時のルール」を守って一糸まとわぬ姿で深夜のビバリーヒルズに出現するのがエライ! 無表情で首をかしげたり、一生けんめいロバート・パトリックのカマキリっぽさを真似てはいるものの、この女優さん、元来がデコッパチ&アヒル唇なので殺人機械にしちゃあ「怖い」ってより可愛らしいのだな。もうちょっと爬虫類顔の(美人)女優さんはいなかったものか。内蔵する10億種類の武器のうち、たった3つしか披露してくれないケチンボなTXさんは、T-800型に似た内骨格をT-1000の液体金属でおおった構造をしているがゆえに、今回どうやら鉄格子を通り抜けたりは出来ないようなのだが、あのー、それってT-1000より技術的に後退してませんか? あと、どーでもいいけど、なんでターミネーターがピアスとネックレスしてるの? ● なお「ターミネーター」サーガは、このあといよいよ人類抵抗軍vsスカイネットの激突篇「ターミネーター4」を経て、人類の敗北とスカイネットの支配するディストピア=機械の惑星の形成を描く「ターミネーター5」へと繋がり、絶望のなかにも「ネオ」という名の救世主の到来を予言して、ワーナー映画を横断する壮大な円環の輪を閉じることになるだろう。

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蒸発旅日記(山田勇男)

そういや最近は人が「自主的に失踪」することを「蒸発」って言わないねえ。つげ義春の、原稿を放りだして「蒸発」してしまったときの、虚とも真ともつかぬいきさつを綴った(漫画ではなく)エッセイの映画化。監督は自主映画作家の山田勇男。「アンモナイトのささやきを聞いた」以来 11年ぶりとなる新作長篇である。こないだDVDが出た寺山修司の「草迷宮」を久々に再見したら、この人の名が「美術監督」としてクレジットされていてビックリした。そうか、もともとそっち系の人なのか知らなかった。助監督に寺山修司の著作権継承者=森崎偏陸。 そして本作の美術監督を手掛けるのは、かの木村威夫。 …そう、つまり本作は「つげ義春×寺山修司×鈴木清順」というシュールの3乗な幻視的 道中記なのである。 ● 話としては、仕事に煮詰まった漫画家が仕事を放っぽりだして、たまたまファンレターをくれた「一面識もない女」と結婚して生活を変えようと決意して「ありったけの金と時刻表だけを持って列車に乗っ」て彼女の故郷へ行き、旅館で彼女を待つあいだにふらふらと温泉宿に出掛けていき、可愛い踊り子にひとめ惚れしてヒモ志願するもアッサリ振られ、いざ愛読者の女と会って結婚を申し込んだら逆に女に諭されてすごすごと東京へ戻っていく…という、奥田瑛二と望月六郎のコンビで映画化すれば それなりに味のあるロマンポルノになりそうな話なのだが、そこはそれ、本作の作り手たちはシュールな方面の方々なので、この世界のすべての時計の文字盤は裏返しだし、ブラック&ホワイトの内装のカフヱの名前は「カリガリ」だし、旅館にはハダカの男の子がウロウロしてるし…と、ちょっと見、面白いことは面白いんだけど、同時にたいへんに催眠性も強いというフクザツな映画になっている。ま、あと「梅に鶯、シュールにヌード」との喩えもあるようにハダカもちゃんと出てくるので石橋義正「狂わせたいの」とか好きな方には一見の価値があるだろう。 ● 「つげ義春」役に新人・銀座吟八。 「愛読者の女」に、荒木経惟の写真モデルとして御馴染みの──え、お馴染みじゃない? そうですか──秋桜子(コスモスこ) 「温泉宿の踊り子」に、実際に昨年末まで渋谷道頓堀劇場でストリッパーをしていたという──なんだそうか見に行きたかったな──張りのある美乳が素晴らしい藤繭ゑ(現在の芸名は藤野羽衣子) 「列車の女」に名古屋の誇るアングラ・シュール・ノスタルジー劇団「少年王者舘」の女優・夕沈@脱ぎません。 「墓石を探す老人」に名優・田村高廣@脱ぎません。 タイトルとエンドロールの強烈なタイポ・デザインは鬼才・鈴木一誌@脱ぎません。 撮影はどうやらフィルムで行われたようなのだが、画像加工の際にビデオに落とした故か、白っぽい部分がぜんぶトンじゃっていて美しくない。だからヌードのある映画はビデオにしちゃダメだってのに。 ● 主人公が踊り子との褥の睦言で発作的に「このまま きみに付いて行こうかなあ」と呟いて、そのあと言い訳のように「看板やポスターなら描けるし」…って、つげ義春の絵じゃ客は入らんぞ。


アリ・G(マーク・マイロッド)

イギリスのテレビ・コメディの映画化。つまり「ミスター・ビーン」や「イビサボーイズ GO DJ!」と同じ成り立ちの作品である。主人公はロンドン郊外の貧民地区に住むボンクラ青年。どっからどー見ても白人なのに黒人の格好して黒人英語をしゃべり、地元のボンクラ仲間とブラザーと呼び合い、地元の公民館で小学生のガキ相手に黒人学を講義してる万年失業者。それがマイケル・ガンボン首相の失権を企む悪辣なチャールズ・ダンス副首相の目に留まり「絶対に負ける候補者」として地元選出の議員に担ぎ出されたところ、どこをどう間違ったのか当選してしまったから さあ大変。国会にアリ・G旋風が吹き荒れる…という「スミス都へ行く」のゆる〜い翻案である。 ● なんか聞いたことないタイトルだなあ…と思ってたら、なんとイギリスでは2002年3月に劇場公開後すでにDVDも発売されているのにアメリカではいまだ公開未定のまま(amazon.co.ukではヒットするがamazon.comでは該当なし) それにはもちろん理由があって、このあと銀座シネパトスで続けて公開されるアメリカ映画「アンダーカバー・ブラザー」と違って、「アリ・G」の演じ手/作者たちからはブラック・カルチャーへの愛情がまったく感じられないのだ。彼らにとって黒人や黒人文化は単なるおちょくりや嘲笑の対象でしかないのだろう。おそらくアリ・Gを演じて人気爆発したサーシャ・バロン・コーエンに「生まれ変わったら黒人になりたいですか?」と訊いてみたら、かれは真顔でこう答えるに違いない──「黒人? そんなものになるくらいなら死んだほうがマシだ」と。 ● そればかりではない。本作においてタイの女性首相はおまんこからピンポン玉を飛ばすゲイシャ・ガールであり、モンゴル首相はろくに英語も話せない男色家なのである。この両国と、あとブルキナ・ファソとチャドの政府関係者が「アリ・G」を観たならば即刻、イギリスに宣戦布告するのは確実である。その意味では自虐の痛烈さ以上に、他虐に転じたときの他国に対する優越感が露骨な、いかにもイギリス映画らしいコメディとも言えるのだが…。

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ハルク(アン・リー)

「グリーン・デスティニー」に続くアン・リーの新作は、かのグリーン・モンスターの映画化。アメリカ公開時の評は おおむね「夏映画で唯一インテリジェントな作品」といったトーンだったので そこそこ期待してたのだが・・・あのぉ、これのどこがインテリジェントなんでしょうか? ハルクがのびのびジーンズ着用なのは夏のファミリー大作で巨大陰茎がぶるんぶるんしてるのを描くわけにもいかんだろうから目をつぶるとしても、見せ場であるべき変身シーンがカッコ良くないのと、アクション・シーンに「緑色の大男が大あばれする」ことのカタルシスを欠くのが致命的。いや、話としては感動に落とすんでもいいんだよ。だけどこれはあくまで「夏のアクション大作」なんだからアクション・シーンでスカッとさせてくれなきゃダメでしょ。 ● それに「感動ドラマ」としたって、ハルクってのは「フランケンシュタイン」「キング・コング」に連なる、望まれず生まれてきた怪物の系譜なんだから、もっと差別されなきゃ。怖がられなきゃ。孤独に軍隊と戦うだけじゃダメなんだ。もっと一般市民に忌み嫌われなけりゃ。美しいヒロインが簡単に「ハルクの中の人」を見抜いて心を開いたりしちゃダメなんだ。醜い巨人の姿に怯えて泣き叫ばなきゃ。それがかつての恋人のなれの果てだとアタマでは判っていても「I'm sorry. but I... I... I can't.」と、ハルク=ブルース・バナーに死刑宣告を下す役割であるべきなのだ。そして世間につるし上げられ、軍の集中砲火を浴びて、なすすべもなく「ウガー」とうなるだけのハルクを見て、初めて気付く──それが自分の愛した優しいあの人だということに。制止を振り切って砲列の前にとび出すヒロイン。彼女を守ろうと、あせるハルク。だが、流れ弾・・・が彼女の身体を貫く。くるくると回って人形のように崩れ落ちる。ハルクの身体が怒りに膨れ上がる(それは実際に目に見えて2割ほど大きくなる) もはや何ものもハルクを止めることは出来ない。何ものも鋼鉄の肌を刺し貫くことは出来ない。何ものも堅く閉ざした心の鎧をほどくことは出来ない。そして訪れるカタストロフ…。 後刻。廃墟と化したサンフランシスコの街にひとつの咆哮が響きわたる。それはひざまずき、ヒロインの小さな体を胸に抱え、天を見上げて神を呪うハルクの慟哭だった…。 ● ハルクの生みの親たる「父親」を演じるニック・ノルティがまさにマッド・サイエンティストそのもので素晴らしい。ほっとくとスグ演説はじめたりするとこなんかサイコーですね。そら親父がニック・ノルティだったら誰でもグレるっちゅうねん。 悪役としては他に、ハルクの生体細胞を悪用しようとする「軍需産業の御用科学者」がいて、ハルクの父と因縁がありヒロインの父でもある「陸軍のエリート将軍」がいるわけだが、この将軍=サム・エリオットが中途半端に御立派でイカンね。ハルクを生け捕りにしようとする御用科学者に対して、こいつは「米国の脅威となるものはぶっ殺せ!」という立場であるべきで、もっと狂ってないと面白くもなんともない。 ● あと細かいこと言うと、クラゲとヒトデとトカゲの遺伝子から作ったのに、ハルクはなんであんなに強くて敏捷なのか?…とか、御用科学者は生体細胞が欲しいんなら、べつに変身させる必要ないじゃんか。現にニック・ノルティは髪の毛1本でヤクザ犬 ハルク犬を作ってたし…とか、とりあえず金門橋の交通を閉鎖しろよ…とか、せっかくハルクから平常時のブルース・バナーに戻したのに誰より「怒りの対象」である父親と対面させるなんてアホか…とか、ツッコミどころ満載でインテリジェントどころかそーとーに底抜けな脚本だと思うんだが。で、また演出するアン・リーにこうしたジャンルやコミックスの素養がまったく無いのがミエミエで、竹内力の「岸和田少年愚連隊/カオルちゃん伝説」シリーズでも観て、勉強してから出直すよーに。 ● 製作:ゲイル・アン・ハード。音楽:ダニー・エルフマン。CGはILMの雄=デニス・ミューレンなんだが、見るべきところなし。通常のワイプやスプリット・スクリーンとは違う「マンガのコマ割り」を模したカット繋ぎもやかましいだけ。 ● ということで、ほんとうに褒めるところのない映画なので、ヒロインを演じるジェニファー・コネリーの美しさだけが唯一の救いである。少なくとも彼女の顔を見ているあいだは退屈さを感じずに済む(ちょっと気になったんだけど、彼女ひょっとして減胸手術した?) 怒り狂うハルクの前に現れて、髪がふわ〜っとなびくシーンなんて、まさに「フェノミナ」! 彼女に免じて星2つとする。 あと、回想シーンに出てくる「黒髪のお母さん」役のカーラ・ブオーノって女優さんの名前は覚えておこうっと。

