甲州街道のこと 

 ***あとがきにかえて***

私が知っている甲州街道は昭和30年以降で、それ以前の姿は知りません。昭和30年代の甲州街道の思い出といえば、やはり、昭和39年に行われた東京オリンピックのマラソンでしょうね。このときのマラソンは、千駄ヶ谷の国立競技場をスタートして甲州街道に入り、飛田給で折返す42.195Kmで行われました。私は、笹塚の映画館の前で当時のスター、アベベの走る姿をこの目でしかと見ました。見ている前をアッというまに通り過ぎてしまったのですが、今でも目に浮かびます。選手たちの通り過ぎるのを待って、私は京王線に乗り先回りをしてもう一度アベベを見ました。その後再び電車で飛田給までゆき、折返し点付近の様子を見に行きましたが、アベベなど先頭集団は通り過ぎた後でした。このとき、日本の円谷選手も大活躍したのですが、どういうわけか私の印象には残っていません。
東京オリンピックでは、この他に同じコースで競歩競技が行われました。このときも沿道で見物しました。どういう人が出ていたのかは覚えていませんが、競歩独特の歩き方は今でもはっきりと印象に残っています。

東京オリンピックは、当時の東京の様子を一変させました。「オリンピックのため」という大義名分のもと、首都高速道路が急ピッチで建設され、その一環として、甲州街道の上にも首都高速4号線が建設されました。この高速道路はオリンピック開催の2ヶ月前(昭和39年8月)に開通しています。工事に先立ち甲州街道の拡幅工事が行われ、長期間に渡って周辺が雑然とした状況だったことが印象に残っています。

昭和42年から15年くらい笹塚を離れたので、その間の変化についてはよく分かりませんが、帰ってきたときには街道周辺の様相は一変していました。最近では、都心部に近い利点を生かして、大きな高層ビルに建て替えられ、上層階はマンションなどの住宅になっているものが増えてきました。これは、都心に近い街道沿いの多くに見られる状況でしょう。

●笹塚界隈の甲州街道の思い出

甲州街道の歩き旅が終わりました。はじめにも書いたように、私は子供の頃から甲州街道沿いの笹塚に住んでおり、大学を卒業してからは一時期離れましたが、再びここに戻ってからもう20年近くなります。小さいときから、この道は甲府まで続いているのだなとは思っていましたが、その先については思いが至りませんでした。今回、その先も含めて歩きとおしました。そんな道について考えたこと、気がついたことなどを記してみたいと思います。

甲州街道の生い立ちと笹塚界隈の街道の様子

甲州街道は、東海道などより遅れて天正18年(1590年)の家康江戸入府後15年ではじめて開通しました。その起点は他の街道と同じく日本橋ですが、一般通俗的には四谷大木戸を起点と見る傾向が強かったといいます(たとえば豊多摩郡誌、武蔵新風土記の記述など)。また、甲州街道の整備の主眼は江戸城と甲府城を結ぶことにありました。「万一」のとき将軍家の甲府城への退路とするための道だったといわれています。

「江戸名所図会」に現在の代田橋付近のことが「代太橋」として載っています。挿絵には甲州街道と玉川上水が描かれていますが、橋の姿は見えません。本文には「橋上に土を覆う故に其形顕れず」とあります。玉川上水は、ここまで街道の左側にありましたが、ここで道を横切り右側に移ります。
街道には、いわゆる「鮎かつぎ」の若い衆の姿が描かれています。ここで、この「鮎かつぎ」について、「江戸名所図会を読む」(川田壽著」から引用させてもらいます。
「この鮎かつぎの姿は明治20年ごろまで、甲州街道を走るのが見られたという。かつての多摩川や相模川は鮎の名産地であった。とくに多摩川の鮎は、かたちといい味といい、他の比ではなかった。ところが腐りが早いので、朝早くから未明のうちに内藤新宿の鮎問屋まで運ばなければならなかった。・・およそ10里の道のりであった。鮎を運ぶのは足が自慢の若衆で、鮎籠を前後に振り分けにし、よく撓う天秤棒を調子よく揺らせながら、すっ飛んで行った。・・・」甲州街道をこのような若者たちが、毎朝すっ飛んで行ったという事を想像するだけでも楽しくなります。
当時は街道に人家はまばらで、雑木の並木の向こうには田畑が延々と続くのどかな農村風景が見られたようです。しかし、ひとたび雨が降ると、道はぬかるみとなり歩行に難儀したといいます。街道にようやく砂利が敷かれたのは明治17年頃になってからだと古老の記憶にあるそうです。

そのような街道筋にも、日露戦争あたりからボツボツ人家が建ち始め、京王電車開通(大正2年)前後頃からは街道筋には人家が建ち並ぶようになりました。それに伴って車馬通行人の数も増してゆき、この道路をいつまでも明治以来のままで放置するわけにはゆかなくなりました。そこで、昭和6、7年にわたって幡ヶ谷地区の甲州街道の整備が行われ、道幅は9m(5間)から25mに拡幅され、路面もコンクリート敷きアスファルト舗装になりました。

