〜猫の眼〜

偽りの慈善−Benefaction−
2003.9.7
今回の表題は、ミステリ・チャンネルでの「女警部ジュリー・レスコー」"Julie Lescaut" の中の 一作 (CHARITE BIEN ORDONNEE...) ではありません。この作品ももちろん、慈善事業的な企業活動の自己矛盾や犯罪行為を通して社会の、いや、 人々の偽善とか欺瞞を痛烈に突いてはいますが、現実に行われる行為や振る舞いや活動はもっと巧妙で欺罔に満ちています。その代表的な二例を 挙げてみたいと思います。

ずっと地球で暮らそう

ガソリンの販売でよく知られるコスモ石油の全社挙げての環境キャンペーン は、その耳触りの良いことばで、FM 放送をよく聞く若い人々にも訴えているのですが、彼ら自身の意識的な活動は (アースコンシャスアクト) 自らの矛盾を告白しています。その主張の商業宣伝(コマーシャル)のナレーションを聞くとそれは象徴的に響いてきます。 FM放送の日曜の朝はその偽りのことばで私たちを目覚めさせてくれるのかもしれません。
石油から排出されるCO2は地球温暖化の原因になります。コスモ石油は、オーストラリアの荒野にCO2の吸収源となる森を繁らせる活動を サポートしています。その森はあしたのために必要です。。。。ココロも満タンに、コスモ、石油。。。
なんですって。この上に、『コスモ石油にはこの資源の豊かさを次代に伝えてゆく責務があります。』というのです。これは欺瞞です。自己矛盾を露呈していることは 賢明な方々なら、いいえ、当たり前に感じ、考えることのできる子供たちなら、すぐにわかります。いうまでもなく、彼らはその企業活動ゆえに、その「明日の森」の ための資金提供をできるのだ、とうそぶくでしょう。愚かな大人たちは、ここで納得してしまいます。もっと愚かな (馬鹿だ、アホだ、と揶揄されて久しい某国の大統領 はいうに及ばず) 上に立つ者たちはそれを諸手を挙げて歓迎し、賞賛します。でも、事実は、その「地球意識の自覚活動」を完全に否定します。

そもそも、木だけでなく、植物の生育を妨げ、あるいは止めてしまったのはなんでしょうか。気温の上昇を人為的に急速に進めてきた私たちの熱源の濫造と放置と拡大 にあります。そして、乾燥化、砂漠化を止められなくなってきたのです。もとの環境に改善や回復を望めなくしては、いくら木々を植えようとしてもそれは文字どおり 焼け石に水でしょう。氷が溶けて、海面まで上昇し、陸地自体が減ってきています。保温性の高い海水をかさ上げしています。降った雨さえ、一気に流れきり、保水性 の低下した森には留まりません。地表面での石油からのアスファルトやコンクリートの敷き詰められた小さな水路 (あるいは、これもまた、文字どおり、排水路) に至 るまで、染み込む水さえ望めません。生き物たちが急速にその住処を追われ、子孫を残せなくなっています。これらの原因の大きな部分を占めているのは言うまでもな く、石油を燃焼させている彼らの供給にあります。限りある資源であることは誰もが「意識」し自覚しているはずです。石油の消費によって植物とそれにより作り出さ れる環境で生きている生物たちが消えてゆきます。環境をだめにしておいて、いくら木々を植えても無意味で無駄なことはわかり切ったことでしょう。皮肉的に、彼ら の活動やその支援により、人々がその意識を目覚めさせていくとしたら、それは確かに、大成功でしょう。

彼らは、両方ともに継続させていくことで、その人々を欺罔する行為を正当化させたいのです。一挙両得、一石二鳥、といったところでしょうか。その相補的な両輪は うまく回りつづけるのでしょうか。それを、人々は疑問も怒りも感じず表さず、支持し、みずからを欺きつづけるのでしょうか。

愛の日のカンパ

現在通っている会社の実際の勤め先 (つまり、派遣先) での、正規従業員様たちの欺瞞に満ち満ちた行為を定期的に見ることができます。それも、ロッカールームのあ る建屋の通路でそれをおやりになるのです。幟まで掲げて、募金と称してお金を集めています。その額はちゃんと食堂の壁面、労働組合の前に、もちろん、ご立派にも すばらしいことであるかのように誇らしげに数字で示されています。すべてあわせても彼らの一人ぶんの給与の一割にも満たない総額です。それが何を意味するのでしょうか。だ から、なんだと言いたいのでしょうか。朝かれらの前を行き来するとき、吐き気を催しました。実際、腹が立ちます。その「施し」てやる、という姿勢や態度、自らの 行為に疑問も何も感じていない反復的活動、額ではない、その「気持ち」が大切なのだ、と言いたげな訳知り顔・したり顔を笑顔に浮かべています。悍ましい振る舞い です。

お金はまさに天下の回りもの、それゆえに、その出所や割合を知ることです。どのようにして、彼らの高給は支えられているのか、その糸の辿られる先はどうなのか、 そこには何を見いだせるのか、そのためにどれほどの悲しみや苦しみが見えてくるのか、彼らの「気持ち」には一切それは宿りません。身近にいる我々「派遣従業員」 にさえ、その振る舞いには目に余るものがあります。現実に、我々は固定額の給与あるいはまさに、時給は下がりこそすれ、上がることなどありません。休みさえとれ ません。いうまでもなく、その額は極めて低く、賞与も補償もありません。ぎりぎりとさえいえる不備だらけの違法な法律さえ、彼らは守ることも従うこともしません。そん な身近の鏡さえ、彼らは見てはいません。自身を映すことをしないのです。

下に存在するものや人々を「大切に」おいておいて、その上に立って成り立たせる活動に正当性はありません。犠牲や蹂躙をどうして正当化できるのでしょうか。そし て、それをとおしてむしり取るように集めた金の一部を受取り、さらにその一部を慈善活動と言う名の下に、あろうことか、「施し」としてわずかばかりのお金を「分 け与えて」、かつての貴族のような気分になっているのです。"Noblesse Oblige" (フランス語) とでも言いたいのでしょうか。その鼻の高い気品のあるお姿は 誰に支えられ、どんな犠牲によって築かれ成り立っているのでしょうか。さらにその活動の成果を、人々を欺く宣伝やなりすましによって売りつけ、それを輪廻である かのように繕い、見せかけて利益を巻き上げつづけるのです。

恥を知らないのは、昨今の若い人たちだけではないようです。悲しく、憂うべき惨状です。そんな社会の成り立ちや仕組みを、できあがったものとして維持し続けよう としています。本当に、恐るべき愚行です。でも、それは、決して継続できないことは歴史からも知られるところです。永続的に回りつづける仕組みなど、あるはずが ありません。あたりまえのことですが、こういったやり方は崩れていくしかありません。これは、わかりきった事実です。

希望を求める

望まれる、望むべき行いはなんでしょうか。私たち自身、世代を交代させ、繰り返し、その語りつぐ世界を持っています。それはこの地球上こそ舞台です。『ずっと地 球で暮らそう』ということばは確かに、その実態は別にして、美しく、心地よく、明日を夢見させてくれます。それをすべての現実にするために、私たちは本当の進歩 を実現させなければなりません。高度成長期にまことしやかに語られ、イラストの描かれた未来都市など、あってはなりません。社会の進歩や発展はそんなものでは絶 対にありえません。このまま進めていくことは、間違いなく、破壊と崩壊です。私たち自身の絶滅ということさえ、可能性としてではなく、確かなある割合で起こる確 率のもとでの話しとして考えなければならないのです。今さらやめられない、といって、増やしつづける自動車やそのための道路、さらにそのために、コスモ石油の宣 伝ナレーションではっきりと語られる、『石油は欠かすことのできないエネルギー』という発想や脅迫的な盲信は不可能な拡大と喪失をまねくとわかっているはずです。 このことは、おそらく、これら企業の先導者でさえ、はっきり自覚していることでしょう。

本当の進歩とは、内面の成長です。過ちに気付き、誤りを認識し、それを正し、改めていく姿勢、行動、態度こそ人間である私たちに排他的に与えられた能力です。も しそれを否定するなら、繰り返しになりますが、私たち自身の滅亡につながるのです。これは決して、空想でも誇張でもありません。


知るべき現在−本当の意識改革−Current Future
2003.3.22 + 4.20 + 4.28
福井新聞の県内欄のコラム (3月22日土曜日) に書かれた県立大学の教授の文には失望以上に怒りを覚えたのです。現状を見ない、知らない、 という以上に、本来果たすべき批判精神のわずかな現れさえ見いだせません。事実を捕らえていないのです。あまりに無邪気すぎるのです。 何もご存じないのでしょう。情けなく、恥ずかしい話です。

求める方向と見る方向

この大学教授は、就職内定率を挙げた上で、
『 ... 卒業シーズンというのに行き場がなくあえいでいる。こうした実態は、関係者の意識と 行動に抜本的な改革がない限り、今後とも容易には解消されない問題と理解認識すべきである。』と書いています。また、『 ... 長期に渡 る景気の低迷により ... 雇用吸収力が著しく縮小して ... より重要な問題は ... 近年の経済社会の急激なボーダーレス化・グローバル化 、更にはソフト化・サービス化・ネットワーク化の進展の中で、 ... 企業間競争に勝ち抜くため、その人事戦略もまた抜本的に見直してい るからである。』
としています。
ここで明らかなのは、このひとはその企業の存立をその活動の積極的な認容においてそのままの生産獲得行動の肯定にその「理解」と「認識」 を示していることです。これは、大学教授としてしてはならない立場からの視点と発言です。その状況をうわべだけ捉えてそれに合わせよ、 と説こうとしているのです。抜粋からわかるように、考えているのは存在すべき立脚点ではなく、利己的な利益追求活動の場に存在する雇用 の経済的価値のみだと極言できます。
高い知性と優れていたはずの視点から産み出し発言すべきは事実を観察しそこに潜む、あるいは見いだしていくことのできる現在の問題を指 摘して論理的に批判することです。見るべきは表層の動きではありますまい。おかしな状況にほかを合わせよ、というような声を学生はもと より、私たちも求めてはいません。変革が必要なのはこの人のそういった意識なのです。