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チャーリーズ・エンジェル フルスロットル(McG

前作から1年半という、思ったより短いインターバルで戻って来た超弩級のバカ映画。おれがあなたに言いたいことはただひとつ ── 考えるな。感じるんだ。 ● 3人のエンジェルも、監督のMcG(マックジー/本名ジョセフ・マクギンティ・ニコル)もそのまま。最初っから最後までフルスロットルでふっとばす。ほぼ全篇にデジロックや往年のロックの名曲がフルボリュームで鳴り響き、すべてのカットにデジタル修整がほどこされ(ちょうどいま街中を占拠してる3人のポスターの色調と同じく)マトモな感性なら絶対NGなまでに彩度が強調されたドギツい人工的なカラーが全篇を覆いつくす。パロディ場面には臆面もなく元ネタの音楽がそのまま流され「この映画ならではのオリジナリティ」などといった瑣末なものは一顧だにされない。そしてエンジェルたちはラストカットに至るまで、コドモのように、けたたましく、心の底から楽しそうに笑い転げているのである。まさしく全人類の半分の夢の具象化。これがもし「マトリックス」世界だったら おれは一生 目覚めなくて結構だ。てゆーか「マトリックス リローデッド」とはまた別の意味で「これはもはや映画ではない」という意見が出てもおかしくないが、ひとつこれだけはハッキリしてるのは「チャーリーズ・エンジェル フルスロットル」が映画でないというならば、おれは映画ファンでなくたって全然かまわないということだ。さ、もう1回 観に行こうっと。 ● 最初は「満点の倍」ということで星10個にしようとも思ったのだが、1つ減らして9個にしたのはミドルマン役のビル・マーレーが交替してしまったから。新たにミドルマンとなった黒人コメディアンの騒がしいだけのコメディ演技を見せられるたんびに、ああこれがビル・マーレーが苦虫を噛み潰したような顔で演じていたならばこの百倍は面白いのに…とそこだけ現実に引き戻されてしまった。なんでも「2度とルーシー・リウとは共演したくない」ってことらしいが、ルーシー・リウとビル・マーレーだったら、おれなら1秒も迷わずにビル・マーレーを取るけどなあ。それでルーシー・リウの代わりにスー・チーを入れれば(ルーシー・リウ以外は)みんなハッピーなのに。 ● 代わりにパート2の強力な悪役として千両役者ぶりを発揮するのがデミ・ムーア。キャメロン・ディアスと張り合って黒の極小ビキニ姿を披露したり、奸計を練るときも意味なく毛皮のコートの下にブラパンのみだったりと大活躍(←いや、ほかにもイロイロしますが) ちなみにデミが劇中でいちばん最初に殺す憎っくき男というのが・・・!? ● そして1作目への出演を期待されながらも実現しなかったあの人がついに、これ以上は考えられないほどの場面でカメオ出演。自信をなくしたエンジェルを励ます名台詞>「エンジェルはダイアモンドと同じ。作ることは出来ないから見つけ出すしかないの」 ちなみにおれはここで泣いたね(火暴) いやほんと驚くべきことに今度の「チャリ・エン」には一本 筋の通ったテーマがあるのだ。そして「エンジェルたちがなぜあんなに強いのか」も、ちゃんと説明がつく。そういう意味では全人類の、あと半分の皆さんにもお勧めである。 ● 前作同様、武術指導には「マトリックス」のユン・ウォピンのひとつ下の弟、ユン・チュンヤン(袁祥仁)が付いているのだが、どうやら もう監督がカンフーには飽きちゃったらしくて、前作ほど格闘シーンに重きが置かれていない。また前作ではオリジナルのTVシリーズへのリスペクトと共にセブンティーズ・ファッション/カルチャーへの目配せが顕著だったが、本作ではエイティーズ・ネタが大量に導入。溶接工に化けたエンジェルたちの場面になぜ「フラッシュダンス」のテーマがかかるのか…なんて、1980年代生まれの若者にゃぜったいワカらんぞ。あとちょっとした事情もあるので今回はTV版「チャーリーズ・エンジェル」をリアルタイムで観ていた諸兄に特にお勧めする。 ● そうそう例の双子の娘さんがたは次のパート3からでもエンジェルの妹分の「チャーリーズ・エンジェルズ・シスターズ」として参加しなさい。おれが許す。 最後に、せっかくのキャメロン・ディアスの下ネタ台詞なのにちょっと通じにくいやつ>「あなた雄鶏(コック=ちんぽ)だったの!? わたしはビーバー(おまんこ)よ!」

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バトル・ロワイアルII 鎮魂歌レクイエム(深作健太)

深作欣二の遺作となった「バトル・ロワイアル」を引き継いで、同作では製作・脚本を担当していた深作の息子・健太が監督デビューした。前作で生き残った藤原竜也がテロリストのリーダーとなり、子どもたちを理不尽な死に追いやった「すべての大人たちに宣戦布告」、日本政府は戦争を受ける代わりにテロリスト壊滅のため新たな中学生たちを「兵士」として送り込む。その中には前作で死んだ教師キタノの娘=前田愛の姿もあった…。 ● 不満である。おおいに不満である。おまえら本気で大人と戦う気があるのか?と問いたい。「ワイルド・セブン」などというこっ恥ずかしい名前を名乗る武装藤原グループは「大人たちに宣戦布告」しといて、年下の中坊 殺してどーするよ。無人島で戦争ごっこして楽しいか? だいたい「ガキvs大人の全面戦争」ならば闘争手段としては「極道戦国志 不動」のようなゲリラ戦しかありえんだろ。ゲームで生き残った者が次に為すべきことはゲームの枠組みをぶっ壊すことじゃないのか? 無人島で自衛隊と戦って死んだって犬死にじゃねえか。どうせ死ぬ覚悟なら自爆テロで総理大臣の1人でも道づれにして死なんかい。リーダーたる藤原竜也は「行動」もせずに毛布かぶって苦悩するかインターネットを通じてアジ演説するだけ。トーチ片手にゲリラ讃歌を滔々と述べられた日にゃ「風の旅団」かと思ったぜ(←だれも知りませんて) アングラ・テント芝居じゃねえんだ。これは映画なんだぞ。モーション・ピクチャーなんだぞ。台詞だけでアメリカの横暴を非難してみせたって何も変わらんだろが。もっと「行動」を見せろ「行動」を。ガキが組織的に大人どもを殺していく姿を冷静にハードボイルドにテロリスト養成マニュアルのように描いてみせろ。感傷やお涙頂戴は要らねぇんだ。中学生がマネて政治家ぶっ殺して社会問題になるよーなヤバい映画を作ってみろ。 ● 深作健太と、「けものがれ、俺らの猿と」の木田紀生による共同脚本は、映画が1時間かけてエモーションを積み上げて初めて許容されるような類の台詞を、序盤から考えなく垂れ流すだけのおセンチずぶずぶで、構成は無きに等しく、とても脚本のていをなしていない。「アフガニスタンの子どもたちの笑顔は輝いてた」なんてタワゴトが、映倫の目をかいくぐって劇場に詰めかけた中学生観客の胸に、ほんとうに届くと思ってんのか?(しかも健太&キャストは日和ってアフガン・ロケに行ってねえし) 三十そこそこの小僧っ子2人には「テロと戦争」というテーマは荷が重かったのかもしらんが、ならばせめて、主人公と同世代の中学生たちが感情移入できるストーリーにすべきじゃないのか。そもそも「バトル・ロワイアル」という物語の胆は「年端もいかぬ子どもたちが無残に殺される」点にあるのではなく「さっきまで友だち同士だった中学生同士が互いに殺しあう」一点にあるのであって、そのための欠かせぬ演出効果が「学校の制服姿」だったのではないのか。かくして「バトル・ロワイアルII」は中学生観客をアジりもせず後押しもせず勇気づけもしない「ただのお話」に成り果てた。 ● 撮影は深作組初参加の藤澤順一。序盤の「プライベート・ライアン」ごっこのシーンが、あれはハイスピード撮影なのだろうかコマ抜き撮影なのだろうか、やたら動きがカクカクしてて、観てて目がチカチカしてマイった。こんなこと映画を観てて初めてだ。「〜ライアン」のときはそんなことなかったんだがなあ。 ● ビートたけしに代わって教師役を務めるのは、竹内力(役名も竹内力!) 現在の日本映画界最大のスーパースターがやっと全国公開作品に登場したことは素直に喜びたい。当然のごとく1人で場をさらってしまうのだが、言っとくけど本来のリキさんの力量はこんなもんじゃないぞ。てゆーか、この話で大人をそんなカッコよく描いちゃいかんだろ。 前作で藤原竜也と共に生き残った前田亜季ちゃんは、今回なぜか藤原クンと行動を共にしておらず、ラストにちょろっと顔を出すのみ。だけど、今作の視点的主人公である前田愛が「BRII」に参加した動機が「キタノの遺した絵の真ん中でニコニコと笑っている少女が、娘の自分でなかったことにショックを受けて、それがどういうことなのかを確かめたくて」というものなのだから、無人島にたて籠もるテロリスト・グループの中にその少女=前田亜季がいなかったら話が成立しないじゃないか。せっかくの姉妹共演なのに姉妹を対決させなくてどーするよ。 テロリスト・グループのクールなシューターに加藤夏希。<この人、ジャンル女優一直線ですなあ。 息子を捨てる母親に三田佳子。これ明らかに解かっててキャスティングして解かってて出てるよな。ちょっと見直した。 ● あと、ポスターにも名前が載っているので書いてしまうが、前作の教師キタノ役=ビートたけしも特別出演している。というか、そこが本篇で唯一といっていい、画面に力のある(=心にこびりつく)シーンになっていて、おれはそれはビートたけしの役者としての力なのだと思っていたが、じつはこういうことだった。発売中のキネマ旬報から引く>[ある夜、宿泊先のホテルで健太が脚本執筆に追われていると、為すすべもなく深作(欣二)が入ってきた。そしてワープロを打つ健太の手をギュッと握りしめたという。「人によってモルヒネの影響は違うと思うのですが、親父の場合(癌の痛み止めに)モルヒネを打つと朦朧として、字を読んだり、考えたりするのが出来ないんですね。何も出来ない自分に苛立ちを感じていたのでしょう。でもこっちは脚本を書くのに追われている。親父の相手をする時間がないんですよ。で、手を離したらドアのところに立って言うんです『なあ、俺、こうした方がいいか?』と、こめかみに銃を突きつけるポーズを取りながら。イヤだなと思って、その時は『バカ言うんじゃねぇ』とごまかしたんですけどね。]・・・・・。いわばあれが深作欣二 最後の「演出」シーンであったわけだ。故人に敬意を表して星1つ増やしておく。

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六月の蛇(塚本晋也)

