「ほら、あそこですよ。」


降りる人のほとんどいない無人の駅から、やはり誰もいない丘を上ると草原の向こうにきらめく海が見えた。
海からの風が草原を通り抜ける。

「ああ・・・本当にいいところだな。」
「でしょう?」

ヘラルドは木陰に敷布を広げて、バスケットから皿やグラスを取り出した。
フアンは少年が開けることのできなかったワインのコルクを、いとも簡単にぽん、と開ける。
その横でイレーナはパンやチーズ、サラミを切り分け、それぞれの皿に載せていく。

楽しげに笑いながら一通りの作業を終えると三人はグラスを傾け、しばらく黙って海を見つめた。


「こんなに穏やかな気分は久しぶりだ。」

遠くに聞こえる波の音の中、シエロ少佐がぽつりと呟いた。

「今回の戦争、長かったですしね。」
「・・・・・・。」

それには答えずに彼は海を見つめていた。
風が彼の前髪を撫でている。

「お休みの日は、いつもどうしていらっしゃるんですか?」

一杯のワインで少し饒舌になったのか、イレーナが聞いた。

「休みらしい休みは最近なかったのでね。一日休めたとしても、兵舎で寝てるか仲間と飲むかだ。」
「――帰省はされないの?」
「イレーナ。」

ヘラルドは慌てて目配せした。
「いいんだ」と言って、フアンは少年の肩を軽く押さえる。

「俺は孤児なんですよ。」
「あ・・・。」
「神殿の裏手に孤児院があるでしょう。俺はあそこの出なんです。」

「―――ごめんなさい。」
「気にしないで。」

彼は、恐縮するイレーナを振り返った。
イレーナよりも彼のほうが不安げな表情をしている。

「何の後ろ盾も無かったから、俺はこうなるしかなかった。がむしゃらに戦い続けて、気が付いたらこうなっていた。」
「でも今や、シエロ少佐は素晴らしい軍人ですよね。」

ヘラルドが彼に微笑んだ。

「素晴らしい、か。」
「ええ!」

男は空を見上げた。

「・・・そうだな。俺は立派な人殺しだ。」

「え?」

「狩人が獣を狩る、漁師が魚を捕る。それと同じように・・・人殺しが俺の仕事だ。」

「そんなこと・・・。」

イレーナが搾り出すような声で呟いた。

「思い出しましたよ、初めにあなたが言ったこと。
ディオス中佐が人間として人の命を奪うことを止めたって。その通りです。俺は人の命を奪い続ける。生きていく限り。」

「人殺しなんて言わないでください。シエロ少佐は英雄ですよ!」

ヘラルドが叫んだ。

「いいんだ。俺は人を殺すことで生きている。一面識も無い人間たちを。」
「違う、あなたは国を守ってるんだ!」
「国・・・ね。」

フアン・シエロは瞼を閉じた。

「いっその事、全ての人間、全ての国を憎めたら楽なんだろうが・・・。
戦いを続けていくうちに、俺は何も感じられなくなってしまった。」

「何も、感じられない・・・?」

イレーナの黒い瞳がひどく驚いたように大きく見開かれている。

「つらいこと、悲しいことも?」

男は眼を開けると彼女の瞳をまっすぐに見返した。

「ええ。」

二人の黒い瞳の中にお互いの姿が映し出される。
同じだ。二人は、同じ心を持っている。

ヘラルドはそう感じていた。

「では楽しいことや嬉しいことは?」
「そういったことは全て夢だと思うことにしている。」
「夢・・・?」

「夢の中だと思えばどんな役割でも受け入れられる。
何も作り出さず、何も感じず、ただ相手の一生を終わりにするか、自分の一生を終わらせるかといった役割の中でも。」

その言葉を聞くと、イレーナの瞳の中のフアン・シエロがゆがんだ。
彼女の頬をあふれ出した涙が伝う。

「・・・ごめんなさい。」

「どうして――あなたが謝るんだ?」

それに泣くことはない、と少佐は慌てる。

「私は何も知らないのに、あなたにあんな事―――。」

イレーナは顔を両手で覆うと、しゃくり上げた。

「いいんだ。戦場を知らないのはあなただけじゃない。それにあなたには関係のないことだ。」

「関係、あります。」
「・・・・・・?」

彼女は顔を上げ、流れる涙を拭うと少佐の顔を見上げた。

「好きなんです、あなたが。」

フアン・シエロはぎくりと体を揺らした。

「だから・・・だから、つらいことをなくしてあげたいのに。私は半分も持っていってあげられない―――。」

そう言って再び顔を覆うイレーナの肩に、シエロ少佐の手がためらいがちに伸びる―――が、
彼は思いとどまり困った顔で少年を振り返った。

しかし、そこに少年の姿は無かった。

「シエロ少佐ー!僕は先に帰るんで、イレーナをよろしく!」

すでに丘を降りたところから、二人に向かって手を振るヘラルドの声が響いた。



その後、何があったのかヘラルドは知らない。

わかっているのは二人が急速に近づいていったことと、イレーナがとても幸せそうになったこと。
そして半年後、伯爵家との結婚話が決まりかけたイレーナが少佐の許へ飛び込んでいったことだ。

「イレーナを幸せにしてくださいね。絶対。」

神殿で行われた結婚式に、イレーナ側の親族としてただ一人出席したヘラルドはフアンにそう告げた。

「―――努力する。」

子供相手だというのに大真面目にフアンは頷き返した。
その横でイレーナは、この世のものとは思えないほど美しかった。

これでイレーナは幸せになれる、絶対に。
寂しさを感じる反面、大きな喜びに包まれてヘラルドは夢心地だった。



だから数年後、15歳になったヘラルドにフアンとイレーナが離婚したという噂が届いた時、彼は自分の耳を疑った。


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