「心の教育」が学校を押し潰す
 野田正彰氏      世界2002年10月号
                  (2003年2月3日)
 
教科書でも副読本でもない本が国費でつくられ、
全国の小中学生に配られている。
その名は『心のノート』ー
学校現場で展開される「心の教育」の危険な本質に迫る!
 
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99年中教審答申が推進力に
 
 伝統文化の強調と道徳教育と心理主義が三位一体となって、
児童・生徒の国家への統合が急激に進められている。三つの
傾向ー心理主義的ナショナリズムと呼ぶことにしようー
は以前から進められていたものの、三本を一体として教育政
策とすると宣言したのは、1999年6月の中央教育審議会
答申「新しい時代を拓く心を育てるために一次世代を育て
る心を失う危機」であった。
 続いて答申を説明していくのだが、その前に文部省の文章
は表題から日本語の体をなしていないことを理解しておこう。
副題の「次世代を育てる心を失う危機」とは何を意味するの
か。「次世代を育てる心」とは大人たちの心のことか。「育て
る心」という表現はありえない。「心を失う危機」とは何か。
精神的危機という概念はあるが、心を失うとは失神すること
なのか。ましてや「心を失う危機」とはどんな危機なのか、
想像すらできない。通して「次世代を育てる心を失う危機」
と読み直すと、頭がおかしくなってくる。「次世代の心を貧
しくする危機状況」とでも言いたいのだろう。さらに「新し
い時代を拓く心を育てるため」の答申なのに、なぜ副題は
「心を失う危機」なのか。もう少し正常な日本語を書ける人
はいないのか。私は文部省(現文部科学省)・教育委員会関連の
文章を読んでいるといつも、社会科学の研究者であるよりも、
一病者の手紙を解読する精神科医の立場に連れ戻される。後
述するが、このような非論理的文章を国家の政策文章として
読まされると、社会は少しずつ狂気に傾く。重要な問題である。
 
 さて、「新しい時代を拓く心を育てるために」と題する答
申は、二つに分かれており、その主答申は「幼児期からの心
の教育の在り方について」となっている。この答申の第四章
が、学校教育についての提案となっている。「小学校以降の
学校教育の役割を見直そう」の題のもとに、次のようになっ
ている。
 
 小学校以降の学校教育の役割を見直そう
1.我が国の文化と伝統の価値について理解を深め、未来を
 拓く心を育てよう
 (a)我が国や郷土の伝統・文化の価値に目を開かせよう
  国や郷土の伝統・文化や歴史に対する理解を深め、尊重
  する態度の育成が重要である。そのため、
  @各教科や道徳・特別活動での取組を進めること
  A国や郷土の遺跡や文化遺産、伝統工芸や芸能に直接触
   れ、親しむ体験学習の積極的な取り入れ
  B地域の人材の協力を得ること
  C教員自体が、国や郷土の伝統・文化に親しむ学習に参
   加できるよう、研修等で配慮
 (b)権利だけでなく、義務や自己責任についても十分指導し
  よう(説明は略)
 (c)よりよい社会や国づくりへの参加と国際貢献の大切さに
  気付かせよう(中略)
 (d)人の話を聞く姿勢や自分の考えを論理的に表現する能力
  を身に付けさせよう(中略)
 (e)科学に関する学習を生かし、驚きや自然への畏敬、未来
  への夢をはぐくもう(中略)
 (f)子どもたちに信頼され、心を育てることのできる先生を
  養成しょう
  @教え方の指導や子どもとの触れ合いを重視する観点か
   ら、教育養成カリキュラムの改善・充実を図ること
  A採用に当たっては、面接の重視、ボランティア活動や
   自然体験活動の経験を採用の重要な資料とすること、
   地域での実践活動の評価、選考に当たって地域の有識
   者等の起用(Bは略)
2.道徳教育を見直し、よりよいものにしていこう一道徳の
 時間を有効に生かそう
 (a)道徳教育を充実しよう
  @「道徳の時間」の時間数を確保するなど、指導体制を
   整えること
  A教員一人一人が道徳教育の重要性を認識すること。校
   長は教員の啓発に努めること
  B特別活動等における体験的・実践的活動との関連を重
   視して、子どもが自ら考えることを大切にした道徳の
   授業を実践すること
  C「道徳の時間」を学校教育を通して行われる徳育
  D教材等を工夫して、子どもの心に響き・感動を与える
   授業を行うこと
  E保護者や地域住民が学校の道徳教育の実施状況に関心
   を払い、学校の求めに応じ積極的に協力していくこと
3.カウンセリングを充実しよう
 (a)スクールカウンセラーに相談できる体制を充実しよう
 (b)スクールカウンセラーの養成の充実を図ろう
 (c)教員はカウンセリングマインドを身に付けよう
 (d)「心の居場所」としての保健室の役割を重視しよう(説
  明は略)
 