撮影:志田貴之 照明:吉田恵輔 音楽:石川忠

塚本晋也。一字 変えれば山本晋也。塚と山との違いかな・・・というわけで、塚本晋也 製作・監督・脚本・撮影監督・美術監督・編集・主演によるツカモト流 個人的ピンク映画である。カメラマンが盗撮した写真をネタに人妻をゆすり、イヤらしい格好をさせて股間にバイブを呑んで街頭を歩かせたりする…というピンク映画の定番ともいえるストーリー。尺も77分。ところが意外とこれがエロくないんだなあ。いや決してそれは、この映画がブルートーンのモノクロ映画だからとかスタンダード・サイズだからというわけでもなく、ましてやヒロインの黒沢あすか@脱ぎまくりかなりの微乳だからというわけでもない。この人のエロって観念的なんだよね。いままでずっと肉体の痛みにコダワってきた人のわりには、エロに肉体が伴ってないというか…。 ● とはいえ、最初から最後まで激しい雨が降り続ける濃密な画面や、石川忠の(今回はインダストリアル系ではない)生音系の陰鬱なBGMは素晴らしいし、塚本ファンの期待を裏切らないお楽しみもちゃんと用意されているので、塚本晋也の映画が好きな人ならば失望することはないだろう。 ● ちなみにコレ、なんとR-15でもPG-12でもない「一般映画」なんだそうだが、たしかに直接の局部描写はないとはいえ、人妻がゆすられて駅の公衆トイレでバイブ・オナニーとかする話だぞ。小学生とかにも見せていいんスかね?>映倫の先生方。

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極道恐怖大劇場 牛頭 GOZU(三池崇史)

「お、東映の誇る悪役俳優・曽根晴美さんじゃないですか。なんですか今日は?」「いやじつはね、カントクに息子の英樹 主演のVシネを作ってもらえねえかと思ってね」「そら曽根さんの頼みだったら断れないですけど、作るっつっても金のかかる話でしょ?」「いや金はあんだよ、ほら」(と、ドスンと黒いカバンをテーブルの上に置く)「…!」「じつは東映ビデオにはもうナシはつけてあるんだ。英樹と哀川翔 共演てことで」「哀川さんには?」「三池カントクから言えば断らんよ。5分も出てもらやあカッコがつくから。そこはカントクの顔で頼んますよ。ね?」「って…」「それで、あらすじも書いてみたんだけどね。『修羅の帝王』っつんだ。なんだったらおれから武知先生に」「あ、いや、武知先生はちょっといま忙しいって言ってましたよ。10年ぐらいは仕事が詰まってるって」「そう? そりゃ困ったな」「曽根さん(と黒いカバンをぐいと引き寄せて)脚本はこっちで手配しますから内容についてはまかせてもらえませんか。大丈夫。英樹クンが最高に引き立つ映画にしてみせますよ」・・・というわけで、三池崇史が曽根晴美の金で作った東映Vシネマ。 ● スンゲー映画である。いやほんと。ただ、スンゲーのは確かなんだが あまりに突き抜けすぎていて もはやどこにも比較対象が存在せず具体的にどこがどうスンゲーのか説明するのが非常に困難な映画でもある。たしかに「極道恐怖大劇場」というサブタイトルに嘘偽りはなく、これはやくざものVシネマの登場人物による「異郷ホラー」と言うことができるだろう。言動に異常をきたした兄貴分=哀川翔を、組長の命令で名古屋にある「やくざ処分場」へと送り届けることになった弟分が巻き込まれる不条理な恐怖の数々。なにしろ名古屋といえば、喫茶店でコーヒーを頼むと もれなくサービスで茶碗蒸しが付いてくる(実話)ほどの極め付けの異郷である。主人公が味わう恐怖がどれほどのものかご想像いただけよう。不埒な観客どもが爆笑するのを傍目に三池崇史はあくまでも不穏なホラーとしての演出を貫きとおす。「発狂する唇」「血を吸う宇宙」の佐々木浩久のように観客に解かりやすい目配せを送ったりしないところが三池崇史(と哀川翔)のキンタマのデカさというものであろう。 ● そしてまた本作は やくざ映画(=仁侠映画)の本質的なテーゼである「男が男に惚れる」とは一体どういうことなのか?…を追求した至高のラブ・ストーリーでもある。やくざの兄貴分への愛情は、男と女の愛とどう違うのか? じゃ、もし兄貴分が女だったらその2つの愛は一致するものなのか?──そうした、今まで仁侠映画のタブーとされてきた分野に三池崇史は果敢に挑み、愛の勝利を高らかに宣言する。だからあのエンディングは「至福」なのである。武知鎮典 脚本で「男の愛」の真髄をいやというほど学んだ三池崇史が「殺し屋1」の佐藤佐吉のオリジナル脚本を得て、またもやひと皮剥けた。まさに三池崇史リ・ボーンである。「DEAD OR ALIVE 犯罪者」に端を発する第2期 黄金時代を経て、これが来年からのメジャー展開へとつながる三池崇史第3期 黄金時代の幕開けとなるだろう。諸君、いよいよ三池崇史がメインストリームとなる時代がやって来たのだ。日本映画の将来は明るい・・・のか!? ● 異郷ホラーのフォーマットに則り、周囲が奇人変人悪人キチガイばかり──同様にそれはスクリューボール・コメディの要素でもあるのだが──の中にあって、ひとりだけマトモであるがゆえに右往左往おろおろうろうろする役まわりの「善良な主人公」に曽根英樹。 かれがフクザツな感情を抱く「兄貴の女」に吉野きみ佳@脱がないけどエロエロ。 ケツにオタマを挿さないと勃たない変態組長に石橋蓮司。本篇では奇ッ怪な死にザマを披露するのだが、その際に見せる演技力たるや! あまりにクダらない芝居に費やされる あまりに素晴らしい演技に本気で感動してしまった。 そのほか遠藤憲一・小沢仁志・小沢和義・山口祥行・火野正平・川地民夫・長門裕之・加藤雅也・丹波哲郎といった三池組オールスターズに混じって、もちろん出資者の曽根晴美もかつて一度も演じたことのないであろう類の役を怪演。強烈な印象を残している。御本人は試写を見て「わからん!」と言ってたそうだけど、有象無象のやくざものVシネマの1本として消費される代わりに、第一回製作作品がカンヌにまで行っちゃったんだから、ある意味、幸せだよな。[びあフィルムフェスティバルにて]

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マトリックス リローデッド(ウォシャウスキー兄弟)

製作:ジョエル・シルバー

前作「マトリックス」の本質は「サイバーSFの意匠をまとったアクション映画」であって、それが大ヒットしてしまって、吹いてたら本当にトリロジーにしなきゃならなくなっちゃったので、ビジュアル重視で深く考えずに採用したはずの「意匠」をむりやりに理論武装するハメになり、またプロデューサーの要請でアクション・パートも(笑えるほどに)過剰化し、その2つの要素が相互作用をおよぼし合うことなく010101と並列されているといういびつな作品になった。おれはそれぞれに楽しめたけれども、アクション映画としての「マトリックス」の続篇を期待して来た向きには、登場人物が向かい合って理屈をこねまわすだけの台詞劇のパートが退屈に感じられるだろう。 ● というわけで、まずはアクション・パートのレビュウから。アクションとは言っても、ここで言うアクションとはあくまで「ビジュアルとしてのアクション」であって「男たちの心意気」などとは無縁の世界である。なぜならウォシャウスキー兄弟はそんなこと信じちゃいないから。だからローレンス・フィッシュバーンが「革命に命を賭けよ」と、いかに朗々とアジろうが、キアヌ・リーブスが世界と引き換えにキャリー=アン・モスとの愛を貫こうが、そんなものはちっとも心に響いてこない。黒人オペレーターの「愛する妻との別れ」なんて定番描写も陳腐なだけ。キャラクターが善悪を問わず全員サングラス着用なのは、兄弟が俳優陣に求めてるものが「演技」ではなく「ビジュアル」だという何よりの証だろう。 ● 武術指導はユン・ウォピン(袁和平)とディオン・ラム(林迪安)。カンフーだけでなく、長棍、青龍刀、釵(サイ)、日本刀などを使った格闘シーンが登場するが、前作にはかろうじて残っていた「肉体の感触」はほぼ払拭され、いまや完全なアニメもしくは格闘ゲームの世界である。可変速カメラで ときどき「止め絵」が入るのなんかアニメ演出の呼吸そのもの。更地にハイウェイを建設して撮影したという14分間のカーチェイスもやはりアニメ的な「動画の面白さ」であって、いわゆる「カーチェイスの生の迫力」とは別もの。だからアニメと割り切っちゃえば、これはまさしく、このところ雨後の筍のように作られている実写アメコミ大作群に「やれるもんならここまでやってみな!」とウォシャウスキー兄弟が叩きつけた挑発にほかならず、へーきで空を飛んじゃうのも百人組手もニコニコして愉しめる。…ただ、そこまでやるんなら日本刀は斬鉄剣にしてスパッと対象物をスライスしてほしかったね。 ● 理屈の部分に関して言えば、「マトリックス」の新しさというのは「世界」を徹底してソウトウェア/サイバースペースの比喩として描いた点にある。つまり従来のSFアクション映画ならば「物理的に人間飼育塔をコントロールしている物体(ハードウェア)としてのコンピュータを破壊して人間たちを解放する」方向に向かうと思うのだが(「ターミネーター」がまさにそうだよね)、ここでの目覚めた人間たちは、まるでハードウェアという概念など思いもよらないかのように、あくまで仮想現実(ソフトウェア)としての〈マトリックス〉世界において、敵のシステムフォルダーを破壊せんと躍起になるのである。普通の脚本家ならクライマックスにカットバックさせるに違いない「烏賊マシーン軍団と人民空軍の激突」を、結果を報告する簡単な会話だけで済ましてしまうあたり、この兄弟の姿勢は徹底している(しかし、ちょっと気になったのはザイオンの動力源って何なの? だってあれだけの地下都市を維持できるエネルギーを「機械」が生み出せるなら、そもそも「機械」が人間の生体エネルギーに頼る必要などないじゃない。ま、それを言うならホバークラフトの動力だってそうなんだけどさ) ● 本作のストーリーを要約すれば「一般ユーザーには不可視であるシステムフォルダーの場所と、そこにアクセスする裏ワザと裏口を知ってるハッカー(=キーメイカー)を自陣の手中に収めようとする」話である。ラストにはじつに押井守 的な展開が用意されていて、観客席の脚をペシッと へし折ったまんま「次回完結」のテロップが出ておしまい。続きは5ヶ月後。観る前にはピンと来なかった「マトリックス リローデッド」というタイトルが、映画館を出るときにはじつに秀逸なタイトルであったと納得する。ちなみに3作目のラストを今から予言しておくが「マトリックス レボリューション」と複数形になってるところがミソだと思うね。 ● キャスティングから考えても おそらく1作目を作った時点ではウォシャウスキー兄弟自身も意識していなかったと思うのだが、この2作目からエージェント・スミスの役回りが急に比重を増した。「エージェント」とは〈マトリックス〉世界におけるウィルス駆除プログラムの実体化にほかならないが、そのいくつかある亜種のひとつに過ぎないエージェント・スミスは、前作のラストでネオに木端微塵にされたわけだが、なぜかデリートされる代わりにOSのコントロールから解き放たれたフリーエージェント・スミスとなり、他のプログラムを上書きして増殖する方法まで発明し、いまやOSの機能に依存しない最強のコンピュータ・ウィルスへと変貌を遂げた。しかも単に「最強の悪役」であるというだけでなく、ひょっとしたらネオの対極として物語全体の結末を左右しそうな気配すらあるのだ。全篇の台詞量のおよそ半分を占めるモーフィアスの演説よりもオラクルの預言よりも○○○○○○のタネ明かしよりも印象に残る、FA・スミスの名台詞。殺した相手がおもわず「おお神様!」と呻くと、クールに一言「スミスで結構」 ● 「映画秘宝」によると痩せメガネの兄のラリーが衒学担当で、でぶの弟アンディがオタク担当なんだそうだが、弟の男子中学生的妄想が爆発してるのが、われらがモニカ・ベルッチさま御出演シーンである。ほんとエロエロ。堪能した。「チャリ・エン」のアニメパンツ振り振りも唖然としたが、本作におけるハリウッド映画史上初のCG潮吹きには爆笑したぜ。たとえ酒の場のノリで思いついても、いい年したオトナが実行しますかフツー?<だから男子中学生なんだってば。あとザイオンってどう考えても「産めよ増やせよ」が国是だと思うが、それなら絶対あるよな>バーチャルSEXソフト。ネオとトリニティーの絡みでぜひ見せて欲しかったなあ。 ● ま、なにはともあれ、これは映画館で観ておくべき目の御馳走である。

