小さな家の前で軍服姿の青年――ヘラルドは立ち尽くしていた。

彼の実家とは比べ物にならない、本当に小さな家。
小さな庭にはあまり手入れされているとは言えない薔薇の茂みが見える。
薔薇の蕾はまだ固い。
少し離れたところに真っ赤な芥子の花が咲いていて、子供がそれを摘んでいるのがちらりと見えた。
ヘラルドは息を吸い込むと、呼び鈴を鳴らした。



「ヘラルド。しばらくね。」
「・・・イレーナ。」
「大きくなって。いくつになったんだっけ?」
「18だ。」
「ふふ。あなたもすっかり立派な軍人ね。」

年老いた家政婦が案内した部屋には、なんの飾り気も無いベッドが一つ。
そこにイレーナは横たわっていた。

「病気だったのか・・・。」
「ええ。私の母と同じ病気みたい。・・・ずっとくよくよ暮らしていたら、病気になっちゃった。」

力なく彼女は微笑んだ。

「横になったままでごめんなさい。眩暈がするの。」
「いいよ。無理しないで。」

随分やつれた。
美しかった黒髪も艶が無い。
唇がひび割れて、何より目の周りの隈がひどい。
彼女の病が重いのは一目瞭然だった。

「窓を開けてくれる?」

ヘラルドは頷くと窓を大きく開け放した。
窓の向こうには草原と海が広がっている。
昔、イレーナとヘラルド、そしてフアン・シエロが語らったあの丘と海だ。

「海風は体に毒じゃないかな?」
「大丈夫。今日は気分がいいから。」
「―――医者にはかかっている?」

「もう無駄だから。」

彼女はそう言って首を振った。

「―――伯父さんからは?」
「意にそぐわない結婚をした妹が子連れで帰ってきたのよ。仕方が無いわ。」
「シエロ大佐は、何も?」
「連絡を取ってないの。」

イレーナはそっとヘラルドの頬に指を伸ばした。
痩せて節くれだった指先。
昔とは違うかさついた感触。

「ありがとう、私のために。私の境遇を心配してくれるのはあなただけだわ。―――今ではね。」

ヘラルドは口惜しさに唇をかみしめる。
いつもそうだった。逆に彼女に慰められる。
自分はいつも、何もできない・・・。

「ヘラルド・・・。フアンにはよく会うの?」

彼は首を振った。

「俺は彼に避けられてるみたいで、顔を合わせることもないよ。下っ端が大佐に会うことも無いからね。」

彼に会ったら、人目もはばからず罵倒してしまうことは自分でもわかっていた。
それを彼が受け入れてしまうことも―――。

「・・・だからこの家を探すのは大変だったよ。俺はしばらく遠方に配置されてたし。」
「兄さまに聞けばわかったでしょうに。」
「伯父さんにはもうずっと会っていない。」
「姉さまには?」
「・・・・・・。」
「帰ってないの?」
「二度と会わないって決めたから。」
「・・・そう。」

イレーナはそれ以上そのことについて聞かなかった。

「私の娘に会った?」
「いいや。」
「でも、話は知っているって顔ね。また眉間に皺がよってるわよ。」
「・・・・。」
「いいの。離婚した訳をあなたが疑問に思わないわけ無いものね。」
「―――あの話は、本当なのか?」
「・・・・ただ、娘の髪の色が私たちと違っていたというだけ。」
「じゃあ、どうして・・・。」
「信じてくれなかったの。」

イレーナは何かを思い出すように、目を瞑った。

「結婚してから、彼はいつも怖いって言ってた。戦えなくなることが怖い、感情を持って戦いに行くことが怖いって。
初めは愛されてるんだって思って嬉しかったけど・・・だんだんつらくなった。
私の存在がつらいっていうことだものね。」

「イレーナ・・・。」

違うよ、イレーナ。彼は君を愛してた。愛しすぎたんだ。
夢に見るだけだった幸せが手に入った事で、失うことが辛かったんだ。

そう言いたかったが、ヘラルドは声が出なかった。


「けれど、子供ができて・・・彼が帰ってきたと同時に生まれて。
でも・・・産まれた娘を見た彼の表情・・・。あんなにつらそうな顔、見たことなかった。
彼は自分を責め続けた。娘を見るたびつらそうだった。
私はフアンを裏切るようなことしないって言い続けたけど―――彼は私の事を夢の中のことだと思い始めたみたい。」

イレーナの目の端から涙が一筋流れ落ちた。

「別れましょうかって言った時も、彼は何も言わなかった。
だから黙って出てきたの。
つらいことを半分でもいいから消してあげたかったけど、私と娘が彼のつらいことの原因になってしまったから。
探さないでって手紙を置いてきたから・・・探してないんでしょうね、私たちのこと・・・。」


イレーナは瞼を開けると、どこか遠くを見つめた。

「何も無かったわ、ほんとに。兄さまに突然王宮に連れて行かれたけれど、その後、王と話をしただけよ。
私のような娘が欲しかったって言われたわ。
でも彼が帰ってくる前に、お腹に子供がいることがわかって・・・生まれた後も王から次々にお祝いの品が届いて。
フアンだけが悪いんじゃない。
私でさえ、どうして王がそんなことをするのかわからないもの―――。」