無批判な受容

まん中に書かれている、
『 ... 「人手採用型」、「人手育成型」、「正規社員雇用重視型」、「日本人中心型」そして「新規学卒中心型」 といった確保戦略を改め、「人財採用型」「即戦力採用型」「非正規社員重視型」「無国籍型」そして「通年採用型」への変革である。こう した動きは、新規学卒者の雇用の受け皿としてこれまで多大な貢献をしてきてくれた県内有力企業の間でも、近年急速に拡大してきている。 こうした現実を直視すれば、... 』
に至っては、この人は何を考えているのか、あまりに無知で無邪気でわずかな歴史さえ知らずに こともあろうに大学の教授になってしまったか、と思えるほどに馬鹿げた主張をなさっておられるのです。もちろん、全くだめというわけでは なく、これから将来に向けてとるべきところは一応見てはおられるようにも思われますが、基本的な視点と位置がこの人をして「改革」や「変革」 ということばを使わしめるにはいささか浅はか過ぎるのです。企業の取っている方向とその行動をまったく一言の批判もせずに受容して、前段と 重なりますが、そのままそれに合わせよ、と述べるあたりはあまりに能天気と言わざるを得ません。私たちが大学に求めているのはそんな発言を なさる教授ではありません。
過去のヒトにとっての長い歴史から私たちが学んで未来を築いていくために必要なことは、その利己的で自己中心的な姿勢をできるだけ低め、共有 と共同の方向にもっていくための過ちに対する認識と誤りをなくしていくための、まさに意識の改革でしょう。社会がそれ自身成り立つのは、いう までもなく、私たち自身の存在に立脚しているからです。人間あってこその社会であり、それゆえにさまざまな活動が認められ、行えるのです。 経済的活動は取りも直さず、私たち自身でもあります。本当に『 ... 現実を直視 ... 』するならば、何より自身を見つめなおすべきなのです。 これら二つの点から、無国籍で通年採用を広げていくのは理にかなっています。というより、望まれる方向づけでしょう。一方の、日本や米国や 西欧諸国のようないわゆる先進的な社会経済をまがりなりにも保持している国の企業がその利益を追求しつづけるために自己の立脚する社会の人 間を材料と同じように扱うとすれば、それは自国内だけでなく、それ以上に、発展途上国や、はっきりいって、おそらく私たちからみれば後進国 であるような社会経済を営む国々にとり大きな歪みを作り出し、諸所で破壊をもたらすことになるでしょう。現在の日本の国内経済を直視するな ら、それこそ、地球全体を見つめて捉え、昔と何も変わらない収奪的な支配的上下関係の存在する (かつての資源収奪的、という意味ではなく) 実際には決して循環しない経済環境をあからさまにしてその変革を考えるべきなのです。自由で利害関係のない大学教授なればこそ、何一つ省み ることなく肯定して受容するなど、してはならないところです。そんなひとに税金をあげたくありません。
言ってほしいのは、そんな無批判な認容と従属をもとめる発言ではなく、かれらが行い、作り出した、それこそ現実のひどい状況です。ヒトを道 具や消費物のように扱うことを長い間かかって私たちの祖先はなくそうとしてきました。それをまた、現状を変えられないから、という情けない 視点から積極的に受容してはなりません。どんなに、たとえこのひとのおっしゃる方向に合わせたとしても、ますます間口は狭まるばかりです。 そして、傷口は至る所でひろがるでしょう。雇用、というより、人々が働き構成する社会を成立させるために、分かち合い協力しあい、巡り続け る仕組みを創っていくことなのです。そのための提言こそ、大学教授に求められるのです。

人間の存在

繰り返しになりますが、人間はそこらで打ち捨てられる商品でもなく、モノを作るための材料でもなく、資金を巡らせるための資財でもありませ ん。生きたヒトはそれ自身、かけがえのない社会の構成なのです。その維持をするのもまた私たちです。その中に支配的階層関係や、その完全な 分断を作り出してはなりません。正規も非正規もくそもありません。すべてのヒトが対等な存在です。労働者としてみたときも同じです。一方的 に作り売り利益を求めつづけることなど、原理的に不可能です。もし循環的に存立が求められるなら、雇用は流動しても限定的で囲うものではあ りません。後段でこのひとが述べた、
『 ... そして、社会人と伍しても勝るとも劣らないセールスポイントを、自らの努力により 創造確保し、国内外の企業が、在学中からのどから手が出るほど欲しくなるほどの、価値ある人財になることである。... 』
などとは決していえないのです。そもそも、「社会人」などは現実に、存在しないのです。そのことばがそのひとの意図する意味で指し示すとこ ろの人種など、ありはしません。社会自体、すべての構成を意味します。学校に通っている人たちが社会人ではない、というのは明白な矛盾です 。というより、ことばの誤りです。どの人も社会を構成し、そのすべての循環に関与しています。一人として、その経路や輪からはずれた存在な どあり得ません。さらにまた、「セールスポイント」など、わかるわけないのです。この前にこのひとが書いているような、『 ... 学生の本分 である学業にこそ、すべてに優先し全身全霊で取り組むことである。』ということが示すところとは相反するものです。学業の意味は、そういった 社会を批判的に見つめ、その事実からなんらかのものを見いだし、それを誤りなら変えていくこと、過ちを指摘すること、そのために常に疑問を 抱くことを知っていくところにあります。ましてや、企業ごとに都合を振りかざすものごとに合わせるために売り込みのためのなにがしかのもの を身につけるなど、笑止千万です。人間は、いうまでもなく、売り物ではありません。ここに、根本的な誤りがあるのです。

真の意識改革

終わりにこの人が書いているところがさらに問題なのです。
『 ... 社会が欲する価値ある人財を育て、100% 内定率を達成するため の教育のあり方、進め方を、全学をあげて議論すべきといえる。』
ここで極まれり、といったところでしょうか。また繰り返しになりますが、価値はそれぞれ違いますし、どの人とて、例がいなく、その存在自体 が社会の価値そのものです。社会とはそのすべての構成に基づくからです。違いがあるからこそ、この人のいうところの「セールスポイント」が 見えてくるのです。また、それぞれ、それらは違いますし、どれに優劣をつけるかもまた、求めるところで異なります。すべての人に同じ価値を 求めるかのような方向は明らかに誤りです。人材も人財もありません。社会が本当に求めているのは、いいえ、社会は私たちそのものですから、 わたしたちが求めているのは、そんな利益追求のための手段でも材料でもありえません。私たちが理想とし、暗い歴史を通じて学んできたことを 生かして常により良い社会を構成すべく批判的にものごとを追求していく姿勢です。その気持ち、意識こそ私たち自身が求めるべきことで、また 同様に、大学を頂点として造られている教育の系の意識です。もしこれをこのひとのいうような、狭い企業活動と一時的な動きにあわせんがため に利用してねじ曲げるとすれば、それこそ、社会にとってこの上なく不幸で取り返しのつかない過ちになります。これは誤りなのです。就職内定 率を高めるためにその場その場で未熟な学生に馬鹿になれ、と吹き込むのはあまりに愚かなことです。囚われることなく、誰のためでもなく、み ずからを高めていくことこそ、学生がすべきことですし、その過程を通じて学ぶことこそ、かけがえのない価値になるのです。
就職準備のために学校があるのではありません。そのためだとお互いに考えているとしたら、それこそ、「甘え」です。そんなものを子供たちに 私たち自身、求めたりはしませんし、すべきではありません。そんな、ちっぽけな、偏狭な人間になど、なってほしくはありませんし、してもな りません。教育の失敗は取り返しがつきません。社会を不幸にするのはそういった誤りを改革だとうそぶく大学教授です。述べるまでもなく、意 識改革が一番必要なのはこの人でしょう。そして、そのひとを教授にしている私たちです。

誤りを知っていた What They Knew
2002.11.16 + 2003.1.19
80年代の前半終わりに登場した失敗作、しかしアップル・コンピュータの隠れた自信作、Lisa、 はその誇大広告 (;p) で『あなたはリサを知っていた』と見事なキャッチコピーで私を惹きつけたのです。事実、それはわかっていた降臨だったと今でも思う のです。二人のスティーブ (Steve Wozniak and Stephen Jobs) が始めた夢の実現はモノトーン(白黒)ながら美しさと違う (たがう) くらいの魅力を示して くれていたのです。そう、わかっていたのです。その出現は。

下水道工事の愚Absurd Flow

日曜日にまだ欲に目が眩んでいたわけでもないだろうに、この町で計画的にその無知蒙昧さを露呈している公共下水道工事に従事する哀しい者たちがその著しい 現実として川べりで溝に浸かって (空です) 管を巻いている、いや、弄っているのに出くわしてしまった。雨もぱらつく冬の薄暗い午後にこれまた汚いアスファ ルトをはがし切って中で作業する様は見るだけでもおぞましい。
私たちが知っていたのは、その工事がそれ自体目的であり、手段であり、その利用は本質的ではなく、その維持管理がその後の巻き上げの方途なのだ、というこ とである。小さな町とはいえ、集落の点在と連なりのない (脈絡のない) 広がりはそのずっと以前から行われてきた循環と吸収と分散と緩衝の能力を奪いつづけ る破壊によってさらにひどくなった分断と氾濫の人工的結合にその無駄と無益で無意味な処理を行わせることを知ることとなる。かつて美しかった海岸やその後 背地をすべからく台無しにしてそれでも何も感じなくなっている人たちはその近くに大切にのこしてあったはずの生き物たちの憩いと育みの小森を剥ぎ取り、命 が文字どおり脈打ち廻っていた田んぼをつぶしてなお、悪名高い特殊法人の一つ、日本下水道事業団の金づるにその地 を提供してしまった。もともと天然の循環系と自浄作用のあった上に溢れたその土地をコンクリートとアスファルトをこよなく愛する大阪の者たちにくれてやっ たのである。現実に、不格好で大規模な "人工的" 下水処理に掛かる費用と物質と動力と道具とかが入ってくる「汚水」と出てくる「水」あるいは出される「処 理水」にあずかって効果のあるほどに美しく自然と混じりっけなく違和感なく混ざり合うことにはならないしもとより自然ではあり得ない。「戻される」人工水 がどんなものか、命を育む水かどうか、飲んでみせたがる事業所や浄化センターの連中と違って、一般の人たちは何も知らされないし、知る由もない。ただ無批 判に受容させられるだけで知らずに「排出」されていく。
いうまでもなく、大切なのは、そして必要なのは、源を断つこと (犯罪や悪意の連鎖と同じ) である。排出源で絶対量 (総量)を徹底的に減らし、一旦その排出 水を留めることである (環境中での平衡) 。長距離の輸送とたれ流しはその処理に疑問を抱かせるだけでなく、処理量対費用の見合わない比を見い だすだけである。それを全く理解していない。小さければ逆に効率的に少量でしかも効果的に処理できることをわざわざ困難にしてまで大規模な施設を建設して 行おうとすること自体、無駄である以上に愚かで犯罪的である。認容できる自然水に近い状態を作り出したいならば、このようなだだっ広い敷地をこの扇状地に あるいは美しいはずの湖水地方に下水道網を敷設することなど、即刻やめるべきである。

