<4>フロント ――9月9日PM9:45

 三国隼人がその電話を受けたのは、引継ぎを終えてすぐのことだった。
「フロントでございます」
 モニターには1002という部屋番号が示されている。たしか、明日挙式する折原夫妻の部屋だ。
「すみません。さっき、ティールームから戻ってきた時、廊下を変な男の人がウロウロしていて……。覗き窓から様子を見ていたら、少ししていなくなったんでほっとしたんですけど……。今度は上の階で物音がするんです。ちょっと様子を見ていただけませんか?」
 それは、彼が以前、深夜ラジオでよく聞いていた「山森莉未」の声だった。
「どういった感じの男でしたか?」
 デスクに置かれているペンを手に尋ねる。
「口の周りにヒゲが生えていて、黒縁メガネをかけていました。なんだか気持ち悪くて」
 三国はデスクの上に置かれた指名手配犯の似顔絵に目をやった。ついに現れたのか。言い知れぬ不安が頭をよぎる。
「わかりました。すぐに確認にまいります」
 三国はコールに対する礼を述べて電話を切ると、警備室に連絡を入れた。ホテル内で不審者の通報があった際には、まず警備員に連絡することになっている。
 彼は少し迷ったが、刑事達の控え室として使われている大会議室にも連絡を入れることにした。今、莉未から聞いた話を刑事に話し、電話を切る。
「10階と11階か」
 スウィート階に入るためには、専用のキーがいる。一体どうやって入り込んだというのか。
 彼が首を傾げた時、再び電話が鳴った。時計の針は午後10時5分を指している。モニターに出ているのは401という数字。電話を受けながらコンピューターで確認すると、それは城野麻耶という女性の部屋だった。
「裏庭に人が倒れているんです。すごい音が聞こえたから窓から下を覗いてみたら、盆栽がメチャメチャになっていて、その上に浴衣を着た人が……」
 三国は絶望的な気持ちで目を閉じた。



<5>10階廊下 ――9月9日PM11:00

 京佐久署捜査一課のベテラン刑事・谷原一郎と、新米刑事・高梨純也は1002号室のチャイムを鳴らした。程なくドアが開き、顔を出したのは折原莉未だった。既に寝ていたようで、すっぴんのまま、ピンクのネグリジェに黒のカーディガンを羽織っている。
「折原莉未さんですね。私、京佐久署捜査一課の谷原と申します」
 莉未の顔の前で写真の付きの手帳を掲げると、彼女は困惑した表情で口を開いた。
「あの……。変な男性のお話でしたら、さっき来られた刑事さんと警備員さんにお話したんですけど……」
「いえ、今回お訪ねしたのは、その件ではありません」
 谷原はそう言うと、神妙な面持ちで続けた。
「折原彰さんなのですが……。今はどちらへ?」
「9時頃、露天風呂に行くと言って出て行きましたけど……」
 莉未が不安げに答えるのを見て、谷原と高梨はそっと目を合わせた。
「実は、先ほど裏庭で倒れている男性が発見されまして。折原彰さんだと思われますので、ご確認を……」
「裏庭で倒れて?」
 高梨の言葉を遮るように、莉未が聞き返す。
「どういうことですか? うちの人、お風呂を出た後、裏庭をお散歩でもしてたんですか?」
「いえ、実は露天風呂の裏にある浄水槽の上に、スリッパとタオルがありまして……。おそらく、そこから転落したものと思われます」
 高梨が莉未の顔を見ながら答えた。
「浄水槽の上からって……。誰かに突き落とされたんですか? そうなんでしょ?」
 莉未の頬に血の気が差す。
「いえ、争った跡は見られませんでしたし、事故と事件の両面で捜査中です」
 高梨の説明を聞きながら、莉未はわなわなと震え出した。
「事故ですって? どうしてわざわざ浄水槽の上なんかに上がる必要があるの? 絶対に突き落とされたのよ。あの女に。許せない、許せないわ」
 彼女はそう言うや否や、谷原と高梨を押しのけて廊下に飛び出し、その端にある1004号室の前で立ち止まった。狂ったようにドアを叩き始める。中の人物が薄くドアを開けた途端、彼女は全身でそれを押し、無理矢理室内に入り込んだ。呆気にとられていた谷原と高梨が、慌てて駆けつける。自動でロックされたドアの向こう側からは、ののしり合う女性の声と、モノが投げつけられるような音が聞こえていた。
「どうされましたか?」
 高梨がドアを叩きながら、中に向かって叫ぶ。しかし、相変わらず女性の声が聞こえてくるだけだ。
「マスターキーを使おう」
 谷原が、フロントから預かっているキーを差し込み、ドアを開ける。中に飛び込むと、二人の女性が衣服を乱して殴り合っていた。



