第19日目(8月26日 日曜日) 内部〜石薬師宿〜庄野宿〜亀山宿〜関宿



★血塚社 / 日本武尊血塚碑と祠

坂を登りきったところに血塚社というのが建っている。ここで尊の足の出血を封じたとの所伝があり、碑と小さな祠が建っている。
ところで、私は戦後の教育を受けた者であり、古事記の世界については今まであまりよく知らなかった。時の政権(天皇)を正当化するために意図的に作られた面も多いのだろうが、民間伝承的なことも含まれているのだろうと思う。記紀の世界にも少し興味をもった。


★北町の地蔵堂 / 石薬師宿の旧道風景

道は国道1号線に合流し、しばらく国道を歩いた後、旧道は分かれ石薬師宿に入ってゆく。宿の入り口に北町の地蔵堂という小さな建物がある。説明板があり、「この地蔵堂は、宿の入り口に旅の安全のために建てられた。現在、この付近の16軒の方々で地蔵講を結成し、掃除や供花の奉仕がなされている・・・石薬師魅力再発見委員会」とある。掃除が行き届ききれいな花が供えられていた。植木(さるすべり?)の花もきれいに咲いていた。石薬師宿の町並みはひっそりとしていた。ここはもう鈴鹿市である。


★小沢本陣跡 / 佐佐木信綱資料館・生家

少し行くと小沢本陣跡がある。石薬師宿は小さな宿場だが、本陣が3軒、旅籠が15軒あったという。本陣の一つを小沢家がつとめ、その建物が残っている。古い文書も残っており、元禄時代の宿帳には浅野内匠の頭の名前も見えるという。
その少し先に歌学者、佐佐木信綱の資料館と生家がある。資料館は昭和61年に鈴鹿市が建てたもので、博士のゆかりの品々が展示されている。隣には生家が残されている。また、博士は唱歌「夏は来ぬ」の作詞者としても知られ、鈴鹿市ではこの地区を「卯の花の里」として町づくりに取り組んでいる。初夏になると、どこの家庭の庭先にも白い可憐な花が咲き、清楚な趣を添えているそうである。


★石薬師寺・石薬師宿の大看板 / 石薬師寺

広い国道を歩道橋で渡ると、石薬師寺の大きな看板が立っている。石薬師宿はこのお寺の門前町でもあった。古刹石薬師寺は聖武天皇の時代に開かれたと伝えられ、かつては大伽藍を形成していたが戦国時代にほとんど焼失したという。現在の本堂は寛永6年(1629年)に再建され、総檜造りの珍しい建物だそうである。境内は広いが、私のほかに参詣者はなく、静かな佇まいであった。


★石薬師の一里塚跡 / 国道1号線陸橋よりJR関西線(名古屋方面)を望む

お寺からしばらく歩くと、石薬師の一里塚跡がある。ここにも例の石薬師魅力再発見委員会の説明板が立っていた。説明の後に、「くたびれたやつが見つける一里塚」の江戸狂歌が。さて、このあと旧道は道筋がよく分からなくなるので、すぐ近くを通る国道1号線にのぼり、JR関西線を陸橋で越える。陸橋からの風景はのどかなものである。


★庄野宿の案内板(広重の白雨) / 小林家住宅・庄野宿資料館

国道をしばらく歩くと、旧道は右に曲がり、庄野宿に入ってゆく。石薬師宿から約3kmと東海道の中でも2番目に短い宿間距離である。宿場の規模も本陣1軒、旅籠15軒と小さい。
旧道に入って少しのところに標識と案内板がある。案内板には広重の「庄野宿・白雨」が掲出されている。道行く人が夕立にあい、あわてて走り出してゆく様が描かれており、蒲原宿の「夜之雪」の「静」に対する「動」の名作として評判が高い。近くには問屋であった小林家の住宅があり、現在は庄野宿資料館となっている(入館無料)。


★庄野宿の町並み / 高札場跡の説明板

資料館から少し行くと本陣跡の標識があり、高札場跡の説明板も立っている。この辺が宿場の中心だったのだろう。先ほどの資料館には高札の実物が5枚ほど展示されていた。


★女人堤防碑 / 真新しい「中富田一里塚跡」碑

旧道は国道を横切りさらに続く。少し先に女人堤防の碑という大きな石碑が建っている。かつて、この地は鈴鹿川と安楽川の合流地点であったことから、絶えず水害に苦しめられていた。民は堤防を作るように領主に嘆願したが、城下が浸水することを恐れた領主は許可しなかった。ここに菊女という女が先頭に立って堤防の築造をはじめ、深夜、女性だけの手で6年がかりで完成させた。禁制を破ったということで女性たちは処刑されそうになったが家老が死をもって領主を諌め、処刑を免れたという。江戸でも神田川の片堤防といって、神田川は江戸城の反対側の堤防を築かせなかったが、同じような理由である。その少し先に中富田の一里塚という真新しい碑が建っている。説明板があり、「東海道分間延絵図にこの位置(川俣神社の東隣)に一里塚が描かれているので碑を建てた・・・平成13年10月」とある。あれ、まだ10月になってないな?というのはあとで気がついた。同じところに「従是西亀山領」の碑が建っている。


