香ににほえうにほる岡の梅の花
この句碑は芭蕉翁百回忌を記念して名張の俳句社中により寛政五年(1793)に立てられた。はじめ初瀬街道沿いにあったが、県道の改修によってこの寺に移されたという

長慶寺本堂
曹洞宗のお寺である。県道からは結構坂道を登ったところにあり、境内は深い木立に囲まれている

いよいよ新しい旅の開始である。今回の旅は、伊賀上野が出発点なので、「奥の細道歩き旅」のつづきのような感覚である。伊賀上野までの伊勢路は今回は省略したが、いずれ埋め合わせをしよう。
芭蕉は貞享元年(1684)九月四日に帰郷した。母は既に前年の六月二十日に亡くなっている。母の墓参などを済ませた後、芭蕉は畿内行脚の旅に出た。まず向かった先は、「野ざらし紀行」の同行者「ちり」の古里竹の内である。



伊賀上野、芭蕉生家

伊賀鉄道の上野市駅に着いたのは4月17日朝9時頃だった。今日はあいにく朝からシトシトと雨が降っている。私は前夜23:30新宿発の高速夜行バスで今朝5:30に名古屋に着き、そこから近鉄で名張まで行き、駅前のホテルに荷物を預けて伊賀上野までやってきた。今回の旅はこの名張駅前のホテルに8連泊して伊賀、大和路を歩き回る予定である。
伊賀上野の芭蕉旧跡めぐりは昨年済ませているので、今回はそのとき見逃した場所のみを巡り、すぐに名張に向けて歩き始めることにしている。伊賀上野は芭蕉の故郷だけに、周辺には芭蕉の句碑なども多い。今回はできるだけそのようなモニュメントにも目を向けてゆきたい。
伊賀鉄道の上野市駅を降りると芭蕉の大きな像が迎えてくれた。冷たい雨の中で、芭蕉も「蓑をほしげ」な様子だった。駅前から国道に出てまずは芭蕉生家に向かう。ここには「史跡 芭蕉翁生誕の地」の碑と、「古里や臍(ほぞ)のをになく年の暮」の句碑が道路に面して立てられている。建物の中は前回見学しているので省略し、外観と句碑の写真を撮ったあと前回見逃した「故郷塚」に向かう。

名張到着

長慶寺の句碑を見学したあと、再び県道に戻って先を続ける。この県道はかつての初瀬(はせ)街道のようだ。名張の町に近づくと旧道は別に残っているようだが、とりあえずわかりやすい県道で近鉄名張駅に向かう。本日の宿泊は、名張駅から2分くらいのところにある「名張シティホテル」である。ホテルには16時頃到着した。名張駅は特急も止まるし、奈良、大阪方面への電車の本数も多いので、奈良県南部散策の根城とするには大変よい位置にある。駅前にはコンビニもある。また、ホテルの各部屋からインターネットへの接続も可能なので、パソコンを持ち込めば自由に接続することができる。基本的には無線LANだが、その環境のない人には接続装置を貸してくれる。この日は夜行バスの疲れもあり、パソコンの設定をしたあと、早めに夕食をとり20時半頃には就寝した。


名張散策

名張のホテルに8連泊したので、早めにホテルに帰ったときに名張の町を少し散策した。名張駅西口広場の隅に能作者観阿弥の銅像が建っており、説明板がある。「観阿弥は伊賀上野に生まれ、幼少より大和に出て申楽(さるがく)の道に入り至芸に達する。妻の出身地である名張に観世座を創立し、後、将軍足利義満の保護を受けて長子世阿弥とともに能楽を大成する。」
その近くに万葉歌碑が建っている。『吾せこはいづく行くらむ おきつ藻の名張の山を今日かこゆらむ』とある。持統天皇の伊勢行幸に供奉した当麻真人麻呂の妻が夫の帰りを待ちわびて作った歌である。歌人佐々木信綱の揮毫で、昭和32年に建てられた。
駅前から南西の方向に細い道を歩いてゆくと、「初瀬街道」の案内標石がある。名張は伊勢から長谷寺に向かう初瀬(はせ)街道が通っており、その宿場町として発展した。現在もその道が一部昔の名残をとどめている。この道を歩いてゆくと、栄林寺というお寺があり、ここに『市人よ此傘の雪売ふ』の芭蕉句碑がある。この句は「野ざらし紀行」の中で『市人よ此笠うらふ雪の傘』として出ている。
また、通り沿いに「江戸川乱歩誕生の地」という案内板があった。日本の探偵小説の基礎を築いた江戸川乱歩はこの地で生まれた。
  