<6>1004号室 ――9月9日PM11:30

 1004号室の宿泊客・鷹野礼香は、腕をタオルで冷やしながら事情聴取に応じた。莉未に飛び掛られた際、どこかにぶつけたようだ。
「実は、こんなメモがドアの下に挟まっていたんです」
 彼女が差し出したのは小花が印刷されたメモ紙だった。文字はワープロで印刷されている。
 ――午後9時、スカイラウンジで待っている。彰
「この『彰』というのは、折原彰さんのことですね?」
 メモを見ながら、谷原が尋ねる。
「ええ。そうです」
 礼香は疲れ切った表情で続けた。
「実は、私の大学の先輩が折原さんの友人で、一緒にお食事に行った時に知り合ったんです。そうですねえ。彼が大学の2年の時だったから……もう20年になるのかしら」
「それで、お付き合いを?」
 谷原は違和感を持って尋ねた。
 彼女は日本でも有名な菓子店「ボルドン」のオーナーだ。世界的に有名なコンクールでも高い評価を受けており、現在では有名デパートを中心に店舗を展開している。以前、テレビで「男より仕事」とクールに語る彼女の姿を見たことがある谷原にとって、折原彰と彼女の関係は信じがたいものだった。
「いえ、お付き合いって言っても、ずっといい友人関係で来ていたんです。彼がサッカーを辞めて参っていた頃には、私もずいぶん助けてあげたと思いますし、私がお菓子作りのことで孤立してしまった時も、支えてくれたのは彼でした。でも、男と女の友情っていうのは、やっぱり成り立たないものなのかもしれませんね。5年くらい前、ふとしたきっかけで一線を越えてしまって……。
 でも、4年前、彼も会社を継ぐことになり、お互いに忙しくなってそのまま……。私はもう、そこで完全に縁が切れたと思っていたんです」
 礼香は辛そうに首を横に振ると続けた。
「実は、披露宴に呼ばれたこと、かなり困惑していました。だけど、お断りするのも逆に意識しているようで変かなと思って、出席することにしたんです。なのに、こんなお手紙をもらってしまって……。
 莉未さんに申し訳ありませんし、きっぱり絶交を告げようと思って、スカイラウンジに行ったんです。午後9時40分頃だったと思います。
 だけど、彼は来なかった。結局諦めて部屋に戻ったのは、午後10時50分くらいでした。その時、ホテルの中が何か慌しい感じはしましたが、まさか彼がこんなことになっていたなんて。今でも信じられません」
 彼女は小さくため息を吐くと、手にしていたタオルをテーブルに置いた。半そでのワンピースからのびる彼女の左腕は、痛々しいまでに腫れ上がっていた。



<7>大会議室 ――9月10日AM1:30

「不思議な話ですよねえ」
 高梨があくびをかみ殺しながら首を傾げる。刑事達の控え室として、ホテル側から大会議室を当てられていた。時間が時間だけに、椅子を並べて横になっている捜査員も見られる。
「ああ、まったくだな」
 谷原は椅子の背に身体を預けて頷いた。
 莉未は彰が運び込まれた病院に行って遺体の確認をした後、警察署で話を聞かれていた。先ほど、その証言がホテル居残り組みの谷原達に伝えられたのだ。
「折原彰が露天風呂に入ってくると言って部屋を出たのが、午後9時。その後、彼が脱いでいった上着をかけようとしたら、はらりとメモが落ちたってわけですよね」
「このコピーを見る限り、鷹野礼香に渡されたメモと同じ紙だな。印刷されている字体も同じような感じだし」
 谷原はファックスで送られてきた資料を見ながら続ける。
「『午後9時、露天風呂で待っています。礼香』か。礼香は書いた覚えが無いって言っていたんだよな」
「ええ」
 高梨が頷く。
「2人の関係を怪しんだ莉未は、露天風呂に様子を見に行こうかと思った。でも、怖くてできず、実際には1階のティールームで紅茶を飲んでいたってわけですね」
「で、9時半にクローズになって1002号室に戻った時に、10階の廊下の西側にいた不審な男を見た、と」
 高原が首を傾げる。
 莉未の通報を受け、すぐに張り込みの刑事達に確認した。しかし、9階までのエレベーターホールでは、不審な男の姿は見られていなかった。そこで、張り込みをしていた刑事を総動員し、10階と11階の空き部屋を隈なく調べたのだ。
「あれだけ探してもいないんですからねえ。一体、どうやって逃げ出したんだか……」
 高梨が唇を噛む。
「俺達が張っていなかった10階と11階に現れるとはな。それも、警備員が巡回でカメラを見ていなかった時間にだ。こっちの動きが読まれているとしか、考えられないな」
 谷原が腕を組んだ。沈黙が流れる。
「いずれにしても、折原彰が転落した午後10時には、あの2人の女のアリバイは完璧だったってわけだな」
 谷原がつぶやくと、高梨が頷いた。
「ええ。莉未の方は数人の刑事が一緒にいましたし、礼香の方はスカイラウンジの従業員がずっとお酒を飲んでいたと言っています。――まあ、莉未はこれで結婚式も中止になってしまったわけですし、キャンセル料の支払いだって発生しますし……。彰を殺してメリットがあるようには思えませんからね」
「問題は、あのメモを誰が書いたかってことだな」
 谷原は頭の後ろに手を組んで目を閉じた。
「岩下が関わっているのかいないのか……」
「今朝遺体で見つかった氷川と折原彰との間に接点があれば、はっきりするんでしょうけどねえ」
 高梨がため息を吐いた。


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