前回(6月11日)に本宿まで達して、その後40日ほど空いてしまった。今年の6月、7月はことのほか暑く、名古屋周辺の歩きを敬遠したことと、宿泊しなければならないのが億劫だったためである。しかし、この間も私の足は歩くことを欲しており、東京周辺の中山道を歩いていた。
7月20日〜22日は3連休だし、東海地方の天気も曇り勝ちということで東海道歩き旅の再開である。

★本宿付近の国道1号線 / 津島神社

例によって、東京発6時35分発の「こだま」で豊橋に着き、名鉄に乗り換えて本宿着9時40分。駅のすぐ前を広い国道1号線走っている。道路標識板には名古屋51km、知立25kmとある。2日かけて歩く距離の目安がわかってちょうどよい。ここからの道は国道と並行して残っている旧道を歩く。この先は、国道と一緒になったり、また離れたりということを繰り返しながら進んでゆく。名電山中駅を過ぎ国道と合流した後、旧道は左手に別れてゆく。藤川宿東棒鼻跡があり、ここから藤川宿である。棒鼻の少し先に津島神社がある。、

第16日目(7月21日 土曜日) 本宿〜藤川宿〜岡崎宿〜知立宿




★むらさき麦 / 十王堂の芭蕉句碑

藤川宿では、昔は「むらさき麦」が名物だった。これは薬用や染物に使われることが多く、藤川ではたくさん栽培されていたという。「むらさき麦」の解説板が立っていた。これによると、毎年5月中旬から下旬にかけて茎や葉、穂がほのかな紫色に染まることから「むらさき麦」と呼んでおり、近年地元の人が栽培している、と書いてある。もう麦の季節は終わってしまったが、この場所で栽培しているのだろう。この先「十王堂」の脇に芭蕉の詠んだ句「ここも三河むらさき麦のかきつばた」の句碑がある。ちなみに、この句碑はその大きさが全国の句碑の中でも最大級のものだそうである。


★乙川(大平川) / 大平一里塚跡

道はやがて乙川(大平川)にぶつかる。旧道に橋は架けられていないので、国道の橋を渡る。ところで、「三河」という地名は「乙川」、「豊川」、「矢作川」の三つの川が流れる肥沃な土地という意味から命名されたという。さて、また旧道に戻りしばらく行くと「大平の一里塚跡」がある。ここには塚も残っており、この辺では貴重なものだ。榎も植えられており、これは2代目だそうである。
この先、道は国道と合流し、少し行くと東名高速に向かう3本の太い道路が右にわかれる。人はその3本の道路の下を地下道でくぐるようになっている。このイメージがよく頭に入っておらず、私は3本目の道路を国道1号線と勘違いしてしまい、これに沿ってどんどん歩いて行ってしまった。そのうち東名高速が見え始め、さすがにおかしいと気がついて地図を見直し、誤りに気がついた。振り出しに戻るまで合計30分くらいのロスだった。


★岡崎二十七曲り碑 / 明治2年に建てられた道標

じりじりと照りつける日差しの中、とんだ道草を食ってしまったが、岡崎宿に着いた。宿の入り口に「岡崎二十七曲り」碑と説明版がある。岡崎城は家康の生まれた城であるが、その後、田中吉政が入った。彼の時代に二十七曲りという屈折した道を作り、外敵の攻撃に備えたという。その跡が現在も残り、説明板に地図も書かれている。現在は曲がり角には石標が立ち、分かりやすくなっている。少し行くと西本陣跡碑、また少し先に「西 京いせ道、東京道、きらみち」と刻まれた道標が建っている。明治2年に建てられたものであり、江戸ではなく東京となっている。このあと籠田公園でコンビニ弁当の昼食にし、休憩する。


★岡崎城門(復元) / 岡崎城天守閣(復元)

二十七曲りの残りの部分は、はしょることにし、岡崎城址に向かう。城は明治に入ってから取り壊されてしまったが、現在、岡崎城址公園として市民の憩いの場となっている。城門、天守閣などが復元されたいる。中には資料館、家康の銅像などもある。天守閣にも登れるらしいがこれは省略した。


★八帖往還通り / 矢作橋の蜂須賀小六と日吉丸の出会いの像

岡崎城を出て国道を少し行きまた旧道に入る。このあたりは八丁味噌の本場で、古い味噌屋さんが続いている。旧道は矢作川にぶつかるので国道に出るが、この道には「八帖往還通り」の標識があった。矢作橋を渡るが、橋の西詰めに蜂須賀小六と日吉丸の出会いの像がある。ここで小六と日吉丸が運命的な出会いをしたという逸話に基づいたものである。ただし、この頃には橋はかけられてはいなかったようだ。


★誓願寺十王堂・浄瑠璃姫の菩提所碑 / 予科練の碑

矢作川を渡り、旧道を進むと誓願寺があり、浄瑠璃姫菩提所の石碑が建っている。浄瑠璃姫は矢作長者の娘で義経が東上の折、一時の契りを結んだが、義経の出立の後、悲しみのあまり川に身を投げて亡くなり、ここに墓が建てられたという。
この先で道はまた国道と合流し、約2km近くの国道歩きとなる。これといって何も見るものもない国道は、ひたすら歩くのみである。今日は日差しはそれほど強くないのだが、とにかく暑い。飲料水をがぶがぶ飲みながら歩き続ける。真夏の国道歩きはやはり少々つらい。
やがて旧道は国道と別れ、右にゆるく曲がってゆく。道沿いに熊野神社、その近くに「予科練の碑」がある。「此処は第一岡崎航空隊の跡にて予科練習生揺籃の地なり」という碑文が刻まれている。


★来迎寺町旧道に残っている松並木 / 来迎寺一里塚跡

旧道は來迎寺町に入る。このあたりには並木八丁と呼ばれる松並木が続いている。近くに來迎寺の一里塚跡があり、碑が立っている。
ところで、この近くに在原業平ゆかりの「無量寿寺」がある。私は事前の勉強不足で見逃してしまった。旧道から500m位離れたところにあり、東海道旧道にその道標も残っているということだが、これも見落としてしまった。ここにある「八橋の杜若(かきつばた)」は昔から有名だった。現在でも5月頃にはかきつばたが見事らしいから、別の機会に改めて訪れてみたい。岡部の「蔦の細道」もからめて「伊勢物語の旅」などというのも面白いかもしれない。


★知立の松並木

長かった今日の旅もそろそろ終わりに近くなった。フィナーレは「知立の松並木」が迎えてくれた。500m位にわたって松並木が続いている。並木道のはずれには小さな休憩所もあって広重の「池鯉鮒宿」の大きな複製画が立てられている。
名鉄知立駅に18時20分に着いた。ここから東岡崎駅まで戻り、今日のねぐら「岡崎グランドホテル」に着いたのは18時50分だった。
風呂に入って食事をしようとしたら、どうしたことか食事がほとんど喉を通らない。どうも暑さにやられたらしい。それと、水分補給のため500mlのペットボトルを9本飲んだが、これがすべて緑茶だった。これもよくないのかもしれないと思い、その後はスポーツ飲料水系に切り替えた。


歩行距離  約28km   歩数 49,400歩

★西棒鼻跡碑 / 藤川の松並木

宿場の出口は「西棒鼻」である。ここに碑と解説板が立っている。この先、名鉄の踏切を渡ると、見事な松並木が続いている。これは「藤川の松並木」と呼ばれ、約1kmにわたって残っており、よく保存されている。
ちょうどこの少し前から雨が降り始め、雨宿りをしながら今日の宿の予約電話を入れた。一応目星をつけていた「岡崎グランドホテル」の予約が取れた。