「・・・・・・。」

「でもね、ヘラルド。もし彼の子供じゃなかったら、どうして私が娘を愛せると思う?
こんなにあの子を愛しているのは、彼の子供だからだわ。」


どうして・・・。

彼女はこんなにも彼を愛してるのに―――。
そう、彼も彼女を愛しているのに。
どうして。



「かあさま。」

小さく開いた扉の影から、子供の顔が覗いた。

「なあに、ロサ。」

ちょこちょこと小さな女の子が歩いてくる。
家の者にあまり構われていないのだろう。白い服がところどころ薄汚れている。

けれど何よりも、真っ赤な髪がヘラルドの目を射った。
燃えるような赤毛。
彼の脳裏に昔イレーナと踊った王子の姿が甦る。イレーナを飲み込むように踊っていた赤い炎が・・・。

「おみまい。」
「まあ。」

小さな手から小さな花束を手渡されて、イレーナは微笑んだ。
娘の髪と同じ色をした真っ赤な芥子の花。

「とってもきれい・・・。庭で摘んだの?」
「そう。」
「春が来たって教えてくれたのね。ありがとう、ロサ。大好きよ。」

小さな娘は母親に髪を撫でられると一瞬目を見開き、恥ずかしそうに下を向いた。

「ロサ、食事はちゃんとしている?」
「うん・・・。」
「お風呂は?」
「・・・・。」
「じゃあメイドに言うのよ。母さまからお風呂に入って着替えをするようにって言われたから準備してって。
耳の後ろもきちんと洗ってちょうだいって。わかった?」
「はい。」

子供は素直に頷くと、「また来ます。」と言って部屋を出て行った。



「ヘラルド。」

「何?」
「似ていると思わない?」

少しの間を置いてヘラルドは大きく頷いた。
そうだね。
容姿ではなく仕草が。
一瞬目を見開いて笑うところ、困った時には黙ってしまうところ、そしてあなたを見つめる目が少し不安げなところ・・・。

「そっくりだ。」
「ね?」
「・・・彼は一度も子供を見に来ないのか?」
「ええ。私の居場所も知らないと思うわ。だって私は夢の世界の住民なんですもの。」

彼だって会えば、きっとわかる筈なのにね。
イレーナは小さな声で呟いた。

「俺が連れてくるよ。」
「ヘラルド・・・。」
「必ず。」

イレーナは目を伏せた。
睫毛が顔に深い影を作る。

「最後にあなたに会えて良かったわ、ヘラルド。」

「イレーナ、最後だなんて・・・。」
「わかるの。もう私には時間が無いことが。ただね、気がかりは娘のこと・・・。」

彼女は袖机の上に乗った小箱を指差した。

「ヘラルド、私が死んだらこれをフアンに渡して頂戴。」


「いやだ。」
「ヘラルド。」
「自分で渡すんだ。イレーナ。」

イレーナは首を振った。

「お願い。このままじゃ、あの子の後見人は兄さまになってしまうわ。」

潤んだ目がヘラルドを見つめた。

「・・・俺は、彼が憎いよ。」

あなたをこんな目に遭わせて。
誰よりも幸せになって欲しかった、俺のイレーナを・・・。

「駄目よ、ヘラルド。―――誰も憎んじゃ駄目。」

ね?とイレーナはヘラルドの手を握った。

違う。
俺は―――俺が憎いんだ。
いつもいつも何もできない、見ているだけの自分。
いつも思うことを素直に言えない―――英雄と同じ名を持つ、ちっぽけな、自分が・・・。

「ただほんの少しの間違いが大きくなってしまっただけなの。でも・・・。」

彼女は、肩をすくめた。

「彼のたった一つの罪は、私を信じてくれなかったことだわね。」

それは、最初で最後のイレーナの彼に対する恨み言だった。

「最近、夢を見るの。あなたが昔やったいたずらとか彼と暮らしている間の事とか、とにかく楽しい夢ばかり。
そんな夢を見ると子供の頃はただ悲しいばかりだったけれど、今は不安になるの。
きっと愛する人が昔よりも増えたからね。」

「昔?」

「昔はあなただけだったもの。」


ヘラルドは重いもので頭を殴られたような衝撃を覚えた。

「・・・俺はあなたに何もしてあげられなかったのに。」

「そんなことないわ。
あなたがいるから私は一人で泣くこともなくなったし、喜びも分かち合えた。
あなたは、私のこの世で唯一の家族だった。」
「イレーナ・・・。」

俯いたヘラルドの髪をイレーナの手が撫でた。

「あと2年、待ってくれよ。イレーナ。あと2年経てば、俺は成人する。家督も継げる。
誰にも文句を言われずにイレーナやロサを迎えられるよ。」

「ありがとう、ヘラルド。でも、もう―――。」

「あと2年だよ・・・。たった、2年だ。」

「泣かないで、ヘラルド。私は大丈夫よ。だってまだ嬉しい事を嬉しいって思えるんだもの。
ね、ヘラルド。私、今すごく幸せな気分なのよ・・・。」


どうして?

どうして世界一幸せになって欲しかった人がこんな目に?
どうして彼はここにいない?
どうして俺は幸せにしてあげられない?
どうして俺はこんなに無力なんだ?

どうして?どうして?どうして!?―――
どうして!?



それから数週間後、冬に戻ったような寒い春の日の朝にイレーナは息を引き取った。


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