摘み取る命 Uneven Lives

つい十数年前まで魚 (うお) も至る所で見られた中小の河川がここでもご他聞に漏れずその流れの向きさえむりやり変えられねじ曲げられて三面張りの不細工で 汚く直視できないくらい醜い排水路と化している。不健康なその流れにも確かに、いくらかの魚はいるが、健康的ではない。夕暮れ時はとりわけ騒がしく賑やか なカエルたちも鳴くどころかその狭い住処さえ奪われ激減した (これは全国的、いや、世界的傾向らしい---
たとえば、
)。 愚かにも、その排水路に子供たちを使ってまで、こともあろうに、ホタルの幼虫を流したりして罪ほろぼしを装った者たちがいる。その光 を見ることはないはずのことをやらせた恥ずべき大人たちは知っているのに、である。川岸の色合いも豊かでさまざまな、平凡ながら見つめるとそれは美しい木 々や草花の息の根を止めることをすぐそばのどうでもいいような道路の舗装のために、てめーのために、氷のような表情でしてのけたのだ。かれらはそれを、「 仕事」だと「割り切って」当然のことのように思い違いをして行っている。信仰のためと称してやはり賢明であるはずの我々もまた生き物の命を無意味にかつ無 慈悲に奪う生贄をよしとはしないはずである。生きていくために本能的に行うモズの「いけにえ」とはわけが違う。
昔からその生業を破壊と蹂躙と信じてきたかれらは人の心もまた平気で踏みにじる。生きるためなら何でも奪っていいのだ。思い出に生きている美しかった姿を して飛び交い群れ集う蠢きに溢れた豊かな自然の営みを残忍さそのままにただ引きちぎる様に殺しその生育環境もわずかな子孫の存在さえも踏みにじった。その 可能性さえ否定した。希望と夢を持っていた、持つことのできた時間も他の人の人生は無であると言わんばかりに奪い壊し否定してきた。そんなかれらの姿に命 の宿る輝きも見た目の人間らしさも何もない。

発展と言い換えた道 The Road in Progress

「××街道」といかにも良さそうに名づけられた田畑を切り裂きつぶし山肌を削り地面を醜いコンクリートで押さえつけて道路が作られた。そこでは事故が当初 多発し、排ガスが周囲に広がった。里と山と田畑は分断され命の廻る道は切断された。さらにまた、今度は有料の自動車専用道路をこさえようとしている。西部 地域ではその無残な光景がテレビ画面を通して伝えられていた。田圃の間の道でさえ、汚いアスファルトで固められ、元あった調和した風景を壊してまっすぐな 道に改変された。残されていた少しの土の別の道さえ容赦なく押しかためられ、川岸の草花の姿も完全につぶされた。その前にかろうじて私はデジカメで写真を 残しておくことができたが、もう再びこの目で直に見つめ観察し手で触れられない花や緑にどれほどの意味と価値があろうか。
道路網の発達・建設という明白な破壊行為を地域の発展だと信じ込んでいる愚かな者たちが主導的立場で物事をすすめている。コンクリートの側溝付きの文字ど おりきったない醜い道路を (ゴミまである) 子供たちへの財産だと胸を張って言うつもりだろうか。小学校に通う道すがら触れていた命の大きさと多様さに目を 見張ったはずの私たちが今の子供たちに伝えられないあまりに哀しい風景の殺伐としてぞっとする感触を誰が喜んでいるというのか。踏みしめる土の気持ちよさ あたたかさやわらかさを知らない時間が大部分を占める今の子供たち、名も知らない (だからこそいいのだ) 草花の命に触れることの乏しい子供たちに生命の尊 さも人の命や心の大切さも教えることはできない。

知らぬ暴力 Indifference in the Minds

昨年12月17日の中日新聞の一面の横長コラムで暴力をふるわれて死んだり重傷を負ったりした人たちのことが書かれていた。「見て見ぬふりが悲しい」という 鬼沢慶一さんのことばに象徴される社会の無力化と非人間化を食い止めるのもまた人である。言い聞かせて聞くような若者ではないから、というあきらめとくわ ばらくわばらという腰の引けた逃げの姿勢がその暴力を常態化させることは誰もが知っている。ならば、どうしてそうなる前に、そんな風に育ちきってしまう 前に体得させてやれなかったのか。弱々しくても、連帯は一つの答えである。それは集団の暴力であってはもちろんならない。
暴力は振るう者はそれを知らない。認識も自覚も、もちろん、痛みという感覚も持たない。暴力は常に強者から弱者に向かう。その行為者は心の弱さと貧しさと 小ささと愚かさを覆い隠すために強くなる。その気持ちを持った時点で感覚を失い、壊してしまう。結果として残されるものはなにもない。破壊が有を生じさせ ることがないのは自明である。
私たちは知ることを人間の本性 (ここでは、ほんせいと読む) の一つとして持つはずである。知ろうとしないことは愚かしく、何より恥ずかしいことである。 もしその自分自身の姿を鏡にさえ映すことができないとしたらそれは最低の存在である。知らない弱さがその無知を刃に変えるのである。そして他者を圧迫し 否定し不能にする。心の中に暴力を住まわせてはならない。それを行う前に知っていたのだから。

過去の否定 The Past that is NOT

昔の貧しさを思え、とよく言う人たちがいる。昔は良かったと嘆く人たちがいる。どちらもそうして現在を受容し肯定して生きている。正反対のようでいて 実は同じ情景を思い浮かべていることに当人たちは気づかない。知っていたのは他ならぬきのうの姿であり、今現在からあしたを知ることはできない。そして 眼前の破壊を「時代の要請」であるかのようにうそぶき完全に肯定しているのである。いうまでもなく、これは自ら過去を否定していることになる。
積み上げた人工物の上にあぐらをかき、失われた命をただ遠くに幻としておいてみて現在は悲しいというところに情けない人間がいる。無生物化が将来の発展 の約束なら、現在は過去の否定である。私たちが他の命を奪う行為を正当化するならば、すなわちそれは私たち自身を奪うことになるのであるのは当たり前で ある。そんなことに「なる」なんて知らなかった、と否定したがる者たちに明日の自分を見いだすことは不可能である。自らの行った所為を否定したとき、現 在の自分は存在しえないのである。自己認識の欠落がこの世の不幸であり、社会の否定である。決して、自然に破壊は「なる」ものではない。

道路建設反対 Road Rage

イギリスの作家、ルース・レンデル (Ruth Rendell) の『聖なる森』(原題・Road Rage) は示唆的であり、かつ象徴的である。本来、英語の Road Rage は道路での渋滞やなんかで運転者が頭にきて暴力を振るったり酷い悪口雑言を吐き「無関係な」人たちを罵倒したりすることをいうのだが、転じて、ここでも 「道路建設反対」の意味で使われている。けだし、正当である。これこそ、道路に対する怒り、憤りである。貴重な残り少ない自然環境をただ奪い壊すだけの 単なる移動経路に過ぎない自動車のための「道路」のために奪われる命はなんなのだろうか。ヒトじゃなければなにをしてもかまわない、と信じて疑わない者 たちは他所で他人の命を平然と奪う。心情をおもんばかる気持ちも痛みを感じる感覚も持たなくなっていく。極端な場合、自分でなければ何もためらわずに平 気で刺す (刃物だけをいっているのではない、もちろん)。傷つけることも追いやることもむき出しの利己主義の本性 (ここではほんしょう、と読む) そのまま の暴力的ロボット (感情がない) に姿を変えていく。見た目はヒトなのに、である。そんな輩がそこかしこにいる。
政府の道路関係四公団民営化推進委員会は始まりが「今後の高速道路建設のあり方」を考えることにあった。はじめから完全にやめることを志向してはいなか った。何人かの委員が「不採算道路建設見直し」を主張し多数となりつつあったが、その答申が政府や政権党の行動を改めさせることにはならなかった。道路は 必要、というのが地方と中央、田舎と都会とを結びつけ存在させる理由だからである。かれらも、私たちさえもその不釣り合いと不均衡を解消していく知恵を もとうとしないし、変革を行おうとはしない。原因がどこにあり、連結と輸送の必然性がどこにあったのかを最前列にだして見ようとしない。なくすべきこと も知るべきこともその前に明らかだったのに。

微笑む権利 The Right to Smile

豊かさを求め美しさと快適さを求めるならば、それは誰にでもある権利である。誰かがほかの誰かの権利を奪って実現されることではない。そしてそれは青い鳥 のたとえのごとく、すぐそばにあるのである。何よりも、それはその人自身の内にある。その目を自分自身に向けて映し出し、ためらいもなく見つめられる心の 姿をもつことができるように求め続けなければならないものがある。遠くにみえても、それは本当にその人自身の目の中に写っていることを私たちは知っている。
だれにでも、にっこりとほほえむ権利がある。だれにでもそれを奪い壊す暴力がある。内に道路を作ってはならない。外で踏みにじってはならない。道路に対する 怒りを持つとき、きっと幸福をみずから見いだすのである。生きる権利は、弱い者にこそあるのである。

真に恐ろしいのはなにか
2002.9.29, 10.15修正
同時多発テロ一周年と破壊行為

去年の 9月11日のニューヨークとワシントンでのハイジャック機による建物破壊 (特攻的自爆破壊行為) 、いわゆる「同時多発テロ」 は、しかし、「同時」ではもちろんなかったし、失敗 (といっても航空機は野っ原に墜落し乗客乗員は全員死亡した) を含めても 4箇所に過ぎなかったが、その取り上げ方とそれこそ繰り返しテレビ放送を主として報じられてきた事柄は、テロ行為と同じくら い恐ろしい。本当に怖れるべきことなのである。

西アジアや中東の者達が狙い的にしたのは米国中心、というより、絶対的優位に立つ力の支配と経済的構造における収奪だったか も知れない。貧困とまさに一目見るだけでわかる西アジアの (暑いというよりも) 熱い荒廃した (というより不毛ともいえる) 土 地に生きる人達にとって、豊かさの頂点から常に見下ろす者達に反発と羨望こそ覚えても、この「テロ」で二次災害により合わせ て数千人に死者 (その多くは人生においても実に恵まれた者たちだった) が出ようとも、「テロ」に対する「戦い」への共感や死 者への同情は心の底からはおこらなかっただろう (アラブの人達とのインタビューをいくつも見聞きした) 。実際に、米国は証拠 を明確に示すことなくアフガニスタンを主として爆撃しさらに荒廃させた。もちろん、ひどい (これは報道は事実だと確信できた ) 社会体制を壊して虐げられていた人々を救う機会をもたらしたことは、アフガニスタンにとってもほんとうによかったと思うが 、それも一方的な「破壊行為」の正当化ともっともな理由と口実にされたこともまた事実なのである。これもまた悲しい。それで も、西アジアの貧困と荒廃は変わらないしこれからも劇的に転換することはないだろう。より問題なのは、やはりアフガニスタン でも、支配的あるいは支配者になろうとしている、またなりうる者たちの、内的な姿勢である。どのみち、同じことを違った形で 繰り返すことになるような気がしてならないのは悲観的過ぎるだろうか。意識や考え方を根本的に変えなければ、あるいは入れ換 えなければ、真の荒廃と貧困と暴力的圧迫的社会構造からの脱却はない。これはまた、米国の多くのやり方や貧困地域に対するさ ほど違いのない変化の乏しい態度にも現れ言えることなのである。結局、真の救済にも自立に向けた支えにもなっていない。

