麦切り(前編)

 駅でふと手にしたJR東日本のパンフレット『やまがたそば街道』からこの物語は始まる。件のパンフレット、山形県のおいしいそば屋を紹介しているのだが、そばの写真の中に白い線状のものがある、更科そばかもしれないが、うどんのようにも見える。記事を見てみると「麦切り」というのものだった。
 今、普通に食べているそばは「そば切り」の略である。小麦粉を使ったそば切りを切り麦といい室町時代の切り麦がうどんの元祖とされてきた。小麦粉をこねて麺棒で延ばし、包丁で切り、ゆでて熱いうちに蒸籠に盛って食べると熱麦(あつむぎ)、水につけざるに盛って食べるのを冷麦(ひやむぎ)、熱い汁に入れて食べるのが饂飩(うどん)とされてきた。それじゃ麦切りは?

 山形県を大きく分けると4つになる。山形市を中心とする村山地方、米沢市を中心とする置賜地方、山形新幹線が99年12月に延伸となる新庄市を中心とする最上地方に鶴岡市、酒田市を中心とする庄内地方である。そのどの地方でも母なる川と呼ばれる最上川に出会える。

 山形県は実は隠れたそば処(決して隠れているわけでなく日本一だと山形県民は信じているよう)だが、この事実が世間に知られていないことに県民は憤りを感じていたようである。市内の書店には山形のそばについての本が何冊も並んでいる。このあたりの麺事情を少し整理してから、麦切りの謎に迫ろう。
 
 まずは県庁所在地の山形市、最上氏の栄華を偲ばせる広大な山形城(霞城公園)が残る、ここの名物はなんといっても冷やしラーメンであろう。冷やし中華(冷やし中華は同じ東北の仙台が、冷麺は盛岡が発祥の地らしい)ではない。ラーメンに氷が浮かび、だしが冷たいもの。写真ではストロボの関係で油が反射しているが、実際は透き通っている。山形市は盆地で夏は暑いそれで考え出されたのだろうが、冬でもこのメニューがあるのがすごい。何故どうして突然ラーメンの話?と思う方もあろうが、冷やしラーメンの元祖栄屋本店は老舗のそば屋である。山形ではラーメンはそば屋で食べるものである。そしてもう一つ山形の秋の名物河原の芋煮会、この芋煮を取り入れたが佐藤屋の芋煮そばとラーメン。そば処はどうしたんだとの声には、創業130年山形最古の暖簾を誇る庄司屋のそばをどうぞ。 

 次に米沢に向かうのだが、JRのパンフレットの南陽市の山奥の茅葺き屋根のそば屋が気にかかる、山形新幹線を赤湯で途中下車し、山形鉄道フラワー長井線のワンマンカーに乗り換えた。宮内駅から10キロ、タクシーの窓からは熊に注意との道路標識が見える、当たり前のことなのに、どうしてそば屋っていつもこんな山奥にあるのか、とつい思ってしまう、15分くらいで目的のそば屋に着いた、荻の源蔵そばという。香川県からきたというと驚いたようで少しお酒もいただいた。お代わりしたが、そばってお腹がすく割には食べたときどうして、胃にこたえるのだろう。次の新幹線まで時間があったので赤湯ラーメンの龍上海に寄った。
 上杉家ゆかりの米沢、ここでは何をおいても米沢牛であろう、「おいおい修行はどうした」との声が聞こえてきそうだが、私は修行の旅では麺類ばかりを食べているが唯一米沢において米沢牛を食べた、これはうまかった。本題に戻るが米沢のラーメンは全国的に有名であるが、これもそば屋から始まったのである。手揉みの縮れ麺が特徴だ。かど久に喜久家。でも喜久家の中華うどんというラーメンのスープにうどんが入ったものがあったがこれは。

 全然麦切りにたどり着いていないがとりあえずのまとめ、山形県人にとってラーメンはそば屋で食べるものだったようである。そば処山形のそば屋は東京のそば屋に比べて量が多いのがいい。味は?残念ながら味についてふれるほどそばのことはよく知らない。ラーメンにしろそばにしろ麺にこだわりが強い土地である。期待をしながら麦切りの謎へ(後編に続く)。 

 

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