 ここに伝統文化の強調と道徳とカウンセリングが一
体となって重視されていることが分るだろう。それぞれを検討
していこう、
 
「伝統・文化」は未来を拓かない
 
まず伝統文化の強調について。
第一の提案の文章そのものが、非論理である。「我が国の
文化と伝統の価値について理解を深める」ことが、「未来を
拓く心を育てる」ことにどのようにつながるのか不明であ
る。そもそも、「未来を拓く心」という言葉は曖昧であり、
何を意味するのか、定義がない。分裂言語をあえて理解しよ
うとすれば、「未来を拓く心」とは(b)から(e)までの、「義
務や自己責任」、「よりよい社会や国づくりへの参加と国際貢
献」の意欲」、「人の話を聞く姿勢や自分の考えを論理的に表
現する能力」、「自然へ畏敬」と言いたいのであろう。だがそ
れらを混ぜあわせれば、なぜ、「未来を拓く心」になるのか、
説明がない。
 たとえば(e)の「科学に関する学習を生かし、驚きや自然へ
の畏敬、未来への夢をはぐくもう」という文章、これがその
前の(d)に述べる「自分の考えを論理的に表現する能力」を求
める者の文章か。何についての「驚き」なのか、書いていな
い。「科学に関する学習を深め、自然現象について驚きや畏
敬から、科学の発展への夢をはぐくもう」とでも、言いたい
のであろう。これほど弛緩した文章が「論理的に表現する能
力を身に付けさせよう」という文章に連続すると、読む側は
知らず知らずに思考が混乱していくのである。また「自然へ
の畏敬」を抱くのは自由だが、アニミズム、多神教、神秘主
義、神道に結びつく、非自然科学的な「畏敬」を強制しては
ならない。一部の科学者に「自然への畏敬」の念があるとし
ても、それはその科学者の情念の問題であり、科学的な思考
ではない。
 
 それでは、なぜ「我が国の文化と伝統について理解を深
め」ねばならないのか。
 この中教審答申の第一章の冒頭で、我が国は、継承すべ
き優れた文化や伝統的諸価値を持っている。誠実さや勤勉さ、
互いを思いやって協調する和の精神」、自然を畏敬し調和
しようとする心、宗教的情操などは、我々の生活の中で大切
にされてきた。そうした我が国の先人の努力、伝統や文化を
誇りとしながら、これからの新しい時代を積極的に切り拓い
ていく日本人を育てていかなければならない」と主張されて
いる。この思考はあいかわらずの復古の思想に基づいている。
いにしえに良きものが全てある、という思想である、
 「和の精神」を強調する人は、必ず聖徳太子の制定したと
伝わる十七条憲法(604年?)を拠とする。そして「和を以っ
て貴しと為す」だけを取り出すが、それは「詔を承けては必
ず慎め」とセットになり、天皇を中心として豪族へ従順を説
いている訓戒であったことを隠している。しかも官僚・豪族
に「和の精神」がなかったが故に、道徳を説いたのであり、
実現された伝統であったのではない。ここでもすり替えが行
われている。
 
 まず第一に、「我が国の文化と伝統を学ぶ」という言葉が
跳るとき、それが「日本の優れた文化と伝統を学ぶ」と同じ
言葉として使われていることに注意しなければならない。
かなる文化もひとつのまとまりを持っている。様ざまに優れ
た面もあれば、病理的な面もある。文学、芸術、音楽、建築、
宗教、生活文化など、部分的に洗練された文化を創っていて
も、欺瞞に満ちた人間関係、抑圧的な政治システム、格差の
激しい経済に閉ざされている文化もある。後者の否定的な部
分文化も、その文化の一面である。いずれも密接にからみ
あっている。否定的な文化と優れていると見える文化との関
連を捉えてこそ、全体としての文化の理解に到る。
 調子のよいニュースや論説ばかり載せる新聞を読んで、今
日の社会を知っていると思えるだろか。同じく、日本の優れた
れた文化を学ぶという主張は、巧言令色以外聞かぬといって
いるに等しい
 
