朗読会で、薄幸の仔狐に涙する準
第64話:朗読会(おもらしの哲学)−3−
 −第63話から続く−

 「お願い。トイレについてきてくれない?」
 その子は、準に小声で言いました。
 「うん、いいよ」
 準は、渡りに船とばかりにうなずきました。ひとりでなければ、怖いものはありません。ふたりでさりげなく体育館を抜け出すと、おしっこを済ませて帰ってきました。

 いよいよ、4年生の番になりました。準たちは舞台の上に並ぶと、用意してあるいすに着席しました。
 最初の子が、演壇の前へ進み出ました。そして、一礼をすると、『ごんぎつね』の一番最初から読み始めました。
 「ごんぎつね 新見南吉。 これは、わたしが小さいときに、村の茂平というおじいさんからきいたお話です…」
 最初の子が読み終わり、次の子にバトンタッチします。こうして、だんだん準の順番が近づいてくるにつれて、準の心臓の音は、ほかの人に聴こえるんではないかと思うくらいどきどきと速くなり、ほっぺが紅潮してほてってきました。手は、そろえたひざに載せた教科書の上で、軽く握りこぶしにしているのですが、掌に汗をぐっしょりとかいてしまいました。準は時々ズボンの横にこすりつけて、汗を拭きました。
 
 そして、とうとう一番最後、準が担当するところになりました。前の子と入れ替わりに立ち上がって、演壇のところに立ちました。下を見下ろすと、全校児童が準に注目しています。なんだか頭がくらくらして、気が遠くなりそうです。背筋がぞくぞくして身体が小刻みに震えてきます。準は何とか平静を保とうと、すぅ、はぁと、深呼吸をしました。
 準は教えられたとおり、手をまっすぐ前に出してマイクの向こう側に教科書を持ち、おしりを少し後ろに突き出す格好で背筋をぴんと伸ばすと、もう何度も練習した自分のパートを読み始めました。
 準はゆっくりと、大きな声で読み進めていきます。声が、若干うわずっているのが、自分でもわかります。でも、幸いに足が震えているのは声には伝わらず、壇に隠れて見えないため、とても堂々として見えました。
 準は、ときには兵十になり、あるいはごんになりながら、抑揚をつけて感情を込めて朗読しました。恥ずかしかったおもらしのことも、昼休み、遊べずに朗読の練習をしたことも、今の準には、もう関係のないことに思えてきました。

 いよいよクライマックス。ごんが、兵十に火縄銃で撃たれてしまうところにさしかかりました。
 「『ごん、おまえだったのか。いつも、くりをくれたのは。』ごんは、ぐったり目をつぶったまま、うなずきました…」
 そのとき、準の目から涙があふれてきました。薄幸の仔狐、ごんの気持ちになっていたので、思わず泣いてしまったのでした。準は、あわてて手の甲で涙を拭くと、あと少しの残りの部分を、涙声を悟られないように読み終えて、深々と頭を下げました。
 満場の拍手を受けて、準は一世一代の大舞台を無事に成し遂げ、降壇しました。


 その日の放課後、準はまた保健室のドアをノックしました。
 「いらっしゃい。今日はどうしたの?」
 保健の先生が、いつもの笑顔で迎えてくれました。
 「ぼく、朗読会、ちゃんとうまくできました」
 準は、顔を輝かせて報告しました。
 「そう、よかったわねえ。やればできるじゃない。これで、誰もきみのことを、おしっこたれの弱虫さんなんてからかわなくなるわよ」
 そこまで言われたことないんですけど、とか思いつつも、準はうれしそうにうなずきました。
 「…でも、ほんとのことを言うと、ぼく、最後のところで、少し泣いちゃったんです」
 「どうして。トイレに行きたくなったの?」
 「そ、そうじゃないんですけど。読んでたら、ごんのことがすごくかわいそうで…」
 「そうだったの」
 「でも、兵十もあとで後悔しただろうなあと思ったら、ぼく、どうしていいかわからなくなって。ああ、あとからしまったって思っても、もう遅いんですよね。ぼく、こないだおねしょ…いえ、なんでもないです」
 「覆水盆に返らずね」
 「うっ、いえ、その、なんて言うか…」
 「ふふふ。…ねえ、もし最後に、ごんがうなずかないで息を引き取ったとしたら、どうかしら。お互いに相手のことを誤解して、争ったり、対立したりすることがよくあるわ。だから、最後の最後にわかりあえたことが、せめてもの救いになっているのかもね。作者は、それも言いたかったんじゃないかしら」
 「そうですね。…でも、それにしても悲しすぎるなあ」
 準は、また涙目になりそうになりました。
 「やっぱり、きみは優しい子ね。ねえ、やってよかったって思ってる?」
 「お、おもらしですか」
 「違うわよ、朗読会の方よ。まあ、おもらしもいい一生の想い出になったと思うけどね」
 先生は、笑いながら言いました。
 「一生の…や、やだなあ」
 準は、ほっぺを真っ赤にして頭をかきました。
 「前も言ったけど、いい想い出よ。ずっと忘れないと思うわ、『ごんぎつね』をみんなの前で読んだことも。おもらしも朗読会も、きみにいっぱいいろんなことを考えさせてくれたわね。だから、よかったって思える日がきっと来るわよ」
 「はい」
 準は、朗らかにうなずきました。
 「また困ったことがあったら、いつでもいらっしゃいね。パンツだっていつでも貸してあげるし」
 「も、もうしませんよー…たぶん」
 「さあ、どうだかなあ」
 先生が笑いました。準もえへへへと照れ笑いをしました。こないだと同じ、西日の差す放課後の保健室。準はずっと準のまま、ちょっとだけ成長した、秋の日の出来事でした。 

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