〈チッソ水俣病関西訴訟を応援するキャンペーン〉


〈チッソ水俣病関西訴訟に関係のある新刊書の紹介です。〉

新・水俣まんだら チッソ水俣病関西訴訟の患者たち」 木野 茂・山中 由紀 共著  緑風出版刊

(カバーには以下のように記されています。)
 水俣病のために貧しくとも豊かな故郷を離れざるをえなかった人たちが、第二の人生を目指した
途端に水俣病を発病する。見知らぬ地で病気と差別に耐えた末に、せめて一矢をと裁判に立ち上が
ったのが、初の県外訴訟となったチッソ水俣病関西訴訟である。未認定のまま放置された1万人余
の患者たちがせめて命あるうちにと、政府解決案による苦渋の和解に応じるなか、わずか58人で
裁判を続ける道を選んだ。本書は、チッソ水俣病関西訴訟の患者たちの人生と闘いの記録である。


 以下は、熊本日日新聞(2002年2月10日・日曜日)掲載の書評です。

  松下竜一が読む     和解せず裁判続けた意思の背景

    本書によって知りたいことが一つあった。1996年5月、村山内閣による水俣病
   未認定患者救済策を受け入れて、全国の未認定患者団体が国・熊本県と和解し
   訴訟を取り下げた中で、なぜ関西の患者だけが和解を蹴(け)って訴訟を続けた
   のかという疑問である。
    <1万人余の患者たちがせめて命あるうちにと政府解決案による和解に応じる
   中、わずか58人(うち21人はすでに死亡)で裁判を続ける道を選んだ>(本書)
   のは、なぜなのかを知りたかったのだ。1万人に同調せずにあえて苦難の道を選
   んだ少数者の決意は、どこに発しているのか。
    本書にはその点の説明は1ヵ所しかない。巻末に添えられた「解説」の中で2つ
   の理由があげられている。第一は<これ程に明確であると思われる国と熊本県の
   法的責任を不問に付したままで幕引きをする>のでは、これまでの訴訟の目的が
   達成されないと考えたこと。第2は<この……政治決着は、原告らにすれば「あな
   たは水俣病に罹患してはいないが水俣病ではないかと心配していることは解るの
   で260万円をさしあげましょう」という申し出を受け入れるに等しいものであった。
   ……原告らは、このような屈辱的申し出を受け入れようもなかったのである>
    その通りだろうとは思うが、これだけではなぜ関西だけがという説明にはなってい
   ないのではないか。おそらく全国1万余の未認定患者の全員が右の二つの思いは
   抱いたはずで、それでも涙を呑(の)んで和解を受け入れたのであり、そうしなかっ
   た関西訴訟にはそれ以上の理由が複合していたと察するしかないからである。
    本書は初代原告団長をつとめた岩本夏義さんと、それを引き継いだ川上敏行さん
   の聞き書きを中心にまとめられているが、異郷の都会にあって水俣病(病そのもの
   と差別と)に苦しむ同郷者たちの結束の固さが、関西原告団には際立っていたよう
   に見える。
    たとえば、亡くなる直前に岩本さんが川上さんに託したという紙切れに記された言葉
   が紹介されている。
    秋風と ともに去りぬ。
    川上 すまん。
    川上 たのむ たのむ。
    私が知りたいと思った冒頭の疑問に、この簡潔にして万斛(ばんこく)の思いをこめ
   た「遺書」が答えてくれているような気がする。
    関西訴訟を除く全国の未認定患者が訴訟を取り下げて和解に応じたのは、岩本さん
   が右の遺書を託して逝った1年半後のことであり、あとを引き継いだ川上さんはその
   遺言を裏切れるものではなかったろう。
    <ことばとしてはわずかでしたけども、あぁ、岩本はこの裁判に命をかけとったんだな
   というのをまざまざと思い浮かべるような遺言でしたもんで、私もそれを引き継いでおる
   わけです>という川上さんの言葉が、私の疑問へのストレートな答えとして聞こえる。
    「川上 すまん」の言葉は、重く苦しい任務を残して逝くことを詫(わ)びているのだろう
   し、一審判決で敗けたことをも詫びているのだろう。さらにその背景には、全国で初めて
   熊本県外での訴訟に踏み切ったという責任感もわだかまっているようである。そういう
   強い意志(遺志)が関西訴訟を引っ張ったのであり、少数の原告団だけに全員がまとまり
   やすかったことも独自な道を選ばせる一因となったのだろう。
    2001年4月27日、大阪高裁は国・熊本県の責任を初めて認める判決を出したが、
   非情にも両者は上告をした。
    聞き書きは哀切な望郷の言葉で終わっている。<わたしら、もう水俣市に生まれてきた
   のが一生の不覚やとしか思えんわ。……そら、すごい懐かしいという気持ちもあるけど、
   湯の口にしろ、水俣にしろ、わたしらにとっては、もうすごくきれいで、天国に一番近い
   ようなイメージがあるんです。あの島へ渡ってるとこ、夢に見ますもん。それも、疲れたら
   必ず見るんです。丸島からまっすぐ出て、御所浦島との間を通って、小学校のある獅子島
   の御所浦までグルッと回るんですけど……>

   ◇まつした・りゅういち(作家)
    1937年、大分県中津市生まれ。82年、「ルイズ―父に貰いし名は」で第4回
    講談社ノンフィクション賞受賞。全集「松下竜一 その仕事」(全30巻)が刊行中。




(すみません、以下の催しはすべて終了しています。)


 がんばれ! チッソ水俣病関西訴訟   控訴審勝利に向けて関西連続集会




水俣病事件は公式発見から四十四年を迎えました。

 かつて苦境の中から立ち上がった患者たちによる厳しい闘いによって事件は闇から浮かび上がり、原
因企業チッソの
責任は歴史にしっかりと刻まれることになりました。この闘いを通じて水俣は「公害の
原点」として多くの人々に記憶され
るものとなりました。

 しかしその後も行政は、自らの責任は一切不問のままに、認定制度の悪用によって多くの患者を切り
棄ててきました。近年まで訴訟をはじめ様々な場で補償を求める闘いが継続され
てきましたが、九五年、
政府による「水俣病最終解決策」はこれらの人々を俣病とは認め
ないままに和解による決着を図りまし
た。そして事件の幕引きと同時に行政の口からも「水
俣病の教訓」という言葉がまことしやかに語られ
るようになりました。

 責任の所在を曖昧にした上に生きた教訓を積み上げることなど不可能であることは、今春の雪印事件
における対応を見ても明らかです。私たちは次世紀を迎えるにあたって、改めて
水俣病事件に何を学ぶ
べきかを見つめ直すところに立っています。


 この夏、チッソ水俣病関西訴訟の控訴審が結審しました。提訴から十八年を迎えたこの闘いは、あく
までも行政責任を明らかにし、水俣病患者としての認定を勝ち取るために、和解
を拒否し継続されまし
た。


 来春の判決を控え、勝利判決を求めて開西各地で集会を持ちたいと思います。闘っておられる患者の
みなさんを直接応援できる機会は今回が最後となるかもしれません。


 多くのみなさんに、水俣と出会い、想いを紡ぎ、また繋ぎ直していただく機会としてご参加いただけ
ましたら幸いです。

  「チッソ水俣病関西訴訟」とは
  新聞記事(朝日 11月4日)  新聞記事(朝日 11月23日)