 自惚れてはいけないという道徳があるのに、個人ではなく
集団、とりわけ民族といったあいまいな集合の概念に主語が
替わると、自惚れがなぜ最も望ましい徳目に変わるのか。
自国の文化が優れていると思い込み、先入観から過去の文化を
解釈し、飾りたてる。
 
 このような自文化中心主義に陥れば、他の文化への関心は
必ず低下し、既知の文化についても序列をつけて見るように
なる。例えば英米の文化を学んでコンプレックスを抱き、そ
の反動として日本文化の独自性に気付き、日本文化への誇り
からアジアの諸文化を知りもしないで遅れたものと見なす。
このような屈曲のプロセスは福沢諭吉以来、多くの日本文化
人がたどってきたところである。
 
 第二に、日本の文化を学ぶことによって「民族のアイデン
ティティ」が確立されるといった、心理学的説明もされる。
だが、アイデンティティ(自我同一性)とは個人の自我の統合機
能についての概念であり、民族に自我同一性なるものはない
それは個人の心理の単なる比喩でしかない。民族は歴史的に
造られてきたのにもかかわらず、もともとひとつのまとまり
であるかのように扱われる。そこには言葉の偽計がしくまれ
ている。民族のアイデンティティを確立するとはアイデン
ティティを確立することではなく、我が民族を恣意的に決め
つけようとすることにすぎない
 
 第三に、よく使われる「日本の伝統文化を学ぶことが、国
際化に通じる」という言回しに、なんの論理性もない。この
中教審答申では「未来を拓く心」という情緒的な言葉へとつ
ながり、意味不明であるが、(c)「よりよい社会や国づくりへ
の参加と国際貢献の大切さに気付かせよう」がいつもの言回
しのつもりであろう。
 身近な文化を知ることは良いことだが、ひとつの文化を
知ったからといって、他の文化を理解することに直接つなが
りはしない。ましてや、自国の文化に誇りを持つことは他の
文化理解と無関係である。誇りとは感情であり、情動であり、
知性でない。自国文化への誇りは、むしろ他の文化への無関
心や優越感ーそれは偏狭なナショナリズムであると言われ
たりするがーにつながりやすい
 「外国へ行って日本の伝統文化について質問され、答えら
れなかったので恥ずかしかった、だから日本の優れた文化を
学ばねばならない」といった、生徒用の説得がよく使われて
いる。だが恥ずかしいのは、身近な文化を知ろうともせず生
きてきたその人個人であり、日本人としてではない。近くの
アジア諸地域の基本的な文化を知らなければ、やはり恥ずべ
きである。外国を旅して、その地の歴史や文化に無関心なら
ば、反省すべきである。
 
 「我が国の伝統文化を学ぶことは、国際社会で生きていく
ために重要」といった奇妙な言回しは、すでに15年以上前
から「日の丸」掲揚・「君が代」斉唱の強制の説明として繰
り返し使われてきた。例えば「中学校学習指導要領.社会
」では、「『国家間の相互の主権の尊重と協力』との関連で、
国旗及び国歌の意義並びにそれらを相互に尊重することが国
際的な儀礼であることを理解させ、それらを尊重する態度を
育てるよう配慮すること」と書いている。
 この文章も例のごとく何度読んでも意味不明である。「国
旗・国歌の意義」については何も述べない。ところが「国際
的な儀礼であること」という現象を並記する。意義は理解さ
せられるかもしれないが、現象は知るものであって、理解す
るものではない。いずれにせよ「国家間の相互の主権の尊重
と協力」と、国旗・国歌を尊重する態度がどのように結びつ
くのか、分らない。国家間で主権を尊重するのに、ハタ・ウ
タが大事なら、国家を代表する者同士でやればよい。生徒が
日の丸・君が代を尊重すれば、なぜ「国家間の相互の主権の
尊重と協力」になるのか。もしそうであると言うのなら、
前、あれほど日の丸・君が代にかしこまっていた日本人が
、国家間の相互の主権の尊厳と協力」を行っていたか。侵略
戦争は「国家間の相互の主権の尊重と協力」のあらわれとで
も言うのか。そもそも日の丸・君が代の歴史的役割について
問題にすることが、国旗・国歌の意義といかに対立するのか。
すべて、何も分らない。
 