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アニマトリックス
ファイナル・フライト・オブ・オシリス(アンディ・ジョーンズ)

「マトリックス」の、それぞれが番外篇/前日譚である9篇からなるアニメーション・オムニバスが「アニマトリックス」。「マトリックス」で大儲けしたウォシャウスキー兄弟が、パクリ元である日本のアニメ業界に「美味しいネタで儲けを還元しまっせ」というのがそもそもの目的(推測)で、韓国人監督による一篇を除いてはすべて日本人監督もしくは日本のプロダクションによる。今回、そのうちから「マトリックス:リローデッド」の予告篇的な内容の一篇が「ドリームキャッチャー」に併映された。 ● 本エピソード「ファイナル・フライト・オブ・オシリス」は、全篇が3D-CGによる9分のコンピュータ・アニメーション。じつはハワイにあるスクウェアUSA「ファイナルファンタジー」の敗戦処理の一環として手掛けたもので、アンディ・ジョーンズは「FF」のアニメーション監督を務めた人物。 ● ローレンス・フィッシュバーンたちが乗ってる深海船(…のように見えるホバークラフト)の、同型船オシリスの女性乗組員が、レジスタンス人民軍の拠点ザイオンの危機を知らせるべくマトリックス世界に侵入するが…というのが後半のストーリー。じつは「実写」版の「マトリックス」シリーズにおいても、海底(…のように見える「現実」場面)はすべてCGなわけで、人物の写っていないカットに関しては、もはや実写版とアニメの差はないのである。むしろ実写版よりクオリティは高かったりして。 ● さて、しかし本篇の見どころは前半にある。「マトリックス」にも登場した例のバーチャル道場で、ヒロインと黒人乗組員が目隠しをしたまま剣で切り結ぶうち1枚、また1枚と道着が切れ脱げてゆき、とうとう最後にはTバックになってしまう。次はいよいよ…というところで目が覚める。いや素晴らしい。「ファイナルファンタジー」のリアルな人肌描写の技術が120%活かされている。脚本としてクレジットされている「ラリー&アンディ・ウォシャウスキー」というのは、言うまでもなく永井豪の変名である。

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A L I V E(北村龍平)

オープニング。黒い霧の中に「A Ryuhei Kitamura Film」とクレジットが出る。って、こらおどれフィルム撮りちゃうやんけ!…と軽くツッコミを入れておいて、と。 ● えーと、北村龍平の映画で初めて感心した。いや、べつに「とびぬけた傑作」だとかではないよ。基本的にはセット2杯だけの、欧米ならば「ごく普通の低予算B級SFアクション」である。新宿東映パラス3で観て「お、拾いもんじゃん!」とちょっと気分がよくなるようなタイプの映画に過ぎない。だが、その「ごく普通のB級SFアクション」を日本映画の土壌でごく普通に成立させたのが「ALIVE」の特筆すべき点なのだ。具体的に言えば、撮影・美術・衣裳・音楽などのセンスが秀逸で、見ていて気恥ずかしくなる部分がほとんどない(…ま、明らかに非日常的な台詞をもてあましてる役者も何人かいるのだが、これは普段、日本映画でそうした台詞を喋り慣れてない/聞き慣れてないって部分も大きいだろうし今回は不問とする) たとえばこれが「ゴジラ」の東宝映画チームで映画化されていたらどのようなセットデザインになっていたか…と想像すればこのプロダクション・チームの優秀さは明らか。この監督ならばたとえば「ヘルレイザー」の新作とかをまかせてもそれなりのものを撮るんじゃないか…という気がするのだ。ふむ。「あずみ」はもういいから、この「ALIVE」をシリーズ化してくんないかな? 健闘を讃えて星1つオマケしておく。

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EX エックス(クリスチャン・デュゲイ)

まあ、クリスチャン・デュゲイの監督作だからって理由で観に来てんのはおれぐらいだろうなあワッハッハッ…とか思いながら有楽町のニュー東宝シネマの場内に入ったら、あまりの客の少なさに、これはひょっとして全員がクリスチャン・デュゲイのファンかも…と妙な連帯感を持ってしまったぜ。 ● どー見ても悪人顔のルーファス・シーウェル率いる撮影隊が、日本のデジタルビデオカムのCM撮影のために命知らずのバカな若者たちをひき連れてオーストリアのアルプスを訪れ、勝手に発破を仕掛けて人為的に雪崩を起こしたりするムチャな撮影を続けるが、たまたまその山頂の廃施設に隠れていたセルビアの逃亡軍人が撮影隊をCIAと勘違いして襲ってくる・・・という脳ミソがとろけそうなストーリーのB級アクション。てゆーか、CMの撮影隊をCIAと間違えるってどないなテロリストやねん! ま、しかし、この映画は世界一アホなテロリストが出てくるから「B級アクション」として成立してるのであって、テロリストの件りをカットしてただの青春アクション・ドラマにしちまったら面白くもなんともない。馬鹿馬鹿しいのにも理由があるのだ。 ● 問題は売りもののはずのエクストリーム・スポーツのシーンで、命がけのスタントを敢行しているのは事実なんだろうが、後からCGで加工しまくりなのと、無理に顔出し俳優との合成カットを挟み込んでるために、まったく印象に残らない。この種の映画はドラマ部分がどんなに馬鹿馬鹿しくてユルユルであっても「でもスタントは凄かったよね」と客が納得するのが本来の姿ではなかったか。ああ、もう我々は2度とかつてのスタント映画で味わったような興奮を味わうことはできないのだろうか…。 ● 世界大会で金メダルというネームバリューを買われて参加したものの、定められたコースを滑るのは上手いけどコースを外れたフリースタイルがからきしダメで落ち込む女性スキーヤーに、ブリジット・ウィルソン。あたし映画ではこんな役ばっかだけど実生活ではあの有名なテニス・プレーヤーのピート・サンプラスと結婚したのよ。ほら見てあたし勝ったのよ!…とでも言いたいのか今回は「ブリジット・ウィルソン=サンプラス」とクレジット。 「バカな若者その1」に ほんの半年か1年ほどの間にデブって汚らしくなってしまったデヴォン・サワ。 おれのお勧めは「バカな若者その2」のパンク姉ちゃんを演じたドイツ人女優 ジャナ・パラスキー。野川由美子/アンジェリーナ・ジョリー系の顔立ちのなので必然的にクシャッとした笑顔がとってもキュート。

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変身パワーズ(ペリー・アンデリン・ブレイク)

「ウェインズ・ワールド」の金髪&黒ブチ・メガネのほう=ガースこと、ダナ・カーヴィー主演のギャグ・コメディ。「ウェインズ・ワールド」の構成作家でもあったウェインことマイク・マイヤーズが「オースティン・パワーズ」シリーズでスターダムに登りつめる間、ガース君は何をしていたかというと・・・入院していたのである。おりしも「オースティン・パワーズ」1作目が公開された1997年に心臓動脈瘤の手術を受けたダナ・カーヴィーは、なんと医者が間違った動脈を手術するという不幸に見舞われ、4回にもおよぶ後処理手術と果てしない訴訟沙汰に巻き込まれて、かつての相方の栄光を傍目に雌伏のときを過ごしていたのだった。ようやく健康を取り戻しての復帰作がこれ。その前に「リトル・ニッキー」にカメオ出演した縁でSNLの後輩アダム・サンドラーが製作を買って出て、これが初監督となるペリー・アンデリン・ブレイクもサンドラー組の美術監督をずっと努めている人である。侠だねえ>サンドラー。 ● おなじみシネマメディアージュ13番スクリーンでの2週間限定ロードショー。原題は「マスター・オブ・ディスガイズ(=変装の名人)」。「変身パワーズ」という邦題はたぶん「オースティン・パワーズ」に引っ掛けてるんだろうが…オースティン・パワーズ…オースィン・パワーズ…ァースィン・パワーズ…ヘーンスィン・パワーズ…変身パワーズ…って、それはちょっと苦しいだろ>ソニー・ピクチャーズ宣伝部。 ● ダナ・カーヴィー扮する主人公ピスタチオは、実家のNYの小さなイタリアン・レストランを手伝ってるパッとしない青年だが、じつは知る人ぞ知るあのディスガイジー家の末裔である。…そう、歴史の動乱の影につねにディスガイジーあり。代々伝わる独創的な変装術によって時の権力の密偵を努めてきた闇の一族。その非情な定めに嫌気がさしたピスタチオの父ファブリツィオが家業のスパイを廃業してレストランを開いたのだった。その経緯(いきさつ)を知らされていないピスタチオは、子供の頃から自分がなにかに変装したくて堪らない奇妙な欲求と戦い続けてきた。なぜならば自分以外の誰か/何かに変装するととても心が安らぐから…。 ● そんなある日、父のファブリツィオと母が誘拐された。天才的犯罪者デヴリン・ボウマンはファブリツィオの正体を見抜き、かれを有名人に変装させて高価な美術品をかたっぱしから盗み出していく。途方にくれるピスタチオの前にチューブラー・ベルズのテーマとともに祖父があらわれる。祖父はディスガイジー家の秘密を告げると、ピスタチオを真の〈マスター・オブ・ディスガイズ〉へと生まれ変わらせるための特訓をほどこす。いまや「スカーフェイス」のアル・パチーノから「ジョーズ」のロバート・ショーまで、はたまたチェリー・パイから馬糞まで、変装できないものはなくなったピスタチオ・ディスガイジーは、両親を救い出すため敢然と立ち上がった──! ● …と、長々とストーリーを紹介したわけだが、面白そうでしょ? 面白そうなんだよ。ちゃんとした脚本家と演出家を雇ってマトモに作れば「オースティン・パワーズ」なんかよりズッと面白い映画が作れたはずなんだよ。ところがコレ、本編部分は1時間ちょっとしかなくて、そのあと延々と15分近くに渡って未公開シーン+エンドロールが続くというムチャクチャな構成なのだ。基本はあくまで「ダナ・カーヴィーの物真似の持ちネタ+αをぜんぶ見せます」ってことで映画としての出来は二の次。だから特殊メイクにはジム・ヘンソンズ・クリーチャーズ・ショップ+ケビン・イエーガー・プロダクションズという錚々たるバックアップが付いてるんだけど、パパ・ディスガイジーが化ける有名人(=当人のカメオ出演)がジェシー・ベンチュラ(元プロレスラーのミネソタ州知事)だったりジェシカ・シンプソンだったり「テン」のボー・デレクだったりと、いまひとつB級だったりピント外れだったり。ギャグの質も「オースティン・パワーズ」やZAZコメディと較べると「G指定」でもいいんじゃないかってくらい毒気のないうんこちんこ系で大人の観賞にはちとツライかも。クダらないパロディやギャグ映画が好きな御同輩限定で、見逃すには惜しい作品であるとお勧めしておく。 ● パパ・ディスガイジーにはジェームズ・ブローリン。美人アシスタントにジェニファー・エスポジート。敵役に「新スター・トレック」のデータ少佐ことブレント・スピナー@白塗りはしてません。


