(「チッソ水俣病関西訴訟を支える会」作成)
水俣病事件とチッソ水俣病関西訴訟
水俣病の発生
水俣病は、チッソ水俣工場が垂れ流した排水中に含まれる有機水銀(メチル水銀)が、水俣湾から不知火海に広がり、
食物連鎖によって濃縮された魚介類を食べたことによるメチル水銀中毒症です。
1956年5月1日に水俣保健所に患者発生の報告があり、この日が「水俣病公式確認の日」とされています。既に1
950年ごろには、魚介類や猫・豚や鳥などにも異変が起こつていました。
当初、原因がわからない中、おそろしい伝染病だとのうわさが広がって、「奇病」、「よいよい病」と呼ばれ、親戚付
き合いや近所付き合いも絶たれ、患者やその家族に対するすさまじいばかりの差別が起こるようになったのです。
原因究明と、人々の立ち上がり
伊藤蓮雄水俣保健所長が行った実験で、水俣湾の魚を食べさせた猫が発病したり、熊本大学の調査・研究によって、1
957年はじめころには、「水俣湾の魚が原因である」とわかってきましたが、国や熊本県は「水俣湾の魚をとったり、
売ってはいけない」という通達や指導は一切しませんでした。
1959年11月には厚生省が「水俣病の原因はある種の有機水銀である」と発表しましたが、その汚染源がチッソ水
俣工場しかないことが判っていたにもかかわらず、工場排水を停止させて汚染を止めることをしませんでした。
漁師や患者の家族たちは、工場に押しかけて操業を止めるように要求しましたが受け入れられませんでした。
政府が水俣病の原因がチッソの工場であると発表したのは公式確認から12年後の1968年でした。
それもチッソ水俣工場が、有機水銀を出していたアセトアルデヒドの生産を止めた後でした。1965年には新潟でも昭
和電工の排水による水俣病が明らかになり、裁判(1967年)が起こされました。水俣では、1969年に患者や家族
も裁判に訴えてチッソの責任を問う闘いに立ち上がりました。その裁判は水俣病第一次訴訟と呼ばれ、1973年3月に
チッソの加害責任と損害賠償を認める判決が出ました。
水俣病をはじめ多くの「公害」では、国が認定審査会を設置し、認定基準を定めています。自分の病気が水俣病である
と思っても、熊本県や鹿児島県に「認定申請」をしなければ、検査を受けられないし、認定されなければ救済も受けられ
ません。1973年の判決をきっかけとして、それまでためらっていた人々が次々と申請するようになりました。ようや
く、隠されていた被害が公になり始めたのです。
国は、1971年に水俣病と認める基準を「汚染を受けた地域に住んでいて、感覚障害や視野狭窄などの症状のいずれ
かがあること」としていましたが、申請患者が急増すると、1977年には新たに「水俣病判断条件」を作り、認定基準
を厳しくしたのです。その結果、多くの申請患者は「水俣病でない」とされました。
全国に移り住んだ患者―関西患者の会からチッソ水俣病関西訴訟提訴へ
水俣病の被害が広がった不知火海沿岸の熊本・鹿児島県からは、漁民など生活が成り立たなくなった多くの人たちが、
仕事を求めてふるさとを離れました。
県外に移り住んだ患者たちは、水俣出身というだけで就職や結婚で差別されることを恐れ、また病院では診察を拒否さ
れることがあったので、長い間水俣病のことはもちろん水俣出身であることも隠し続けてきました。
関西に移り住んだ患者たちは、1975年に「関西水俣病患者の会」をつくり、1982年10月には国・熊本県・チ
ッソの加害責任を明らかにし、損害賠償を求める「チッソ水俣病関西訴訟」を起こしました。
また、関西の患者たちは裁判を闘う一方で、「二度と水俣病のような公害が引き起こされないように、自分たちの被害
体験を次の世代の人たちに伝えていこう」と、1984年から関西各地の小学校などに出かけて、子どもたちに語りかけ
る活動をしてきました。この「交流学習会」は、これまでに述べ160校で行われました。
チッソ水俣病関西訴松とは
この裁判の目的は、
1)水俣病に対する国・熊本県の加害責任を認めさせること
2)原告全員を水俣病と認めさせること
3)その上で一人当たり3000万円の損害賠償金を国・熊本県・チッソに支払わせることでした。
しかしながら、1994年7月に出された一審判決は、@水俣病に対する国・熊本県の責任は認めず、A原告59名の
内42名については、水俣病の可能性を15%から40%として、300万円から800万円の損害賠償をチッソに支払
いを命じる。B17名は棄却(うち12名については裁判をするのが遅すぎたという理由=除斥期間の適用=で棄却)と
いう内容でした。
控訴審では、新たな証拠提出や証人尋問も行い、丸6年を費やして立証を行ってきました(関西訴訟控訴審で明らかに
なったことについては別紙の=関西訴訟で明らかになったこと=参照)。
なお、1995年に出された「水俣病ではないが、感覚障害のあるものには一時金としてチッソが260万円を支払う