報道では「テロ」の犠牲者の客観的位置付けにはなにも触れられていない。世界貿易センタービルに入った人達は多くの社会的経 済的側面で、そして人生においてもまた恵まれた人達であった (多くの犠牲者の細かな話しが伝えられている)。 実際には「テロ 」の直接的な犠牲者はせいぜい、数百人程度ではなかったか。そしてすべてを含めて、その喪失に見えてくるのは、そのうしろに ある (待ちかねたように出てきた) 「必然」として持ち出された報復行為とその扇動の国家の先導者による正当化であった。その ために持ち出されることになる多額の財政支出と「無意味に」落とすかもしれないかけがえのない人命のことは叫ばれることはな い。である。
ドイツで、法務大臣が発言したとかしないとかで辞任騒ぎになったが、その発言内容とされるのはしかし、正しい。簡単に いえば、アメリカ合衆国の現在のブッシュ大統領のやり方がかつてヒトラーがしたことと同様だ、というものである。実際 姿形は異なれど、持っていき方、作り方はそれこそどこの為政者でも同様である。事実の指摘で辞任しろ、言ってない、と いう騒ぎはやはりおかしい。はよやめたらええのは、ブッシュ大統領である。

ドイツのテレビ (ZDF)
米 CNN の一部の報道

声高な囲い

人々にとり不幸で悲しむべきことだが、この類いの事件は意外に多い。理解不能なほど頻発する地域もある。現実に報道さ れる同規模と考えてよい事件 (作為である) は実際にはそれぞれ荷重が違っている。そう、まさにその報道こそより恐いこ とにそれを決めるもとになるのである。その報道こそ恐ろしいのである。報道「される」側の私たちはほとんど受動的に専 ら受容するのみなのである。「客観的」事実などは、実際には難しいどころか、不可能である。取材する過程そのもの、取 材する記者その人がそうするということによりそれは本来の形を変えてしまう。見ようとすること、聞こうとすることその 耳目が対象を変えることになる。原理的に不可能なのである。それゆえ、さらに、それが伝達され、放送局から「編集」さ れ報道されるところでそれらは作られた姿になってしまう。さらに悪いことに、意図的にゆがめられることもしばしば為さ れることはかつての、そして現在も存在する共産圏国家の放送に顕著に現れている。それは民主国家の社会においてもまた 事実である。だからこそ、「ありのまま」を知ることは難しい。そして、受け取る側の私たちはこうではないか、とか、こ こを知りたい、とか考えてもそれを反映させることも伝えることもできない。すべては送る側に握られているからである。 そこにこそまた、為政者や先導者の狙いがある。

恐怖の暴力行為、それが許される理由はしかし、ない。しかし、そんな残虐な行為も知らしめられることそのものがまた、 彼らの 「力」 への服従と黙従と忍従と追従を求めた結果、それを実現する方法のひとつともなってしまう。報道がそれを 支持していることになる。過度の反復的で広範な報道もその行為の存在を事実として肯定してしまっている。その「恐怖」 を正確に伝えているとすれば、それは好ましいことだろうか。恐ろしいから、自分が同じ目に逢うと怖いから、だからそう する、という方向づけがなされる行為や言動、組織運動などはこれまたしばしば現れる。日常の、普段の場でもでてくるし 子供たちの世界でも生じてしまう。その「最終結果」に大小も高低もない。そういった非人間的な行いの代償はかけがえの ない命の喪失である。ひとりでも、数千人でも、代わりはいないし、変わりはない。

豊かな "民主主義国家" の高層ビルでの犠牲者は特別だったろうか。他の人たちとは違ったろうか。我慢がならないから、 許せないから、黙って堪えられないから、. . . . だから死をもって償え、と特定の者たちを一方的に殺していいのだ ろうか。やめさせるためには、手段を選んではいけない、そんなことをいっていたら自分がまた標的にされるではないか、 先にたたくに限る、終わらせるためには仕方がない、そんな理由で無差別に人々を殺してかまわないのだろうか。戦争とい う名前がつけば、なにをやっても通るのだろうか。自国民でさえ、犠牲になってもらってもしかたない、のだろうか。1945 年の夏に、私たちの社会に対して、米国は合目的的に逃れようのない爆弾を使って数十万人の同胞を殺した。いまだに、そ れはかの国では正当化さえされている。その原因となった侵略行為や互いに行った殺人行為を結局「支持」していたのは、 他ならぬ報道の大きな役割であった。ドイツでも、日本でも、イタリアでも、そして、「勝者」としての裁きを行った米国 でもイギリスでも、、、、大きな声で叫びつづける姿を「そのまま」伝えた放送は私たちを蔽い続けた。煽るため、思い込 みの形成のため、有効な手段として、いわゆる「スポーツ」とともに、現代もなお、使われつづけている手法である。過度 の反復と強調と一色の塗り重ねはまた、報道の陥る罠でもある。陥穽に落ち入るのは私たちだけではない。

拉致

先月17日に愚かな小泉首相はほいほいと北朝鮮を日帰りで訪問した。あらかじめ設定されてあったようにすませ、ことば での「謝罪」と拉致事件の一部を "事実として" 受け取った。この情けない行為については、各所で触れられているので特 に述べないが、一日とはいえ、専従捜査員を先頭に立たせて乗りこめなかったのは悲しかったし、怒りを覚える。同行以上 の行動と聴取や調査のとっかかりでもさせるべきだった。ただ、加害者たる北朝鮮の先導者(かつ、扇動者)のいいなりでは やりきれない。ましてや、こともなげに、『 8人は死んだ』ですまされた被害者やその家族たちの思いはどうなるのか。は じめから一方的な相手の「処置」のままに従い受容するだけ、の関係を強いられる被害者もそれを黙って見守るしかないこ の私たちの無力さも、この国の先導者は理解していないように思えた。過去の日本の戦争と伴う非道の主導者の過ちと誤り を認めればこそ、私たちもはじめから求めない、という姿勢ではなお、許されない。過去を知ることは今を見つめて明日を つくることである。二度と過ちを繰り返さないために、人質としての拉致被害者をどんな形でも守り、強く彼の国を責める ことが必要である。彼らに、誤りを教えこむこともまた、私たちの責務と義務ではないだろうか。そのための報道、放送の 役割が見えている。

外務省では「事前にわかっていた」ことを知らしめることをためらい、あるいは怠り、遅らせた。多くに怒りをまた呼び起 こしたが、本当の「配慮」をはき違えていたのは、彼らにその心が育たなかったからなのである。外交が求めるべき責務と しての命の要求と保護、相手との対峙を進めなかったのはそれを呼び覚ます声がなかったからではないか。拉致被害者がおそ らく何らかの形で被ったであろう、抑圧、剥奪、強要。命の交換条件としての今回の拉致の認知とこの15日の「一時」帰国 にみられるのは、やはり、変わらぬ一方向の流れの固定化、正当化とものを言えない立場の「了解」である。力のあるもの に従うこと、声を合わせることを異常なまでにすすめて言いたてたり書きたてたりする一方で、実質的にも何も力にならな い、なれない報道の弱さは何が原因だろうか。本当に必要な、社会の要請としての役割を担うべき報道の姿は、ぞっとする スポーツ報道ではなく、真に有効な手段としての反復と強調と集中させた声の間断なき伝達であろうと思うのである。北の ちっぽけな、しかし実に不幸な「国家」の解消のためにも、何より、その「社会」の恐ろしい現実を多くの人々に知らしめ るべきなのである。恐るべき「社会」の映像をとおした、私たちの目により違ってみえるものをすべて、彼らに伝えること は、逆説的に真になりうるかもしれない。この事件で (犯罪行為で) わかったことはあまりに少なく乏しい。それでも 5人 が再び祖国に足をつけられたのは、24年間の小さな叫びだった。これからでも、真実の追求をすすめなければならない。殺 された他の日本人の死をむだにしてはならない。

虚構の静物画

原子力発電所の安全性を声高に強調するのと同様に、『大丈夫、間違いは起こらない、信用せい』といった類いのたわごと を信用する能天気なあほう (東京弁でいうところの「ばか」) はいない。いたずらに不安を煽り無用に怖がらせてはいけな い、といった愚かな考えで--知らしむべし、よらしむべからず--すすめられることほど恐ろしいこともまた、ない。事実を 小出しにして怒りを買った外務省アジア太平洋局長の田中氏を例に引きだすまでもなく、隠すことはそれこそ、いいしれぬ 不安や恐怖を生み出しふくれあがらせる。ささいなこと、つまらないことに思えても、それがきっかけで知りうること、解 決につながることがしばしばあるのである。かつて、シャーロック・ホームズもおなじことを言っていた。追求、探求、追 跡に途上に現れる事象から事実を捉え真実を求めるとっかかりを見いだすために、誰かが勝手に思いこみ決めつけたことよ りも、本当に求めている、求めつづけている人が知ることこそその道に求められるのである。
作り上げられた形に安心も土台もない。継続的な利己的追求にとって必要だと言う理由で構成されたものに強調されるのは 何かを隠すためだと穿った見方をするのは無知ゆえの妄言ではない。疑念と不信は『間違いはない』というところに生まれ ふくれ上がるものである。疑問を感じることこそ自然な感覚であり、必然的な第一歩である。何も感じなくなったら、感覚 を抑えられたらそれは破壊にいたるのである。

