「ぼく、ここ行ったことがあるような気がするなあ」
準が言いました。どこから引っぱり出してきたのか、窓際で古いアルバムを見ています。
「え。あらあら、それは私たちの新婚旅行の写真じゃないの。どこへ行くにもあなたを連れていったつもりだけど、それはちょっと無理みたいね」
洗濯物を入れていたお母さんが、笑いながら言いました。
「そうだぞ。おまえはまだお母さんのおなかにもいなかったはず・・・たぶん」
お父さんもやってきて、なぜか指で数を数えながら言いました。
「・・・そうかなあ」
「それは心理学で言うと、既視感(デジャ・ヴ)ってやつだな。そうでなければ、昔お父さんかお母さんが、おまえに語って聞かせたのを、自分の体験と思ってるだけだな」
「・・・・・・」
「そう言えば、ひいおばあちゃんの法事のとき、準ちゃんが突然、『ぼく、そのおばあちゃんといっしょに遊んだことがあるよ』って言ったことがあったわね」
お母さんが言いました。
「そうだよ」
「でも、ひいおばあちゃんは、あなたが生まれる前に亡くなってるのよ。たぶん、みんながひいおばあちゃんの話をして、自分だけ知らないものだから、お話の仲間に入りたかったのね」
「そんなことないもん。ほんとにいっしょに遊んだことあるんだもん」
準は、むきになって反論しました。
「ハハハ。幼い頃の記憶なんて、結構曖昧なものだな」
お父さんに言われて、準は面白くありません。
「ねえ、お母さん。ぼく、3つくらいのとき、入院したのよく憶えてるよ」
「そうね。もう少しで肺炎になるところだったのよ」
「あのとき、病院の売店で三ツ矢サイダー買ってもらったよ。それから、おばちゃんがお見舞いに来て、こんなでっかいペロペロキャンディくれたよ。それから・・・」
「病院が丘の上で、夜、窓から見えるコンビナートの明かりが不夜城みたいできれいだったわね。火を噴く煙突が幻想的だったわ」
「あーん、それ言おうとしたのに」
「あら、ごめんなさい。準ちゃんは、昔のことをよく憶えてるのね」
なんだか取って付けたような言い方で、準はどうもすっきりしません。
「ぼく、どこかの神社の縁日で、赤いうさぎの形をした風船を買ってもらったよ」
準が言いました。
「お父さんだったかお母さんだったか、おんぶされててね、『風船から手を離しちゃいけないよ』って言われてしっかり持ってたんだ。そうしたらね、前に同じように風船を持っておんぶされてた女の子が、ぱっと手を離したんだ。風船はどこまでもどこまでも夜空に昇っていったよ。ぼく、『あの風船はどこに行くの?』って訊いたよねえ」
「そうだったかしら」
「さあなあ。でも、それが準の記憶の発端、つまり、この世に生まれて最初の記憶ってやつかもしれないな。夜空に消える赤い風船か。なんかとてもきれいな想い出だな」
「そうね。やっぱり準ちゃんは記憶力いいのね」
「うん!」
お父さんとお母さんに言われて、準はようやく機嫌が直りました。
「ちょっと、準ちゃん」
台所に行ったお母さんが、準を呼びました。
「なあに」
「さっきお使い行ってくれたんだけど、麻婆豆腐の素はどうしたの?」
「えっ・・・。あ、忘れてた」
「もう。せっかく物覚えがいいって誉めたばっかりなのに」
「えへへ。すぐ買ってきまーす」
準はそう言うと、さっきお釣りを全部お母さんに返したのも忘れて、靴をつっかけると、外へ駆け出していきました。 |