」という政府解決策を多くの患者団体が止むに止まれず受け入れ、裁判を取り下げました。
しかし、関西訴訟原告は「政府解決策では水俣病にたいする国・熊本県の責任について触れておらず、患者を水俣病と
認めていないので受け入れられない」とこれを拒否し、裁判を継続してきました。 この訴訟は今年5月23日に結審し
、裁判長は「来春に判決」と明言しました。18年の裁判を闘ってきた原告患者(58名中20名が他界)は、判決まで
毎月の会合を続けていっています。平均年齢もほぽ70才となり、1日でも早い判決を望む気持ちは日々強まっています
が、亡くなった原告の墓前に報告できる判決を勝ち取るという意気込みは衰えていません。
「この裁判は、我々原告だけのものではない.全患者を代表して闘っている」「自分たちが項張ることで、これまで支
援してくれた人への恩返しになる」「一人になっても闘いつづける」これら関西訴訟原告の決意はゆるぎないものです。
参考資料:関西訴訟控訴審で明らかになったこと
国・熊本県の責任は明白
一審判決は法律判断の前提となる事実認定も、殆ど国・熊本県の主張の引き写しで、「当時は水俣病の原因物質が不明
であり、個々の魚介類の有毒性を判断できなかったために食品衛生法の要件に該当しなかった」「水俣病の原因物質はま
だ不明で、水質保全法と工場排水規制法による規制はできなかった」と国・県の責任を認めませんでした。
これに対して原告側はさらに証拠を積み上げ、「昭和31年秋、遅くとも昭和32年春の段階で、水俣病は、水俣湾産
の魚介類を摂食することによって起るものであり、このことを熊本県は明確に認識して」おり、「食品衛生法を適用して
水俣湾産の魚介類の販売禁止をすべき状態であったこと」そして「少なくとも昭和34、5年には、水俣病の原因がチッ
ソ工場の排水であるということがはっきりわかっていた」ので「水質保全法・工場排水規制法を適用してチッソ水俣工場
の排水停止をすべきであった」ことを、より明白にすることができました。
除斥期間適用は言語道断
一審判決は、「民法の定める『除斥期間』は被害を受けたときから20年を超えると訴える権利そのものが消滅する。
本件の場合、症状は汚染地域を離れてから4年経つと現れるので、水俣病被害が現れてから20年間、つまり故郷を離れ
て24年間が損害賠償請求訴訟を起こせる期間である。12名は離郷してから裁判を起こすまで24年以上経っているの
で、提訴自体を認めない」としました。この「除斥期間」は、これまでの水俣病訴訟では一切適用されておらず、水俣病
に対する国・県の責任を否認した東京訴訟判決ですらわざわざ「被告国・県が『除斥期間』の適用を求めることは権利の
濫用である」と否定したものでした。
遠く故郷を離れた異郷の地で、水俣病事件の事実(水俣病の加害企業がチッソであることも含め)さえ伝わってこない
中で、自分の病を水俣病によるものと考え、なおかつチッソを含め加害者である国・熊本県を相手に裁判を起こすのには
相当の時間を必要としました。むしろ裁判を起こすのが遅くなったことは患者の責任ではなく、救済を放置してきた国・
県にあるのです。
その意味で、原告側は法律論的にも「除斥期間」を適用することは誤りであるが、仮に「除斥期間」適用を言うのであ
れば、その起算は国が水俣病の原因企業をチッソと認めた1968年(昭和43年)9月以降と主張しました。
国の水俣病認定基準は誤っている
一審判決は「水俣病と認めるためには感覚障害と視野狭窄などの組み合わせが必要であり、国の定めた『水俣病判断条
件(1977年)』は妥当である」とし、「原告らは水俣病ではない」としました。
控訴審で原告側は、「国の判断条件は裏付けとなるデーターもなく、医学的に誤っており」、「四肢末端優位の感覚障
害(手足のしびれ)があれば水俣病と認められる」ことを科学的に立証してきました。
それは「メチル水銀汚染を受けた地域の住民とコントロール(汚染を受けていない地域の住民)との健康調査結果を比
較し統計学的に計算すると、四肢末端優位の感覚障害があるだけで水俣病と認められること」そして「その感覚障害は、
四肢末端の感覚を受け取り認識する大脳皮質が傷害されているためである」ことです。
この疫学(えきがく)を用いた原因と症状の因果関係―本件の場合は症状とメチル水銀汚染を受けたことの関係―を証
明する方法は世界的に認められているものです。
日本精神神経学会も、国の水俣病判断条件について「科学的に誤りである。高度の有機水銀の曝露を受けた者は四肢末
端優位の感覚障害だけで水俣病と言える」と発表しました(1998年9月19日)。
一方、阪南中央病院の三浦洋院長は、原告らとコントロール(同病院の入通院患者や医療従事者)の検診結果をもとに
、「原告個々人が水俣病であることが科学的に証明された」と証言しました。