<1>ロビー ――9月9日PM3:00

 ロビーのあちこちに客に扮した刑事が張り込んでいる。本人達は自然に振舞っているつもりかもしれないが、あまりにもとけ込み切れていない。こんなことで本当に大丈夫なのか、不安が募る。
 元コンシェルジュの今井啓太は頭を振りながらロビーを横切り、正面玄関の脇に立った。
 フロントでは田中雅人が、若くて背の高い男性客にホテルのパンフレットを見せ、何やら説明をしている。その隣で、オペレーターの松島葉子がコンピューターに向かっていた。こんな異常な状況にも動じず、各自の仕事をそつなくこなしているようだ。
 今井は満足げに微笑むと、今度はエレベーターホールに目を向けた。水色のワンピースに紺のカーディガンを羽織った女性が立っている。そして、その後ろにはベルスタッフの宇田川静代。彼女は今春大学を卒業してこのホテルにやって来た、ほやほやの新人だ。両手にボストンバッグを持っているが、かなり辛そうな表情をしている。
 たしかに女の子には重い場合もあるかもしれないが、客の前であんな顔を見せてはいけない。後できちんと注意しておかなければ。
 少しして、GSOの友田春章が台車を押して現れた。台車にはたくさんのバッグが積まれている。普段はロビーにいることが多い彼だが、今日は団体も入っているため、ああして荷物を運んでいるのだろう。
 再びフロントに目を戻すと、先ほど田中から説明を受けていた客が、もう1人のGSO、早峰多恵に連れられてエレベーターホールへと歩き出したところだった。後ろに人がゾロゾロ続いているところを見ると、どうやら3階を借り切っている「近江宇野グループ」一行のようだ。中に車椅子の男性と盲導犬がいるのを見て、今井はなるほどと頷いた。
 このホテルでは、身障者には非常階段に近い部屋を割り当てることになっている。特に介助者が同室にいない場合は、身障者用バスルームが誂えられている部屋に案内するのが通例だ。各階に1室ずつ、6号室がその仕様になっていた。また、8階まではこの6号室に非常用進入口が作られており、いざという時に避難しやすいよう考えられている。田中は、おそらくそのことを説明していたのだろう。
 周りで客を装っている刑事達の目が彼らの方に集中する。
 それにしても、なんてひどい目つきだ。私が手塩にかけて育て上げたこのホテル・グランド京佐久の評判が落ちたらどうしてくれる。
 今井が刑事達の様子を苦々しく見ているうちに、エレベーターの扉が開いた。最初にワンピースの女性と宇田川が乗り込む。そして、団体のうち5人が入ったところで、早峰が後ろの客を止め、台車を押す友田を乗り込ませた。
 扉が閉まり、エレベーターが動き始めた時、ちょうど隣のエレベーターが1階に到着した。中から出て来たのは、作家の天地天道だった。後ろには佐藤とかいううだつの上がらない男――出版社の編集者らしい――を従えている。動物嫌いの天地は、座っている犬を見て何か言いかけたが、それが盲導犬だとわかったのだろう。小さく舌打ちをしただけで、フロントに向かって歩き始めた。彼に気付いたコンシェルジュの木村初音が、足早に駆け寄ってキーを預かる。そして、正面玄関に向かう天地の背中に頭を下げた。無駄がない木村の動き。コンシェルジュとして着実に成長している様子が窺える。
 エレベーターホールでは、団体の残りの5人がエレベーターに乗り込んだところだった。最後に宇田川が入り、客に注意を促して扉を閉める。エレベーターに向かって頭を下げていた早峰は、身体を起こしてブレザーの裾を軽く引っ張ると、ロビーへと戻って行った。
 異常なし。
 報告のため支配人室に向かって歩き出した時、ロビーの隅にあり得ない人物の顔を見つけ、今井は息を飲んだ。