 この種の文章は、矛盾していればいるほど有難がる、戦前
の日本的知性と通底している。死即生、絶対矛盾の自己同一
のたぐいである。臨済宗の学僧、市川白弦は戦時の「殺人刀
即活人剣」、「一殺多生」、「悟りにおいては善悪不二」といっ
た宗教的詭弁を「即の論理」と呼んで批判している。矛盾は
矛盾でない、無関連に見えるものは関連している、ただ粛粛
と実行するのみ、これが即の超論理であり、今また教育行政
の文章に復活しつつある。
 
 最初の中教審の文章にもどろう。「我が国の文化と伝統の
価値について理解を深める」ことは、「未来を拓く心を育て
る」ことと関連はない。初等中等教育では出来るだけ明晰な
言葉を使うように心掛けねばならないが、これらの文章は明
断の対極にある。こんな文章を読み、生徒や教師に喋り、命
令する者は、その順に頭がおかしくなっていき、退行してい
のである。
 
『心のノート』がくり広げる病理的道徳教育
 
 次に、道徳教育の見直しについて。
 見直しの第一歩として、今年四月、全国のすべての小学生、
中学生に『心のノート』なる本が配られている。総カラー、
パステル調のこの本は、小学校低学年用、三・四年生用、高
学年用、そして中学生用の四種類。文部科学省が七億二九八
○万円の予算で作り、趣旨は「道徳教育の充実を図る」と説
明している。
 ところがこの『心のノート』は「教科書ではなく、道徳の
時間に活用される副読本や指導資料に代わるものでもなく、
『心のノート』のみをもって道徳教育を行うというものでな
いことに留意」するようにとの、持って回ったただし書きが
付記されている。ここにもまた思考の乱れがある。
 
 実はこの本が文科省著作の非合法国定教科書であることは
隠しようがないので、教科書でもない、副読本や指導資料で
もないと弁明しているのであろう。それでも弁明どおりに受
けとれば、何ものでもないノートになぜ国費を使うのか
文科省はこう弁明しながら、七月初めには各都道府県教育
委員会にあてて、配布状況について調査を行えと命じ、さら
に後日、活用状況について調査すると脅迫している。文科省
が常用するトリックである。こんな文科省のナイナイ本が作
られるなら、次は”教科書でもない、副読本でもない”歴史
や公民の国定教科書が配られるようになるだろう。
 
 さて、私はこの本を使った最初の授業が、京都市の大宅小
学校で六月二三日に行われると聞き、参観に行った。『心の
ノート』の作成協力者会議の座長は京大教育学部教授であっ
た河合隼雄氏(文化庁長官)、作成の中心人物のひとりは京都市
教育委員会出身で文部科学省教科調査官の柴原弘志氏。しか
も桝本頼兼京都市長は市教育総務あがりである。河合氏に
よるスクールカウンセラー派遣と道徳教育と伝統文化の強調、
つまり心理主義的ナショナリズムの実験場に京都市はなって
いる。かくして京都の小学校で、校長命令による『心のノー
ト』道徳教育となったわけだ。
 この日、道徳の授業を行っているどの先生も、させられて
いるのであり、心此処に在らずという表情だった。ある先生
は、男の子と女の子の違いを生徒に述べさせた後、『心の
ノート』のなかの「友だちのよいところを見つけよう」の
ぺージを開かせ、少しだけ書き込みをさせて終わった。
ある先生は、スカートをはいたスコットランドの男性の写
真を見せて、男女の服装外見について意見を聞いた後、『心
のノート』の「学級の仲間は、どんな仲間かな?」のぺージ
を開かせただけだった。いずれの授業も、何の授業なのか分
らない。生徒の断片的な知識や意見を並列し、討論すること
なく終り、唐突に『心のノート』の関連不明な頁を開かせて
形式を繕っている。こんなこじつけの授業を受けると、生徒
の思考は発達を阻害され、論理性が低下する。学校教育公認
の支離滅裂、社会化された支離滅裂へと訓練をしているよう
なものだ。
 
