奥の細道歩き旅 第2回
奥の細道歩き旅 白石〜槻木

民宿前の海岸
民宿の女将さんによると右手の方向に佐渡が見えるはずだというが、残念ながら見えなかった

民宿「勝見鉱泉」
国道脇に立つ一軒家で、家の前は国道を隔ててすぐに海岸となっている。少し先はもう柏崎市になる

寺泊・・・国道沿いに魚介類専門店の並ぶ漁港の町

国道の野積橋を渡ると長岡市の寺泊町になる。国道を歩いてゆくと、やがて国道沿いに魚介類の専門店が建ち並ぶ一角が見えてくる。近くに大きな駐車場もあり、人も多くなる。新潟方面のバスツアーには、この寺泊での買い物を組み込んだコース設定も多いようだ。ちょうど昼時に到着して、買い物とともに新鮮な魚介類の昼食を食べるというのがよくあるパターンだ。私が到着したのもちょうど昼時で、ここの食堂で新鮮な海鮮料理でも食べようかとも思ったが、結局、海を見ながらいつものアンパンとぶどうパンの昼食にした。

旧道沿いの「妻入り」の民家の様子
できるだけ多くの家が街道に面することができるように、建物の「妻」の部分に戸口を設ける「妻入り」の民家が軒を連ねる。

「北国街道 出雲崎宿」の標識
出雲崎の古い町並みは旧道沿いに残っている。国道は海沿いを走る。旧道の分岐点に「北国街道出雲崎宿」の標識が立っている

井鼻海水浴場付近
国道沿いに広がる海水浴場。前方の小さな岬の手前あたりから出雲崎の町がはじまる

国道402号線山田海岸付近
国道402号線はこのような海岸沿いを走る。この日は風が強く、海は荒れていた

寺泊から出雲崎へ

佐渡汽船乗場からさらに国道を進むと国道脇に寺泊水族館がある。この先で旧道が右に分かれて行くのでこちらを進む。古い家並みがしばらく続いた後、再び国道に合流する。この国道402号線は、これから先出雲崎までずっと海岸線を走る。海からの直接の風がかなり強いが、タンタンと歩く。時々佐渡のほうに目をやるのだが、残念ながらうっすらとも見えない。この街道筋は旧北国街道であり、芭蕉もこの道を歩いたはずである。このような道を2時間くらい歩くと、ようやく出雲崎の町が見えてきた。

佐渡汽船乗場
昔、車で佐渡旅行をしたとき、佐渡からここまでフェリーで渡った記憶がある

寺泊漁港の様子
大きな漁港で、中型の漁船が何艘も停泊していた

国道402号線野積橋
国道402号線はシーサイドラインとして海岸沿いを走り、ドライブにも人気のある道だ。弥彦から先はかつての北国街道の道筋とも重なる

大河津分水路河口付近の様子
架かっている橋は国道402号線の野積橋。芭蕉の時代、この川は流れていなかった。芭蕉は砂丘の続く道を歩いたのだろう

2007年の正月は例年に比べ暖かかった。いつごろから越後の歩き旅を再開しようかと、日本海側の天気図を気にしていたのだが、寒のもどりもあって3月の20日過ぎまで雪のマークがついていることがあった。いろいろな都合もあって、結局、3月28日から4月6日頃までを旅行期間と決めた。私にとってはこれまでの歩き旅で最長の旅行期間である。今回の旅は、弥彦から富山県の高岡まで約240Kmの行程である。日本海の海岸線に沿って歩き、途中には出雲崎やかつての難所、親不知、子不知などもある。何かと興味のあるコースだ。

