無駄な教員免許更新制                  
                                 N
  教員免許に更新制を導入する法案が参議院で審議されている。免許の有効期限
 を十年とし、三十時間の講習を受講して免許を再発行するという案である。
 「問題教師」の排除と、教員の資質向上が主張されている。
 
  しかし問題教師を教壇に立たせないシステムは、すでにできあがっている。本当
 に問題教師がいれば、十年を待たずに、このシステムを公正に活用すれば良い。
 
 教員の資質向上という点ではどうか。現在、現職で百万人、ペーパー教員が四
 百万いるといわれている。毎年その10%が講習を受けるとして、年間五十万
 人ほどが、三十時間の講習を受ける。講習はどうしても大教室での一斉講義に
 なり、ありきたりの話で終わるだろう。これよりは現場で普段の研修の方が効
 果的だろう。
 
  この三十時間は、多分夏休みなどに行われるが、約一週間、該当の教師が現
 場からいなくなる。部活動や補習が手薄になるだろう。
 
 また、この講習費用が数万円といわれ、例えば一万円を税金で補助するとした
 ら、この講習に毎年五十億円が使われる。この五十億円というお金で、奨学金
 の充実や、教師の人数確保をする方が、よほど教育にプラスだ。
 
 無駄な免許更新制はいらない。
 
 
高額授業料の是正を                   
                        N
  現在の大学などでの高額な授業料について考えた。
  この30年で消費者物価の上昇は二倍に満たない。一方、私立大学の授業料は
 約四倍、国公立大は約十四倍の値上げが行われた。大学の授業料の高さは国際
 的に見ても異様だ。憲法26条「ひとしく教育を受ける権利」が保障されてい
 ない。
 
  大学・短大・専門学校への政府援助を増やし、授業料の減額が緊急の課題だ。
 財源はどうするか?
  株の配当金への税をあてればよい。03年に株価テコ入れのため、配当金への
 20%の税率が10%に下げられた。予定では、この優遇税率が08年3月で
 終了し20%にもどる。今年3月期の上場企業の配当は、5兆円、年間で約10
 兆円の配当といわれる。その10%は1兆円である。 現在、同世代の4割以上
 が大学に進学し、大学生の授業料総額は2兆5千億円といわれる。
 短大生・専門学校生を入れれば、授業料は3兆2千億円ほどだろう。株の配当
 金の税率10%分の増収を、授業料の援助に使えば、約30%ほど授業料を下
 げることができる。
 
  参議院選挙で、「授業料の減額」を公約に打ち出す政党を心から待っている。
 
*参考:国際人権A規約第13条の会
 
 
 
平成の「教育勅語」は慎重審議を          
                            N
  現在、教育基本法「改正」案の審議が進み、採決の声も聞かれる。しかし「改
 正」された後、「新教育基本法」がもたらす事態について、十分な審議や報道
 がなされているだろうか?
 
 「新教育基本法」のもとでは保護者と教師の間に次のような会話が起こりうる。
教師が保護者に向かいこう言う。「あなたのお子さんはしつけができていな
いし、勉強に対しての意欲がないですね。これは新教育基本法『第6条学校教
育』違反ですよ」。保護者が反論する。「そんなこと言ったって、学校もちゃ
んと教育して下さいよ」。すかさず教師は言う。「何おっしゃているんですか。
あなたのその考えは新教育基本法『第10条家庭教育』違反です。第10条で
は、保護者が子の教育に対して『第1義的責任を有する』と明記されています
よ」。保護者は「エエー」と絶句。
 
  教師はだめ押しとばかり付け加える。「さらにご家庭は新教育基本法『第2条
 教育の目標』に違反しています。聞くところによれば、お宅では国民の祝日に
 玄関先に日の丸を掲げていないではないですか」。保護者「そんなー」。教師
 は強く警告する。「いいですか。新教育基本法『第13条、学校家庭及び地域
 住民の相互の連携協力』に基づき、地域の方がお宅に伺って指導しますから、
 言われることをよく聞いて『我が国と郷土を愛する』態度を養って下さい。そ
 れではお子さんと共にお帰り下さい。ああ、当分、学校に来なくてもいいです
 よ」。
 