 大宅小学校での保護者参観の道徳授業の翌週、河合氏はマ
スコミを招いて、京都西陣中央小学校で道徳の「特別授業」
を行った。マスコミ用の案内には「河合隼雄文化庁長官が
『心のせんせい』として、小学校六年生を対象に、『心のノー
ト』を用いて道徳の授業を行う」とある。「心のせんせい」
とは何者か。スクールカウンセラーのところでは、「心の専
門家」といういかがわしい敬語を枕言葉に使わせ、「心の専
門家」の教祖となった人は、ここでは「心のせんせい」の翁
(神)を演じようとしている。
 
 私は学者として参観を申し込んだが、マスコミしか入れな
いと断わられた。河合氏は『週刊朝日』連載の「ココロの止
まり木」(7月26日)ーここでもココローで、この授業を
自慢している。彼は『心のノート』五、六年生用の「自分を
見つけ、みがきをかけよう」の頁を教材に使い、自分のいい
ところが書けない子がいたので、「そこでふと思いついて、
その子に立ってもらい」、他の子にその子のいいところを
言ってもらって、おもしろかったと書いている。98年の中
教審委員、さらに『心のノート』の作成協力者会議座長にな
り、やりたかった授業を京都市教育長らお付で行い、「ふと
思いついて」授業展開を楽しめる人である。公開授業で徹底
した準備を求められたり、あるいは週授業計画で授業内容の
予定を書かされる「普通のせんせい」のこころの強張りは想
像できないのであろう。「させる者」は「させられる者」に
思いやりを持たない
 
 ここで『心のノート』の特色を三つ挙げておこう。第一の
特色は、道徳の心理主義化による自己の分割である。第二に、
「自分さがし」から家族愛、郷土愛、一そして愛国心へ誘導し
ていく、戦前から染み込んだナショナリズムの思考バターン
に貫かれている。第三に、中学生版にみられる、編集者に
よって断片的に切り取られた有名人の言葉を羅列し、生徒の
思考を限定、貧困化させる傾向である。
 
 まず第一の、最も重要な、道徳の心理主義化による自己の
分割について。以下、主として中学生版を引用しながら分析
していこう。
 『心のノート』一、二年生版の最初の頁には、「このノートは、
あなたのこころをおおきくうつくしくしていくためのもので
す、こころのえいようをじょうずにとるためのヒント……」
といった調子で、こころが実体化されて述べられている。こ
ころの定義はなく、「こころのえいよう」といった心を物と
みなす比喩であふれている。自分のなかに心という物がある
と思い込ませた上で、中学生版では冒頭から、「自分さがし
の旅に出よう カバンに希望をつめ込んで 風のうたに身を
まかせ 自分づくりの旅に出よう」と呼びかける。
 
 曖昧に心と自分を混同させた上で、「私の自我像」を書き
込むようになっている。「うらやましいと思うこと」、「自分
に腹が立つこと」、「自分の好きなところ」、「自分の改めたい
ところ」などを書くように一覧表が置かれている。
 
 続いて繰り返し繰り返し、心のスタイルに注意するように
誘っていく。「心の姿勢」の頁では「街中で大きな硝子窓に
映った自分に気づいた。いつもまっすぐ胸を張って歩いてい
るつもりなのになんだか自信なさげにうつむきかげんに
歩く私がそこにいた。髪型や服装、スタイルばかり気になっ
ていたけれど自分の中身は、ぜんぜん気にもしなかった。
一でも、この硝子窓には、私の心が映っているよう」と
いったふうに。一方では「心を形に表していこう」、「T.P.
Oを考えた言動ができているか?」、「礼儀には脈々と受け
継がれている伝統的な意味があり価値がある」と畳み掛ける。
 
 そこで子どもは何を求められているか、すぐ察知するであ
ろう。自分を見つめ、良い自分と悪い自分を分割し、場面に
応じて良い自分を装うこと。これが学校の先生の要求する
「こころ」であることを、心から、知るであろう。何のこと
はない、これでは、現代の若者が得意とする、自分のなかに
別の自分がいるといった、ファッションとなった解離体験を
推奨しているようなものである。
 