弥彦温泉で1泊

今回の旅のスタートは弥彦である。旅の初日は、1日かけて各駅停車で新宿〜弥彦間をのんびりと旅する。はじめ、例の「ムーンライトえちご」を利用しようと思ったのだが、1週間前でその近辺の日にちの座席はすべて満席だった。春休み中で、「青春18きっぷ」の関係もあり、この列車は人気が高いようだ。結局、普通列車で丸1日を列車の旅に当てることにした。
新宿発10:12で、各駅停車を乗り継ぎ、弥彦駅に着いたのは18:13だった。今日の宿は、「冥加屋ハウス」といい、弥彦駅のすぐ前にある。この宿の特徴は、LAN接続が自由にできるということで、パソコン持参の旅行者には人気があるようだ。夕食の後、ご主人にここに泊まった何人かの人のHPやブログを紹介してもらった。私のHPも紹介しておいたが、こういうところからも人とのネットワークが広がって行くのだろう。この宿は1泊2食付で6900円、駅に近く食事もよいのでお勧めである。

芭蕉園を見学した後、私は旧道を離れ海岸に出た。国道沿いに「天領出雲崎時代館 出雲崎石油記念館」という大きな建物があったが、17時で閉館ということで入館はしなかった。ここではじめて知ったのだが、出雲崎は日本の石油事業の発祥の地だということだ。
私の今日の宿、民宿「勝見鉱泉」は出雲崎町の一番はずれにあり、国道沿いの1軒家で道の向こうは海という場所にあった。到着は17時頃だった。

芭蕉句碑(銀河の序碑文)
「風俗文選」に収録された「銀河ノ序」の元になった文章の全文が刻まれている

芭蕉園の芭蕉像
小さな公園だが、この中に芭蕉像、芭蕉句碑、北国街道人物往来史などのほか投句ポスト、東屋などがある

芭蕉園

良寛堂の先をしばらく行くと、左側に芭蕉園がある。ちょっとした公園で、芭蕉はこの向かい側にあった旅籠「大崎屋」に泊まったといわれている。公園の中には芭蕉像と句碑(「銀河ノ序」を刻んだ碑)などが建てられている。芭蕉は「おくのほそ道」本文の中で、越後路についてはほとんど出来事を記さず、その段の最後に次の有名な二句を記している。

      文月(ふみつき)や六日も常の夜には似ず
      荒海や佐渡によこたふ天河(あまのがは)

芭蕉は本文の中には句しか載せていないが、旅から帰った後、この句に「銀河ノ序」と呼ばれる文章をつけた。この公園に「銀河ノ序」の元になった文章の全文を記した碑が建っている。碑の全文をここに記しておこう(原文のまま)。

ゑちごの驛 出雲崎といふ處より佐渡がしまは海上十八里とかや谷嶺のけんそくまなく東西三十余里によこをれふしてまた初秋の薄霧立もあへすなみの音さすかにたかゝらすたゝ手のとゝく計になむ見わたさるけにや此しまはこかねあまたわき出て世にめてたき嶋になむ侍るをむかし今に到りて大罪朝敵の人々遠流の境にして物うきしまの名に立侍れはいと冷(すさま)しき心地せらるゝに宵の月入かゝる此うみのおもてほのくらくやまのかたち雲透にみへて波のおといとゝかなしく聞こえ侍るに
                                                          芭蕉
          荒海や佐渡に
              よこたふ 天河


「銀河ノ序」は許六編「風俗文選(本朝文選ともいう)」(宝永3年刊)に収録されているが、それは上の文章を推敲したもので少し違っているところもあるが、いずれにせよ名文である。芭蕉は「おくのほそ道」という作品の全体の構成を熟慮した上でこの文章を本文に取り入れなかったのだろうが、削るには惜しい文章だ。
曾良によれば、この日は「夜中、雨強降」という状況だった。また、出雲崎からは佐渡に寄りそうように天の川が横たわって見えることはない。これらのことから、この句は見たそのままを句にしたものではなく、「新潟辺から出雲崎まで佐渡が島対岸の日本海沿いの道を歩いている間に受けた日本海・銀河等の印象に、流刑地佐渡が島にまつわる人間の歴史をないまぜて、佐渡が島への渡船場出雲崎での心象風景として結晶させた句と考えてよいであろう」(奥の細道の旅ハンドブック 久富哲雄著)というのが大方の解釈のようだ。

