<14>306号室 ――9月10日PM4:00
零太郎は、一人掛けのソファに腰掛けていた。テーブルを挟んで向かい側には車椅子に乗った美津島が、その後ろには有藤が立っている。サチコは少し離れたところで、ドレッサーのスツールに腰を下ろしていた。
「一体、何のお話でしょうか。警察の方が調べたところ、実際の事件もあの模範解答を参考にする形で決着が付きそうでしてね。もっとも、被疑者死亡ということになるようですが」
美津島が憂鬱そうな顔でため息を吐く。
「知らなかったこととはいえ、僕があの作品を選ばなければこんな事件は起こらなかったのではと思うと、胸が痛みますよ」
有藤が神妙な面持ちで付け加えた。
「そのことなのですが」
零太郎が有藤に話しかける。
「あの作品を送ってきたのは誰なのか、わかりましたか?」
「さあ、はっきりとは……。ただ、送られてきた封筒に押されていた消印は、折原彰さんがいつも利用されている郵便局のものだったそうです。それに、イニシャルも『S.O』、折原彰ですからね。彼自身がストーリーを作り、それに基づいて犯行を進めていったのではないでしょうか」
有藤が答える。
「そうですか」
零太郎は頷くと、続けた。
「実は、ひとつ気になる話を聞きましてね。昨日、このホテルの前支配人をロビーで見かけたという従業員がいたんです。でも、本人であるはずがない。彼は2ヶ月も前から植物状態になっています。となると、彼のフリをした誰か、ということになりますよね」
「まあ、そういうことでしょうね。ですが、それが何か?」
美津島は、話の行方がわからないといった風に首を傾げる。
「前の支配人には昔から愛している女性がいました。彼女の名前は中島頼子。そして、その頼子さんには2人の子供がいた。上は女の子、下は男の子だったそうです。事情があって認知はされなかったが、前支配人は妻の目を盗んでは頼子さんの元に通い、子供達の面倒も実によく見ていたそうです。
しかし、彼女との関係が結婚後も続いていることを知った妻が、頼子さんに色々とひどい仕打ちをしたようです。彼女はついにひどいノイローゼになり、自殺してしまった。残された子供達を守るため、前支配人は伝を頼り、それぞれ離れた場所へ里子に出したそうです。姉の方は福井の自動車修理工場の工場主の家庭に、弟の方は北海道の教師の家庭に。当時、姉は12歳、弟は7歳。現在ではそれぞれ、33歳と28歳になっています」
零太郎は静かに続けた。
「今、このホテルが中心となって推進している地域活性化プロジェクトですが、前支配人が元気だった頃は彼の反対に遭い、頓挫しかかっていたそうです。しかし、彼が今のような状態になってから、一気に前進し始めた。彼を撥ねたのは盗難車。犯人もまだ捕まっていない。このことをどう考えられますか?」
「誰かが、プロジェクトを実現させるために、意図的に前支配人を轢いたということですか?」
美津島の言葉に、零太郎が頷く。
「その通りです。今回の事件の発端はそこにあったんですよ。これは、前支配人の仇を討つべく計画された殺人だったのです」
「ちょっと待ってください」
有藤が口を挟む。
「つまり、その姉弟が父親の仇を討ったとでもおっしゃりたいんですか? でも、前支配人というのは、愛人を見殺しにして、子供達も遠くへ追いやったような人物なんでしょう? どうしてそんな男のために、わざわざ手を汚す必要があるんですか」
「前支配人の友人の話によると、彼はこの子供達を本当に大切に思っていたそうですよ。居場所が奥さんにバレて頼子さんの二の舞にならないよう細心の注意を払いつつ、出来る限りの援助をしていたとか」
「ほう。そこまで事情がわかっているということは、姉と弟のお名前もつかんでいらっしゃるということでしょうな」
美津島の言葉に、零太郎は首を横に振った。
「いえ、それが、前支配人は名前だけは誰にも言わなかったそうなんです。ただ、姉の方が『お父さんのそばにいたいから』と言って、ハウスキーパーになったという話を嬉しそうにしていたみたいで」