メラニーは行く!(アンディ・テナント)

いや、ラブコメとしては文句なしに ★ ★ ★ 以上を付けられる佳作なのだ。「南部アラバマ州の片田舎から単身NYにやって来て成功した若い女の新進ファッション・デザイナー」でしかも「東部の名門の御曹司@しかもNY市長の息子からプロポーズされてる」などというリアリティの欠けらもない役柄が許されるのはジュリア・ロバーツぐらいであって、どー考えてもリース・ウィザースプーンの役ではない…とか、その市長の息子を演じるパトリック・デンプシーが、じつはヒロインがアラバマにレッドネックな亭主を隠してたと知っても、なお彼女との結婚の意志を変えず、あまつさえ女性市長=母親のキャンディス・バーゲンの反対を押し切ってアラバマで結婚式を挙げよう…とまで言ってくれる愛と思いやりにあふれた人物で、民主党員であること以外にはヒロインにフラれる理由がない( )といった、かなり根本的な欠点を抱えているにせよ、たいへんにロマンティックで観客の印象に残る場面や、切なくて美しいシーンがいくつもあるし、典型的な南部州の田舎町と、南部人の不倶戴天の敵=ヤンキーとのカルチャーギャップ・コメディも上手く書けているし、ヒロインの小っちゃいときを演じたダコタ・ファニングちゃんは可愛いし、ラブコメとしてはとてもよく出来ていると思うのだ。…途中までは。 ● おれがどうしても納得できないのは、この映画におけるハッピーエンドが「NYの新進デザイナーとしての地位をアッサリ捨てて、幼なじみの奥さんに納まって子どもをたくさん産んで幸せな家庭を作る」というものに設定されていることにある。じゃああなたが1人っきりで大都会NYに出て何年も苦労したのは何だったの? あなたにとって仕事ってその程度のものだったの? いや、結婚するなとは言わんよ。田舎に帰るのだっていいさ。だけど田舎に帰ったってファッション・デザイナーを続けることは可能じゃないか。南部の垢抜けない娘さんたちに可愛らしい洋服をデザインしてあげればいいじゃないか。まるでそれまでの8年間に何の意味もなかったかのように家庭の主婦に納まってメデタシメデタシという結末はとうてい承服しかねる。いや、これが当初の予定どおりシャーリーズ・セロン主演で作られていたならば、こんなことは思わなかったかもしれない。でもあなたはあの「キューティ・ブロンド」のヒロインじゃないか。あなたが馬鹿にしていたレッドネックの旦那の台詞をもう一度よく考えてごらん>「(おれの)喋りかたがスローだからってアタマまでトロいわけじゃない」 ●  あとでIMDbのトリヴィアを見たら、パトリック・デンプシーにはもともと名家の娘さんのガールフレンド(たぶん「ひそかにかれに想いを寄せているが、かれのほうは仲のよい幼なじみとしか思ってない」という設定)がいて、撮影までしたにもかかわらずテスト試写での不評で役柄ごとカットされてしまったとのこと(エンドロールにかろうじて写真出演している) このキャラが残っていれば「パトリック・デンプシー、なんにも悪いことしてないのにフラれて可哀想」感がだいぶん軽減されるはずなのに、なんで切っちゃったんだろう?


アバウト・シュミット(アレクサンダー・ペイン)

およそ人生におけるあらゆる局面は、その視点の置きかたによって2つの見方が可能だろう。それは「好意的な見方」と「皮肉な見方」である。当人にとってとてつもなく重大な達成が余人の目にはチンケな出来事に映る。本人が無意識にとる日常的行為が他人には耐えがたい無神経な振る舞いに思える。どちらもよくあることだ。そんなとき、アレクサンダー・ペインはつねに「シニカルな観察者」の立場に自分を置く。この1961年生まれの脚本/演出家は自分の映画のキャラクターに(一般的な意味での)愛情を抱かないタイプなのである。そうしたスタンスは前作の「ハイスクール白書 優等生ギャルに気をつけろ!(ELECTION)」から変わらない。「ハイスクール白書」の場合は風刺コメディあるいはブラック・コメディとでも言うべきジャンルだったので、その特質が「愛すべき人物を1人も使わずに愛すべき映画に仕上げる」という稀有な成功に結びついたのだが、本作「アバウト・シュミット」は明らかにハートウォーミング・コメディであるべきストーリーであるにもかかわらず、アレクサンダー・ペインは通常のその種のコメディが笑いのオブラートに包んで見せる「人生のグロテスクな一面」をことさらに拡大して観客に終始 居心地の悪い思いを強い、また普通のコメディならば(主人公が生き方を改めるきっかけとして)ほんの一瞬だけ垣間見せるであろう「人生の残酷な真実」を次から次へと並べたてては観客を責めたてる。本来、観客を笑わせて気持ちよく泣かせるべきハリウッド映画に、そのような悪意はまったく無意味だと思うし、「シニカルなハートウォーミング・コメディ」などというアプローチは(サンダンス用のインディーズ映画ならともかく)先人が洗練を重ねてきたコメディというジャンルに対する侮辱だと思うので最低評価とする。

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トゥー・ウィークス・ノーティス(マーク・ローレンス)

あまりにワガママで自分と共通点のまったくない上司にアタマに来て、辞意を表明したヒロインだったが、よくよく考えてみたら2人はあまりに違いすぎててるがゆえにボルトとナットのように相性ピッタリでした…というお話。タイトルの〈トゥー・ウィークス・ノーティス〉とは「ええい、こんな会社(あと2週間で)辞めたるわい!」という辞意の表明のこと。2週間前までに告知する…ってのが法律かなんかで定められてるのかな、寡聞にして知らなんだ。そうかキレたその日に辞めてはイカンのか。 ● 2人がどれくらいかけ離れてるかというと、ヒロインは左翼運動家の両親に育てられたフラワー・チルドレン。カレシはNYでも1、2を争う森ビルみたいな不動産ディベロッパーの御曹司。ヒロインが両親と一緒に「ニクソン辞めろ!」というプラカードを持ってデモをしてた頃、カレシはそのニクソン大統領と記念写真を撮っていた…というくらい違う世界に住む2人なのである。…ってこれ「ダーマ&グレッグ」じゃん! んー、ぜひともジェナ・エルフマンで観たかったなあ。もう、おれなんかサンドラ・ブロックの芝居をいちいちジェナ・エルフマンに置き換えて、台詞も「ダメだよそんなの! グレッグは公民館は壊さないって約束したじゃん!」とか脳内吹替えして観てたもん<起用なやつ。 だってほら、酔っぱらったサンドラ・ブロックに「あたし見た目はお堅くてもひと皮むけばケダモノなのよ」とか言われても「冗談はよしてくれ」としか言えないが、雨蘭咲木子の声で「ぐふふぅ。アタシってこれでもベッドではスンゴイんだから(は〜と)」なんて言われた日にゃアンタもう…あ、いや。 ● サンドラ・ブロックの野心満々の後任に「バニラ・スカイ」「ルール」の赤毛娘 アリシア・ウィット。敵愾心を燃やすサンドラに「あの赤毛、地かしら?」とか言われたり。そろそろメジャー・スタジオでの主演作のオファーが来てるのではないか。 舞台がニューヨークなので、メッツのマイク・ピアザや、元祖・不動産王ドナルド・トランプがカメオ出演。こないだのグラミー賞を独占したノラ・ジョーンズもピアノを弾きながら1曲 披露してくれる。 ● 「恋は嵐のように」「デンジャラス・ビューティ」の、サンドラ・ブロックの座付き脚本家 マーク・ローレンスが、あい変わらず質の低いコメディ脚本を提供。あろうことか監督デビューまで飾っている。だいたい映画を観ていて「残り2週間」の期限がいつ切れるのかも判然としないなんてアタマ悪すぎ。ダーマの両親(←だから違うって)のキャラもエキセントリックさに欠けるし、ヒュー・グラントの側に「貧乏人を見下す執事なり父親なり」の存在がいないのも物足りない。おれは「中身のない皮肉屋のハンサムな英国人」を演じるヒュー・グラントを見てるだけでシアワセなので星3つ付けたけれども、映画としては決して褒められた出来ではない。

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ソラリス(スティーブン・ソダーバーグ)

脚本・撮影・編集:スティーブン・ソダーバーグ

ファースト・コンタクトSFの金字塔=スタニスワフ・レム「ソラリスの陽のもとに」の、アンドレイ・タルコフスキーの「惑星ソラリス」に続く、2度目の映画化。ソダーバーグお得意の「愛の喪失」と「孤独」についての物語である。てゆーかこれ、SFでやる必要ないじゃん。愛妻を失ったジョージ・クルーニーが自室に閉じこもって妄想に浸りきり、最後は「妻と2人で幸せに暮らす」夢を見ながら餓死する…で成立する話じゃんか。ソラリスの海に関する説明も考察もそっちのけで、だったら「ソラリス」である必要がどこにある? ソダーバーグは──これは「KAFKA 迷宮の悪夢」のときにも思ったことだが──その手の感性がないならこっち側へは入ってこないでくれ頼むから。

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略奪者(ルイ=パスカル・クーヴレール)

空港で略奪した10tもの砂金を積んで広大な砂漠を横断する4人の実行犯。「略奪者」という邦題だが略奪シーンはタイトルバックで簡略に処理され、全篇が灼熱の砂漠での逃亡・裏切り・追跡・復讐…の描写に費やされる。「恐怖の報酬」また従兄弟のような男臭く、汗臭い映画…であるべき作品である(原題はズバリ「汗」だ) ● ところがちっとも男臭くも汗臭くもならない。チャカチャカした編集のキレイキレイな画面からは、砂漠の茹だるような暑さも、男たちのギラギラした欲望も伝わってこない。監督は「ヨーロッパCF界の鬼才」だそうで、次回作はリュック・ベッソン製作とのこと。なるほどそういう代物だ。そのうえ、ジャン=ユーグ・アングラードをはじめとするキャストの英語台詞が下手すぎて、聞いててイライラしてくる。パリの小洒落たマンションに住んでるお坊ちゃんが熱帯魚の水槽を横目で眺めながら頭の中だけで組み立てたような映画。新宿ローヤル主義者にはお勧めできない。

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神に選ばれし無敵の男(ヴェルナー・ヘルツォーク)

ロックスターと映画作家に共通する悲劇は何か? それはアーティストの変化をファンが喜ばないことである。ファンは常に同じ歌を歌い続けることを要求する。だから、それがアーティストとしての「成長」なのか、それとも抽斗が空っぽになったがゆえの「迷走」なのかは知らないが、かれこれ十数年ぶりとなる劇映画の新作を前にこう嘆くのだ──こんなのはヘルツォークじゃない。こんな「男の妄執」とも無縁な、溢れだすパトスが映画を破綻させることもなく、お行儀良くまとまった心優しい映画なんかヘルツォークじゃない…と。本物のヘルツォークさんに是非、ティム・ロス=ハヌッセン主役でリメイクしていただきたい。

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恋愛寫眞 Collage of Our Life(堤幸彦)