芭蕉句碑説明(説明板より)
   香に匂へうに掘る岡の梅の花   芭蕉
   うにの香も年ふる山の冬の梅   竹人

元禄元年(1688)芭蕉45歳の作。『有磯海』(浪化編)に「伊賀の城下にうにと云ものあり。わるくさき香なり」と前書がある。「うに(雲丹)」は、伊賀地方の方言で泥炭のこと。伊賀は古琵琶湖層群と呼ばれる地質で、「うに」の埋蔵地帯。土芳稿『芭蕉翁全伝』に「コノ句ハ土芳庵ニテノ吟ナリ」と注記することから、帰郷中の芭蕉が土芳の蓑虫庵を訪ねた折、上野の南郊で掘られる「うに」の話題に及び、この珍しい「うに」が「悪臭き香」をしているので、梅の花のよい香で消しておくれ、と興じた句。句意は「早春の故郷では梅が咲き匂い始めた。岡から掘り出すうには悪臭がするから、梅の花よ、清香で和らげてほしいものだ。」
竹人は伊賀城代藤堂釆女家の家臣。芭蕉の伝記『蕉翁全伝』などの編纂事業に功績を残した史学者。俳諧は土芳門。宝暦年間に当地の庄屋中村家に立ち寄った際、芭蕉の句に自らの感慨を詠んだもの。句意は「この辺りには梅の古木もあり、芭蕉の時代より相当年数が経過しているが、やはりうにの香が鼻をつく。」

長慶寺の芭蕉句碑

市場寺に立ち寄った後、再び旧国道に戻り先を続ける。道は狭く車も多いが、新しい国道とは違い、道沿いに人の生活する集落が広がっており、退屈せずに歩くことができる。この旧道を1時間くらい歩くと、西原町で県道57号線と合流する。これから先はこの県道を進めば名張に出ることができる。県道は近鉄大阪線の桔梗が丘駅前を通り、しばらく線路に沿って進む。道なりにしばらく歩いてゆくと蔵持という信号があり、そこを右に曲がって200mくらい行くと長慶寺というお寺がある。このお寺の境内にも先ほどの市場寺と同じ句の句碑が建っている。これは寛政五年(1793)に建てられたもので、自然石に彫られたもので3m近くあるだろうか、かなり背の高いものである。

伊賀上野から名張へ

蓑虫庵、無名庵跡など

故郷塚を見学したあと、私は蓑虫庵に向かった。ここも前回見学しているので、道順を確認する程度で門前を通過する。蓑虫庵の先で中之立町通りという古い道筋に突き当たり、そこを左に曲がると少し先に愛宕神社がある。この神社の境内に「大福寺無名庵跡」という碑と説明板が立っている。伊賀には芭蕉ゆかりの草庵は五つあったが、これはそのうちの一つで、服部土芳がこれを俳諧道場として伊賀蕉門の指導に当たったという。

故郷塚

芭蕉生家前をさらに東に進み、次の信号で右に曲がると、少し先の右側に松尾家の菩提寺愛染院がある。門前に「史跡 芭蕉翁故郷塚」の石柱と石碑が建っている。境内に入ると、本堂の前左側に芭蕉句碑がある。「家はみな杖にしら髪の墓参り 芭蕉」とあり、脇に解説がついている。これは元禄七年(1694)、帰郷のときの句で、この年の十月に芭蕉は大阪で客死した。境内には芭蕉句碑がもう一つある。「数ならぬ身となおもいそ玉祭り」。これは、芭蕉の妾とも言われる寿貞の死を悼んで作られた句である。
本堂の脇から墓地に入る冠木門があり、入って奥の方に「故郷塚」がある。案内の矢印がつけられているので見つけやすい。塚の上には茅葺の屋根が設けられている。塚の碑前には新しい綺麗な花が供えられていた。

故郷塚
芭蕉の遺骸は遺言により、膳所の義仲寺に葬られたが、訃報を受けて伊賀の門人服部土芳らが遺髪を持ち帰り、先祖の墓の傍らに塚を築いて故郷塚と称した 碑文は服部嵐雪の筆になるもので、次の文字が刻まれている。
元禄七甲戌年
芭蕉桃青法師
十月十二日

芭蕉故郷塚のある愛染院門前
「史跡芭蕉翁故郷塚」の石柱と「芭蕉翁故郷塚」の碑(写真)が建っている
当寺は芭蕉の生家松尾家の菩提寺で、境内には芭蕉の遺髪をうずめた「故郷塚」と称する塚がある

「野ざらし紀行」のこと

ここで、芭蕉の作品としての「野ざらし紀行」に簡単にふれておこう。「野ざらし紀行」本文の書き出し部分は、次のように記されている。

『・・貞享甲子
(貞享元年、1684)秋八月、江上(こうしょう)の破屋をいづる程、風の声、そゝ゛ろ寒気也
 野ざらしを心に風のしむ身かな 
(野ざらしとは、野に捨てられた髑髏のこと。句の季語は「身にしむ」で秋)

