Chapter 3

 その翌日。ブラドの勤務するバイオ施設にはざわついた空気が漂っていた。
 何かあったのか、抜き打ちの違反調査か、などと同僚達が声をひそめて囁き合っている。
 その視線を追った先に居たのは──はっきりとは見えないが、あれは昨晩の刑事か。
(あの刑事、本当に来たのか…)
 確かに自分が調査の申し入れを薦めたのだが、こうも早急に調査に訪れるとは意外だった。
 昨日話した限りでは、もののついでに聞いたという様子であったし、大体、あの刑事は殺人事件の聞き込みをしていたのではなかったか。事件との関わりはないと言っていたはずだが……。
 案内されて行く刑事が一瞬こちらを振り返り、ブラドと目があったような気がした。
 それまでは、身近なところで凄惨な事件が起ころうとも、それは非日常の世界であり──自分もその被害者になる可能性がないとは云えないにも関わらず──自分には関わりのないことと片づけていた。だが、事件の影が日常にまで入り込み、安定した日常が急速に浸食されていく。
 ただ職場で刑事の姿を見かけたことで、ブラドは言いしれぬ不安を覚えた。

 闇サイキック研究の関与の可能性も考えて、ノイエハウゼン研究所の調査に赴いたミューラーであったが、調査の結果その疑いはないと判断した。元々、設備や認可がそのレベルにある施設であれば既にマークされている。
 ミューラーは、その旨を情報担当の同僚に伝えるべく、ノートパソコンからヴィスバーデンの本部にネットワーク回線を繋いだ。
『やはりその研究所は無関係なんだな。じゃあ、やはり一般住民に紛れているのか』
「それは元々その線が強かったが…観測では確認できないんだろう?」
『ああ、地域一帯のサーチでは反応がない。それほど強力なサイキッカーならサーチにかからないはずはそうそうないんだがな…。よほど能力のコントロールに長けているのか』
「まあ、サーチで居場所が特定できれば、わざわざ出張って行く必要もないさ。それに、研究所に立ち入り調査したのは無駄足でもなかったよ。そちらに疑わしい点がなくても、別の疑わしい者が……それは明日モニターしてみるが」

 ミューラーが取調室のドアを開けると、室内で待たされていた青年は緊張の限界といった体で、弾かれるように折り畳み椅子を蹴って立ち上がった。
「あなたなんですか! 僕を呼んだのは。ぼ、僕に何の疑いが……!」
 ヒステリックな調子で叫んだ青年に、ミューラーはあくまで落ち着いた口調で言う。
「その様子じゃ、見に覚えがないという様にも見えないがな。キルステン君」
 青年はばつが悪そうに黙って椅子に掛け直し、ミューラーも向かい側の席に着いて聴取を開始した。
「路上で聴取した際に、君は事件当夜は遅くまで職場に残っていたと言っていたね。どうして嘘を? 何か隠したいことがあったようだね」
「え…?」
 そう切り出したミューラーを、ブラドは不思議そうに見た。
「昨日、ノイエハウゼン研究所に調査に行ってね。もののついでだったんだが参考までに職員の勤怠記録の方も見せてもらった。しかし、君はあの日定刻以降に残っていた記録はないんだよ」
「そんな…じゃあ…」
 青年は明らかにうろたえている。彼は今はサングラスを外している。取り調べ中は目を隠していては良くないと配慮したのだろうか。ミューラーは初めてブラドの素顔を見た。
 さりげなく、俯いて黙り込むブラドの眼を覗くと──確かにその眼は血の色そのままに紅い。伏せられた目は落ち着きなく震えている。
 ややあって、ぽつりぽつりと喋りだした。
「──こんなことを言うと、僕が犯人じゃないかと疑われるかと思って……」
 犯人とは、あの連続殺人事件のか? ミューラーは無言で先を促す。
「いや…実際僕が犯人なのかもしれない…」
 あの事件はサイキック犯罪だ。しかし、それは一般に知らされていない。現場を見たとしても即座にサイキックによるものだと考えるものではないだろう。それを飛び越えてこの青年は自分がサイキッカーだと言いだす様子でもない。何か殺人を犯す動機を持っているというのか。
「覚えていないんです。その晩のこと」
 小さく、だがはっきりと言った後、慌てたようにブラドは続けた。
「あ、あの、飲んでいてとかじゃありません。でも、その晩だけじゃなくて時々…。昔から度々あるんです! ある時期の記憶だけすっぽり抜けたように記憶が途切れて…。忘れているんじゃないと思います。その前後のことは鮮明なのに、その期間だけ記憶が空白なんです…!」
「君、そんな言い逃れが…」
 思わす口を差し挟んだミューラーだったが、それはブラドをむきにさせただけだった。
「嘘だと思うんなら自白剤でもなんでも使ってみればいいじゃないですか! 僕自身が一番知りたいんだ!」
 そう叫んで頭を抱え込んでしまったブラドを前に、彼が落ち着くのを待つ間、ミューラーはその言葉を吟味した。
(あまりに都合のいい言い様だが……確かに言い逃れと片づけられないか。実際、記憶が部分的に消える精神障害はある。それに、犯人ならば証拠も挙がっていないというのに、そんな自分が犯人だとした上での言い訳のようなことを言うのも妙な話だ)
 そして、ブラドの白い肌、白髪にちらりと目をやる。
(彼の場合──ミュータントとしてのサイキッカーの発生は、身体的な障害を補う形で顕れることが多い。条件的には当てはまるか……)
 ミューラーは背広の内側から携帯端末状の装置を取り出し、目を走らせた。
(全く反応なしか)
 こうなると、これ以上恐慌をきたした青年を留め置いても進展はない。
 悄然と背を丸めて俯く青年をなだめるようにミューラーは言った。
「なにも君が容疑者と言っているんじゃないんだよ。一連の犯行は人間業と思えない凄まじい力でなされたと見られているんだが、凶器や仕掛けなんかが見つかればともかく、今は犯人を証拠づけるものはないんだ。まあ、それにしても君じゃ非力すぎると思うけどね」
「でも…あの…」
「とはいえ、君はアリバイが全くないということで、覚えていないと言うなら仕方はないが、この先々また取り調べを受けるかもしれないということは覚悟しておいてくれよ」
 ブラドはまだ何か言いたげな様子ながら、ええ、それはまあ、と曖昧な返事をして部屋を出ていった。