 80年代より、日本の子どもは他の子どもとの深い交流を
避け、表層の情報の交換を好み、周囲のT.P.0.に応じた行
動をとる適応力を高めてきた他者との摩擦を強く恐れ、常
に集団の動向に言動をあわせようとしている。『心のノート』
は現代っ子が「心を形に表して」いないと思い込んでいるよ
うだが、むしろT.P.O.に応じた挨拶をするのは上手になっ
ている。ただ自分ら勝手な言動をとっていると見えるのは、
大人たちのT.P.0.とズレがあるからである。なお自分ら勝
手と言ったのは、大人たちが自分勝手と否定する言動のほと
んどが仲間集団に依拠した言動であるからである。心を形に
表わせないほど、現代っ子は恥ずかしがりではない。
 
 日本の子どもは幼いときから、周囲への適応のみ上手にな
り、ひとりでいるときはビデオ、マンガ、アニメ、情報雑誌
などの接触を通して、自分だけのファンタジーを作る傾向に
ある。ひとりで膨らませた思考は、他者と対話することに
よって訂正され、豊かになり、交流可能な思考となっていく。
だが自分が素朴に考えたことを周りに言うと、それは弱味を
伝えることになるのではないか、いつの日にかいじめの材料
にされるのではないか、と恐れる子どもは自閉思考をさま
よったり、膨らませたりするだけである。
 
 こうして子どもたちは過剰適応する自分と自閉思考に安ら
ぐ自分を、巧みに素早くコード・スイッチングさせながら生
るようになっている。大人たちから道徳を呼びかけられ、
ボランティア活動を評価すると言われ、総合学習に取り組め
と命じられれば、「別に」とか応えながら、そこそこにこな
す。だが適応への呼びかけが切れるとすぐ、ひとり笑いとひ
とり言のできる自閉思考の世界に遊ぶ。
 
 このような切りかえの敏速さを表現した若者言葉に、「切
れる」がある。「切れる」とはどういうことか。中学生たち
は、「服が切れて、髪の毛が逆立って、威嚇して、エラ呼吸
しはじめてジャンプ」、「澄んだ目をしていて、口をきかな
い」、「ちょっと肘が当っただけで、一発殴って叫び出した」、
「先生に怒られて、その先生の教科のノートをビリビリにし
たり、黒板に”死ね”と大きく書いていた」と説明している
月、「キレる・ムカつくし」、明らかに現代日本の子ども文化とし
て定着した「解離」が述べられている。
 
 解離(あるいは転換性)障害とは、困難な葛藤に直面したとき、
過去の記憶、自己同一性と直接的感覚の意識、身体運動のコ
ントロールに関する統合が、部分的あるいは全面的に失われ
ることをいう。子どもたちの「切れる」は解離に似ているが、
異なるのは極めて意識的な行為であることだ。「それは誤っ
ている」、「いやだ」と言葉で表わせないので、替わりに「切
れる」ことが定型表現として認容されている。現代日本の子
ども文化としての「解離」が「切れる」である。
 
 精神障害としての解離ー解離性健忘、遁走、昏迷、憑依
などと違った、若者ファッションとしての解離の言い訳は枚
挙にいとまがない。95年、神戸市で連続殺傷事件を起こし
た少年(14歳)は、ノートに「懲役13年」と題して次のよう
にメモする。
(略)
 
 これが少年の本当の「心のノート」である。観念は弛緩し
て結び合されているが、それでも中教審の文章より粗雑では
ない。蝋で作ったバラのつぼみやプラスチックで出来た桃が
より完壁に見えると見抜く少年に、『心のノート』ごとき道
徳の呼びかけが、何を伝えているか直観できないはずがない。
 
 あるいは2000年5月、バスジャック殺人事件を起こし
た佐賀市の少年(17歳)は次のようにメモしている。11歳
のときから練った計画を実行すると言い、「僕の肉体は滅ん
でも精神だけは滅ばない」と叫ぶ少年はつぶやく。
(略)
 
 この二少年の「心のノート」によく表われているように、
現代っ子は周りにうまく適応しようとしていけばいくほど、
別の自分を創らなければ生きていかれなくなっている。河合
氏らの作る『心のノート』は、他人の眼に映る良い自分と悪
い自分を分類し、良い自分を形で表わせとソフトに語りかけ
る。時には「この学級に正義はあるか!」と二頁抜きの大活
字で迫ってくる(中学版94〜95頁)。だが子どもたちは、そ
の程度の自分の整理は容易にやってのける。会社人間となっ
た大人の眼、教育委員会に追従する校長とその校長に追従す
る先生の眼、集団に上手に適応している同級生たちの眼、そ
れらの眼を自分の眼と置き替えて自分を見る、自分の悪いと
ころを言う。そんなことは、現代子ども文化ではプログラム
ずみである。
 