「『そばにいたい』ということは、この近くのホテルに勤務しているのでしょうかねえ」
美津島が首をひねる。
「ええ。私もそう思いまして、この近辺のホテルに勤務しているハウスキーパーを調べてもらったんですよ。すると、33歳の女性はただ1人しかいませんでした。――このホテルに勤めている如月真美さんです」
沈黙が流れる。
「そう言えば、先ほど誰かが前支配人の格好をしていたと言われましたね。まさかその如月さんが?」
美津島が口を開いた。
「いえ、女性では無理があります。おそらく弟の方でしょう」
「でも、どうしてわざわざ前支配人の格好なんてする必要があったというのですか?」
美津島に不思議そうに尋ねられ、零太郎は答えた。
「今井達を老人ホームへ向かわせるためですよ。いや、それだけが目的ならば、問題編のように危篤だという電話を入れればいいだけの話ですね。多分、恐れさせる目的もあったのではないでしょうか」
「でも、それなら老人ホームへ電話を入れて、前支配人がいるかどうかを確認すればいいだけの話ではありませんか?」
有藤が言う。
「どうやら、前支配人は実は快復しているにもかかわらず、老人ホームの職員と口裏を合わせてそのことを黙っているのではという噂が流れていたそうですよ。おそらく、如月さんが流されたものだと思いますが。そんな状況で、老人ホームに電話を入れると思いますか? 本人達の目で確認したいと思うのが普通でしょう」
零太郎は続ける。
「調べてもらったところ、9日、如月さんは午後8時に出勤している。老人ホームで待ち受けていて、車に細工することは可能ですよね。しかも、彼女の実家は自動車修理工場です。そういった知識を持っていた可能性は高いでしょう」
「たしかに、それで説明がつくかもしれません。でも、ホテル内で起こった事件の時には、アリバイがありますよね。伊東さんが殺害された時も、折原さんが転落死した時も、彼女が仕事中だったことは張り込みの刑事や警備員が証言している。犯罪は不可能でしょう。それに、もし弟が関わっていたとしても、これだけの警備の中を動き回れたとは考えにくいですよね」
有藤が零太郎の顔を見る。
「弟のほかに共犯者がいたとしたら、どうですか?」
「共犯者?」
有藤が聞き返す。
「ええ。1002号室に泊まっていた折原莉未さんと、1004号室に泊まっていた鷹野礼香さんですよ」
「でも、あのお2人が怪我をするほど激しいケンカをしたことはご存知でしょう? ちょっと考えにくいと思いますが」
有藤は苦笑した。
「鷹野さんの腕のあざは、伊東さんを殺害する時に負われた傷とは考えられませんか? 事実、彼は激しく抵抗したそうですしね。大体、2人の女性の喧嘩は誰も見ていないところで行われていた。ドアの向こうで適当に大声を上げ、何かを落とすような音を立てれば、それなりに聞こえるでしょう。見られそうになった時に、初めて組み合えばいいんですから。あの喧嘩は、2人を容疑者からはずすという目的以外に、腕の傷の理由を隠すという意味合いもあったのではないかと思いますが。
それに、彼女がチェックインの際に持っていたバッグは、かなり重たかったそうです。中に灰皿が入っていたとは考えられませんか?」
「そう、それですよ。その凶器の灰皿については、どう説明されるんですか? あれは折原さんと共に落ちたんでしょう? でも、折原さんが転落した時、鷹野さんはスカイラウンジにいらっしゃったんですよ。どう考えたって無理があります」
「ええ。そこで利用されたのが如月さんのカートですよ。浴衣が濡れたといって呼び出された時、620号室で犯行を終えていた鷹野さんは、そのカートに凶器と共に乗り込んだ。そして、一緒に露天風呂の更衣室へと向かったんです」
零太郎の答えに、有藤は驚いたように言った。