 聴取の間、ミューラーはサイキックパワーの測定装置を身につけていた。その計測記録は本部の方に送られている。サイキックを使用しているとしていないとに拘わらず、無意識下でも微弱に放出されるサイキックパワーの波長を捉えることが可能なため、レーダーによる計測はもっとも確実な手段であったが、そこまでの精度を求めるには探知範囲は非常に狭い。
 ミューラーは、聴取中のモニタリングを情報担当のパートナーに頼んでいた。
「接見を通じて何か反応は出たのか?」
『いや、終始反応はなかった』
「常に波長の放出を隠し通せるようなサイキッカーはそうはいないぞ。まして、あの不安定な様子でだ。まあ、強い揺さぶりをかけた訳でもないし、演技かもしれないが」
『その実、しれっと隠し果せるタイプと見るか? 日常レベルの波長の放出が抑えられるかどうかというのは、個人のパワーの大きさとはまた別で、資質の問題らしいしな』
「いや、サイキッカーかどうかは別としても怪しすぎる奴だからな…。むしろ他の事で何かあるのかもしれないし、それなら僕の仕事には関係ないことだが…」
 どちらかといえば、事件と犯人のサイキッカー像、それとあの青年のイメージが結びつかないのかもしれない。
 この事件では──刹那的に犯行を重ねているのでなければ、犯人はこの犯行を誇示している。その場合、一般社会に隠れて過ごすようなキャラクターではないだろう。もし隠れるとするなら、殺人を続けるためであろうか。
 ブラドは、覚えていないが自分がやったかもしれないと言った。そして、覚えていないことを苦にしている。
「なあ、クルト、サイキッカーに多重人格が見られる事例は少なくはないんだったな」
『多重人格? おい、話を鵜呑みに…』
 回線を繋いだノートパソコンのモニターに、相手の驚いたような呆れたような顔が映る。
 ミューラーは重ねて言った。
「常套的な偽装かって言うんだろう? それに、そういう症状は多重人格に限ったことじゃない。ともかく、サイキッカーにおいてのデータを回してもらえないか?」
『──分かった。今呼び出している。いわゆる多重人格──解離性同一性障害のケースだけでいいんだな』
 程なくモニターにはグラフと数々のデータが表れてきた。
『研究機関でサンプルの半数近くに見られる精神障害の事例のうち、19.2%とかなりの割合にのぼるな。そのパターンもいくつかに分かれるが──6割は収容後に発生。未成年、特に小児の場合の典型例だ』
 それは、研究機関での処遇がまともな精神では耐えられないということか…。サイキック研究の実態ににある程度の知識はあるミューラーは陰鬱な気分になる。しかし、余計な感傷に浸っていられる訳もなく、話を先に進めた。
「それから、…内在型というのは?」
『思念者──テレパシストだな──に見られる事例で、能力による自我崩壊を防ぐために、安全装置として自分の中に別人格を作り出すのだそうだ。これは…解離性なのかな。ちょっと違う気もするが。──ああ、君が気にしているのは次のケースだろう。国内では例がないが…』
 それは、2003年・英国で報告された事例だった。11歳の少女が養父からの虐待によって人格が分裂、その際に強力なPK(サイコキネシス)が覚醒して養父を即死させた。しかし、その能力は交替人格が表れている時にしか発現せず、彼女には他に4つの人格が認められたがサイキック能力を持った人格のはその1つだけであったという。少女に発生した別人格の名から『5人の中の1人のアリス』と呼ばれる特殊な事例だった。
 別人格のみが能力を備えている──。
『それは元々本人の中に潜在していた能力なのか、別人格に固有のスキルなのかは判明していない。能力のコントロールが効かない子供だったということだしな』
 基本の人格においてはサイキッカーでなくても、交替人格がサイキック能力を持っているということがあるならば。しかも、攻撃的な能力を持つ者が凶悪な人格であったとしたら。
 ブラド・キルステンの言う「記憶の空白」はもう少し詳しく訊いてみるとして、ミューラーはブラドの経歴のデータを揃えてくれるよう頼むと通信を終えた。


Chapter 4

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アクションがないけど地味にサイキックしている…つもりの章。
なんつーか、差別的な場面の描写は、小心者は結構気を使ってしまうのです。
次章のあからさまな差別っていうのよりも、世間一般の人間が
そういうつもりはなしにというのが。