「じゃあ、行ってくるぞ」
金曜日の夕方のことです。玄関のところで、お父さんは靴を履きながら、準に声をかけました。
「行ってらっしゃい…」
「準ちゃん、さっきも言ったけど、お夕食はオムライスをつくっておいたからね。チンのしかた、知ってるでしょ?」
お母さんが、心配そうに準に話しかけました。
「うん」
「冷蔵庫に野菜サラダがあるから、それもちゃんと食べるのよ。それから、寒いから、暖かくしておきなさいね。でも、石油ストーブは危ないから、電気のファンヒーターを使うのよ。もちろん、火遊びはだめよ。大変なことになるわよ」
「わ、わかってるよ」
準は、ズボンの前に手をやりました。
「そうじゃなくて、火事になるわよ」
「そ、そうだよね。ははは」
準は笑って見せましたが、だんだん不安になってきました。
「やっぱり、みゆきお姉ちゃんのうちへ行ってる?」
準の気持ちを見越して、お母さんが心配すると、お父さんが準の頭をぽんとたたいて言いました。
「大丈夫だよな。準は男の子だもんな。ひとりで留守番くらいできるよな」
「う、うん。ぼく大丈夫」
「そう、偉いわね。いい、知らない人が来ても、玄関を開けたらだめよ。私たちが出たら、鍵をかけなさいね。9時過ぎには帰るわ」
「はぁい」
…バタン
ドアを閉めて両親が出かけると、準はがちゃりと施錠して、扉にもたれて「はあっ」とためいきをつきました。
それから2週間前の夜のことです。お父さんが、お母さんに言いました。
「つきあいで、ディナーショーのチケットを買ったんだ。再来週だけど、ふたりで行こう」
「準ちゃんは?」
「チケットは、2枚しかないんだ。準ももう4年生だし、一晩中いないわけじゃないから、留守番くらいできるだろ」
「そうかしら。あの子怖がりだから…」
ふたりが話していると、準が2階から下りてきました。
「準、ちょっと話があるんだ」
「なぁに?」
「再来週の金曜日の夜、お父さんとお母さんは、ディナーショーに行かなくちゃいけないんだ」
「でぃ、でぃなーしょーって?」
「ごちそう食べたり、歌を…」
「あー、ゴホゴホ」
お母さんが言いかけると、お父さんはあわてて咳払いをしました。
「あ、いや。難しい話を聞いたり、いろいろ大変なことをするんだ」
「ほんと?」
「そ、そうなのよ。準ちゃんにはまだ無理ね」
「そう。じゃあ、ぼく行かない」
準がすなおに言ったので、両親はほっとしました。
「準、夜だけど、留守番できるだろ」
「え、ひ、一人で?」
「無理なら、みゆきお姉ちゃんちへ預かってもらおうかしら」
「い、いや、その…」
準の頭の中に、「あんた、ひとりで留守番もできないの、情けないわね」というみゆきお姉ちゃんの声がこだましたので、あわてて首を横に振りました。
「もう大きいし、男の子だから、平気だよな、準」
「う、うん…」
準は、うなずくしかありませんでした。
そういうわけで、準は、夜のお留守番を経験することになったのです。
「ごちそうさまー」
準は、夕食をすますと、わざと大きい声で言いました。もちろん答える人はいませんが、いつも通りにしてないと落ち着かないのです。冬の陽は短く、もう外は真っ暗です。
準は、そのままリビングで、『ドラえもん』とかテレビを見ていました。でも、誰もいないリビングはだだっ広く感じられ、ひとりぼっちの不安をあおります。誰かが、カーテンの隙間から覗いているんじゃないかという錯覚がして、気が気ではありません。
…二階に上がろう
いつも一人で寝ている自分の部屋の方が、安心できるように思われます。準は電気を消すと、うしろを見ずにたたたっと階段を駆け上がりました。
準は、部屋で寝そべって漫画を読んだりしていました。
…おしっこしたくなっちゃった。
普通なら、階段を降りてトイレに行けばすむことですが、今日は気が進みません。
…上がる前にしてくればよかったなあ。
時計を見ると、9時前です。