「カートに乗り込んだ? こんなことを申し上げるのは失礼かもしれませんが、あなたはカートをご覧になっていないから、そんな推理ができるんですよ。たしかにカートの下の段には、大きなボックスが置かれています。でも、それは棚の高さギリギリで、タオルや浴衣を放り込む程度のスペースしか空いていません。とても人が乗り込むことなんてできませんよ。もし、先にボックスに入っておいてカートに載せるとしても、女性一人の手では到底無理です。カートに乗り込むなんてこと、あり得ませんよ」
「ボックスを寝せておいたんですよ。そうすれば、横の面から入りこむことができるわけです」
「そんなことしたら、丸見えになるじゃないですか」
すると、それまで黙って聞いていたサチコが口を挟んだ。
「目隠しの布を垂らしたとしたらどうですか? 現に、私がさっき見たカートには、布がかけてありましたけど」
「まあ、カートの件はそれで説明できるとしても、男性の声でフロントに電話があったのは9時ですよね。ということは、伊東さんが殺害されたのはそれ以降ということになる。如月さんが9時過ぎに620号室に入った後、再び刑事達に姿を見られたのは9時10分頃。鷹野さんはその間に彼を殺害し、カートに乗り込んだということになりますよね。抵抗されながら何度も殴りつけていたとしたら、そんな短時間でそれだけのことができたかどうか。それに……」
なおも反論しようとする有藤を制して、美津島が口を開いた。
「如月さんも共犯であれば、彼女が部屋を訪れた時には既に伊東さんは殺害されていたとしても不思議はない。ただ、男性の声の電話はどう説明されますか?」
「テープに吹き込まれた男性の声を流したらいいだけのことです。フロント係が、客全員の声を把握しているとは到底思えませんからね。本人が生きている必要はないでしょう」
零太郎がきっぱりと言い切るのを見て、有藤は話題を変えた。
「さっき、カートに鷹野さんを乗せた後、男性更衣室に向かったといわれましたね。おそらく、折原さんを突き落とすためとお考えなんだと思いますが……。如月さんが更衣室を出たのは午後9時35分頃。折原さんが転落したのは午後10時。時間が合いませんよ」
「彼女は折原さんを突き落としてはいません。頭を殴って気絶させた折原さんを、カートに載せて運び出しただけです。倒れた男性を運ぶのは大変だ。この作業は、カートに隠れていた鷹野さんと2人で行ったのでしょう。
そうそう、転落現場を作り出すために、浄水槽の上にスリッパとタオルも置いたのも彼女達でしょうね。『清掃中』のプレートを出したのは、他の客が入ってこないようにするためという意味もあったのではないかと思いますが」
「それじゃあ、その後、鷹野さんはどこに行かれたんですか? まさか、そのボックスに折原さんと2人で入っていたなんて、おっしゃるわけじゃないでしょうね」
有藤が呆れたように尋ねる。
「今度は鷹野さんは、如月さんと一緒に東側の業務用エレベーターに乗り、10階で降りたのです。そして、一旦1004号室に戻って着替えると、何食わぬ顔でスカイラウンジに出かけた。もちろん、腕の傷は隠れるよう、長袖の衣服を着てです」
「たしかに10階には刑事は張り込んでいませんでしたが、防犯カメラがあるでしょう? 警備員に見られる可能性もあると思うのですが」
美津島が口を挟む。
「午後9時から10時は、巡回の時間です。カメラの映像を見られることはありません」
零太郎の言葉に、美津島は頷いた。
「で、肝心の折原さんはどこへ連れていかれたんですか? 露天風呂から連れ出されたのでは、転落死させることはできないじゃありませんか」
有藤が挑戦的な口ぶりで尋ねる。
「806号室ですよ。6号室は建物の真ん中、ちょうど浄水槽と同じくらいの場所に位置していますからね。高さだって、申し分ないでしょう。
アーリーチェックインを頼んでいた客は、今日、現れなかったそうです。電話番号もデタラメ。おそらく、806号室に凶器の灰皿と折原を運び入れるためにされた、ニセの予約でしょう」