目をそらすため、隠すための大声や大げさな振る舞い、その逆にささやきと小さな脅迫の繰り返しと間断的な継続が受容を 強要されるとき、私たちは声を失う。思考を奪われる。それは力を握る者たち、求める強欲で醜悪な者たちの常套手段であ る。利己的追求と自己目的の正当化にも最も有効な手段なのである。社会的に高い位置にいる者たち、権力や経済的支配を さまざまに求める者たち、その影でまた小さな、しかしおぞましくも醜い欲求に従い弱い人たち、抵抗手段を持たない優し い小さな人たちを苦しめつづけその存在を否定し続けそこから奪いつづける連中もまた同じである。大も小も上も下もよく 使われるスポーツの強調と喧伝もまた (よく心ある人から指摘されるように) 危険で恐ろしい目隠しと押え込みの手段なの である。違いの否定、個の存在の否定である。疑問を持つことを良くないことと言うような者たちの言動を信じてはならな い。望んだ同じ方向を向くことを意図して作られた多くのスポーツとその巨大な人工施設 (スポーツではありませんがゴル フ場も人造です) が威圧的に迫る社会に本当の人間尊重の社会が構成されうることはないのである。当然の主張が誤りであ るかのように、あるいは、一方的に握る側がその手段を用いてなす声高な強調と反復による異論反論の抑圧は人間の存在を 否定するものである。非難と否定、さらに無視を繰り返し続け、一方の側に従わないことが悪いこと、間違ったことと「決 められる」環境をまたつくるのも報道の一側面でもある。王様は裸だ、と誰もがはっきりいえるように、愚かな者たちをど うにかしなければならない。そのために彼らは助けになるはずである。


本末転倒
2002.8.24
出てきているから、できているから、できたから、それが広がっているから、多いから、だから認めて対応する、そういった 場当たり的ともいえる認容をあたりまえのように繰り返している者達がこの社会の上位にいる。社会悪でも、ヒトを含めた生 物に有害でも、なんでもよい。現れた時系列に沿って容認している。破壊や汚染や疾病や苦痛はその原因を断たなければなら ないというのにである。消費は散逸でありすなわち浪費である。一方的拡大が可能なはずはない。どこかでとどめて見直し、 減らし、なくし、変えていくことこそ取るべき方途である。なのに、この社会の指導的先導的立場にありその権力と実行力を 与えられている者達はそれを考えない。

USJ の消費効果

5月24日の JNNニュースの森でいまその杜撰な運営実態が明らかにされて批判されている、米国式映画制作の模擬的実演場 ( テーマパークというらしい) の USJ (ユニバーサルスタジオジャパン) の開園による集客と消費波及効果を算出して (見積も って) その 「経済効果」 とやらを喜ぶおばかな様子を伝えていた。ほんとうに愚かしいことである。そもそも、大切な土地 を、こともあろうに、人工的な、しかも移ろいゆくあやふやな映画とその制作のために使われたもろもろの展示と見せかけの 姿の疑似体験の場の提供という実質的に地域社会にはもちろん、よくわからず楽しいとか思いこんで訪れる人たち自身にも何 ももたらすことも残すこともない無批判の受容の一つの典型といえる場所にして大切なお金をつかわせるなどというのは本当 に悲しいことである。喜んでいる人たちが哀れでならない。この期に及んで、まだ空虚な絵空事に消費を進めることを社会経 済のためだと考えた発想がおかしい。何よりも、大阪の町はその人工度の高さ、潤いのなさ、緑の少なさにおいて、中規模の 都市の中では抜きんでているのに、まだそんなことに少ない広い土地を使おうというのが問題なのである。かつてあった水運 も衰退し、今はきったないどぶとそれをむりやり埋め立てた胸が苦しく悪くなる人工的空間が支配している。その中に、また 人工度を高めて知るべきこと、見つめるべきこと、考えるべきことを隠すような人造の場所を作り、庶民の目をごまかしあほ にさせてお金を巻き上げることを官民一緒になって、それもアメリカ直輸入のものごとを取り入れるという情けなく悲しい方 法で行うとは、困った連中であり、おぞましいことである。そして、いまだに消費という名の浪費をおしすすめてその拡大を 賞賛し無駄で無意味な支出を効果と呼びそれが社会にとって有益であるかのように喧伝している。目を覚ましてほしい。真に 社会を富ませ高め存続させていくのは、そんな刹那的なお金の移動による 「消費波及効果」 なのだろうか。人工空間、人工 環境の増大と本来知るべき周囲にあったはずの循環環境の喪失と否定がなにをもたらすというのだろうか。私たちの未来を豊 かにして希望を育むだろうか。消費の減退こそ未来への時代の印であり、歴史を学び新しい経済を形作るための基礎を示す明 かりのひとつではないのか。

日本銀行の失策

同じく 5月24日、そして 6月24日のニュースをみていて、日銀の円高への円売り介入を嗤ってしまった。本来、日銀は目先の 一時的安定と継続の維持のために円の安値維持をはかるための介入をすべきではない。日本の経済を主導し道筋をつけるなら この機会をこそとらえてその方向を変えるべきなのである。わかりきった、ありきたりの円売り介入を鸚鵡返しのように続け て、それが企業活動を本当に支えていくことになると本気で考えているのだろうか。社会経済の構造は変化しているし、物の 価値も多様化しまた下落している。現実に安価な輸出での価格維持と収益確保をもくろんでもそれは一時的気休めにすぎない ことは明らかである。安価な生産はすでに日本企業さえアジア地域を中心とした途上国に移され国内の生産と輸出は大きく伸 長することはもはや望めなくなっている。以前と大して変わらない製品なら少々の質の差は価格で補うことができるからであ る。モノとカネの流れから変えることである。その仕組みの簡素化と同時の複数の変化のある経路の構築は経費を下げ実質的 に逆に製品の価値を高めてくれる。充分な値での輸出販売を可能にするような工夫がまずとりあえず求められる。そして単線 的生産と販売を考え直すときである。その促進のためにも、円高の推進こそむしろ取るべき政策である。いやでも変わる。通 貨の価値を低めればよい、とはなんと安易で情けなく、しかも現実をそれこそ直視しない発想であることか。超低金利政策も また同様である。ばがげたやり方はいいかげんにやめたほうがよい。

最低賃金据え置き

7月26日、厚生労働省中央最低賃金審議会は2002年度の地域別最低賃金の現行水準維持を大臣に答申した。彼らの言う実勢、 つまり 6割の事業所が賃金を上げなかったからだという。本来中立的な立場で具申するはずの公益委員が一方に偏って 「現実 」 を肯定是認し決めたのは明らかに自らの存在理由を否定するものであろう。賃金の受給こそ社会のお金の流れの広範な底支 えである。収入がなければ使えないし、そうすれば売れない、よって生産も販売も減退し収益が下がりそのため支給すべき賃 金は減る、ということになる。悪循環はその流れを断ち切り変える必要がある。まず、ますます費用を要求するような各所の 形態を改めていくこと、掛かる費用が社会の維持費用を増大させていることを知り、それを減らしていく、あるいはかからな い形態にするために社会的に種々の相互の懸りをまかなえるように変えていくことである。そして、社会の構成員たる人々の 最低限の賃金保証はやはり社会的に下支えすべきなのである。個々の事業者の統計的算術から決めることでは絶対にない。地 域的差異はその循環的な形態に依存するためある範囲で許容されたとしても、必要とされる最低限の額は社会による社会のた めの社会的要請であることを理解すべきだからである。事業者ごとの個々の活動の寄せ集めが社会経済を決めているのではな い。その要請は必然的である。

食品添加物の認可の緩和

これまた厚生労働省が問題をはき違えてしまった。国内法で禁止した添加物含有食品の輸入増を 「実態」 と捉え、そのまま の追認を進めることを 7月12日に決めたからである。現実問題として、とんでもないことである。いうまでもなく、添加物は ないほうがよい。自然に含まれる物質でさえ、加工、保存などの過程で変化し有害化する場合もあるのに、始めからわかって いるものを入れてそれを認めるなどというのは、どう考えようとその対応こそ、彼らのいうところの、 「適切」 ではない。 尾崎新平・食品保健部長のいうところの 「形式的な法律違反」 ではなく、実質的にこのましいはずもなく不適切なのだから 、そういった添加物の制限は更に厳しくするのがあたりまえで、ただ外国でかまわないとされたから日本でも認めるなどとは 、何のための法律で何のために役所もあるのかわからないではないか。安易な追従と盲目的承認は私たちをさらに不自然にし て様々な障害により近づけることにつながることを考えることである。まさに水際で食い止めて送り返すくらいの姿勢で臨ま ないと実際に危険である。できることはどんどん行う、もれたらその防護策を講じて対応していく、ということは当然のこと である。すべての回収ではなく、少しでも減らすこと、そして流入を防ぐことを考えなければならない。入りにくい、流通し にくい仕組みの構築が、たとえ入ってきて出まわったとしても、追跡と回収をしやすくするはずである。腰の引けた態度では 社会も私達も守れない。

違法な業務請負と労働者派遣

立法段階から問題視されたとおり、労働基準法の第6条についての違反が最も基本的に疑わしい (違反なのははっきりしてい る) 。職業安定法44条はあくまでその特別な規定の一つである。現実に行われている派遣の実態をみればわかるとおり、例外 的に認めようとして成立させた労働者派遣法の目的とも離れて、ただ企業の (雇用者・使用者) の人件費の削減と低賃金での 労働力確保のために行われていることを再確認すべきである。また、近年急増している、いわゆる外部業務委託 (アウトソー シング outsourcing) はもっとひどい。その内実はまさに体のいい人貸しの労働者供給であり、その賃金は派遣と同様に中間 搾取されている。労働者派遣業も基本的に第 6 条に反した行為であり、実質的にも例外的に特別法を作ってまで認めてよい ことではない。企業がその活動の維持と存続を図るために必要なことと堂々と言い張る輩もいるが、そういった思慮のない際 限のない利己的行為と社会の構成形態のひとつであることを忘れた功利的追求こそ社会的に容認してもされてもならないから 労働基準法が必要となるのである。法の要請は社会の存続にあり、その要請に基づき法がまた存在する。単に企業の存在成立 と労働者の雇用にかかる一契約上の問題ではないのである。利己的追求の結果産み出された反社会的逸脱行為を法が認めてよ いはずがない。野放し状態の今を私達は直ちに変える必要がある。

