★本覚寺山門 / 本覚寺より横浜港方面を望む

幕末に神奈川が開港場となっただけに、このあたりのお寺は当時の外国の領事館などにあてられた。このうち、高台にあって周囲が一番よく見える本覚寺はアメリカ領事館として使用された。現在のお寺からは海などまったく見えないが、当時はここから港の船の様子などがすべて見通せたという。現在、ここからは青木橋の下を通るJRや京急の電車、国道1号を走る車の列など慌ただしい風景が広がっているばかりである。

★帷子(かたびら)川 / 天王町駅前の旧帷子橋跡

旧道をさらに行くと賑やかな松原商店街がある。この先で国道16号を越えて少し行くと帷子(かたびら)川が流れており、帷子橋を渡る。ここからは保土ヶ谷宿である。広重の保土ヶ谷宿ではこの帷子川とこれにかかる帷子橋が描かれている。相鉄天王町駅前の小公園に昔の帷子橋の遺構が残されている。
この先広い通りに出て道なりに進むとJR保土ヶ谷駅に着く。今日の旅はここまでにしよう。

第2日目 (2月3日 土曜日) 川崎宿〜神奈川宿〜保土ヶ谷宿




★生麦事件発生現場 / 生麦事件の碑

国道を渡って旧道をさらに行くと、「生麦事件発生現場」という説明版があった。周辺は普通の住宅街で「へえー、こんなところで」という感じである。ここで文久2年(1862年)島津久光の行列に入り込んだ英国人が殺傷されたのだ。この道はしばらく行くと国道と合流し、少し先に「生麦事件の碑」が建っている。この碑は明治16年に建てられたという立派なものである。この後、道は長い国道歩きになる。


★「神奈川歴史の道」の解説板 / 「東海道分間延絵図」の大画面

国道歩きに飽きてくるころ、道の右側に「神奈川歴史の道」の統一的な解説版が現れる。これが出てきたら国道と並行した一本裏道を歩いたほうがよい。この道沿いには古いお寺が多く、解説もしっかり書いてある。同じ道の小学校の塀に沿って大きな昔の「東海道分間延絵図」が親切な解説とともに書かれている。古い地図の中に現在の建物の位置などが示されており、たとえば横浜駅などは海の中になっているなど、なかなか見やすく、面白い趣向だと思った。



★神奈川台町あたり / 神奈川台関門跡碑

道は国道1号から右に折れ、神奈川台町に入ってゆく。このあたりは風光明媚なところで、海を見下ろせる茶屋がたいそう繁盛したという。現在の町並みからは想像もつかない話である。少し行くと「神奈川台関門跡碑」というのがある。鶴見橋の近くにもあったが幕末に外国人の安全を守るために関門を設けた跡だという。この少し先で神奈川歴史の道は終わる。
道はこの後、住宅街を縫うように進む。途中道の間違えやすいところもあるので地図で確認しながら歩いたほうがよい。



歩行距離 約14km   歩数 23,600歩

  

★芭蕉句碑と説明板

今日は先週に引き続き、川崎の旧街道を進む。商店街の賑わいがなくなり、道は京急の踏切を渡る。ここの手前に芭蕉の句碑、『麦の穂をたよりにつかむ別れかな』がある。句碑には屋根がかけられ保護されており、脇には解説版がある。芭蕉は元禄7年(1694)5月、見送りにきてくれた門人たちとここで別れ、その後旅先で亡くなってしまったので本当の別れとなってしまったという。踏切を渡ると京急の八丁畷駅で、道の横に八丁畷の由来と、人骨の碑が立っている。昔はこの辺はのどかな田園であり、さびしい所だったので行き倒れた人や馬などを投げ入れる穴があったらしく、近年掘り返したところ大量の骨が見つかったそうである。これの慰霊碑が建っている。

★市場一里塚跡 / 鶴見橋関門旧跡碑

さらに進むと、市場通り商店街となり、そのはずれに「市場一里塚跡」がある。これは江戸から5番目の一里塚で左側の塚が現存している。
しばらく行くと鶴見川で、新しい鶴見橋を渡る。渡ったところに「鶴見橋関門旧跡」碑がある。幕末に横浜港が開港されると外国人の安全を守るため横浜への主要道路に関門が設けられた。ここにはその一つがあったという。よく整備された歩道をしばらく歩くと京急鶴見駅前に出る。ここで昼食にし、これから先の地図を確かめる。近くには鶴見の総持寺もあるが、これは明治44年に能登半島から移転したそうである。旧道は鶴見の商店街の中を進み国道15号を渡る。