良寛像
良寛は18歳で出家し、備中で20年間修行、全国行脚の後39歳で越後に戻った。越後では20年近く国上寺の五合庵に住み、良寛さんとして親しまれた。子供たちを愛し、積極的に遊んだという行動が人々の記憶に残っている。和歌、俳句、漢詩などに巧みで書もよくした

良寛生誕地(橘屋跡)
良寛は宝暦8年(1758)ここに生まれた。芭蕉が出雲崎を通過した69年後である。元の屋敷は現在地の約2倍の広さでここには高札場があったという。正面の良寛堂は大正11年安田靭彦画伯の設計により建てられた

県道2号線をタンタンと進む。途中に良寛の里という道路標識があった。少し先に「道の駅 国上(くがみ)」がある。近郊に国上寺(こくじょうじ)があり、そこの五合庵に良寛さんが一時期住んでいたということで、付近一帯が良寛の里と言われている。
県道はやがて大きな川の土手沿いの道になる。この川は大河津(おおこうづ)分水路といい、信濃川を分流したものである。分流点はもう少し上流側にあり、可動堰で水量の調節を行っている。

やがて前方に橋が見えてくる。国道402号線の野積橋である。芭蕉は弥彦から峠を越えてこの国道筋に出たはずである。ただし、芭蕉の時代にはこの川は流れておらず、砂丘地が続いていたはずだ。私は国道402号線に出て、野積橋を渡る。これから先はこの国道を出雲崎まで歩くことになる。

良寛堂 (良寛さん生家の跡)

旧道を進んでゆくと、右手に広い空間が現れる。奥に小さなお堂が建ち、背後には日本海を望むことができる。ここは良寛さんの生誕地、橘屋跡である。良寛は出雲崎町名主山本以南の長男としてここに生まれた。正面に建つのは大正11年に建立された良寛堂で、佐渡が島を背景に日本海上に浮かぶ浮御堂の構想になるものだという。堂内には良寛持仏の石地蔵をはめ込んだ石塔があり、良寛の 『いにしへにかわらぬものはありそみと むかひにみゆる佐渡のしまなり』 の歌が刻まれている。お堂の後ろの1段低くなった場所に、良寛さんの像が海に向かって建てられている。

俵小路(御用米倉庫)
奥の台地の上に米蔵があり、そこにいたる坂道は俵小路と呼ばれていた

出雲崎代官所跡
出雲崎は元和2年(1616)徳川幕府の天領となり、町の中央に位置するこの場所が江戸時代最初の代官所となった

出雲崎・・・良寛さんのふるさと。芭蕉の句で有名

やがて出雲崎の町に入る。町の入口で旧道が左に分かれてゆく。ここには「北国街道 出雲崎宿」の標識が立てられている。旧道を歩いてゆくと家々の建て方に特徴のあることに気がつく。この建て方は「妻入り」といい、家の妻部分に戸口を設けた構造で、こうすることにより、より多くの家が道に面することができる。
出雲崎は江戸時代、幕府の天領であり、町の中央の街道沿いに代官所があった。出雲崎は佐渡の金銀の陸揚げ地であり、北前船の寄港地、北国街道の宿場町として物資の交流も盛んであった。旧道を進んでゆくとかつての代官所の跡、御用米倉庫跡などがある。

寺泊の砂浜より弥彦山方面を望む
同じ砂浜から弥彦山の姿を望むことができた。どこから眺めても形のよい山だ

寺泊の砂浜より佐渡方面を望む
晴れていればこの方向に佐渡が見えるのだが、残念ながらこの日は見えなかった。芭蕉の有名な句を髣髴とさせる光景だ

風を避けた場所におかれたベンチで昼食をすませ、また、元気に歩き始める。魚介類専門店が途切れた先にも海側にお食事処や民宿などが店を連ねている。その先の海岸は寺泊漁港で、中型の漁船が何艘も停泊していた。ここで水揚げされた魚介類を先ほどの専門店街で販売しているのだろう。さらにその少し先に佐渡汽船の乗場があった。もう10年以上も前に車で佐渡旅行をしたときに帰路、佐渡の赤泊からここ寺泊まで船で渡った記憶がある。しかし、当時の様子はすっかり忘れてしまった。