<2>311号室 ――9月9日PM4:00

「お父さん、ここから見える景色、とっても綺麗よ。京佐久湾が一望できるってお話だったけど、本当ね」
「そうか。それはよかったよ。3階だというから、景色は期待していなかったけどね」
 松永零太郎は、テーブルに白杖をたてかけながら、娘のサチコに向かって声をかけた。普段は主婦をしている彼女だが、彼がとあるゲームに招待されたことを知り、一緒に来てくれたのだ。
「さっき、パンフレットで見たんだけどね。ホテルの東側には綺麗なお庭もあるそうよ。それに、あの問題編に書いてあった通り、北側には階段状の棚があって、色々な盆栽が並んでいるみたい。植木鉢は全部、あの有名な京佐久焼よ。かなり格の高い陶匠の作品だっていうし、ギャラリーも兼ねているんでしょうね。ねえ、後でホテルの周りをぐるっとお散歩しましょうよ。きっと気持ちいいと思うわ」
「おい、サチコ。私は遊びに来たわけじゃないんだよ」
 零太郎はソファに腰を下ろしたまま、サチコに向かって話しかける。
「ところで、今回参加しているメンバーの中に、線香の臭いがする人物がいると思うんだが、ちょっと調べてくれないか」
 彼の言葉に、サチコが手元の参加者名簿をめくった。
「お父さんの鼻は敏感ね。たしかに、庵主さんがいらっしゃるわよ。えっと、順信尼さんとおっしゃって、福島県の妙案寺の……」
 そこまで言うと、サチコは顔を上げた。
「私、このお寺の話を聞いたことがあるわ。高校時代のお友達が結婚して近くに住んでいるんだけど、カツラをかぶってパチンコに行ったりクラブで踊ったりする尼さん達がいるんですって」
「そうか。それはまた、バチあたりだな」
 零太郎は笑うと、真顔に戻って尋ねた。
「他にも、香水の香りがしたが……」
「それは多分、喜屋武サリーさんじゃないかと思うわ。えっと、写真家ですって。流し目の色っぽい、ダイナマイトバディな女性よ」
「ほう。ぜひお近づきになりたいもんだな」
「もう、お父さんったら、相変わらずなんだから。お願いだから、露天風呂のギャルに手を出すようなマネ、しないでね」
「サチコ。俺にはもうそんな元気はないよ」
 零太郎は苦笑すると、盲導犬・メリアの背中をなでる。サチコは資料をテーブルに置いて顔を上げた。
「そう言えば、じっちゃんの名がどうとか言ってる高校生がいたけど、誰か有名な人のお孫さんなのかしらね。可愛い女の子と2人で来ているみたいだけど」
「可愛い女の子か。うらやましい……」
「お父さんったら、すぐにそっちの方向に向かうんだから」
 サチコに腕を叩かれ、肩をすくめる。そんなおどけた会話をしながらも、零太郎は他のことを考えていた。
 庵主に写真家に高校生……。車椅子弁護士として有名な美津島威は、何を考えてこんなメンバーを集めたのだろうか。
「サチコ。この間、お前が録音してくれたテープを聞かせてくれないか。日程表と一緒に入っていた問題編を録ったものだよ」
 その言葉に、サチコはバッグからヘッドフォンステレオを取り出した。零太郎に手渡すと、彼は耳にヘッドフォンを当てて再生ボタンを押す。
 零太郎のような中途失明者にとって、点字を使うことは大変難しい作業である。そのため、何度も読み返したい文章は、サチコに頼んでテープに録音してもらうことにしているのだ。
「しばらく私の出番はなさそうね。ちょっとお散歩してくるわ」
 サチコが一声かけて部屋を出て行く。零太郎は軽く手を挙げると、テープの内容に没頭し始めた。