コンビニエンスストアの系列加盟

NHK 総合テレビで 7月21日日曜日の午前 8 時から岐阜発「ナビゲーション」で "コンビニトラブルを防げ" と題して、FC加 盟店と元締めの会社との間のトラブルを取り上げていた。解説者として、元FC元締め経営者のひとりであり、現在経営コンサ ルタントだとかいうおっさんをよんでいた。おかしなはなしである。 といった点が示された。しかし、そもそも、経営の方法や仕入れなどの提供をするからといっても実質的にはフランチャイズ 本部 (コンビニ本部) のFC経営会社は物を売ることに直接入らないし高額のロイヤルティー (権料) を「常に」納めさせるこ とに根拠は乏しい。そういったFC会社が存在したりその「事業」が展開されること自体おかしいのである。それを国が、ある から、先にできているから、といって容認するのが誤りであり、その「ルール」づくりを手助けする、という考えそのものが 間違っている。そんなものが「ルール」だろうか。
商業活動であれ、雇用関係であれ、「介在者」 が中間に存在して利益や賃金を掠め取ること自体なくすことである。口利き政 治もまた原理的に同様で、介在して貰うという行為を許すことに誤りがある。中小企業庁が「流通近代化」策の一環としてこ の「フランチャイズ」と名前を変えた暴力的な、前時代的な従属支配関係を推奨してきたことが嘆かわしい。近代化では決し てないことは火を見るよりもあきらかなのに。
系列化されたコンビニは地域経済にとって負の存在であり、社会の利益にはつながらない。その地域の人たちの払ったお金が どこかに吸い取られるなんて明らかにおかしいし、まったくもって腹立たしい。そんな連中に奉仕するために買うのではない 。それに、買うお金も限られていることを知るべきである。

あるもの、できたもの、誰かにとって都合がいいから作ろうとしているものをおよそ受容の前提としてはならない。作ったか ら合わせる、では、歯止めなく、どんなことでもまかり通ってしまう。また、人々の心でも、純粋さ、正直さ、温かさ、思い やり(情け)、率直さなどをさげすみばかにする風潮というより傾向がある。不誠実で不道徳な行為や態度を現実の世の中だと して認めてそれを基準や尺度にするのは明らかに誤りであるし、情けない。求めるべきはなんなのか、定めるべきはどこなの かを知ることが社会の健全さと存続可能な形を作っていくのである。
私達の教育が既成のものを前提にしているところに問題がある。現在あるのはあくまで一時的なものだし、たとえ周期的であ ったとしてもすべてのものごとは移ろい変わり行くものである。従来のやり方に疑問を持つ、あるいはよりよくは、まず、も のごとを疑ってみる、そういう姿勢こそ、子供たちに教えていくべきである。騙されないために、過ちをおかさないために。


目的の否定
2002.7.14
7月12日の夕方のニュースで、文部科学省の発表した、 「英語が使える日本人の育成のための戦略構想」なるものをやっていた。またか、という気持ちになった。 ”なぜか知らないが” 「英語」教育の推進を打ち出したのである。「賢い」役人たちのおやりになることには いつも幻滅と落胆と怒りを感じるが、彼らは本当に何も理解していないようである。やれ、英検だ、TOEIC だ、 などとつまらぬ一元的 「基準」 だかのものさしを持ち出している。「使える」 ”ような” 「英語」 を身に つけさせるのが目的だそうである。

英語は確かに国際語 (lingua franca) の一つとみなされてはいる。しかし、その態様や形態は 実にさまざまであり、”一つ” ではない。当たり前ながら、英語を話すことが「地球時代」の必須条件でも、 基本的条件でも基礎でもありえない。ましてや、米国(アメリカ合衆国)の白人のある層中心の「英語」が標準 ではありえない。

ことばで意思疎通を図るためには、ことばを羅列的に ”流暢にしゃべる” ことがよいことでも必要なことでも ない。それ以前の思考と主張の問題であり、その論理性と明確さと簡潔さが必要条件である。麺類をずるずると 食べるように英語をだらだらずるずると ”流暢に” 「話す」ことが求められているのではない。また、表現を 多く覚えて ”上手に” 使うことでもない。

母国語である日本語が崩れつつある。よく言われる、言葉の変化や揺らぎ、ではない、と断言できる。本当に、 話され書かれて伝えられていることばがひどくうすっぺらで悲しいほどに悪くなってきている。外国語での置き 換え以前に、日本語で言うべきことを正確に、的確に、そして簡潔に筋道だてて表現できる人が大人でも子供で も減ってきている。

求められているのは特定の一言語ではないし、無意味な ”通訳” でもない。母国語を的確にかつ適切に用いて 自分の伝えたいことを論理だてて述べることを忘れ、特に米国の現代表現をまるのまま馬鹿みたいに覚え、その 成果を計り一喜一憂することに取り組むなどということは明らかに方向が違うし、目的は無いのと同じである。 国を挙げて推し進める教育ではない。結果として見えてくるのは、社会の同一性と真の礎となっている目に見え ない共有できる文化の荒廃と衰退と貧困化である。自らの文化を否定していくことにつながることをこれからを 担う子供たち、若者たちに強要してどうするつもりか。それこそ、恥だとは思わないのだろうか。根無しになっ てしまう心の貧しさを助長するだけである。

外国語での意思疎通は、相手をいかにうまく真似るかでもいかに相手に近づくかでもない。特定の外国語の猿真 似的 「習得」 が私たちをして国際的に通用する人間、あるいは地球人に育てうるだろうか。すべからく同一基 準で同じ表現を覚えることが話すことにつながるだろうか。ことばを知ることの意味を文部科学省の賢明なお役 人は考えたことがあるのだろうか。

大切な自己と人間形成の成長の時期に特定の一外国語の 「習得」 に血道をあげることはその子供にとって極め て不幸である。学ぶべきことを学ばず上滑りのしゃべりを身に着けることを戦略だと称し、つまらないものさし で一意的にその 「習得」 状態を計ろうなどとはあまりにばかばかしく、私たち国民を馬鹿にしている。必要な ときに適切に意思疎通を図ることは自然に体得すべきことである。ことばを弄することではない。何が必要なの かを自ら考え、求め、体験的に本当の意味で 「習得」 していくことこそ必要なことであり、そこに 「英語」 は当然ながら必然ではありえない。米国式英語の猿真似をすすめるなど、愚かしいことこの上ないし、それこそ 「外国人」に心のそこから馬鹿にされ軽蔑されることである。

中間テストをやめる中学校が増えているらしいこともまたニュースで聞いた。しかし、それは誤っていると思う。 実際、たとえ一夜漬けでも、中学生が繰り返し基本的な事項を覚えようとし、基本的なやり方、考え方などを一 部でもその中学生なりに再確認する行為は必要な訓練である。試験の翌日にきれいさっぱり忘れようと、そうい った経験とその中学生なりのやり方はそれこそ ”見えないところ” で生きてくる。その回数が大いにこしたこ とはない。何をどれだけ覚えたか、が重要なのではない。何をしたか、どうしていくのか、そういった試行錯誤 をふくんだ行いすべてが求められるからである。アメリカの英語の基準を当てはめるのとは違い、単純な再確認 でも形成される神経のかたちがある(不正確な表現です、はい)。そこに実のなる枝が育ってくるのである。し かるに、京都市教育委員会のある者は、『...これからは意欲や判断力といった「見えない学力」の向上が必 要な時代...』などとのたまうしだいである。とんでもない! 子供 にとっても、そんな「見えない」あいまいな、しかもそれこそ、千差万別、多種多様で各人各様の基準もものさ しも存在し得ない世界のことを勝手に一方的に見られましてや計られ決められることなどたまったものではない し、人格人権の無視である。ほんとうに、恐ろしく、身の毛もよだつ考え、発想である。決して計れないし、計 っても決め付けてもならない一人一人の価値の高低大小のない人間の一側面である。そんな愚かしい見方を教育 者がしているとしたら、この社会はとんでもないことになる。取り返しのつかないことになる。

求められているのは、基本的な礎となりうる知識と意識の再確認であり、ものごとを鵜呑みにせず、疑うことを 忘れず、自分自身の目で見つめ見極め考えていくための基本的な姿勢と基礎である。それこそ、地球人として、 必要不可欠な思考であり、文部科学省の役人どものいうところかもしれない「戦略」であろう。 「目的の無い」 一外国語の変種の 「習得」 でも文化の否定でも訓練の放棄でもない。

中国瀋陽日本総領事館侵入連行事件
2002.5.9 初稿 / 5.12 改稿
眼前の希望

8日午後に起こった中国の瀋陽での北朝鮮の5人の家族の命を賭けた日本の総領事館への突入はそのありのままの映像と 写真により改めて現実と人権と尊厳に目を見開かされた事件である。 そして、その場のなくてはならない、そして正面 で主役を演じていなくてはならなかった日本の外交官の情けなさと間抜けともとれる対応にもまた、現在の日本の悲しい 姿を再認識させられ考えさせられた出来事であった。
私は個人的に、北朝鮮の幼子を連れた家族がこの国、日本、を頼り希望をその館の白い壁に見いだしてくれたことが嬉し かった。こんなことを書くと、『あたたもおめでたい』、と言われそうだが、本当に素直に私はその点を喜んだし、彼ら の希望が叶うことを心から望んだ。しかし、その決死の駆け込みはまさに「力ずく」で、いや、「暴力」で、かつて中国 が日本人を非難していったのと同じやり方でその希望といっしょに否定されかけている。 後戻りのできない、許されな い命が懸った足の向く先に日本という希望があった。 かれらの思いは現実の北朝鮮内部でのひどい生活と圧迫と強制と 恐怖や何もすがるもののない異国での不安を身をもって知らない私たちにはわからない。 しかし、その必死の叫びの一 部を映像を通して見聞きし、幼い女の子の泣き顔を見て救いの手を影から差し伸べたいと思う気持ちは彼らの希望にもど こかで通じ合うと私は信ずる。 もし私がそういう現実に放り出されたら、眼前にどんな希望を見つけるだろうか。

小泉首相の惚けて呆れた発言

9日の朝の NHK のニュースを聞いてあほらしくも情けなく、悲しくなった。日本の首相ともあろう者が、『...日本 の立場もある。相手がどういう立場でやったのか慎重に対応. . . 日中友好を阻害しないよう...これ以上ことを. . .』などと発言したとのことなのである。何を考えているのだろ うか。何も考えていないのだろうか。何を聞いたのだろうか。何も感じないのか。あなたには目がないのか、と迫りたく なった。日本の首相として言うべきは、「立場」などではなく、権利と義務である。治外法権が例外的にそして国際的に 合意の上で認められている日本の主権の存在する敷地内に中国側の暴力が及んだのである。自らの権利の主張は立場など というあやふやで弱々しいものではない。そして救いを求めてきた何も持たない五人を私たちは守る義務がある。その手 だてを、鍵を握っているのである。慎重さは五人の実際の処遇とその後の対処、移送の方法において考えることである。 まず首相は大声を上げて権利を主張し強い姿勢で五人とこの国を守らなければならない。本当に友好を望むならなおさら である。
首相にはもはや地に堕ちた形ばかりの儀礼的「外交」のほうが自分たちの権利や人命よりも大切らしいのである。何が、 『これ以上...』なのか。あきれ果ててしまう。「これ以上」無意味なにこやかさと偽善的儀礼外交は必要ないのであ る。