「じゃあ、灰皿を落としたのも、折原さんを突き落としたのも、806号室からだと言うんですか? このホテルの窓は、せいぜい換気ができる程度しか開きませんよ。どうやって人を落とすというのですか?」
「8階までの6号室の窓は、非常用進入口になっていますよね。先ほど確認してもらったのですが、他の部屋とは窓の造りが違い、大きく開けることが可能になっているようです」
零太郎の言葉に、有藤は微笑んだ。
「松永先生、あなたはまだ肝心なことを忘れていらっしゃいますよ。折原さんが転落した時間、如月さんは1階で警備員に姿を見られている。やっぱり、彼女が806号室から折原さんを突き落としたという説は苦しいですね」
「誰が、如月さんが突き落としたなんて言いましたか? 折原さんを突き落としたのは、弟の方ですよ」
「弟、弟って……。指名手配犯のこともありますし、男性の不審者は特に目を引くでしょう。そんなに簡単に出入りできるとは思えませんけどね」
有藤が困ったように反論する。
「そこで、あなたに聞きたいことがあるのです。私達がチェックインした時、フロントで手続きをとられたのは、有藤さんではありませんね。他の雑事はすべてあなたが執り行っているのに、どうしてあの時だけは違う方が?」
「ああ、あれですか」
有藤は頭をかいた。
「お昼に食べた刺身がいけなかったのか、急に腹が痛くなりましてね。トイレに行きたいからと、浅利さんに代わりに手続きを取っていただいたんですよ。それだけの話です」
「おい、サチコ。あの写真を見せてあげてくれ」
「わかりました」
零太郎に促され、サチコはバッグから一枚の写真を取り出した。
「ここに写っている人物は、このホテルの前支配人です」
美津島が写真を受け取る。
「その目元を見てほしいのです。残念ながら私は見ることができませんが、サチコの意見では、その切れ長の目がとある人物に似ているというのです。お心当たりはありませんか?」
美津島は手元の写真をしばらく眺めていたが、やがて顔を上げた。
「なるほど、たしかに似ていますね。――ここにいる有藤君に」
「ちょっと待ってくださいよ。目元の似ている人間なんてゴマンといるじゃありませんか」
有藤は呆れたように言うと、零太郎の方を見た。
「折原さんが突き落とされたのは午後10時でしたよね。私はその時、皆さんと一緒に宴会場にいたじゃありませんか。たしかに、何度か抜け出しはしましたが、せいぜい5分か10分くらいなものですよ。それに、エレベーターホールには刑事さんだっていたでしょう? 僕が8階に現れたら、姿を見られているはずです」
「いえ、ちょうど10時少し前に、莉未さんが『不審者を見た』と言って刑事達をスウィート階に集めています。あなたの姿は誰にも見られなかったはずだ。それに、既に気絶していて無抵抗な男性を落とすわけですから、それほどの時間も必要なかったでしょう」
「バカバカしい。すべてこじつけじゃないですか」
有藤はこれ見よがしにため息を吐いた。
「失礼だとは思ったんですが、あなたの歯型を確認してもらいました。上の一本は差し歯だそうですね。指名手配犯『岩下』も上の歯が一本抜けていました。――美津島先生、彼のここ2週間の勤務状況はいかがでしたか?」
「体調が優れないと言って、定時に上がっていましたね。まさか、それから夜間清掃員として?」
美津島が驚いたように有藤を見る。
「東京からここまで、車を使えば1時間ほどで来られます。不可能ではありません」
「そんな勝手な想像を……。ここのところ、このゲームの準備などで忙しかったんです。それで、ちょっと体調を崩していただけです。それに、前歯が差し歯の人なんて、世の中にはいくらでもいますよ。まったく問題になりませんね」
有藤は開き直ったように続けた。
「それに、もし私と如月さんが『姉妹』だったとして、折原さんを殺害した理由はなんですか? プロジェクドに関わっているといっても、中心になって進めていたわけではありませんよね。復讐の対象にはなり得ないと思いますが」