その後、昭和30年代後半にオリンピックを機にさらに拡幅が行われ、首都高速道路が建設されたのは、先に記したとおりです。

甲州街道関連の交通機関

江戸時代〜明治時代初期
江戸の昔から明治の初めにかけては、旅駕籠、伝馬がこの甲州街道の唯一の交通機関でした。殊に馬の往来は多く、「7,8頭を数珠繋ぎにして一人の馬子が先頭で手綱を握り、日に7組も8組も上ってくるのは甲州街道の風物の一つであった。・・」と記述されています。
[「幡ヶ谷郷土誌」(編者 堀切森之助 昭和53年3月発行)による。以下同じ。]

明治時代初期〜大正時代初期
この幡ヶ谷地区で一般の人が自由に利用できた交通機関に「乗合馬車」というのがあったそうです。いつ頃開始されたか判然としないが、古老の話では明治20年頃ではないかと言います。そして、次に述べる京王電車の開通とともに姿を消しました。
「この馬車は新宿を起点とし調布まで約4里、下高井戸宿を中継所として定時発着をなし、途中随所で乗客の申し出により乗降を為さしめた」とあります。午前、午後に各1回あて1日2往復していたそうです。定員は10名くらいの1頭立て馬車でした。
「あまり当てにならぬ交通機関ではあったが、その往復に車上から馬丁の吹き鳴らした喇叭の音だけは、のどかな農村に響き渡って不正確ながら農民等への時報となって不思議と印象的であった。」といいます。

大正時代初期〜太平洋戦争前
明治22年4月1日から新宿〜八王子間の運転を開始した、甲武鉄道(現在のJR中央線、左写真)の路線は、そのはじめは甲州街道沿いに敷設される予定だったそうです。しかし、当時の予定線沿道の村民たちは農地の荒廃を理由としてその敷設に反対しました。その結果、この路線は迂回して現在の中央線の路線に敷設されました。その後、これらの反対した農民たちも甲武鉄道開通後の沿線の状況を見るにおよび、己等の無知さを後悔し、後に京王電車敷設の話が出たときには、むしろ歓迎の態度を示したといいます。
京王線がはじめて計画されたのは明治39年ごろで、いろいろな紆余曲折を経た後、大正2年4月15日にまず笹塚〜調布間が開通しました。翌年5月31日には新宿まで開通、さらに翌々年(大正6年)には府中まで開通し、第1期の工事が完了しました。開通当初は単線で、1両の電車がのどかに走っていたようですが、その後沿線には人口も多くなり、電鉄会社も順調に発展していったようです。

争中、戦争直後〜昭和30年代
京王線の起点は当初は現在の位置ではなく、甲州街道を路面電車として山手線陸橋を越え、追分まで伸びていました。ところが、戦争末期になると電力不足で電車が坂になった陸橋を越えることが出来なくなり、工兵隊の手によって急遽現在の位置に駅を変更したというエピソードが残っています。私の知っている京王線ホームは、既にこの位置にあり、小田急線の続きで13〜16番線までを京王線が使用していました。この新宿駅も、昭和39年のオリンピックを機にホームが地下化され、様相は一変しました。地下化される前は、京王線は甲州街道を路面電車として100mくらい走っており、道路交通の大きな支障となっていましたが、この工事により解消されました。

昭和40年代〜現在
京王線が地下化した後も甲州街道の工事はさらに続きました。京王線に並行して京王新線の工事が行われたのです。これは昭和53年に完成し、昭和55年には都営地下鉄新宿線の乗り入れが開始しました。これにより、笹塚〜新宿間は地下鉄で複々線になりましたが、これは、全国的に見てもここだけだそうです。
その後の甲州街道沿道で特筆されるのは、初台駅周辺の大開発工事でしょう。平成8年、9年に東京オペラシティ、国立第2劇場が相次いでオープンしています。

オリンピックを契機とし、その後の高度成長期を経て、東京の景観は大きく変わりました。特に私の周囲では、オリンピックを境にした新宿駅西口周辺および京王線関連の変化が大きく印象に残っています。甲州街道、京王線というと私の中では常に何か工事をやっているイメージがありました。そんな甲州街道もようやく大きな工事がすべて終わり、平穏な日々が続いているように見えます。
左の写真は、今年(2005年)元旦の笹塚付近の甲州街道の様子です。さすがにこの日は仕事のくるまは見られませんでしたが、いつもの通勤時間帯には車があふれかえっています。


  「木枯らしの吹きぬく陸橋下みればしごとのくるま今朝もつらなる」
  「この道はアベベも走りしみちならんオリンピックははるかかなたに」
  「明けやらぬ街道はしる鮎かつぎがんばれもうすぐ新宿だ」