眼前の存在

首相を頂点としたこの国の政府や内閣、自民党の眼前にあるものは何だろうか。小心翼々とした自らの「立場」と「権力」 の保持と形や外見だけを立派にみせかけることにしかないように思えてならない。「国家」という姿形の維持装飾にしか 頭が回っていないようなのである。実際、有事法制定に熱心であるにもかかわらず、今度の事件のような場合でさえ、主 権の主張はおろか、威信をかけた対応や外国公館の自衛をすることすらできない。本当にそれで「有事」の際の対応など できるのだろうか。何より守らねばならないのは国民の命と人権と財産であり、この小さな国土である。その基本的な意 識があるとは到底思えないのである。今回のように明々白々な理由と根拠があり、前面にその主張を出すべき時にふぬけ た発言をしまるで他人事のように語っていた首相以下はなんなのだろうか。一方で、明快に理由を述べることもできない 有事の際の「協力」強制を何も起こらないときにこれまた惚けた調子でのたまうのだ。「協力」を前面に押し出し、基本 的人権を制限することや対外武装攻撃行動への協力を法を使ってまで強要するというのだから呆れる。順番が違うのであ る。まさに、今回の対応をみれば、何をかいわんや、である。一体何のための法律を作ろうというのだろうか。かつて、 暴力・武力でもって侵攻した中国の地で試されたこの国の指導者や主権の実際の行使者たちは図らずもそれこそあまりに 幼く低い意識を露呈させてしまった。
眼前の存在にまだ目が行かず実態のない形を求めてばかりいる。そんな者たちのために人権や人命をないがしろにしては ならない。そんな連中の言い様振る舞いにいいしれぬ不安を覚えるのは私だけだろうか。戦う意志の前にまず自らを守る ことを考えてほしい。自らを見て人々の存在を認識すべきなのである。

不安と不信

度重なる不祥事とまさに犯罪行為の続く外務省はその本来の職務と義務において決定的な過ちをおかした。そしてそれは もちろん誤った対応であり、高給とは正反対のあまりに低い人権や国の主権に対する意識を知らされることになった私達 はあまりに不幸である。異国で頼れるはずの同胞や守りうる力や手段を持つはずの外交官や外務省職員に裏切られたらど うすればよいのだろうか。テレビで、新聞で、前面に立ち体を張って対峙し守ってくれるはずの外交官の実際のなんとも 情けない姿を目の当たりにして、悲しくなった人たちは多いはずである。そして、相当の不安を感じたと思う。暴力を振 るい侵入してきて、助けを求めて入ってきた無力な人たちを力ずくで引きずり出した者たちに迫ることさえせず、帽子を 拾ってやって手渡す、などというお人好しを通り過ぎた愚行の先には命は見えない。蛮行の容認にはあきれると同時に恐 ろしさを感じる。武力をちらつかせられようがされまいが、敢然と立ち向かいあるいは立ちふさがって命と人権を守るこ とにその使命を外交官には感じてほしい。恐れと不安をいだかせるような、およそそれを職として経験も積んだ外交官の 立ち振舞いとは思えない哀れな姿に私はさらに不信を抱く。日本を背負い代表し、求める者には門戸を開き安心を与える 、そういう人のいる温かな場所であってほしい。
いったい今まで何をしてきたのだろうか。何のために異国に居住し優遇され、何の仕事をしてきたのか。外国人であろう と日本人であろうと守るべきは守る、それこそ毅然とした態度で横暴と強圧的行動と言動に対抗してほしい。職務におい て不信感を与えかねない今度の事件へのその場の対応は本当に恐るべき事態だと思うのである。。決しておおげさではな い。考えてみてほしい。常に起こりうる最前線にいる者たちの意識の低さと認識の浅さ、そして浅はかな行動にさらに起 こるかもしれない緊迫した事態への適切で迅速で尊厳のある対応を求めることは難しい。不安に恐れが重なり不信感を増 大させたのは一人副領事だけの責任ではない。さらに、それこそ、「これ以上」悪化させたり日本の信用を失わせるよう なことのないように強く頼もしく明解な対処を望みたい。

中国に向けて

中国の警官はなぜ蛮行に及んだのだろうか。なぜ暴力をただ駆け込み助けを求めただけの幼子連れの家族に向けたのだろ うか。そしてなぜ領事館の職員hそれを容認したのか。傍観による黙認は容認にほかならない。私達はそれをしっている。 さらに、暴力による侵入と強制の罪もまた知っている。それを中国の人々は不幸な体験の上に身をもって知っているはず である。
武装警官たちは「侵入者」の凶行から外国公館と職員や出入りの人たちを守るために必要な行動だと言い張るかもしれな い。しかし、待ってほしい。その名目で行われたひどい犯罪行為、暴力行為を思い起こしてほしい。かつて自分たちの同 胞に対して行われた行為を繰り返してどうするのか。おおげさに聞こえるかもしれないが、あるいは拡大しすぎだと思わ れるかもしれないが、現実に為された力ずくの引き倒しと銃を身にまとった警官による連行は戦時中の有無をいわさぬ強 制連行や一方的な拘束と変わりがないことをしるべきなのである。
若い警官たちが知らずにただ訓練や教育に仕立て上げられ通常行われる命令どおりにそうしたとするなら、その行為の誤 りをこそ過去も現在も知る私達日本人が体を使ってでも指摘し気づかせなければならない。人間として当然の姿勢をもっ て過ちを知らしめ、正当な行為について、また、もっと大切な人権について、おこがましくとも教えてあげるべきなので ある。過去への負い目と残留孤児を育ててくれた中国だからこそ、そうすべき義務が私達にはあると思う。
おそらく中国側の強行と強弁は軍隊によっている。しかし、そういった軍隊の繰り返される行為とその思想こそが悲惨な 結果をもたらしてきたこと、それこそがまさに諸悪の人権蹂躙の根源のひとつであることを日本政府は言わなければなら ない。「軍部」という存在が特別視されたり、その活動領域が外国公館とは比べ物にならない治外法権の立ち入り禁止区 域となったりすることは認められてはならない。法体系の未整備な中国社会で、力や銃砲器を持つがゆえにその発言や行 為までもが力を持ったり黒を白と言い換えることがまかり通ったりすることは、中国の人々を守るどころかこの上なく不 幸にするだけなのである。法は法ゆえに法自信により律せられて例外なくすべての人に対して効力をもつこと、そしてそ れゆえにお互いを守りその存在を当然の存在として認められることを知ってほしい。軍隊もまた暴力である。それ以外の なにものでもない。その主張が正当化されることを私達は許してはならない。『力は正義なり』ではないし、正当性はま ったくない。

過ちを繰り返さないために、情けない首相の背中を川口順子外相は押さなければならない。そうする義務がある。その能 力を認められて就任した外務大臣である。いまこそ、その責務を果たさねばならない。二人とも、そして私達もまた、中 国の非合理で事実に反する主張を認めてはならない。今度こそ、領事館の失態を乗り越えるべく、強く強く正当性と五人 の保護を訴えてほしい。

堕ちた遊戯
2001.10.24
テレビ放送

近頃とみに腹立たしさを覚えるのは野球中継である。営利目的の見世物興行であるいわゆるプロ野球 (国内国外を問わず) の 試合中継をほとんど特別枠で夜の最も視聴者の多い時間帯に各テレビ局は放送しているのである。しかも、すべての球団を平等 に扱うのならともかくも、特定の球団を中心にしてはばからない。長時間流し続けるのである。あきれ果ててしまう。公共の電波 である。民放といえどもある周波数帯域を占有して放送するのだから、その時間や内容には自ずと公平さと割り振りと選別が必要 になってくるはずである。本当にどうかと思ったのはかの NHKである。自ら「公共放送」と公言してはばからない放送局がどうし て営利目的の見世物興行を初めから終わりまで平然と完全中継できるのだろうか。

衛星放送は貴重な資金以上に大切な資源を使って事実上回収できない (スペースシャトルですべてはたぶん無理) 宇宙空間に打ち 上げられた人工衛星に依っている。それ故に、さらに公共放送で受信料を徴収する NHKゆえに、特定の数えるほどの日本人しかい ない米国の野球の中継を他の本来放映すべき大切で価値のある (もっとも、その判断は視聴者に委ねられる) ニュースや自主制作 番組をさしおいて犠牲にして、なんと、早朝から流しているのである。それももっと悪いことにその録画を昼と夜に放映している 。何を考えているのだろうか。はっきり言って、何の役にも立たない (糞の役にも立たない) ことを、いやそれどころか、その営 利性と特定の人の特定の団体のみを取り上げている、という点において、しかも、一部の視聴者の嗜好の充足のために公共の電波 を文字通り占有し文字通り長時間公共の資材と資金をつぎ込んでいる。これを浪費と呼ぶ。はたして、天下の NHKのすることだろ うか。使われる人員と作業量の少なさが好ましいからなのだろうか。 NHKは、そして貴重な衛星放送は、本当に必要性の高い内容 の番組を編成して難視聴地域に届けるべきなのである。本当にまったく日々の生活に何の益もない野球中継をNHKはしてはなら ない。また、何よりも、それを一つの娯楽と称して人々の目を覆ったり曇らせてはならないのである。

現状の憂鬱

私たち視聴者はできることなら自分のみたい番組を選びたい、と考える。そういう自由な選択をしたいと願っている。けれど現実 には視聴できる放送は数が限られていて、実際に視聴できる時間も当然ながら限られている。だからこそ、長時間の無意味で有害 とさえ言えるプロ野球中継など見たくはないのである。広告主 (スポンサー) からのお金で主に番組を制作している民放でも内容 のある番組は存在する。まだその再放送の方がよほど価値がある。特に日頃日中は仕事やなんかに縛られ時間を取られて狭められ ている視点や経験を広めるためにも変えるためにも貴重な夜の時間をあほみたいな野球中継でごまかされたくないし過ごしたくは ないと強く思う。ほかの見世物興行の球技すらめったに放映されないような野球の特別扱いは異常なのである。

恐ろしいのは、ついつい見聞きするうちに特定の球技の特定の団体や特定の個人の姿を好ましいものとして受け取り、それらを使 ったこれまた特定の企業なり団体なりの宣伝を抵抗無く受容してしまうことである。何よりも、公共の電波を使ってなされる放送 だからこそ、人々の選択眼と批判的な視点を養い、促すべく番組を制作していくべきなのに、民放はもとより、NHKでも公然と 多くを込みにして流しているのである。知らず知らずに目や耳に入れられ植え付けられることほど恐ろしいものはないからである 。そうして味噌も糞も (良きも悪しきも) あるべきもの、「すばらしいもの」と思いこまされ (スポーツに関したことが多い) 堕 ちていくのはほかならぬ私たちである。