この句から「野ざらし紀行」と呼ばれることが多いが、旅の年から「甲子(かっし)吟行」と呼ばれることもある。芭蕉の紀行文の第1作である。

また、芭蕉が故郷に帰った折のことを次のように記している。

『長月の初、古郷に帰りて、北堂の萱草
(けんそう、わすれぐさ。中国の昔、母は北堂に住み、萱草を植えた。芭蕉の母は前年の天和3年6月20日没)も霜枯果て、今は跡だになし。何事も昔に替わりて、はらから(兄、半左衛門のこと)の鬢白く眉皺寄て、只「命ありて」とのみ云て言葉はなきに、このかみの守袋をほどきて、「母の白髪をがめよ、浦島の子が玉手箱、汝がまゆもやゝ老いたり」と、しばらくなきて、
       手にとらば消えんなみだぞあつき秋の霜    』

本文ではこのあと、『大和の国に行脚して、葛下の郡
(葛城の下の郡)竹の内と云処は彼ちり(芭蕉の門人で、野ざらし紀行の旅に同行した)が古里なれば、日ごろとどまりて足を休む。』と、竹の内村を訪れしばらく滞在したことを記している。この記事にしたがって、私はこれから竹の内に向かう。道筋はわからないが、恐らく伊賀上野から名張街道(現国道368号線)を通って名張に出、そこから伊勢街道、初瀬街道(現国道165号線)を通って桜井、さらに竹内街道を経て竹の内村に至ったのだろう。



市場寺の芭蕉句碑

愛宕神社を出て西に向かうと国道368号線に出、少し行くと名阪国道と交差する。ここからさらに雨の国道を80分ほど歩くと、菖蒲池というところで国道の旧道が左に分かれてゆく。1車線の細い道で、歩道もないが交通量は結構多い。しばらくすると菖蒲池のバス停があり、その少し先で左に曲がる細い道を行くと市場寺というお寺がある。ここに芭蕉句碑があるので立ち寄った。このお寺には国指定重要文化財の木造阿弥陀如来像などがある。その安置されているお堂の脇に芭蕉句碑が建っている。句碑の横には説明板がある。

蓑虫庵入口付近の様子
蓑虫庵は伊賀における芭蕉の高弟、服部土芳の草庵で、現在も昔のままに保存されている
中は前回見学しているので、今回は門前を通過した

愛宕神社
蓑虫庵の近くにある神社。この神社の境内に大福寺無名庵跡の石碑が立っている。無名庵は、元禄七年秋に生家の裏庭に建てられたが、その後宝永初年(1704)この地に移され、服部土芳が伊賀蕉門の俳諧道場として使用し

古里や臍のをになく年の暮

芭蕉翁生家、句碑付近の様子
国道沿いに長い土塀が続き、そのはずれに句碑が建っている。この句は貞享四年(1687)歳末、「笈の小文」の旅の途中、帰郷したときの作で、句碑は芭蕉の真筆を拡大して昭和38年に立てられた

上野市駅前に建つ芭蕉像
時雨のような冷たい雨の中で、芭蕉も「蓑をほしげ」に見えた

芭蕉と歩く 伊賀・大和路
市人よ此傘の雪売ふ
初瀬街道沿いの栄林寺境内にある芭蕉句碑この句は芭蕉が栄林寺の門前にたたずんで詠んだ句として文化十四年に名張の俳人たちによって建てられたという

初瀬街道新町付近の様子
昔の街道の面影が残されている。通りの主な建物には簡単な説明と昔の写真などが掲示されている。江戸川乱歩は此付近で誕生したという

近鉄大阪線名張駅
駅の周りに大きな建物などはなく、落ち着いた雰囲気である。駅前広場の隅に観阿弥の銅像と万葉歌碑が建っている

香に匂へうに掘る岡の梅の花  芭蕉
うにの香も年ふる山の冬の梅  竹人

市場寺芭蕉句碑付近の様子
当寺には、国指定重要文化財の「木造阿弥陀如来像」と「木造四天王立像」がある。写真の鉄筋コンクリート造りのお堂の中に収蔵されているようだが、確認できなかった

家はみな杖にしら髪の墓参り
元禄七年(1694)芭蕉51歳の作。季語「墓参り」で秋。夏、大津に滞在していた芭蕉が兄松尾半左衛門より手紙で郷里に招かれ、伊賀上野へ帰郷し、一家そろって当寺の祖先の墓に詣でた折の句

数ならぬ身となおもいそ玉祭り
元禄七年(1694)芭蕉51歳の作。季語「玉(魂)祭り」で秋。伊賀上野で盆会を迎え、一族の人々とともに法要を営んだ芭蕉が寿貞の死を悼み詠んだ句。寿貞に関する資料は少なく、不明な点が多い。句意は「自分のことを物の数にも入らない身だと決して思わなくていいよ。どうぞ私の心からの供養を受けてください」