  教育の目的として、現行の教育基本法は「人格の完成」や「自主的精神に充ち
 た心身」(第1条)をあげている。一方「新教育基本法」では、「国家及び社
 会の形成者として必要な資質を備えた国民の育成」(第1条)が教育の目標に
 なっており、現教育基本法の「個人のための教育」から180度転換し、「国
 家のための教育」を目指している。
 
  「新教育基本法」では、「国家の形成者として必要な資質」について、第2条
 「教育の目標」に20もの「徳目」(「道徳心を培う」など)が列挙されてい
 る。この徳目の一つに「我が国と郷土を愛する態度」がある。これは13の徳
 目をあげた戦前の教育勅語をはるかに超えている。
 
  「新教育基本法」の対象は、学校教育だけではない。そこでは大学、家庭、地
 域、社会教育すべてにわたり「必要な資質を備えた国民の育成」のため20の
 徳目が要求される。もし、学校で子供が「規律を重んじない」場合、その子供
 の教育の責任は家庭に押しつけられ、その子は学校から排除される。なんと息
 苦しい社会になることだろう。
 
  1890年に発布され、敗戦まで約55年間、教育勅語は、国民の祝祭日に朗
 読が義務づけされ、「忠臣愛国」の精神を人々に叩き込み、戦争遂行に大きな
 力を発揮した。
 今この「新教育基本法」は「平成の教育勅語」として、家庭を含む社会のあら
 ゆる場所で20の徳目を人々に要求し、人々を「調教」しようとしている。こ
 の「平成の教育勅語」が学校のみならず、社会にどのような影響を与えるか、
 十分な審議が必要だ。
 
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教育基本法 未来を限定する改正案 
 東京大助教授(教育社会学) 広田照幸
 朝日新聞 2003年5月29日
 
 教育基本法「改正」への
動きが進んでいる。改正問
題の焦点を、過去の「戦後
教育の清算」とみたり、現
在の「教育問題への対応」
とみたりする向きがある。
しかし、むしろ焦点は未
にある。重要な点は「わ
れわれの未来の教育・社会
についての選択肢は、答申
がまとめた方向しかないの
か」ということである。拙
速な法改正は、多様な選択
肢がある未来の教育像・社
会像の中から、きわめて限
定された、しかも間題のあ
るものを、選択することに
なるのではなかろうか。
 
 気になる点が三つある。
第一に、答申が描く教育
像は、「国を愛する心」や
「日本人であることの自覚」
など、国民としての同質感
や帰属意識の強化を目指し
ている。それは、グローバ
ル化が進む世界の中で、今
後の国民国家のあり方とし
ては、内向きで自己中心的
な方向の選択である。
 
 (略)長期的にみると、文化
や経済や政治の仕組みが複
数の国家をまたがって共有
されていく方向に向かって
いる。東アジアの国々が、
相互に交流や結びつきを強
め、人々が多元的で重層的
なアイデンティティーを形
成していく可能性は、大い
にある。答申が描く国家像
は、そうした東アジアの中
で、日本や「日本人」が、
孤立してしまう道につなが
るかもしれないのである。
 
 第二に、答申が描く「公
共」像は、近年展開してい
る「公共性」論とは異な
り、きわめて狭い意味のも
のである。「心」の「涵養」
による、価値や規範の
共有を前提としているとい
う点で、「思想・信条の自
由」をおびやかしてしまう
危険性がある。また、相互
の了解を前提にした調和的
な「公共」像であるという
点は、かえって、了解困難
な個人や集団を排斥する、
短絡的な排他性を生み出す
ことになってしまうのでは
ないか。
 
 さまざまな価値観や意見
が対立・交渉する場を「公
共」とみなす、寛容なリベ
ラル社会だとか、異質なも
のの間の接触を通して活力
が生まれる多文化共生社会
などといった、これからの
社会の別の可能性は、閉ざ
されてしまいかねない。
 
