高岡古城公園広場
高岡城は前田利長の隠居城として1609年に築かれた。広場の一隅に前田利長の像が建っている

高岡古城公園お濠と橋
お堀にかかる赤い橋と咲き始めた桜が絵になった

奥の細道歩き旅 第2回
奥の細道歩き旅 白石〜槻木

七月十四日(陽暦八月二十八日)、滑川を発った芭蕉が越ノ潟に着いたのは昼ごろだろう。芭蕉の頃は海岸沿いに街道が続き、右手は海、左手には潟湖(せきこ)が広がっていた。この潟湖がその後掘り下げられ、現在は富山新港となり、周囲は工場地帯となっている。右手の海は、大伴家持が万葉集で歌い上げた「奈呉の浦」である。

越ノ潟から奈呉の浦へ

今日の私の予定は、まず高岡駅前から路面電車の万葉線に乗り、終点の越ノ潟まで行く。越ノ潟から徒歩でほぼ同じ道を戻り、途中の見所を見物するという予定である。同じホテルに連泊するので軽装で歩くことができる。今日はゆったりした行程なので、ホテルを8時頃出発した。終点の越ノ潟駅で電車を降りると、県営渡船乗場はすぐ近くである。電車の線路に沿って少しもどり、右に曲がると旧街道筋(県道350号線)に出る。この道が昨日の道の続きで、芭蕉の時代には陸路でつながっていたわけだ。

旧街道筋 (県道350号線)
現在は富山新港で途切れているが、芭蕉の時代には対岸と陸路でつながっていた

越ノ潟の万葉線と渡船乗場
電車と渡船乗場はすぐ近くで連絡している

ちょっと寄り道、海王丸

県道を少し行くと、海王丸パークの大きな案内板が立っている。海王丸を中心にした海洋公園があるのだ。芭蕉とはまったく関係ないが、立ち寄ってみることにした。県道を右に曲がり海に向かって進む。富山新港北側を埋め立てた広い公園で、海王丸は遠くからもよく見える。海王丸は東京商船学校の練習船として昭和5年に建造された帆船で、横浜にある「日本丸」の姉妹船である。横浜で日本丸を見学したことはあるが、富山でその姉妹に出会えるとは思わなかった。船内を見学し、かつての海洋国日本の心意気を感じた。

海王丸甲板の様子
船の内部は公開されており見学できる。姉妹船日本丸とは同時期に建造され、船の仕様もほぼ同じである。
年10回展帆されるという

練習帆船「海王丸」
富山新港の北埠頭が、海王丸を中心とした海洋公園として整備されている。ここには海洋丸のほか日本海交流センター、ふれあい広場など各種施設がある

放生津(ほうしょうづ)八幡宮

海王丸を見学した後、元の街道筋に戻る。しばらく行くと放生津の町に入る。芭蕉はここで氷見(ひみ)の坦籠(たご)への道を尋ねたが、「へんぴな所で泊まる宿もなかろう」といわれ、心もとなく高岡への道をたどることにした。このとき、『早稲の香や 分け入る右は 有磯海(ありそうみ)』 の句を残した。少し先に放生津八幡宮がある。この神社の境内に、この句を刻んだ芭蕉句碑がある。

芭蕉句碑
『 早稲の香や 分け入る右は有磯海 』

天保14年(1843)建碑

放生津八幡宮
越中国守として赴任した大伴家持が宇佐八幡宮を勧請して奈呉八幡宮を興したと伝えられる。境内に芭蕉句碑がある
放生津の町並み
芭蕉はここからさらにまっすぐ行って氷見の藤波神社の藤を見たかったのだが、辺鄙なところだと言われ、左に進路を変えて高岡に向かった

奈呉(なご)の浦

放生津八幡宮の近くに「奈呉の浦」の石標が立っている。このあたりは、越中国守・大伴家持(おおとものやかもち)が国府に在任中好んで逍遥した万葉歌枕の名勝地である。かつてはこの場所から名勝奈呉の浦が眺められたのだろうが、現在は石標のすぐ後ろに石の塀があり直接海は見えない。塀の向こう側に海が広がっているが、護岸に囲まれた殺風景な港風景で、万葉の時代に詠われた奈呉の浦の面影はまったくない。

    『東風(あゆのかぜ)いたくふくらし奈呉の海人(あま)の
        釣する小船漕ぎ隠る見ゆ   大伴家持』 (万葉集巻十七 4017)

万葉線で高岡市街中心部へ

奈呉の浦の眺めを確認した後、国道415号線方面に向かう。この国道は富山新港を大きく迂回した後、再び海岸沿いに戻ってくるのだ。万葉線の電車はこの国道にほぼ並行して走っている。電車の姿を見たら高岡市街中心まで電車に乗ろうという気になってしまった。電車の走っている道を歩くのも面白くないという気持ちもあった。というわけで、万葉線新町口駅から電車に乗り広小路駅で降りた。ここからは高岡古城公園、高岡大仏などが近い。

万葉線のこと
万葉線のネーミングのもとは「万葉集」である。かつて「万葉集」の編者である大伴家持が越中国守として赴任し、数多くの歌を残したことにちなんで「万葉線」という愛称が付けられた。前身は加能越鉄道であるが、一時期利用客が著しく減少したため電車を廃止しバス代替の意向が示されたので、高岡市、新湊市などが中心になって第三セクター会社(万葉線株式会社)が設立された。路面電車を運営するための第三セクター会社は日本初である。