 道徳の教育とは『心のノート』の方針とは反対に、社会に
向って自分を統合していくプロセスでなければならない。子
どもは発達し成長していくにつれて、社会への疑問を持つ。
大人の言動への批判をもとに、考え、友人や教師や家族と討
論するなかで、言動に一貫性をもち、統合された自分を生き
それなのに支離滅裂な文章を読まされる。頁と頁の文章内
容が矛盾するだけでなく、同じ文章のなかでも虚偽が書かれ
ている。例えば中学版(39頁)に、「礼儀知らずは恥知ら
ず?」、「忘れていないか? 大切なこと」と問いかけて、
「礼儀には脈々と受け継がれている伝統的な意味があり価値
がある。……礼儀とはそもそも、相手を人間として尊敬する
気持の表れ」と決めつける。そんな面もあるが、尊敬とは異
なる身分や地位を確認させる機能もある。すべての子どもが
こんな言葉に編されるほど愚かでない。それでも感心したふ
りをしなければならない。こうして自分の分割が強いられて
いくのである。
 
 ここで意識的な自分の分割の例を、道徳の授業と『心の
ノート』が審議されていった衆議院文部科学委員会での、
2001年6月12日、杉原誠四郎参考人(武蔵野女子大教授)
駄目押し発言で確認しておこう。「道徳教育を受けて一番利
益を得るのは、その子ども自身である」と述べた上で、彼は、
「そういう意味では、私自身も道徳的には破綻しておりま
すけれども、道徳を破綻した人間が道徳教育をして構わない
がんにかかった医者ががんを治して構わないんだ、そういう
ことで説明を、要するに、道徳教育は子どものためにやって
いるんだということを学校の父兄とか父母が、全員が知らな
きゃいけないと思うのですね」と言っている。
 がんと道徳の破綻が一緒にされている。これは河合氏らの
臨床心理学ーおよそ病者の傍という意味での臨床ではない
ーに倣って言えば、臨床道徳教育学とでも言えばいいのか。
病理的な道徳教育である。
 
「あなたは国を愛しているか?」
 
 第二の『心のノート』の特色は、自分さがしから家族愛、
郷土愛、愛国心へ誘導していく陳腐な国家主義への思考展開
である。自分の心をみつめて良い子になった私は「心と形の
ドッキング」ができており、家族を愛し、学校を愛し、ふる
さとを愛するようになれば、愛国心に到る。
 「ふるさとを愛する気持ちをひとまわり広げると、それは
日本を愛する気持ちにつながってくる」ーここには論理の
飛躍がある。ふるさとをすべての人々が持っていると仮定し
たとしても、そこに暮したふるさとと、国という概念の間に
は遠い距離がある。ふるさとには感情が湧き起こるが、国家
への愛情は国家を背景にして(利用して)生きる者にとっての
ことである。その国家が強大になればなるほど使命を感じ、
権力と名誉と富を持てる者は愛国心を訴えるようになる
だがそれらと無縁な人々にとって、国は遠い抽象概念である。
国家に棄てられ、編され、殺されていった無数の人々のこと
も忘れてはならない。
 
 続いて、「私たちが暮らすこの国を愛し、その発展を願う
気持ちは、ごく自然なこと」と繰り返す。この本で注意しな
ければならないのは「自然なこと」が、異性への関心と同じ
ように使われていることである。中学版52頁では、「好き
な異性がいるのは自然」とか、「中学生で、好きな異性や意
識してしまう異性がいるのは・・・、むしろ自然な気持ち、大
切にしたい気持ち」と述べている。その「自然な」が、国を
愛する頁で再び何げなく使われる。
 
 さらに文章は、「いま、しっかりと日本を知り、優れた伝
統や文化に対する認識を新たにしよう。この国のすばらしさ
が見え、そのよさを受け継いでいこうとするとき……、この
国を愛することが、世界を愛することにつながっていく」と
結ばれる。すでに、伝統や文化を知ることが国際化につなが
るという超論理については批判した。愛国心を煽る者がいつ
も侵略を企ててきた歴史を振り返れば、「この国を愛す」か
ら「世界を愛す」までには多数の論証が必要であることが分
るだろう。それをいきなり結びつけ、信じろと命ずるのは
理性である。この愛国心の頁は富士山、お月見、室生寺、北
方四島を強調した日本列島の図を載せ、「美しい言葉がある、
.美しい四季がある、そして……」となっている。
 