 第三に(答申が打ち出し
ている義務教育制度の弾力
化の方向は、多様性を尊重
することと引き換えに、
差の拡大を許容する道を選
択することを意味してい
る。多様性と保護者の選択
とを組み合わせた学校制度
の改革は、おそらく教育熱
心で文化的にも経済的にも
恵まれた層に有利に働き、
そうでない層に不利に働
く。そして、失敗者にはそ
の責任が自己に帰せられる
ことになる。それは、長期
的には社会の不安定化を生
む。もちろんここにも、別
の選択肢がありうる。
 
 見直し案と比べると、簡
潔で抽象的な文言が並ぶ
在の教育基本法のほうが、
よりましな気がする。非常
に理想主義的であるぶん、
その崇高な理念や原理を、
21世紀社会の大きな変動
に柔軟に対応しながら、そ
のまま活用していくことが
できそうだからである。
 (略)
 未来社会が窮屈で息苦し
いものになったり、大きな
格差を平然と認めるものに
なったりしないためには、
われわれは、今の教育基本
法を、あらためて選び直す
べきではないだろうか
 
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愛国心喪失は政治家の責任
 梅原猛(哲学者・日本ペンクラブ会長)
     朝日新聞 2002年11月17日
 
 中央教育審議会が教育基本法
の見直しを目ざす中間報告を提
出したという記事を読んで私は、
かの方広寺の梵鐘に刻まれた
「国家安康」の文字に、家康
の首を斬れば国は安泰だという
意が秘められていると難癖をつ
け、大阪城の外堀を埋めさせ、
豊臣氏を滅亡に追い込んだ金地
院崇伝の話を思い出した。
 
 ここに平和憲法の外堀を埋め
ようという政治的意図があるこ
とは明白である。憲法改正は議
会で3分の2の賛成を得なけれ
ばならないので、容易にはでき
ない。それでまず、教育基本法
の改正を中教審に提案させよう
とするのであろう。
・・・・
 最近改めて教育基本法を精読
してみたが、その理念は立派で
あり、文章もけちをつけるとこ
ろはほとんどない。改正論者が
どんな教育理念をもっているか
よく分からないが、森前首相の
教育勅語を評価した発言のよう
に、その精神を教育の理想とし
ているのであろう。
 
 改正論者は教育基本法に「伝
統、文化の尊重」という理念が
記されていないと難癖をつける
が、伝統、文化を尊重する精神
が最も不足しているのは教育勅
である。私は50年にわたる研
究と思索の結果、近代日本は廃
仏毀釈によって成立し、その重
いツケを今、日本人は払わされ
ているという結論に達した。
 
 廃仏毀釈は仏教の否定である
ばかりか.儒教や神道の否定でも
ある。江戸時代の儒教は主とし
て朱子学であるが、朱子学には
「格物致知」という科学的合理
主義に通じる思想があり、神道
には一木一草に神をみるエコロ
ジーの思想がある。廃仏毀釈は
二ーチェのいうように神殺しで
あり、その精神は明らかに教育
勅語に受け継がれている。
 
 教育勅語の精神は結局、天皇
を唯一の神として、その神のた
めに死ぬことを根本道徳とし、
一切の道徳をこの根本道徳に従
属させる精神であった。これは
まさに日本人の精神を長い間培
ってきた仏教、儒教、神道及び
それらに養われた伝統、文化の
否定以外の何ものでもない。も
しも教育基本法に伝統、文化を
尊重する理念が記されていない
というならは、教育勅語こそ厳
しく批判されねはなるまい。
 
 国を愛する心が盛り込まれて
いないと強く主弧するのは主に
政治家であるという。10年ほど
前、私はある自民党の長老議員
に、今の議員には真に国や人類
のためを思う利他の心があるか
と聞いたとき、その長老は、そ
んな心はほとんどない、みな自
利自利の塊だと答えた。その
後、マスコミを賑わす政治家に
関する話は収賄などのもっぱら
悪事の話であり、私はその長老
議員の言葉は正しいと思わざる
を得なかった。
 