新型車両「アイトラム」
「万葉線」になってからの新型車両
超低床二車体連接車

万葉線旧型車両
加越能鉄道時代からの車両。このほかにも何種類かある

高岡古城公園

万葉線を広小路駅で降りて、進行方向左手のほうに歩いてゆくと高岡古城公園がある。周りはお濠で囲まれており、橋を渡って坂道を上ってゆくと城跡の広場がある。ここにはかつて加賀藩第二代藩主前田利長の隠居城が築かれたが、利長の死後「一国一城の令」により廃城となってしまう。このため現在では、周囲の濠、石垣の一部などにわずかに痕跡が残るのみである。広場の一隅に前田利長の像が建てられている。ちょうど昼時なので、この公園のベンチで昼食にした。

高岡大仏と土蔵造りの古い町並み

高岡古城公園をあとに、近くにある高岡大仏を目指す。案内標識や地図があって容易に探すことができた。高岡大仏は当初木製だったが、二度焼失し、現在の大仏は銅造りである。鋳造から着色に至るすべての工程を高岡の工人・職人たちの手で行ったもので昭和8年に完成した。高岡は銅器の製作が盛んだが、これは前田利長が職人を集めて始めさせたことが発祥だという。
高岡大仏から土蔵造りの町に向かう。ごく大雑把な地図しか手元になく、うろうろしてしまったが、何とかたどり着いた。万葉線は片原町信号で高岡駅方面に直角に曲がるが、その交差点を駅と反対方向に少し行くと赤レンガ造りの大きな建物が見えてくる。これは大正期に造られた建物で、現在富山銀行として使われている。この建物付近に土蔵造りの建物が多く見られる。、明治33年に大火があり、その後の明治から大正初期にかけて建造された防火建築群である。

土蔵造りの建物
明治33年の大火以来、明治から昭和初期にかけて建てられた防火建築が多く残されている

赤レンガ造りの建物(富山銀行)
大正4年(1915)の建築。東京駅と同じ辰野金吾の設計

高岡大仏(銅造阿弥陀如来像)
はじめは木造金色の仏像だったが焼失し、昭和8年に銅造で再建された。大円輪の光背がそびえる大仏は珍しく、奈良、鎌倉の大仏とともに日本三大仏と称されている

高岡駅前

土蔵造りの町並みを見たあと金屋町の町並みを見ようと思って歩き回ったのだが、結局わからず高岡駅前に戻った。高岡駅前の広場に大伴家持と子供たちの像が建てられている。

大友家持像に添えられた説明板より
『 かたかごの花をよぢ折る歌
     もののふの八十(やそ)をとめらが汲(く)みまがふ
       寺井の上のかたかごの花

大伴家持卿
 大伴家持(おおとものやかもち)卿は日本最古で最大の歌集「万葉集」の代表的歌人であり、その編纂に深い関係があるとされている。天平18年(746)から天平勝宝3年(751)までの5年間、越中国守として高岡市伏木古国府に在住し、この間越中を中心とした豊かな風土に接して約220首の歌を詠んだ。 』

高岡駅前広場の大友家持と子供たちの像

高岡駅前、万葉線乗場

瑞龍寺、前田利長墓所

高岡駅前に着いたのは15時頃で、ホテルへ帰るにはまだ早いので瑞龍寺へ行くことにした。瑞龍寺は駅の反対側にあるので、線路を越えて南口に出る。駅前のまっすぐな道をしばらく行くと案内標識があるので右に曲がる。八丁道という参道を少し行くと瑞龍寺の総門がある。ここで拝観料を払い中に入る。山門、仏殿、法堂が直線に並び、周りに禅堂、庫裏、大茶堂が取り囲みそれぞれ回廊でつながっている。禅寺らしい静寂な雰囲気だ。
曹洞宗高岡山瑞龍寺は、加賀藩二代藩主前田利長の菩提を弔うため三代藩主利常によって建立された。造営は正保年間から寛文3年(1663)まで約20年の歳月をかけて完成した。当初は周囲に濠をめぐらし、城郭の姿を思わせるものがあったという。平成9年、山門、仏殿、法堂が国宝に指定された。江戸時代を代表する禅宗建築として高く評価されている。
瑞龍寺からの帰途、私は前田利長の墓所に立ち寄った。瑞龍寺の参道である八丁道をもどり、さらにまっすぐ進むと墓所への入口がある。武将の墓としては広大、豪壮で全国にも稀なものだという。

高岡での芭蕉の動向など

七月十四日(陽暦八月二十八日)の夕刻前、高岡に着いた芭蕉は暑さ負けで元気がなかった。芭蕉が泊まったのは、旅篭町という現在も地名の残るあたりである。今日、私が歩いた土蔵造りの町並の近くだ。芭蕉は高岡を見物することもなく、翌朝には金沢に向けて出発した。
今回の私の旅は高岡までで一旦帰京する。今日は高岡のホテルに泊り、明日、高岡から東京まで各駅停車の旅をする予定である。北陸線、大糸線、中央線を乗り継いで1日がかりの電車旅だ。

瑞龍寺法堂

瑞龍寺仏殿

瑞龍寺山門

現在の「奈呉の浦」の様子
付近は富山伏木港の一部として大きく改変され、昔の面影はまったく見られない

「奈呉の浦」石標
放生津八幡宮の裏に建てられているが、ここからは何も見えない