五島うどん

 長崎の西100キロの東シナ海に浮かぶ五島列島は、南から北に向かって連なる福江島、久賀島、奈留島、若松島、中通島の5つ大きな島と周辺の大小141の島々からなる。福江島、久賀島、奈留島を下五島、若松島以北を上五島と呼ぶ。古くは空海も立ち寄ったことがある遣唐使の最終寄港地で、倭寇の根拠地でもあった。

 五島うどんは上五島に地域に伝わる手延べうどんの総称で上五島町では船崎うどん、有川町では有川うどんと呼ばれる。伝承では、鎌倉時代に元が日本に攻めてきたがそのとき出陣した船崎氏が捕虜にした中国人からうどんの製法を習い村人に伝えたのだという。

 旅の計画は完璧だった。ジェットフォイルで福江島に渡り、午後観光し泊まる、次の日フェりーで奈良尾に渡りバスで有川へ、うどん屋巡りをした後観光し、夜宿で五島うどんを食べ情報を仕入れる。最後の日仕入れた情報を元に行動し午後8人乗りのコミューターで博多へ飛び帰ってくる。難関の飛行機の予約が出来て安心したのもつかぬ間私の予定した時刻にジェットフォイルが運行されていない、ドック入りらしい、福江着が夕方になる。ちょっとつまづいたが、このときは長崎で皿うどんが食べられると単純に喜んでいた、この後の運命は神のみぞ知るところであった。

 朝善通寺を発ち、昼長崎に着いた。異国情緒漂う長崎は残暑厳しかった、台風が来てるなんてとても思えなかった。名物皿うどんはちゃんぽんから派生した中華の1種である。かん水(長崎では唐あく)を使うか否かで中華とうどんの麺は区別される。鉄則に従い駅に近い「飛龍園」で食べたが、特製ですかときかれた、具の種類で並と特製があるらしい、特製750円にした、昔食べたお菓子のラーメンのような麺だった。太めと注文する客がおり皿うどんには細麺(揚げソバ)と太麺があることを知った。中華街の「会楽園」では太麺の並(735円)を頼んだがこれは柔らかく(チャンポンの麺)ふとうどんを使うと皿うどん焼きうどんバージョンが出来るぞと思った。長崎の人は細麺が好きで通はソースをかけて食べるそうだ。

 腹一杯になったところでジェットフォイルに乗り福江島へ渡った。85分の快適な航海であった。次の日少し風が強かったがよく晴れていた、朝1番のフェリーで奈良尾に向かった、少し揺れがあったが80分で着いた、奈良尾では雲が広がり風が強くなっていた。バスでとりあえず有川に向かった、港でタクシーに乗り換えたが運転手さんが、もう有川からは船はでない、飛行機も飛ばない、本土に渡る手段は博多行きの船しかない、明日になれば2,3日は島から出られないと言う。帰れないのはいいとして、うどんも食べ歩けない嵐は悲劇だ。とりあえず五島うどんを1玉でも食べて島から脱出することにした。
 竹酔亭という製麺所直営の食堂に行きかけと古式(湯だめみたいなもの)を食べた、丸細い麺だった。聞けば店で出すのは半生のようだが、地元の人は乾麺をアゴ(トビウオ)のだしにつける地獄炊き(釜上げのようなもの)が好みのようだ。食べたかったが出来ないようなのでおみやげを買って家で試すことにした。
 やっとの思いで博多行きの「静如太古」から名付けられた「太古」に乗ったがなかなかどうして穏やかなのは島影か港に入ったときだけで、博多までの7時間の半分は遊園地のバイキングより揺れ、酔い止めにしようと飲んでいたビールの缶まで転がっていった。

 ということで、取材は充分ではない、現地で作り方をみたわけでもない、一応文献等で仕入れた知識でまとめをする。五島うどんは、島特産の椿油を塗り、両手で細くしながら2本の竹に八の字に掛けていく、これを乾燥させて完成する、そうめんとか稲庭うどん(油は用いない)の技法と同じである。五島を訪れたうどん博士の加藤先生はその作り方をみて索餅の技法を想像し、遣唐使にそのルーツを求めている。

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