寺泊の砂浜はなかなか趣がある。今日は大変風が強く、日本海は荒れている。砂浜に立って海を見ると、次々と高い波が押し寄せてくる。晴れていれば沖には佐渡が島の島影が見えるはずなのだが、残念ながら今日は見えない。芭蕉の、『荒海や佐渡によこたふ天河(あまのがは)』の句が浮かんでくる。この句ができたのは出雲崎でのことだといわれているが、ここで詠んだとしてもまったく違和感はない。

寺泊の魚介類専門店の建ち並ぶ一角A
ちょうど昼時で、買い物をする人や食事をする人でにぎわっていた

寺泊の魚介類専門店の建ち並ぶ一角@
国道沿いにたくさんの魚介類専門店が建ち並んでいる。海側には大きな駐車場もある

県道2号線は分水路沿いに進み、少し先の渡部橋で川を渡る。橋の手前に右に曲がる道があり、これを行くと良寛さんの住んだ五合庵がある。往復で4Kmくらいだがここは省略し、川に沿って県道をさらにまっすぐに進む。
分水路の流れは早い。何しろ従来は分水点から海まで50Kmの距離があったものをこの分水路により海まで10Kmにショートカットしてしまったので、川の勾配もきつく、流れも急になる。それによって川床がえぐられてしまい、橋などの構築物が危うくなってきたので、川床の補修などを繰り返している。自然に人間が大きく手を加える工事は一筋縄では行かないという例だろう。

大河津分水の川床の様子(第2床固付近)
川の流れを緩やかにするため川床を改修し、人工的に段差を設けている

渡部橋付近
県道2号線は渡部橋を渡って対岸に移る。橋の手前を右に曲がってまっすぐ行くと良寛さんの住んだ五合庵がある(往復で4Kmくらい)

私の宿泊した「旅館 冥加屋ハウス」
弥彦駅前通り左側にある。駅に近く、食事もよいのでお勧めである。(1泊2食付6900円。0256-94-2135)

JR弥彦駅
JR弥彦線の終点である。弥彦神社の最寄り駅で、駅舎は神社風で弥彦神社の玄関口としてふさわしい

弥彦から大河津分水路を経て寺泊へ

次の日は朝から雨だった。結構激しい降りで、風も強い。宿で少し様子を見ていたが、止みそうもないので、見切りをつけて出発した。8:10頃だった。
芭蕉は弥彦から峠を越え、日本海側に出た。現在、この旧道筋は弥彦スカイラインができたために途中で消滅してしまったようだ。県道2号線に出てしばらく行くとスカイラインが右に分かれてゆく。私は、はじめこのスカイラインをたどって峠道のコースを歩こうと思ったのだが、雨と風が強いのでこちらの道は断念し、そのまま県道2号線を行くことにした。県道を歩いているうちに雨は小降りになり、やがてやんだ。しかし、風は相変わらず強い。途中の麓集落付近で霧に霞む弥彦山を望むことができた。

麓集落付近より弥彦山を望む
雲の中に弥彦山の姿を見ることができた。標高634m、登山コースも整備されているようだ

県道2号線と弥彦山スカイラインの分岐点
芭蕉はスカイラインの道筋を通って峠を越えたようだが、途中で旧道は消滅しているという。私はこのまま県道2号線を進むことにした

大河津分水路
信濃川下流域での洪水防止のため途中で分水したものである。明治に入ってから着工されたが、下流域の住民の反対などで一時期中断し、最終的には1922年に完成した。

県道2号線「良寛の里」標識付近
ここからさらに4Kmほど進んだところに良寛が一時期住んだ五合庵がある