本年度背中ムズムズ度ナンバーワンの堤幸彦の新作。前半が東京を舞台にしたヒロスエと松田龍平のちんたらしたラブ・ストーリー。後半はNYに舞台を移して、ヒロスエを捜し求める松田龍平のトンデモ映画となる。マトモな恋愛映画を期待していると堤幸彦は自分が掛けた梯子をみずから取っ払ってしまうので観客は着地点を失って唖然とするばかり。だいたい松田龍平の(なかばワザとやってるとしか思えない)ジャパニーズ・イングリッシュによるナレーションからしてフザけてる。アンタは作ってて楽しいかしらんが、騙されてこんなものを全国公開しちまった松竹の身にもなれっての。だれにもお勧めしない。なお、NY篇に小池栄子が助演しているがサービスシーンは一切ない。


スパイ・ゾルゲ(篠田正浩)

篠田正浩の、これで2度目か3度目の「引退」記念作品。大仁田か。しかも3時間2分。勘弁してくださいよ。だれか脚本の読めるプロデューサーはいないのか東宝には? ● てか、テレビでいいじゃん。ただ歴史をなぞるばかりで、歴史を生きた「個人」が活き活きと描き出されることはなく、主役のゾルゲの人物像も作者の都合の好いように解釈された「理想像」でしかない。CGを駆使して時代考証に凝りまくったらしいが、それならなぜドイツ人とロシア人がみんな英語を喋ってるのかね? そんなんだったらゾルゲ役は「トゥームレイダー」の悪役俳優なんぞを持って来ずともE.H.エリックさんでいいじゃんか(←いや、死んでますから) その自慢のCGにしたって前景の人物とのなじみの悪さは4年前の「梟の城」からちっとも進歩してないし、だいたいなんで戦車に人形が乗ってますか? 町の煙突の煙はなぜ風にたなびかないのですか? 監督が小雪とツーショットで画面に収まってご満悦なあいだに、登場人物は好き勝手にナレーションをはじめちゃうし、最後にゃ葉月里緒菜が加藤治子になってテレビでベルリンの壁の崩壊を眺めてる後姿にジョン・レノンの「イマジン」の──原曲を使っちゃうと使用料が莫大なので──インストゥルメンタルがかかり、そこに訳詩がテロップで流れて終わり。勘弁してくださいよほんと。 ● いや、出来からいったら「ただのつまらない映画」なので ★ ★ でもいいのだが、こんなものに何億もの金を使って全国何百館で公開して、その一方で三池崇史の「牛頭」や「鬼哭」が劇場未公開…というのはどう考えても納得いかんので星1つとする…なな、なにを言うか、決して「ぴあフィルムフェスティバル」の「牛頭」チケットが買えなかったから八つ当たりしてるのではないぞ。

★ ★
ロスト・イン・ラマンチャ[キネコ作品]
(キース・フルトン&ルイス・ペペ)

ヨーロッパ資本による映画としては史上最大の製作費を投じたテリー・ギリアム監督の最新作「ドン・キホーテを殺した男」が、ジャン・ロシュフォールとジョニー・デップを主演に迎えてクランクイン後、わずか1週間も持たずにポシャってしまった事の顛末を描いたドキュメンタリー。もともとは同作のメイキングを撮影していたスタッフが成り行きで完成させた、おそらく世界で唯一の「作られなかった映画」のメイキングである。 ● なにしろ実質撮影期間わずか3日なので「ハート・オブ・ダークネス」のような狂気の撮影現場が見られるわけではない。ただ単にだれがどー見ても準備不足なまま(なにしろ撮入1週間前でメインキャストの顔合せすら済んでないのだ)ともかくクランクインしてしまって、案の定、次から次へと襲い来る不運にまるで太刀打ちできず、あれよあれよとすべてが崩壊していく自業自得を見せられるだけ。日本語ではこーゆーのを「安物買いの銭失い」と言うのだ。銭だけじゃない。映画の現場では命すら失うことだってあるんだぞ。そんなもんテリー・ギリアムがどれほど苦しもうと同情は出来んよ。最初っから予算も日数も足りないことが歴然としていて、それでも奇蹟が起きることを──それも1つじゃ足りないから奇蹟がいくつも起きることを前提とした映画作りなんて、うまくいくわけがないじゃないか。たしかにシド・シャインバーグは芸術のゲの字も理解しない守銭奴のクソッタレかもしれないが、「未来世紀ブラジル」のような映画を世に出すためには誇大妄想狂の監督にとことんまで付き合う根気と無神経さを持った「芸術のゲの字も理解しない守銭奴のクソッタレ」の力もまた必要なのである。 ● なお「フィッシャー・キング」のジェフ・ブリッジスが(たぶんノーギャラ同然で)ナレーションを担当している。

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テハンノで売春していてバラバラ殺人にあった女子高生、
まだテハンノにいる(ナム・ギウン)[キネコ作品]

タイトルを多少、補足するならば「テハンノ(大学路)で売春していてバラバラ殺人にあった女子高生、(殺人サイボーグとしてよみがえり、)まだテハンノにい(て股間のちんぽ型バズーカ砲で男たちに復讐す)る」という話である。監督のナム・ギウン(南紀雄)がひとりで脚本・撮影・編集・音楽を担当した60分の韓国製自主ビデオ。これは観ずばなるまい、と義務感に駆られて観に行ったが、あからさまにお手本としている「鉄男」の1作目にははるかに及ばず。松梨智子ほどハッチャけてもおらず、せいぜいこないだキネコ版でリバイバルしてた「スーパーカミング」よりはマシ…といった程度。義務感を感じなかった人は観る必要なし。

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二重スパイ(キム・ヒョンジュン)

おれ、この映画の基本プロットが納得できないんだけど。北朝鮮のエリート・スパイが決死の覚悟で韓国に亡命。過酷な取り調べ(=拷問)にも耐え抜いて、ついにはその経歴を買われて国家安全企画部(1981年に韓国中央情報局 KCIA から改称。現在の国家情報院)で働くこととなる。つまりKGBの元スパイがCIAに雇われるようなもんだな。でも(いくらフィクションとはいえ)そんなことって有り得るの? モデルとなった事実とかがあるのか? だって敵のスパイだぜ。いちど転んだやつは必ずまた転ぶ。やくざ映画のイロハのイではないか。この際、思想や信条は関係ない。北も南もない。要は忠誠心の問題だ。おれだったら絶対そんな野郎は信用しないがね。 ● この主人公を取り調べ、のちに部下として採用する安企部の局長が重要なサブキャラクターとして描かれるのだが、こいつの気持ちがまたわからない。いつでも使い捨てられるよう主人公を「飼っている」ようにも見えるが、それにしては自分の懐深く受け入れすぎていて、裏切りが判明したときにはずいぶんうろたえていたし。その一方で「出世のための点数稼ぎ」として主人公を陥れようと画策してたりして。あのさ、みずからが部下として採用して取り立ててきた脱北者が二重スパイだと発覚した日にゃあ、点数稼ぎどころか命取りでしょーが。ようわからん。 ● これは「シュリ」のようなアクション・エンタテインメントではないし、さりとてスパイ映画としてはサスペンスが足りず、悲恋メロドラマと呼ぶにはエモーションが不足している。前代未聞の高額なギャラを手にして「カル」以来の映画復帰をはたしたハン・ソッキュだが、おれには最後まで「思想の国」から「経済の国」にやってきた潜入スパイの切実さは感じられなかった。潜入スパイものの悲哀ならば、未公開ビデオの「SPY リー・チョルジン 北朝鮮から来た男」のほうが、よほどよく描けていたように思う。

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ザ・コア(ジョン・アミエル)

見た目どおりの映画である。予想以上に良くもなく覚悟したより酷くもない。「エントラップメント」「コピーキャット」「ジャック・サマースビー」の監督が手掛けたB級キャストによる「アルマゲドン」の二番煎じ…というパッケージングから皆さんが想像するとおりの代物だ。つまり「無理してみる必要のない映画」ということになる──スタンリー・トゥッチのファンを除いては。 ● スタンリー・トゥッチ。「アメリカン・スウィートハート」の映画会社CEOや、「メイド・イン・マンハッタン」の選挙参謀、「サイドウォーク・オブ・ニューヨーク」の浮気歯科医など、このところ出る映画 出る映画で全米「人間の屑」選手権ブッチギリ優勝中の長身&馬面のハゲ中年──おれの今イチバンのお気に入りの脇役俳優である。アインシュタインの再来といわれる天才物理学者を演じる本作ではロマンス・グレーのカツラを着けてるのだが、髪の毛があろうと無かろうと持ち前の「傲慢で自分勝手な奴」キャラは全開で、思うぞんぶん観客から蔑まれてくれる。いや、素晴らしい。スタンリー・トゥッチを見るためだけにでも本作には1,800円を払う価値がある・・・とまでは言わんけどな。言わんのかい! ● なお、拙稿において本作への科学設定&脚本に対するツッコミを期待されてる向きもあろうが、それをやってると何度スクロールしても終わらんので略。てゆーか、この映画の作者たちは「科学的正確さ」なんて初手から目指してないと思うし。ただ、どーせこーゆーバカ映画を作るんなら地底掘削艇には、バカを承知でドリルは付けて欲しかったねドリルは。

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TAXi(3)(ジェラール・クラヴジック)

製作・5行ほどのメモ(脚本とも言う):リュック・ベッソン

監督は2作目と同じくジェラール・クラヴジックなんだが、おれが前作に星5つ付けたのは「あれは気の迷いだったのか!?」と自信がなくなってくるヒドい出来。だいたい「激走〜アルプス!」という予告篇を観たときから疑問だったんだけど、カーチェイスの醍醐味ってのは狭いところ(壁と壁の間とかクルマとクルマの間とか)を猛スピードですり抜けて行くスリルにあるわけで、雪山なんてあんなだたっ広いところをもっさりもっさり走ったって面白くもなんともありゃせんのだよ。てゆーか、2作目でストーリーが消えたと思ったら、今度はカーチェイスまで消えてしまった。ダメじゃん。 ● 1作目の悪役がメルセデス・ベンツ、2作目の悪役が三菱ランサーと来て、今度の悪役は中国人なんだが、中国には有名なクルマがないので悪人たちはもっぱらローラーブレードを愛用してるのだった。ダメじゃん。てゆーか、ドイツ人、日本人…と来て、コテンパンにやられる姿にフランス人が拍手喝采する国といえばアメリカしかないじゃないの。ルノー・タクシーと「トリプルX」に出て来たみたいな米国産マッスル・カーとのチェイスが観たかった。てゆーか今回、マヌケ署長が前作までの怪しい日本語に変わって連発するのがイーカゲンな英語だったりするあたり、ひょっとしたら最初の5行メモ(脚本とも言う)では嘲笑の対象はアメリカだったのかも。さては日和ったな>ベッソン。 ● また中国人を悪役にするならするで「キス・オブ・ザ・ドラゴン」なみのカンフー・アクションぐらい用意せえよと思うんだが、せっかく前作で華麗なるノーパン・ミニスカまわし蹴りを魅せてくれた長身金髪美人エマ・シューベルイが続投していながら、とある設定で彼女のアクションを封じてしまっているのだ。あほか。中国人強盗団の女リーダーを演じるバイ・リンのメイクがまた三文洋ピン中国系女優のメイクみたいにケバケバで眉の天地が3センチぐらいあったりする。リュック・ベッソン、趣味 悪すぎ。これまで8ヶ月間で37件の犯行を重ねてきている強盗団は、なぜか全員サンタの格好をしていて、劇中では「なぜわざわざそのような格好をしてるのか?」というのが大きな謎になっているのだが、その真相というのが「解かった!まもなくクリスマスだ。クリスマスに企ててる大一番の犯行にサンタの格好をして目を紛らせて、そのまま逃げる算段だ。つまり今までの37回の犯行はすべてこのための偽装だったのだ!」って・・・えーと、それが5月からずっとサンタの格好して強盗するなんの説明になるんでしょーか?(サンタの扮装への疑惑を生むだけだと思うが) もしもーし、なにか入ってますかー?>ベッソンの頭の中身。 ● まあ「007」をパクったオープニング・タイトルだけはなかなか良く出来ているが、それならカメオを頼む相手が違うでしょ。

