おもらしして保健室で濡れたパンツを脱ぎ、拭きながら鏡の中の自分と向き合う準
第62話:朗読会(おもらしの哲学)−1−
 「次、羽犬塚」
 「は、はい」
 準は、先生に指名されて立ち上がりました。5時間目、国語の授業です。こんど朗読会という行事があって、それに出るクラス代表を決めなければいけないのです。その選考をかねて、一人ずつ前に出て教科書を読んでいるところなのです。
 準は、やや内股に、ゆっくりと歩きます。…実は、準はさっきからおしっこを我慢しているのです。授業が始まる前に行くつもりだったのを、ついうっかり忘れていたのです。さっきからズボンの前を押さえたり、おしりをもぞもぞ動かしたりしていたのですが、よりによってこんなときに指名されてしまったのでした。
 …トイレに行かせてくださいって言おうかな。
 実際、もう限界のようです。でも、恥ずかしがり屋の準は、そんなこととても言えません。 結局そのまま、教壇の前に立ちました。
 準はそのままもぞもぞしています。もちろん前の子がどこまで読んだかとか、聞いてはいません。
 「ん、どうした」
 先生が言ったそのときです。
 ”じょーっ”
 …あっ、
 準の意志に反して、おしっこが勝手に出てしまいました。準は力を入れましたが、どうしても止まりません。パンツとズボンからしみ出したおしっこは、勢いのいい音を立て、ふとももを伝って流れ落ち、足下に大きな水たまりをつくりました。全部出てしまうまで、準はなすすべもなく、ただ呆然と突っ立っていたのです。
 一瞬、教室が静かになりました。一番前の女の子が、準を指さして言いました。
 「あっ、おしっこもらした!」
 それを合図に、教室が騒然となりました。
 「静かに。…トイレに行きたいんなら、どうして早く言わなかったんだ」
 …だって。
 そう先生に言われても、準はうつむくばかりです。
 「床を拭いて、保健室に行きなさい」
 「…はい」
 準は力無く返事をすると、バケツとぞうきんを持ってきて自分の失敗の後始末をして、うわばきと靴下を脱いで保健室に向かいました。

 「失礼します」
 準は保健室のドアを開けました。
 「どうしたの。…あらあら、またやっちゃったのね」
 保健の先生は、準の濡れたズボンを見て、ちょっと大げさにそう言いました。以前もおもらししてパンツを借りに来たことがあるのを、先生は憶えていたのです。幸い、保健室にはほかの児童はいないようです。
 「パンツとズボン出してあげるから、着替えなさい」
 「…はい」
 準は、保健室の備品のズボンと、130サイズのパンツを受け取ると、部屋の隅で着替えを始めました。濡れたパンツは脱ぎにくいものです。準はズボンごと少しずつずらして、パンツとズボンをいっしょに脱ぎました。
 「これで拭きなさい」
 濡れているので汚れたズボンで拭こうかと思っていると、先生がタオルを持ってきてくれました。
 「着替え、手伝ってあげようか?」
 「…いえ、自分でできます」
 「そうね、もう4年生だもんね」
 先生はそんなつもりで言ったのではないのですが、準には4年生にもなって、と聞こえました。
 ふと目の前を見ると、鏡があります。準10歳。教室でおもらしして、濡れたパンツを脱いで立っている自分がいます。なんだか我ながら情けなくなりますが、もうどうしようもありません。自分でしでかしたことは、自分のこととして受け止めていかないといけないのです。準は泣きたくなるのを我慢して、あたらしいパンツと制服のズボンをはきました。

 汚れ物をビニール袋に入れてもらって、準は保健室を後にしました。今日は5時間目までだったので、教室にはもう誰もいません。教壇の前の床に、水たまりを拭いた跡が残っています。準はそれを見ないようにして、自分のランドセルを背負うと、とぼとぼと帰宅の途につきました。

 「ただいま」
 準は家に帰ってきました。
 「おかえりなさい」
 「お、お母さん」
 準は言おうかどうしようか迷いましたが、言わないわけにはいきません。準はランドセルからビニールに入った”おみやげパンツ”を取り出すと、お母さんの前にそっと差し出しました。
 「あら、まさか…」
 「だ、だって。ぼく…」
 準は、説明しようとしましたが、うまく言葉が見つかりません。少しの間、ふたりは見つめ合っていました。
 「…わかったわ。すんでしまったことは仕方ないわね。さあ、着替えておやつを食べましょう。今日はシュークリームよ」
 準は叱られるかと思っていたので、お母さんの優しい言葉に拍子抜けしてしまいました。いっぺんに緊張が解けて、目から涙があふれてきました。準はお母さんに抱きつくと、大きな声で泣きました。
 「あらあら、どうしたの。ばかねえ」
 お母さんは、ほのかにおしっこのにおいのする我が息子を、そっと抱きしめてやるのでした。


 翌日、準は重い足取りで学校に行きました。おもらしのことで、みんなにからかわれたり、いじめられたりしないかと、心配だったのです。でも、不思議とみんなそのことには触れませんでした。むしろ、日頃あまり口をきかないクラスメートに優しくされたりしました。
 ところが、準にとって大変なことが待っていたのです。
 帰りの会のとき、先生がおもむろに言いました。
 「今度の朗読会、羽犬塚くんに出てもらおうと思うんだ」
 一瞬、教室がざわつきました。なにぶん、昨日の今日です。でも、それ以上にびっくりしたのは、準自身です。何せ、全校児童を前に、体育館で教科書を読まないといけないんですから。
 「君は声もいいし、ぴったりだよ。だから、引き受けてくれるね?」
 「…はい」
 準はいやだとも言えず、何がなんだかわからないまま、うっかりうなずいてしまいました。

 放課後、準は保健室にやってきました。昨日借りたパンツとズボンを返しに来たのです。お母さんに洗濯してもらって、きれいにたたんであります。
 「ありがとうございました」
 「今度はちゃんと授業が始まる前にトイレに行っておくのよ」
 「…はい」
 準が保健室を後にしようとすると、先生が呼び止めました。
 「どうしたの、元気ないわね。友だちにからかわれたの?」
 「いえ、ちがいます。実はぼく…」

 −第63話へ続く−

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