★和田の道標 / 能褒野(のぼの)神社第二鳥居

旧道はJR関西線の踏切を渡り、井田川駅(無人)前を通り過ぎる。さらに歩いてゆくと古い和田の道標がある。これは東海道から旧神戸道に分かれるところに立っている。この先には和田の一里塚跡もある。その少し先には能褒野神社の鳥居がたっている。近ければ寄ってみようと思ったが、地図で見ると往復4km以上ありそうなのでやめた。日本武尊は能褒野の地で亡くなり、その御陵が神社の中にある。明治12年に政府により正式の御陵に指定され、現在は宮内庁が管理しているという。


★亀山宿メイン通り / 西町問屋跡標識

昔ながらの道幅の旧道が長く続くが、やがて道幅の広い商店街となる。今日は小さな宿場町ばかり通ってきたので、すごく大きな町に感じる。実際、亀山市は洋ローソクの国内シェアが75%ということでもわかるように、大きな町である。ようやくコンビにを見つけ弁当を買い、近くの公園で昼食にした。四日市で弁当を買っておけばもう少し早く食事にできたのだが、もう13時40分になっていた。お腹もいっぱいになり、また元気に旅を続ける。西町問屋跡という標識を過ぎた。右手の方には亀山城址があるが割愛した。これから先、道は下り坂となる。


★野村の一里塚 / 大岡寺畷跡

道なりに進むと野村の一里塚に着く。桑名宿から坂下宿まで12箇所の一里塚があったが、現在、塚として残されているのはここだけで、国の史跡に指定されている。塚には見事な椋の木が植えられている。樹令300年以上という。
この先で道を間違えた。街道歩きに慣れてくると、道が分かれている場合どちらが正しいかはほぼ間違いなく見当がつくのだが、たまにはまったく同じように見えて見当が外れることもある。この場合もそうでしばらく行ってから間違いに気がついたのだがそのまま歩き続けた。国道1号線に出てしばらく行くと旧道に復帰した。JR関西線の踏切を渡るとき、線路が異常に赤錆びているのが気にかかった。この先、道は大岡寺畷というまっすぐな道が続いている。昔は道の両側に松が植えられていたらしいが、今は桜の並木である。


★関の小万もたれ松の碑 / 関宿の町並み

再びJR関西線の踏切を渡り、国道1号線を少し歩くと、また道は旧道に入ってゆく。少しいったところに、関の小万もたれ松の碑がある。小万は父の仇を討つため亀山で武術を修得し、見事に仇を討ったのだが、この場所は亀山に通っていた小万が若者の戯れを避けるため身を潜めていた松があったところといわれている。道はいよいよ関宿の町並みに入ってゆく。この町並みは東海道中でも白眉のものである。昔の道、建物が極力そのままの形で残されている。雰囲気を損なわないように、電線類もすべて地中化され、電柱は1本も目に付かない。夢のような町並みである。
次回はこの関宿から歩き始めるので、そのときにゆっくりと歩くこととし、今日は早々に切り上げ、JR関駅に向かう。駅に着いて驚いた。列車が動いていないという。10日程前の台風で地盤が流され、開通の見込みが立っていないのだという。先ほどの線路の赤錆はこのせいだったのだ。代替バスは出るということなのだが、たまたま知らないで駅にきていたお客と相乗りで亀山までタクシーで行くことにした。亀山ではちょうど16時10分発の始発電車に間に合い、17時10分には名古屋に着いた。


★杖衝坂 / 芭蕉句碑

近鉄四日市駅近くのビジネスホテルを7時半ごろ出発し、近鉄内部線の終点・内部(うつべ)駅に着いたのは8時8分。駅の近くを旧道が通っており、ここから今日の歩きのスタートである。どんよりとした空模様だが雨は降らないだろう。
道は国道1号線に出て内部橋を渡り、また旧道に入る。この先には「杖衝坂」と呼ばれる坂がある。説明板があり、「日本武尊が東征の帰途、たいそう疲れて杖をついて坂を歩いた。その地を杖衝坂という(古事記)とあり、加えて芭蕉の句、『歩行(かち)ならば杖つき坂を落馬かな』によりその名が世に知られることになった」とある。芭蕉は、この坂を馬に乗ってうつらうつらしていたらしく、落馬してしまった。落馬してもただでは起きぬところが芭蕉のすごいところで、前記の句を詠んだ。しかし、慌てていたので季語を入れるのを忘れてしまった、と照れている。

歩行距離  約24km   歩数 42,900歩