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奪還 DAKKAN アルカトラズ(ドン・マイケル・ポール)

スティーブン・セガール主演の本作と次の「撃鉄 GEKITEZ」を、いつものシネマメディアージュ13番スクリーンで2週間ずつ。チラシには「地獄を吹っ飛ばす最強シリーズ第1弾!/第2弾!」とあるけど、もちろんまったく関係のない2本である(配給:ソニー・ピクチャーズ) 明らかにワーナー映画配給の「DENGEKI 電撃」を踏襲したタイトルなんだけど、これ何ていうシリーズ名なの? 「沈黙」シリーズに続く「ローマ字タイトル」シリーズとか?<ちっとも強そーじゃありません。 ● 内容はジョエル・シルバーがアンジェイ・バートコウィアクを監督に起用して、ワーナー映画で連作してる「カンフー/カラテ・スターと人気黒人ラッパーを順列組合せにして主演させ、もれなくラッパーの新曲の詰まったサントラ盤ビジネスが付いてくる今様ブラック・エクスプロイテーション映画」というコンセプトの作品──すなわち「ロミオ・マスト・ダイ」(リー・リンチェイ×アリーヤ)、「DENGEKI 電撃」(セガール×DMX)、「ブラック・ダイヤモンド」(リー・リンチェイ×DMX)など──をセガールみずからがパクッた一品。相手役には大物ラッパー=ジャ・ルールを、武術指導にくまきんこと熊欣欣(シャン・シンシン)をブッキングしてるにもかかわらず、ジョエル・シルバーの不在が逆にかれの「アクション映画プロデューサーとしての偉大さ」を浮き彫りにする結果となった。本作の「安さ」に較べたら上の3本のほうがつまらなくてもずっと面白いのだ。 ● ハイテク装備により復活した新アルカトラズ刑務所。今夜そこで、連邦準備金庫から2億ドルの金塊を盗んだ犯人が、金の在り処を黙したまま死刑に処されようとしていた。外界と隔絶した孤島。嵐の夜。死刑囚から金塊の隠し場所を訊き出そうとプロの武装集団が襲撃。最高裁の女性判事を人質に取る。だが、たまたまそのときアルカトラズにはあの男が居合わせた──! ● まるで「沈黙」シリーズのセルフ・パロディのようなストーリーだが、ある意味そうとも言えるのである。つまり、この映画は本質的には「黒人映画」であって、じつはセガールのほうがお客さんなのだ。スマップの番組に竹内力がゲスト出演して真面目に「ナニワ金融道」の真似っこをしてるみたいなもんなのである。それでも見応えがありゃ文句は言わんけど肝腎のアクション・シーンがすべて、片側から撮った場面をブツブツ繋いでるだけで、たぶんテキトーにシャッフルしても印象は変わらないだろう程度の代物なのだ。そいじゃダメだよな。監督・脚本はこれがデビューとなるドン・マイケル・ポール。武装集団の紅一点でお久し振りニア・ピープルズが劇中 唯一マトモな格闘シーンを披露している。この人じつはもう40代。<かっちょいー。 ● 新アルカトラズ刑務所の「死刑執行室」は、ハイテクを駆使して電気椅子・ガス・絞首刑など5種類のメソッドから囚人自身が自由にチョイス出来るシステムになっていて、付いた名前が「スローターハウス5」・・・って、それはセガールの客には受けんだろ。あとこの映画、プロローグ要らないのでは?(無くてもじゅうぶん通じるほど薄〜い伏線なのだ) 原題の「HALF PAST DEAD」というのは「生と死の境目を半分以上(死のほうに)行き過ぎた状態」といったニュアンスで、劇中、セガールは「22分間の心停止から生き返った男」という設定。 ● 今回、ひさかたぶりにシネマメディアージュ13に行ったら、休憩時間のスライドと本篇前のCMがビデオ・プロジェクター上映になっていた。スライド(=静止画面)の合間にはワンちゃんが公園で転げまわるシーンとかが流されてたり。DLPシネマではないけれど、そーとー高性能な機種を入れたみたい。今後はビデオ作品とかもやるつもりなんだろうか…。

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サラマンダー(ロブ・ボウマン)

サラマンダーというのはよく西洋の鎧の紋章に描いてあるチョロチョロと火を吐くトカゲのこと。これは「バタリアン」や「サランドラ」と同じ東宝東和タイトルであって、たとえ字幕にそう書いてあっても俳優は一度もその言葉を口にしない。原題は「REIGN OF FIRE(炎の治世)」 まあ、カタカナで「レイン・オブ・ファイア」とすると「火の雨」に聞こえちゃうからな。 ● プロローグ。現代のロンドンにドラゴンが蘇える。おっ、これはもしかして「ガメラ3」のあのラストの続きを──文明世界がドラゴンによって壊滅していく地獄絵図を見せてくれるのかな!?…と思ってワクワクしてると、人類はオープニング・クレジットの間にあっけなく滅んでしまい、本篇が始まったときには(今までB級SF映画で何百本と観てきた)「廃工場と砂漠の世界」になっているのだった(泣) …ま、それでもドラゴンだけはうじゃうじゃいるわけで、よし、いよいよ血沸き肉踊るドラゴンスレイヤー活劇の始まりだ!と思ったら「あいつらの中に1匹だけいる雄を倒せば、ドラゴンはみな滅びる」って、コラー!横着すな! 人間同士のうざったいドラマなんか要らんから、もっとドラゴンを出せドラゴンを! ● …と、思わず激昂してしまうほど、ドラゴンの出来が素晴らしい。ドラゴンだけに1800円 払って悔いがないという向きは必見。担当SFX工房はディズニーが「ダイナソー」製作のために設立したCGスタジオ「シークレット・ラボ(秘密研究所)」 ぜひ今度は続篇ならぬプロローグと本篇のあいだの「ドラゴン大増殖/人類壊滅 篇」をやってくれい!(と思ったら、本作のアメリカで公開からすでに10か月。シークレット・ラボは「ピクサーと張り合うてもしゃあないわ」というディズニー本社の意向で御取潰しの憂き目に遭っていたのだった。諸行無常よのう…) ● ドラゴンの目を逃れて細々とサバイバルしてるコミュニティのリーダーに、今回ちゃんと「善いもん」に見えるクリスチャン・ベイル。合衆国海兵隊の残党を率いてドラゴン狩りをするヤンキー野郎に、スキンヘッド&髭面に筋骨隆々で、最初ウディ・ハレルソンかと思ったマシュー・マコノヒー。監督は「X-ファイル ザ・ムービー」のロブ・ボウマン。

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X-MEN 2(ブライアン・シンガー)

1作目より全体にキビキビとテンポアップして、アクション・シーンの見せかたも優れている。武術指導が前作のユン・ケイから和道流空手師範のジミー・エドワーズなる御仁へと交替しており、また前作では別人に委ねていた編集(と音楽)に、ブライアン・シンガーとはUSC以来の盟友であるジョン・オットマンが戻ってきたのも大きいのだろう。「差別と理解」というテーマも、下手に重苦しくなることなく描かれている。高校生であるX-MENの1人が帰郷して、家族にいままで隠していた「自分がミュータントであること」を告白する場面は、まるっきりゲイのカミングアウトそのもので(お母さん思わず「その…、ミュータントって…、止めるわけにはいかないの?」)笑っちゃうが、一方で「潜在的な脅威は事前に叩き潰せ!」と唱える大統領が支配する国にあって「大統領暗殺を狙うミュータント・テロリスト」のエピソードから話を始めるブライアン・シンガーの挑発的態度はたいしたものだと思うし、自らと異なる相手への理解と共存を説くピカード船長の姿はまんま「スター・トレック」を観ているよう。 ● ただ、構成としては(前作でこの映画化3部作の「主役」はウルヴァリンであると設定したのだから)この2作目で過去の謎/因縁/秘密をすべて明らかにすべきだった。それで「真実を知ってピカード船長に牙を剥いてX-MENを去るウルヴァリン」がラストシーンであるべきなのだ。主役なのだから。次作、完結篇である3作目はとうぜんX-MENガンダルフ軍団との死力戦になる。ならばサスペンスを形成するのは「次から次へと力尽きて死んでいくX-MENのメインキャラたち」であって、過去の謎解きとかやってる暇はないはずなのだ。もちろん「やさぐれてガンダルフの用心棒をしているが、最後の最後にX-MEN表返るウルヴァリン」がクライマックスである。主役で話を動かすってのは基本でしょうが>シンガー君。 ● あの青い全裸ネーチャンをもっと出せ!という全世界のファンの声に応えて本作ではミスティークが出番倍増の大活躍。てゆーか、誰とは言いませんが「どこで活きるんだその能力は!?」的な使えねーミュータントが多いなかで、誰にでも化けられるし格闘技は強いし、マジ最強なんですけど。今回は中の人(レベッカ・ローミン=ステイモス)まで素顔で出てくるサービス付きだ。 新登場の、ウルヴァリンと同等の鋼鉄の爪を持つ女=デスストライクに扮するのは「L.A.大捜査線 マーシャル・ロー」「スコーピオン・キング」の空手黒帯女優 ケリー・フー。「口数の少ない冷酷な女用心棒」という役柄にピッタリなクール・ビューティぶりが素晴らしい。しかーし! この役はオオヤマ・ユリコというれっきとした日本人の役なのだぞ。日本の女優および芸能事務所の連中は何をしておるのだ! 台詞も少ないしこれ以上ない好条件なのに。しっかりせんかい! しかし、このデスストライクって「ウルヴァリンと同じ手術を受けたから同じ鋼鉄の爪を持っている」っていうのは解かるけど、なんで「驚異的な治癒能力」まで一緒なの? それってウルヴァリンの天性の能力なんじゃないの? ハリー・ベリーは出番は多いんだけどドラマが付随しないのであまり印象に残らず。ギャラの分だけ帳尻を合わせました…って感じ。 ファムケ・ヤンセンは、いくらテレパスだからって建築物の崩壊までは読めないと思うんだが…(予知能力もあるの?) それとお姐さまのサイコキネシス能力は飛行機の中からは使えないんでしょーか? てゆーか、あそこは「後続世代の成長」を描く絶好の場面なんだが、協力して事にあたるとか考えつかんか? ちなみにファムケさまはすでに3作目の契約書にサインなされた由。 謎なのがアンナ・パキンで、この人って体型とか二の腕の感じがおばさんぽいのな。…って、そうじゃなくてこのアンサンブルでビリングのラスト(=「AND」扱い)がなんでイアン・マッケランでもハリー・ベリーでもなくアンナ・パキンなの? えー、長くなるので男のほうは略(しかし、いくらマンガだっつったって、いくらミュータントだからって尻尾は生えんだろ尻尾は!) ● 実際にこんなミュータントがいたとしたらどうだろう。われわれ凡人は共存できるだろうか。怪力だったり火を操ったりする超人系ミュータントなら現在の人類だってアントニオ猪木ボブ・サップおおむね平和共存してるんだから大丈夫だろうし、見た目が大きく異なる異形系ミュータントの場合も、顔に痣のある人や巨乳と一緒で、最初はそっちに目が行ってしまうのは避けられないだろうけど、それは御容赦ねがうとして。てゆーかミスティークだったら一生 愛せそうだもん(火暴) そうなると、やっぱり問題はテレパスだな。おれ、自慢じゃないがファムケ・ヤンセンがテレパスだったら、とてもじゃないが恥ずかしくて前に出られないもの。<なに考えてるんだか。いや、だって おれと同じこと考えるでしょ貴兄も? ● あと「スパイダーマン」と「デアデビル」では出ていたマーヴェルの動画ロゴが本作だけ出ないのは何故? [追記]マーヴェルの動画ロゴはDVD発売時に追加されたらしい。

