★銘菓「関の戸」、深川屋 / 会津屋(大旅籠山田屋跡)

関の戸」は寛永年間にはじめて作られたという銘菓である。会津屋は昔は山田屋という大旅籠であった。関の小万はここで生まれ、育てられ敵討ちの本懐を遂げたという。この他にも、道筋には古くからの商店、建物など目白押しである。朝まだ早いので人はあまり見えないが、私はわくわくキョロキョロしながら歩いた。

東海道歩き旅の中で、日程を組む時に一番悩むのは今日の鈴鹿峠越えである。これは交通機関の問題で、JR関西線は関駅から全然別の方向へいってしまい、鈴鹿峠を越えた先は近くに鉄道がない。また、今日のホテルは水口宿まで行かないととりにくいし、次の日の行程を考えるとどうしても水口まで到達したい。こう考えてくると、当日の新幹線を利用したのでは歩き始めの時間が遅くなってしまい、やや無理が生じる。(東京発6時31分発のひかりで、関駅に着く最短列車は10時07分となる。これでは順調にいっても水口のホテルに着くのは19時頃になってしまう)
考えた末、私の場合は前日発の東海道線夜行快速列車を利用することで歩き始めの時間を繰り上げることとした。

★夜行快速「ムーンライトながら号」(東京駅) / JR関西線、関駅

東海道線の夜行快速「ムーンライトながら」大垣行きは、東駅駅23時40分発である。この列車は小田原まで全席座席指定で、指定券(510円)を購入する必要があるが、その他は普通乗車券だけでOKである。車両は特急「東海」と同じでなかなか快適である。車内はがらがらだが、若い人やサラリーマン風の人が多かった。名古屋には6時5分の到着である。豊橋から先は各駅停車になるのであまり寝ていられないが、それでも4時間ぐらいはうとうとできたと思う。名古屋で関西線に乗り換え、亀山で加茂行きに乗り継いで、関駅に着いたのが8時10分。今日はここからスタートである。ローカル線には旅情がある。列車はここから加太峠を越え、奈良方面へと去ってゆく。

第20日目 (9月15日 土曜日)  関宿〜坂下宿〜土山宿〜水口宿



★関宿の町並み / 関まちなみ資料館

関宿は東海道五十三次の中で「伝統的建造物群保存地区」に指定された唯一の宿で、町でも約1.8kmの町並みの保存に力を入れている。
駅から5分も歩けばこの町並みに入ることができる。少し行ったところに「関まちなみ資料館」というのがあるが、朝早いので残念ながらまだ開いていなかった。空模様が少し気になる。今のところ日が差したりしているが、山の方向はかなり雲がかかっている。




★地蔵院本堂 / 愛染堂

途中に地蔵院というお寺がある。「関の地蔵」として親しまれているが、天平13年(741年)行基が地蔵を安置したのに始まるという。享徳元年(1452年)愛染堂の大修理に際し、開眼供養をしたのが一休禅師であった。一休は地蔵の首に自分の褌をかけ、ついでに自分の小便もかけて開眼供養したという。地蔵院の隣には愛染堂が建っている。これは文永4年(1267年)の建立で、国の重要文化財に指定されている。



★筆捨山 / 沓掛の集落

追分の先で旧道は国道1号線と合流する。国道を歩くが、途中に筆捨山と呼ばれる山が見える。広重の坂下宿では茶店からこの山を眺める絵が描かれているが、現在は絵のような岩山ではなく、樹木に覆われた普通のありきたりの山に見える。狩野元信がこの山を描こうとして筆をとったが、どうしてもうまく描けないのでついに筆を投げ捨てた、という言い伝えが名前の由来である。さて、道はまた旧道に入ってゆく。しばらく歩くと、沓掛という集落につく。山と鈴鹿川にはさまれた小さな集落だが、古くからの大きな家も残っている。亀山から坂下宿にはバスも通っており、ここにもバス停があった。

★鈴鹿馬子唄会館 / 五十三次の宿場名を書いた木の標識

心配したとおり雨がかなり激しく降ってきた。坂下宿に入る手前に鈴鹿馬子唄会館というのがあったので、雨宿りもかねてここに入った。馬子唄と宿場に関するシンプルな展示があった。普段はここで地元の人が馬子唄の練習をしているという。また、鈴鹿馬子唄の全国コンクールもここで行われるという。鈴鹿馬子唄のCDがあるというので買い求めた(1000円)。「坂は照る照る鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る」。今日は、坂から土砂降りの雨である。ここで10分くらい見学したり、館の人の話を聞いたりしていたら少し雨が小降りになってきた。
馬子唄会館からの道沿いには五十三次の宿場名を書いた木の標識がずらりとたっていた。


★坂下宿の町並み・大竹本陣跡 / 小竹屋脇本陣跡碑

道は坂下宿に入ってゆく。山間の宿場町だが、かつては本陣三軒、脇本陣一軒、旅籠四十八軒と大きな宿場だった。中でも、東海道一の威容を誇ったという「大竹本陣」は有名で、東海道名所図会にも描かれている。また、鈴鹿馬子唄にも「坂の下では大竹小竹 宿がとりたや小竹屋に」と唄われた。本陣の大竹屋は無理だが、せめて脇本陣の小竹屋には泊まりたいものだ、という気持ちを唄っている。そんな大竹屋の跡も現在では茶畑に変わっている。小竹屋の跡にも夢の後を示す碑が建てられている。現在の宿場跡は民家も少なく、さびしい限りである。