 政治家が国を悪くし、若者の
愛国心を喪失せしめているので
ある。政治家が自らの悪徳に頬
被りして、青少年に愛国の教育
が必要だというのは本末転倒で
ある。まず自らの姿勢を正さね
ばならない。
・・・
 
 
教育基本法は21世紀にこそ必要だ
                                    N
 教育基本法第10条は、戦前の「国」による教育支配がもたらした悲惨な結果を踏まえて、教育行政に対して、「諸条件の整備」を目標とすることを述べている。この条文は今こそ、必要なものだ。
 今回の中間報告には、「国を愛すること」の必要性がうたわれた。「国」に対してどのような感情を持つかどうかは、極めて「個人の信条」に属することだ。「国」に対して特定の行動や「感情」を持つことを要求するのは、民主主義国家ではなく、全体主義国家である。「国を愛すること」を要求する体制がどのようなものかは、戦前の「日本」や現在の「朝鮮民主主義人民共和国」をみれば、大変明らかである。
 
 実は、人々が自然に「国を愛する」ようになるには、そう難しいことではない。政治や教育が、一人一人を大事にし、政治や教育に「理性」と「知性」が感じられ、一人一人が人生に「希望」を持てるすればいい。
 教育においては、誰にとっても、教育費の負担を感じずに、安心して教育が受けられることが何よりも必要だ。経済的に困難な家庭には、無償の「奨学金」が用意されることが必須である。「国」の援助で、質の高い教育を受けることができた人は、「国」に感謝し、将来「国」の役に立とうと考えるだろう。
 
 今回の中間報告には、「伝統の尊重」ということもうたわれている。日本には、実際の所様々な伝統が存在している。その中には、いい伝統もあれば、悪い恥ずべき伝統もある。「伝統の尊重」と言うことになれば、その様々な伝統の中から「いい伝統」を恣意的に選び出す事になる。これは、独善的な歴史解釈に繋がる。「伝統の尊重」は、日本のみに通用する独りよがりな歴史教育が学校で行われることを意味する。「伝統の尊重」は、日本で教育を受けた人々が、諸外国の人々と歴史認識において断絶した状態に導くことになる。
 
 現在の教育で浮かび上がる問題点は、広く社会的な原因のもとで生じている。
 その一つは、保護者の「長時間労働」であり、保護者の不安定な「雇用形態」だ。これの解決には、ワークシェアリングを含んだ総合的な労働者保護の政策が早急に必要だ。
 
 2つ目は、高校や大学卒業生の就職率の極端な減少だ。これは、国内産業の空洞化と大きく関係している。多国籍企業に対して適切な規制をかけ、国内産業の本格的な保護と育成をはからなければならない。特に第1次産業の振興は、焦眉の課題である。
 
 3つ目は、出身階層による「学力格差の拡大」をどう防ぐかという問題である。中教審の議論では、「階層」と学力の関係がほとんど論じられず、実態とかけ離れた議論になっている。一部の私学出身者によって、国立の有名大学の合格者が独占されている状況は、出身階層によって、受けられる教育の内容が相当異なってきている状況を示している。そこで、国公立大学では、アフォーマティッブアクションの原理に基づき、私学出身者の合格者を一定以下にするということが必要だ。同時にいまこそ、公教育の充実が求められる。これには、奨学金の充実は言うまでもない。また、国公立大学の授業料を相当下げる必要がある。そうすることで、低所得者層にも、大学進学の条件を与え、機会の均等が保障される。GDPに占める日本の教育関連支出は世界のなんと43位でという低さだ(日本経済新聞2002年11月19日)。この実態を議論し、改善しようとしない中教審は、存在する価値がない。
 
 教育を巡る問題は、教育基本法の「改訂」では解決がつかない。現在、考えられている「改訂」は、教育の内実をますます息苦しく悪くすることにつながるだけだ。
   (2002年11月22日)
 
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