「いえ、彼の会社は、あの模範解答のようにあまり上手く行っていなかったようなんです。万が一、このプロジェクトがダメになるようなことがあったら大変なことになる。彼はかなり焦っていたようです」
零太郎の言葉に、美津島が驚いたように顔を上げる。
「つまり、前支配人を轢いたのは折原彰だと?」
「ええ。そうだと思います。 このプロジェクトの成功によって関係者達にもたらされる利益は莫大なものだそうです。ホテル・グランド京佐久がそのプロジェクトの中心的存在になったのには、色々と裏があるようですがね。まず、プロジェクトのリーダーだった氷川には賄賂の噂がありますし、観光協会から依頼を受けてしばしば『抜き打ち』チェックにやって来ていた伊東は、買収されて有利な報告書を書いていたという話も聞かれます。
彼らにとっても、プロジェクトに反対する前支配人の存在は目の上のタンコブだったはずだ。そこで、焦っている折原を引き込み、前支配人を亡き者にしようとしたのでしょう。違いますか?」
零太郎に聞かれ、有藤は苦笑した。
「なるほど。それなら、如月さんと私の『姉弟』が皆を殺す動機はできるでしょう。でも、鷹野さんと莉未さんはどうなんですか? きちんと説明がつきますか?」
「調べたところ、鷹野さんの父親は、こちらの前支配人と大変親交が深かったそうですね。菓子店が倒産しかけた時には全面的に援助をして救ったそうです。そして、父親と鷹野さんとの仲がこじれた時も、前支配人がこっそり鷹野さんを援助されたと聞いています。彼女にとって前支配人は、実の父親以上に大切な存在だったのではないでしょうか」
「莉未さんは?」
有藤が尋ねると、零太郎は頭をかいた。
「彼女は夫からDVを受けていたようです。そういった傾向にある男性は、なかなか治らないと言われていますからね。おそらく、前に彼と付き合っていた鷹野さんも、同じように被害を受けていたのではないでしょうか。同情するような形で莉未さんに近づき、引きずり込んだとは考えられませんかねえ」
「だとすれば、目的どうり夫を殺害できたんですから、自殺する理由がないじゃありませんか」
有藤が呆れたように言う。
「自殺ではありませんよ、他殺です。今朝の6時頃、莉未さんはルームサービスでコーヒーを頼んでいる。『女性に運んできてほしい』と言ってね。その時間帯にホテルにいた女性の従業員は如月さんだけだったため、彼女が部屋までコーヒーを運んだそうです」
「莉未さんが共犯だったとしたら、その時間帯にホテルにいる女性従業員が如月さんだけだということを知っていた可能性は高いですね」
美津島が顔を上げる。
「ええ。莉未さんは、何らかの意図を持って如月さんを呼び出したのでしょう。多分、この事件の真相をぶちまけてやるとでも言って、如月さんを脅したのではないかと思います。だから、彼女に殺害されたのです。コーヒーに青酸カリを入れられてね。どういう意図で青酸カリを持ち歩いていたのかはわかりませんが、莉未さんの本性に薄々勘付いていたのかもしれませんね」
「バカバカしい」
有藤が零太郎の顔を見た。
「あなたの推理では、莉未さんも共犯なのでしょう? 事件の真相をぶちまけたりしたら、自分も一緒に捕まってしまうじゃないですか」
「彼女が手伝ったのは、アリバイを証明するためにニセのカードを警察に見せたことと、鷹野さんを殴ったフリをしたこと、それから岩下を見たなどと嘘を吐いてスウィート階に刑事達を集めたことだけです。目的は知らずに巻き込まれたとでも言えば、罪はかなり軽くなるでしょう。いや、上手く行けば、ニセのカードとは知らなかった、鷹野さんには本気で飛び掛かった、本当に不審者を見た、ということで、罪を免れることができるかもしれない」
零太郎の言葉に、有藤は肩をすくめた。