<3>901号室 ――9月9日PM6:30

 ドアがノックされ、兼沢徹は立ち上がった。彼は京佐久市でも指折りの資産家の息子で、国立T大学の学生だ。今は夏休み中で帰省しているのだが、実家にいるより気楽でいいと、このホテルに滞在している。
 覗き窓から確認すると、そこには高校時代からの友人・八木光彦が立っていた。彼はこのホテルでリネンのバイトをしている。今は6時半過ぎ。ようやく労働から解放されたのだろう。
「お疲れ」
 ドアを開けると同時に八木が中に転がり込んでくる。
「ああ、もう、クタクタだよ」
 彼はそう言うと、手前のベッドに腰かけた。
「今日はやけに客が多いみたいだな。この階のエレベーターホールにも、サラリーマンっぽい人達がいたし。さっきロビーに下りて行ったら、そこにも人がいっぱいいたよな。団体ともすれ違ったし」
 兼沢が冷蔵庫から缶コーラを出して手渡す。
「サンキュ」
 八木はプルタブを開けながら、ドレッサーにもたれるように立っている兼沢を見上げた。
「あの団体はうちの客だけど、各階とロビーにいるのは京佐久署の刑事だよ」
「刑事? 全部の階に張り込んでるのか?」
 兼沢はスツールを八木の前に置くと、座り込んで尋ねた。
「いや、ロビーと2階から9階、それから12階のエレベーターホールだよ。10階と11階は専用のカードキーがないと入れないからな。大丈夫だと踏んだんだろう」
「だけど、なんで刑事が?」
「なんか、ホテルに殺人犯が紛れ込んでいるかもしれないんだってさ。昼のニュースで、市の観光協会の人が殺されたって言ってただろ? その犯人が逃走に使った被害者の車が、ここに続く脇道に放置されててさ、中からうちのホテルのパンフレットが出てきたらしいんだよ。しかも、そのパンフレットには血まみれのナイフが刺さってたそうだぜ」
「ああ、たしか朝出社した職員が遺体を見つけたとか言ってたけど……。そんなにすぐに犯人が特定されたのか?」
 兼沢の質問に、八木がジーンズの後ろポケットからコピーを取り出して渡した。受け取った兼沢が広げて見つめる。そこには男性の似顔絵がプリントされていた。
「なんでも、犯行の一部始終が防犯カメラに写ってたらしいよ。そいつ、2週間くらい前から協会に派遣されてた夜間の清掃員だってさ。岩下何とかって名乗ってたらしいけど、偽名みたいだな。犯行の後に調べてみたら、派遣会社に提出していた履歴書の記載事項は、全部デタラメだったんだって。写真は添付しなくていいことになってたそうだから、その顔は一緒に仕事していた人たちの証言から起こしたみたいだぜ」
「へえ。記載事項が全部デタラメかあ。最初からその人を殺すつもりで入ったってことなのかな。この似顔絵の顔も、太いメガネかけてるし、顔の下半分はヒゲで覆われてるし……。本当の人相もはっきりわからないよな」
「ああ。上の前歯が一本抜けてたらしいけど、義歯でも入れちゃえばわかんないもんな」
 八木はコーラを一気に飲み干すと、派手にゲップをする。そんな姿を横目で見ながら、兼沢は首を傾げた。
「だけど、パンフレットが残ってたからって、ここに来るとは……」
「それなんだよ」
 八木は空になった缶をゴミ箱に投げ捨てると、身を乗り出した。
「ほら、この辺りの活性化とか言ってさ、新たに温泉をメインにしたテーマパークを作るって話、知ってるだろ?」
「ああ、知ってるよ。親父もスポンサーの1人だからな。このホテルも、最近では積極的に協力してるんだろ?」
「ああ」
 兼沢の言葉に、八木は頷いた。
「殺された観光協会の人、氷川さんっていうんだけど、うちのホテルの担当でさ。しょっちゅうここに出入りしてたんだよ。それで、何か関係があるんじゃないかってことみたいだぜ」
「なるほどな。あのプロジェクト、まだ根強い反対派も残ってるらしいもんな。景観が損なわれるとか言って」
 兼沢が腕を組んで続ける。
「そう言えば、ここの前の支配人も反対してたんだよな」
「うん。でも、2ヶ月前に寝たきりになって息子に支配人の座を譲ってから、一気にプロジェクトが進んだんだよ。前の支配人、市の方に絶大な影響力があった人だから」
 八木の言葉に、兼沢が顔を上げた。
「交通事故だったよな、たしか」
「盗難車でひき逃げされたんだよ。一命は取り留めたけど、植物状態だってさ。今は渡会荘って老人ホームに預けられてるって話だぜ」
「渡会荘って、渡会山の中腹にある不便な所だよな。通称「姥捨て山」なんて言われててさ、あそこに老人を預けた家族って皆、面会にも行かないって話聞いたことあるよ。これまで散々世話になっといて、ひどい仕打ちだな」
 兼沢がため息を吐く。
「俺はあんまり知らないんだけど、前の支配人って一本筋の通った立派な人物だったらしいよな。今の支配人とはえらい違いだって、よくスタッフが愚痴ってるよ」
 八木は兼沢に向かってそう言うと、ベッドに横になった。
「今の支配人、オーナーやってる母親の言いなりだって話だもんな。――で、お前、今夜はどうする? ここに泊まって行くか?」
 兼沢が八木の横顔に話かける。八木は視線を兼沢に移して微笑んだ。
「そうさせてもらえると助かるよ。明日、朝からだから」
「じゃあ、泊まれよ。晩飯まだだろ? 俺、向かいのコンビニで何か買ってくるわ」
 兼沢はコピーを畳んで八木に返すと、立ち上がった。


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