 第三に、『心のノート』は断片的な名文句一編集者は名
文句のつもりだろうーを羅列し、短文で生徒を安易な感動
に引き込もうとしている。いずれの文章もその目的に使われ
ている。例えば、「義務心をもっていない自由は本当の自由
でない」夏目漱石、「自由は責任を意味する。だからこそ、
たいていの人間は自由を怖れる」バーナードー=ショー。文脈
と切り離された短文は、夏目漱石の個人主義とも、バーナー
ド=ショーの社会批評ともほとんど関係がない。
 
 なお、98年中教審答申の三つ目の柱、スクールカウンセ
ラー派遣の詐術については、雑誌『ひと』(太郎次郎社、2001
年1月)の論文「つくられた”心のバブル"の時代」に書い
たので、ここでは略す。簡単にまとめると、第一に、教科を
教えるのは教師、心の相談はスクールカウンセラーといった
二分は、教師を教科学習の技術者に貶め、子どもから見た大
人の人間像を分割させてしまう。第二に、カウンセリングは
自ら求めて受けるものであり、指導という強要は許されない。
第三に、子どもたちの問題がすべて心理的に捉えられると、
子どもの社会批判が阻害される。第四に、臨床心理士認定協
会と文科省の関係は策謀に満ちている。などである。
 
 若者の持つ社会への批判的な関心を、個人の心理に振り替
える心理主義と、道徳教育、伝統文化の強調は、学力論争の
陰で着々と進んでいる。その一例が、京都市教育委員会にお
かれた京都市道徳教育市民会議による「道徳教育一万人
市民アンケート」である。この市民会議は、座長の上に名誉
座長なるものがおり、河合隼雄長官となっている。アンケー
トは河合名誉座長の発案で、「子ども・大人の日常生活にお
ける道徳観などの意識及び行動の実態を明らかに」すると宣
伝している。
 ところがアンケート用紙には道徳という字はなく、「毎日
の生活でのことについて」と題をつけ、「これは、みなさん
の毎日の学校や家での生活や、生きていく上で大切なことに
ついて、みなさんの思っていることを聞くものです」と説明
している。「児童・生徒用」(65問)と「大人用」(88問)の
二種がある。質問(生徒用)は次のようになっており、「いつも
そうしている」から「わからない」まで五段階で答える。
 
「あなたは、伝統行事(昔から続いているお祭りや行事)などに参
加するようにしていますか」
「あなたは、京都の文化財や伝統行事を、大切に守るよう
にしていますか」
「あなたは、先祖のお墓まいりに行くようにしています
か」(亡くなった親族と書かず(先祖と書いている。名誉ある先祖を知
らない子どもは差別を感じるだろう)
「あなたは、自分の髪の毛を染めることがありますか」
「あなたは、自分の国を愛する気持ちを持つことがありま
すか」などが続く。
 
 大人用についても、同じ文章が入っている。しかもこのア
ンケート、準強制である。教育委員から各校長に命じられ
各校では子ども用、大人用ともに「30部以上を回収してく
ださい」と文書に明記している。
 
 いよいよ「国を愛しているか」、「伝統を大切にしている
か」、尋ねられる時代になった。どんな国なのか、国とは何
か、どんな伝統なのか、疑問を抱くことは許されない。民衆
の抑圧と他国の侵略の歴史は意図的に忘却され、今ある社会
病理も無視される。虚仮(こけ)の伝統は家族の和、学校の和、
郷土の和を唱和させる。学力低下論争に隠されて、文化と教育が
一体となって、国家主義へ進んでいる。
 
*のだ.まさあき 1944年生まれ。京都女子大学教授、専攻は比較文化精神
医学。著書に『させられる教育一思考途絶する教師たち』『犯罪と精神医
療』『喪の途上にて』『戦争と罪責』(以上、岩波書店)、『庭園に死す』(春秋
社)、『国家に病む人びと』(中央公論新社)などがある。
 
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