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あずみ(山本又一朗)

映画のプロデューサーたるには2つの力が必要だ。「内へ向かう力」と「外へ向かう力」である。内へ向かう力とは、すなわち時代を読む力。脚本を読む力。作品を見究める力である。外へ向かう力とは、人を集める力。金を集める力。企画を成立させる力。そして作品を売る力である。良い作品を作って、それで金を儲けるには、2つの力がバランスよく備わっていなければならない。プログラム・ピクチャー全盛の時代には、会社が外へ向かう力を負担していたので、プロデューサーは主に内へ向かう力を鍛えるだけでよかった。だが「邦画番線」というものが事実上消滅した現在では、社員プロデューサーといえども外へ向かう力が無くては映画が作れない。そうした時代が到来してからすでに20年近くが経過し、いまや日本映画界は中途半端に外面(そとづら)だけ良くて、作品を見究める力のまったくない代理店のイベンターのようなプロデューサーばかりになってしまった。 ● そんな中にあって浮き沈みを繰り返しながらも「外へ向かう力」一本で四半世紀を生き延びてきたのが山本又一朗である。その犯罪歴 フィルモグラフィーには「ベルサイユのばら」「がんばれ!!タブチくん!!」「アメリカン・バイオレンス」「プロ野球を10倍楽しく見る方法」「ザ・オーディション」「愛・旅立ち」「宇宙からの帰還」「あいつに恋して」「ピラミッドの彼方に ホワイト・ライオン伝説」「ウィンズ」…といった聞いただけで頭がクラクラしてくるような恐るべきタイトルが並ぶ。もちろん中には「太陽を盗んだ男」のような勲章もないではない。これだってそーとーに型破りな映画だし、実際、この男の「外へ向かう力」の強さは尋常ではない。なにしろマタ・ヤマモトはフランシス・フォード・コッポラとジョージ・ルーカスと映画を共同製作したことがある(=「MISHIMA」)世界で唯一のプロデューサーなのだ。みずから率いる製作会社「フィルムリンク・インターナショナル」という社名は象徴的だ。すなわち、業界プロパーではない外部資金とのリンクと、インターナショナルな展開こそが、山本又一朗のキーワードなのだ。 ● このような男であるから当然、山師である。山師でなくては務まらぬ。山師であるから口が上手い。相手をノセるのが上手い。「あずみ」では(「太陽を盗んだ男」の長谷川和彦と同じく)これが2本目の新人監督の作品に、オスカープロモーションいち押しのアイドルをブッキングして、配給には日本ヘラルドを抱きこみ、まんまと東宝の邦画番線を押さえてしまった。山本又一朗は山師であるからデカいことを言う。北村龍平ごとき小僧が及びもつかぬ元祖ビッグマウスなのである。北村の起用についても[こういう若い監督とやるという英断は僕ぐらいしかできないと思いましたからね]と、自分の判断を「英断」と言い切ることに何のためらいもない、そういう男の作った映画なのである。 ● おれが思うに「あずみ」の大きな欠点は2つある。尺と脚本である。なにしろ2時間22分の長尺なのだ。脚本をチェックして作品がきちんと時間内に収まるようにするのはプロデューサーの大切な仕事なのだが、今回、山本又一朗にはそれが出来ない理由があった。すなわち水島力也という筆名で自分で脚本も書いてるのだ(火暴) ただでさえ作品を見究める力のないプロデューサーなのだ。そのうえ自身の処女脚本とあっては冷静な判断を欠くのも無理はない。しかるに曰く[あれだけ詰まってますから、おかげで映画はノンストップですよ。2時間22分を感じる人はおそらくいないでしょう]だと。おれは充分2時間22分に感じたぞ。よって今回、「あずみ」の不出来の責は主に山本又一朗にある…というのがおれの見解である。 ※発言引用は「キネマ旬報」2003年5月下旬号より。 ● ちなみにおれはメイン劇場の日劇2に公開3日目の夜に行ったんだがガラガラだった。「魔界転生」より空いてたかも。まあ、負ける戦(いくさ)もあるってこった。死んでも死なぬ山本又一朗、続篇(リターン・マッチ)での雪辱に期待してるぜ。…ということで前置きはこれくらいにして以下、本題。<前置きだったんかい!

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あずみ(北村龍平)

はじめに言っておくが、これは時代劇ではない。髷を付け刀を差した現代劇である。ガングロ・茶髪・ロン毛の若者たちがほぼ普段しゃべってる言葉/口調で会話する(Bボーイ風の若者もいる) ヒロイン・あずみの格好はミニスカ&白のハイソックスの女子高生(クライマックスではマントに合わせて紺ソックスに穿きかえる) 演じる俳優たちの力量を考慮して、殺陣は基本的に2手順まで──すなわち「斬って払う」もしくは「躱して斬る」のみの短いカットを積み重ねて編集でそれらしく見せている。したがって200人斬ろうが300人斬ろうが「殺陣の興奮」を味わうことは叶わない。ゆいいつ殺陣らしい殺陣を見せてくれるのは「浪人街」などに出演経験のある原田芳雄。やはり、斬り躱し斬り斬り突き躱し走りまた斬る!という「一連の動き」としてカメラに収まってこその「殺陣」だろう。 ● 以上の理由で「あずみ」は時代劇を期待する向きにはまったくお勧めできない。だけど本作に関してはそれでいいと思うのだ。「殺陣」とは呼べなくとも「アクション映画」としては成立しているし、もともと時代劇の醍醐味を伝えるのが眼目の企画ではないのだから。若手俳優たちによる青春映画/アクション映画として楽しむ分には、この方向性でOKだと思う。ただ、北村龍平は(たぶん頭の中では完璧な見得が切れてるんだろうけど)スローモーションと静寂の使い方がイマイチ下手だよな(みんなひと呼吸 遅いし、長い) 感傷を安売りする劇伴はドラマの流れを台無しにしてるし、撮影の古谷巧が今まで北村組しか経験していないアマチュアなので、ちょっとひらけた場所に出ると、もう構図が作れないのも問題あり。 ● さて、しかし一方で、本作にはその現代性ゆえに致命的な欠陥が生じている。現代の若い観客たちが身近に感じられるような人物造詣をしたならば、言うまでもなくその「考え方」や「行動原理」もそれに沿ったものにしなくてはならない。「時の権力の安泰のため革命分子を斬る刺客集団」などとは封建社会の価値観そのものではないか。なぜかれらは理由も聞かず、命令に従うのか? ジジイのタワゴトを真に受けて、報酬もなく、休暇もなく、ときには命まで犠牲にして? なぜ逃げ出して自由に生きようとは考えないのか? これが「時代劇」ならともかく、現代の観客がとうぜん感じるであろう こうした疑問に、解答を用意しないのは片手落ちだろう。あずみはなぜ斬るのか? テロリストとして育てられた少女が、盲目的に信じていた「使命」に疑問を持ち、理不尽な運命を受け容れることを拒否し、しかし最後にはみずからの意思で相手を斬る──その過程を、心境の変化を観客に納得できるように説明するのが脚本家の仕事であるはずだ。あと細かいこと言えば「指令書の文面」はイマドキの高校生でも解かるレベルにしとくべき。 ● 主演の上戸彩は褒められた出来とは言いかねるが「アイドル映画のヒロイン」としては及第点。正面顔がドナルド・ダックそっくりで可愛いし。しかしキミは刀がないとからきし弱いのか!? 格闘技とか習わんかったのか? 「旅芸人の娘」役の岡本綾は、あれのどこが軽業師やねん! 仲間の若手男優陣はあんま区別がつかなかったが、悪役陣は揃って魅力的。 対照的なのが北村一輝と遠藤憲一で、3銃身の回転式火縄銃をあやつる「凄腕の参謀」に扮した北村一輝が、意外や本格的な時代劇俳優の貌を見せるのに対して、エンケンは衣裳こそ時代劇なものの、いつもの三池組やくざそのまんまに若い娘さんに「カッワイイじゃん。名前なんていうの?」とか言ってニタニタと迫るのだった(もっとも、あくまで全国公開作品なので三池崇史や鈴木浩介 作品出演時に較べると毒は控えめ。ちんぽまる出しで暴れたりはしません) 原作の漫画は読んでないが、読んでなくとも元の小山ゆうキャラがありありと想像できる「美貌の白塗り魔剣士」にオダギリジョー。思いっきりのオーバーアクトが楽しい。 「VERSUS」組では、松本実(飛猿)と坂口拓(三兄弟末弟)は違和感なくハマってるが、あずみたちを蔭からサポートする忍者に扮した(北村龍平のお気に入り)榊英雄が相変わらず失笑ものの下手さ。時代劇の基本中の基本である「太い声でのぐっはっは笑い」も出来ないでやんの。恥〜ずかし。 あと、りょう は何しに出てきたの?

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バンパイアハンターD[オリジナル日本語バージョン]

[DVD観賞] 劇場公開版のレビュウに記したとおり、唯一の瑕瑾であった英語台詞が日本語になったので文句なしの5つ星である。口パク/口数もピタリと合って、やはり本作は日本語の台詞に合わせて動画が制作され、劇場公開版は後から英語でアテレコしたようだ。英語版を観てる間から頭の中では永井一郎の声が聞こえていた「Dの左手」の声はやはり永井一郎さんであった:) ● アニヲタの皆さんにとっては当然、馴染みの声優が出演している日本語版のほうがプライオリティが高いわけで、それを敢えて英語版で劇場公開して、あとで日本語版のDVDも買わせようという外道商売である。しかもエイベックスはDVDを、英語版と日本語版で別々に発売してるのだ! 税込5,040円×2。なんちゅう汚い商売をしとるんや(おれは買ってませんよアニヲタじゃないので) ● さて、もちろん、こーゆーあざとい戦略を組み立てたのが本作のプロデューサー、マタ・ヤマモトこと山本又一朗である。川尻善昭の前作「獣兵衛忍風帖」(1993)が「NINJA SCROLL」というタイトルで、海外のANIMEファンと(「アニマトリックス」への参加を川尻に懇願したウォシャウスキー兄弟を筆頭とする)映像クリエイターの間で人気が高いのをみると、すかさず(当時、飛ぶ鳥を落とす勢いだった)エイベックスから金を引っ張って来て、川尻善昭に、最初から海外セールスを前提とした新作を作らせ、「ウィンズ」「あずみ」で喰らいついた日本ヘラルドに劇場配給させて、全国のワーナーマイカルシネマズで独占公開。この「外へ向かう力」の強さは敵ながら天晴れと言うしかない(敵なのか!?)