「先生の推理には何ひとつ証拠がありませんよね。たしかに、あの作品の内容は、書いた本人と私しか知り得ないものだったかもしれません。でも、あの作品が投稿されたのはほんの2週間ほど前のことです。そんな短期間で実行に移すだけの準備ができるとお思いですか?」
「あなた自身が書いたものだとしたら、それ以前から準備をしていたとしてもおかしくありませんよね。前支配人の事故のからくりに気付いたあなたは、復讐の機会を狙っていた。宇野会長のアイディアは、あなたにとって渡りに船だったことでしょう。いや、もしかしたら、あなたが上手いことリードしてこういう企画を立ち上げるよう仕向けたのかもしれない」
「バカバカしい。私があの作品を書いたという証拠がどこにあるんですか? 本当に推論だけでモノを言う人だ」
有藤が少し怒ったように言い放つ。零太郎は、そんな彼に向かい、諭すような口調で話しかけた。
「なあ、有藤君。たしかに、あらかじめ作られたストーリーに基づいて事件を起こしていくというアイディアは、悪くなかったと思う。実際、こうしてミスリードさせることに成功したわけだからね。宇野会長から話があった時に思いついたのだとしたら、短時間でよくここまで練り上げたとほめてあげてもいい。しかしね、君は大きなミスをしてしまったんだよ。わかるかね」
有藤は何も答えず、黙っている。零太郎は続けた。
「このひどい模範解答だよ。君は『大変面白い』と言っていたがね、どこがどう『大変面白い』のか、私にはさっぱり理解できない。せっかく登場させた指名手配犯も上手く使いこなせていないし、灰皿を裏に捨てる必然性も感じられない。他にもツッコミどころが満載だ。
こんなわけのわからない模範解答を基盤にしているせいで、実際の事件でも説明のつきにくい部分が出てきてしまったんだろうね。
まあ、内容もひどいが、誤字脱字も多いらしいねえ。サチコが読み上げる時に困っていたよ。なのに、君は自分で『矛盾点や誤脱が無いか確認した』と言っていた。ということは、君はこの文章を書いた人間と同じ勘違いをいくつもしていたか、この文章を書いた人間か、どちらかということになる。――私はね、君と話しているうちに確信したんだよ。後者だってね。
まず、君は話す時『いずれにしよ』という言葉を使っていた。これは問題編にも出てくる表現だ。正しくは『いずれにせよ』なんだよ。同じような間違いは他にもあった。『何々とうり』ではなく『何々とおり』。それから、これは誤りではないが、『プロジェクド』と言う人よりも『プロジェクト』と言う人の方が多いだろうね」
有藤が悔しそうに唇を噛み締めた時、場違いな明るい音楽が鳴り始めた。
「あら、ごめんなさい。誰かしら」
それは、サチコの携帯だった。応答する彼女の声が沈んでいく。
「どうした?」
零太郎が尋ねると、サチコは電話を切って答えた。
「渡会荘からだったわ。お父さんに言われて電話でお話を聞いた時に番号を教えておいたから……。少し前、前支配人が亡くなられたそうよ」
有藤がはじかれたようにサチコの方を見る。
「それで、遺言書が開封されたらしいんだけど、書かれていたのはたったひとつのことだけだったんですって」
「たったひとつのこと?」
零太郎が聞き返す。
「ええ。葬儀も何もいらない。ただ、自分のお骨は中島頼子さんのお墓に一緒に入れてほしいって、それだけ」
サチコはそう言うと、有藤の目を見つめた。
「前支配人は、頼子さんのことを本当に愛していらっしゃったんでしょうね」
有藤は身じろぎひとつせず、その場に立ち尽くしている。すると、今度は零太郎が、ゆっくり話しかけた。
「実は、姉のことを教えてくれた前支配人の友人が、弟の話もしてくれてね。前支配人はよく言っていたそうだ。『あの子は自分の夢を叶えて弁護士になった。不器用な子だけど、いろいろな苦労をしているから、人の痛みがわかる立派な弁護士になってくれるだろう。将来がとても楽しみだ』ってね」
長い沈黙の後、有藤は顔を覆ってしゃがみこんだ。心の奥からしぼり出されるような、低く哀しい泣き声が部屋中に響いた。