★片山神社 / 鈴鹿峠の山道

国道1号線と並行して少し歩いた後、旧道はいよいよ鈴鹿峠への登りにかかる。途中に片山神社というのがあるが、現在は荒れ果てている。この神社の脇からは本格的な山道となる。また雨が強く降り出した。道は川のようになり、ズボンはびっしょり、靴の中で水が踊っている。
こんな道が長く続いたらかなわないな、と思っていたら意外と早く峠の頂上に着いた。


★万人講常夜灯 / 峠の頂上から見える国道1号線

鈴鹿峠の頂上付近には茶畑が広がっている。この辺は東海道自然歩道のコースにもなっていて、その関係の道標もたくさんたっている。頂上の標高は350mというからさして難儀な峠道ではない。(雨には参ったが)少し行くと大きな常夜灯が建っている。「万人講常夜灯」と呼ばれるもので、本来は四国の金毘羅参りの常夜灯として設置されたという。その大きさにはびっくりしてしまう。ここにはベンチなども置かれ、休憩できるようになっている。トイレもある。眼下には、鈴鹿トンネルを抜けた国道1号線が走っている。滋賀県土山町の道路標識が見える。いよいよ三重県ともお別れして、滋賀県に入る。


★山中一里塚公園内の鈴鹿馬子唄の碑 / 同所の馬と馬子の像

道はだらだらと下ってゆき、国道1号線に合流する。国道を歩いたり、旧道に入ったりを繰り返すが、途中に山中一里塚公園というのがある。ここには一里塚跡碑の他に鈴鹿馬子唄碑や馬と馬子の像なども立っている。馬子唄会館といい、この碑や像といい、地元の人の鈴鹿馬子唄に対する思い入れが感じられる。雨はまだ降っている。


★土山宿入口・来見橋 / 土山宿の町並み

旧道は土山宿に入ってゆく。来見(くるみ)橋というのが宿場の入り口だったという。旧道沿いの主な商店には昔の屋号を示す木札が掲げられ、旅籠の跡には必ず石碑が建てられている。昔の町並みの様子が想像できるようになっており、楽しい道である。土山町は現在でも鉄道の駅から遠く、不便なためにこのような町並みが残されているのだろう。しかし、これだけ徹底して石碑と木札で表示するのは町としても相当な努力をされているのだろう。


★問屋場跡 / 土山宿本陣跡

少し行くと、五十三次土山宿の大きな標識と問屋場跡の碑が立っている。そのすこし先に土山宿本陣跡がある。ここには明治天皇もお泊りになったといい、かなり格式が高い本陣だったようだ。残念ながら中は公開されていない。さらに少し先には大黒屋本陣跡碑、高札場跡碑なども立っている。


★茶畑の広がる旧道風景 / 一里塚跡碑

土山宿の町並みを抜け野洲川を渡ると、道沿いに茶畑が目に付くようになる。雨もすっかり上がり、道も乾き始めている。あるいは、この辺ははじめからあまり雨は降っていないのかもしれない。私のズボンも少し乾いてきた。ズボンに入れていたメモ帳がすっかり濡れてしまい、昼食をとった時間がメモしてないのでわからないが、どこかこの辺の神社で昼食にした。また、例によってこのときに水口宿での今夜の宿泊場所を探した。始めに旧道から近そうな旅館に電話したら、旅館業をやめましたとの返事。結局、少し遠いが国道1号線沿いのビジネスホテルがとれて一安心。


★水口宿町並み / 問屋場跡碑

ようやく水口宿に入ってきた。これから今日泊まるホテルの場所を探さなければならない。電話では概略聞いてあるが少々心配になってきた。国道1号線沿いというが国道にはどう行けばよいのか。警察署の近くだというがどの方向か。道を尋ねながらようやく目的のホテルに着いた。17時ころである。早速、風呂に入りようやく人心地がついた。やはり、宿泊場所は事前によく調べておかないといけませんね。



★代表的な関の町並み風景 / 西の追分案内板

町並みはさらに続く。町外れに近くなったところに同じような高さの家並みが続いているところがある。関の町並みの中では私はこのあたりが一番好きである。写真もよく撮れている。
町のはずれに西の追分がある。ここには道標と案内板がある。ここで奈良に向かう大和街道と東海道が分かれる。

★川北本陣跡 / 伊藤本陣跡

すぐ近くに川北本陣跡(石碑のみ)および伊藤本陣跡がある。伊藤本陣跡は石碑と関連の建物が残っており、この建物は家族の居住用と大名宿泊時の道具置き場に供していたという。いずれにしろ、この辺が関宿の中心だったのだろう。
ところで、関の名は古くからこの付近に「鈴鹿の関」が設けられていたことに由来するという。昔の鈴鹿峠は伊勢へ抜ける重要なルートだったから、時の権力者はここを抑えておく必要があった。しかし、江戸時代になると関所の役割も薄れてしまい、東海道の宿場町としてにぎわう。東海道を旅する人のほか、伊勢参りの人や、奈良、大和へ向かう人々が集まってきて繁栄した。

歩行距離 約30km    歩数 49,500歩