…もう少ししたら、お父さんたちが帰ってくるから、我慢しようっと。
準は、おしりをもじもじさせながら、両親の帰りを待つことにしました。
…がちゃ がたん
「はっ」
いつの間にか、うとうとしていたようです。準は、物音で目を覚ましました。
…な、なんだろ。
どうも、一階の台所の外から音がするようです。
…お父さんたちなら、玄関から入ってくるし。まさか、どろぼう?!。
準は、ぞくっとしました。
…このまま、知らないふりをしていようか。でも、ちゃんとお留守番するって言ったっけ。
準は悩みました。そのとき、お父さんの言葉が頭をよぎりました。
…準は男の子だもんな。ひとりで留守番くらいできるよな。
準は、意を決して様子を見てくることにしました。
準は、そっと階段を降りると、台所のドアの前に立ちました。ドアを開けるとき、準はおちんちんを、ズボンの上からぎゅっと握りしめました。おしっこを我慢するためと、自分が男の子であることを確認するためです。
…がちゃっ
準が台所のドアを開けると、向かいの勝手口の戸が開きました。準の心臓は、どきどきっと、これ以上ないくらい早く鳴り始めました。
「お、お父さん、お母さん…」
勝手口から入ってきた人物は、両親だったのです。準は、ほっとすると同時に、緊張の糸が解けて、下半身の力が抜けていくのを感じました。
…しゃああああ
準は、その姿勢のまま、派手な音を立てておもらしをしてしまいました。勢いよくあふれ出たおしっこは、パンツを濡らしてズボンから滲みだし、足を伝って床に大きな水たまりをつくりました。
「準…」
「準ちゃん、あなた…」
…ぺちゃっ
準は、もらしたおしっこの水たまりにしりもちをつくと、大声で泣き始めました。
「えーん」
両親の目の前で、こんなみっともない状態になっているのが、悔しかったのです。でも、ふたりには、そんな準の気持ちが、痛いほどわかりました。
「準、よくひとりで留守番できたな」
「そうよ、偉かったわね」
「だって、ぼく、ぼく…」
「さあ、もういいから、早く濡れたものを脱ぎなさい。お風呂わかしてあげるから」
「うっうっ」
準は、うなずくと、立ち上がって冷えたズボンとパンツを脱ぎました。
準は、お風呂から上がると、きれいな下着とパジャマを着て、リビングに行きました。
「ごめんな。玄関の鍵を持って出るのを忘れて、植木鉢の下に隠してある勝手口の鍵で、裏から入ろうと思ったんだ。暗くて、なかなか鍵穴が合わなくて」
「そうよ。準ちゃんはもう寝てるかもしれないと思ったから、声をかけたら悪いと思ったのよ」
「でも、準は意外と勇気があるな。もし、強盗だったら、包丁とか持ってるかもしれないぞ」
「えっ、ほ、包丁」
準は、危うくもう一度ちびりそうになりました。
「だから、物は盗られても、いのちの方が大切だから、部屋でじっとしてる方がいいと思うぞ」
「そ、それを先に言ってよ。ぼく、ほんとに怖かったんだから」
準は、なきべそをかきました。
「ごめんごめん。それと、もう一つ謝らないと。実はディナーショーっていうのは…」
お父さんが本当のことを言うと、準は口をとがらせて言いました。
「えーっ、それならぼくも連れてってほしかったのに」
「チケットが、2枚しかなかったんだ。ごめん」
「ごめんなさいね。でも、お留守番のご褒美に、ケーキを買ってきたわ。夜だけど、明日休みだし、特別に食べていいわよ」
「わーい、やったやったー」
準は、たちまちご機嫌を治しました。
「じゃあ、紅茶淹れてよ。やっぱりケーキには紅茶だねー」
「ちょっと準ちゃん。寝る前に飲んで大丈夫なの?。今度パンツ濡らしたら、もう替えがないわよ」
「えーっ。…じゃあぼく、やめとくよ」
「はははは」
「ほほほほ」
「えへへへ」
準は、4年生にしては幼いところがあります。でも、両親の愛情と信頼をいっぱい受けたら、子どもは少しずつ、確実に成長していくのです。 |