特に衛星放送を使ったNHKの一日中強制される野球中継はすぐにでもすべてやめるべきである。むりやり特定の個人の営利活動 や売名行為を好ましいものだと誘導されそう思いこむことを強要されているようで怖い。歴史上も姿形は違うがそういった伝達媒 体を使った意識操作が為されてきた。一方通行の声高な繰り返しほど洗脳と脅迫にもってこいの手法はないのである。過去の反省 と教訓をこそ生かすべきなのに現状は逆以上に激しい。メディアが多様化複相複合化していることをさらに利用して畳みかけ畳み 込んできている。その危険性と恐怖を教えることこそNHKは使命とすべきなのに。

エネルギー問題

長時間にわたる日米のプロ野球の最大の問題の一つはエネルギー問題である。もう一つは資源と空間の占有である。米国では野球 は案外多く昼間に行われているらしい (?)。 しかし、日本では夜間照明を使ったいわゆるナイターが主である。これは困りもの である。ただでさえ資源の枯渇が問題になっていて温暖化に歯止めをかけるべきなのにそれに逆行する行為である。懐中電灯でち ょっと照らす程度ならたいした熱も光も発生しない。その程度なら許せても、夜半前の団らん時に煌々と電灯という形で震え上が るくらいのエネルギーを浪費している。それも時限的ではない。無制限である。そのために夜空には晴れていてもほとんど宇宙か らの光は見られず人工の光のふくらみが空を覆い隠す。これもゆゆしき事態であり異常な状態である。本来、夜は暗いもの。それ が当たり前なのである。空にはかすかな光が美しく時を伝えてくれるものなのである。だからこそ、エネルギーの無駄遣いでしか ない、しかも家族の団らんを奪う夜間の各所の球遊びは迷惑以上に害悪なのである。そして狭い都市空間で広い土地を占有し人工 的な屋根まで付け、土を人工芝で覆う。近づいただけで鳥肌が立ちそうな環境である。まさに空恐ろしい。その場所だけでも資源 の浪費は甚だしい。

中で遊んでいる者たちもその興行を主催している者たちもお金を貰って電力や燃料などを供給している者たちも、そのエネルギー 源や資源の出所・元を知っているのだろうか。考えてみたことがあるのだろうか。人の心を豊かにしたり慰めたりするどころか、 人々の心の荒廃や利己主義を増大させている一因ともなっている夜間照明下の遊戯を省みることをどうしてしないのだろうか。私 たちは田舎で都会のそういう身勝手の犠牲にされている。都会に電気を送るために危険で厄介な原子力発電所をむりやり押しつけ られ造られた。海岸からその原子炉の異様な非人間的姿をいつでも見ることができる。その見 えない恐怖は都会の人々の想像を超えたものである。立地地域の人々の気持ちなど彼らは何も知ろうとはしない。 東海村 の臨界事故の恐ろしさも遠く離れた都会の人たちには他人事だったようだ。悪いことに、その立地でもたらされているのはやはり 見えない長期にわたる放射能汚染を伴う仕事のみである。低レベルでも、いやそうだからこそわからない子々孫々までの影響と将 来起こりうる事故のために辿ることになる私たちとその土地の末路など都会人には考えようもないだろう。逆に、安全管理は万全 だと「それなりに」優れた (科) 学者や技術者たちは吹いている。しかし、彼らは決してこの地に住み続けることはない。舗装道 路が増えて生き物たちは隠れあるいはいなくなり、人工的な建造物の建設によって資源は浪費され環境はそこかしこで破壊されて きた。本当に私たちが求めている地域に根ざした産業の振興や育成には原子力発電所も都会の人たちも全く関心さえ示すことはな く (てめえでやれ、が本筋?) 何も有益なものはもたらしてくれていない。

私自身もかつて発電所に働きにいった。都会の大学で化学を学んだにもかかわらず、原子炉のある場所の近くに (放射線管理区域) 立ち入るのである。危険を感じてその仕事は辞めた。居住地域よりもはるかに放射能にさらされる危険性が高いのだ。もちろん 決められた被曝レベル以下での作業を前提としてはいたが。その理由をそれなりに学んでいたからこそである。そしてそれを教えた のは都会人の大学の人たちであった。危険性を説き批判的に物事を考える基礎を与え示した人たちはしかしこの地に足を踏み入れな いし顧慮することさえない。
そういった上に都会人は田舎を馬鹿にして (あるいは愚弄して) 見下し (乞食にやるような) 施しをすることを良しとして免罪符 にしている。そんな踏みつけと踏みにじりの上の有害無益な浪費がプロ野球なのである。そんなことのために私たちは我が身を日 夜危険に文字通り晒して放射性物質を体内に微量ずつ蓄積させているのではないし、そんな「娯楽」に大切なエネルギーを使って ほしくない。関西電力さん、送電を止めて欲しい。

原子力以外のエネルギー源はもっと深刻な危機的状況にある。かつて1973年の石油危機で化石燃料の供給元の危うさをいやと いう程知った。テレビ放送でさえ深夜11時以降は自粛した。しかしそれももはや今は昔、記録と記憶にかすかに残されているに 過ぎない。いちばんあわてふためいていた都会人がそれを忘れたかのような我が世の春である。今またへたをすれば二の舞、いや、 それ以上の危険を秘めた戦争が中東地域で起こされている。アラブ世界を敵に回すことになったりしたら、加担した日本人にはも う一滴も石油を売らないといいだしたら、どうなるのか。恐ろしいほどばかばかしい浪費型の娯楽の典型である「ナイター」を果 たしてしていられるか。

野球人の姿勢

プロ野球の内にある問題はまたそのプレーヤー (いわゆる選手) 自身にある。その態度立ち居振る舞い行動言動には許し難い以上 に許せない面が多々あるようである。実際に、特定の個人とわかる形で、しかし裁判所に訴え出るには不十分ないかにも狡猾でず るがしこい陰険なやり方で人身の攻撃を行ってきた者たちがいる。今もたぶんいる。そしてそれはしばしばテレビ放送を中心とし た大量伝達媒体を通して為されてきた。彼らは誰のおかげで遊んで暮らせると思っているのだろうか。おそらく考えもしないし感 謝などすることはこの先もないだろう。それどころか、女性を見下し踏みつけにして女性 (の体) を弄び平然としている者も多い らしい。その姿形と恰好良さと力を武器に女性を騙したぶらかしているようなのである。もちろん、伝聞である。事実かどうかは しらない。ほいほいとついていったりする女性も浅はかなのだが、そういっった女性に彼らのことばでいう「男らしさ」 (このて のことばは使ってはいけない) があればたしなめ諭すことができたはずである。彼らの欲が優先したようである。ほかにも、傲慢 不遜な態度や振る舞いが目立つことは多くの人たちに知られるところである。多大な収入とそれを支える「人気」のおかげで彼ら の生活と行動は正当化されてきたのだ。私たちはたしなめることもそっとささやくこともしてこなかった。特に取り巻く関係者は むしろそれを防いだ。そうすることが恐ろしくてできないのがおよそスポーツの力 (文字通り) の世界の一面である。そう、彼ら には「ちから」がある。「腕力 (つまり暴力) 」と「大声」は共に弱い小さい人たちを黙らせ従わせるのに充分な手段である。

多くの人々の「善意」と「好意」だけで成り立っているのに、野球選手は周りの人々をかえって見下し暴言を吐く。そういった ことを見聞きするたびに許せない、許さない、許すものか、という思いがわき起こる。それもまた、野球をなくして良い世の中に したいと切望する理由の大きな部分を占めているのかもしれない。

球遊び・玉遊びの是非

球遊びあるいは玉遊びを好ましからざるもの、良くないもの、不自然で人工的なもの、と見なすことが自然な感覚として認められ つつあるようである。もちろん、室内でのボール投げやボール遊びの直接的な危険性とその占有空間・排他空間の大きさゆえの否 定的注意はその一面ではあるし端緒でもある。屋外においても玉や球を使った遊びは次第にその存在を疎んじられてきているよう である。ほかの遊びへの圧迫と追いやり、その遊び自体の持つボールの所有者の排他性と独裁性など、その広がりの占める空間や 人員の大きさはその実質的な運動量の少なさとも相俟って否定的な存在と見なすべきとの意見が出てくるわけである。機会均等で 交換可能で自由度が大きく占有度の少ないことは遊びの基本的要請であるといえる。そしてそれらは特に野球では否定されている 。そしてさらに悪いことには、遊ぶためのボール (球、玉) という人工物、人工遊具の存在と必要である。この点が最近注目され てそれがない幼稚園だかがあるという話をある新聞で最近読んだ。

子供達には自然で豊かな環境の中で育って欲しい、と願うのは親なら当然で同じであろう。しかるにボール遊びはその対極を 成す。自然の営みや生き物たちからどんどん遊離し隔離され乖離してしまい人工物にまみれた不健全な生活が都会にも田舎にもあ る。それを助長し心を貧しくしていることにボール遊びは与って力があった。大人になって彼らは野球が好きだというとんでもな い理由で野球場というこれまたとんでもない人工施設を造ってしまった。人工空間の中に人工芝で敷き詰めた人工球場に豊かな心 や心からの楽しみを見いだすことは本質的に不可能である。そして、そんな環境の中で育った人間に他者の気持ち、弱い人たちの 、小さき者たちの訴えを知ること思いやることを期待するのは無理がある。なぜなら、人工物には心がないからである。命が宿る ことは決してあり得ないからである。これもまた悲しい現実である。

分かち合う心、共有する気持ち、支えあう手、互いを認め合う目、同調や賛同や賛辞ではなく批判や異論を対等に聞き合う耳、知 ろうとして考える頭、共に行動して変えていこうと歩む足、そんな人間は球遊びではつまはじきにされる。攻撃の対象になる。

過度の存在

野球は広められすぎたしそのための時間と空間の浪費も社会を不幸にした。そして、先述したように、それで飯を食う (つまり遊 んで暮らす) 輩自身を不健全で不幸な存在にしてしまった。マスメディアの取り上げ方と取り扱いはますます彼らを増長させてい る。あまつさえ、自分たちの存在が社会にとって必要で立派でさえあるかのような錯覚を持たせるに至っている。もちろん、それ は完全な誤りである。多目的であろうがなかろうが、人工空間の建設と維持管理には多額のお金を必要としてきたし、夜間使用を 前提としたその利用はさらに社会を疲弊させることになる。さらにそこで行われる野球を中心とした球技への参加は人々をしてま すます身近であるはずの真に心和み暖める人的自然的環境を壊してきた。マスメディアはその営利性や人集めの目的のためにそれ を利用して本当に伝えるべき伝えられるべきことから人々の耳目を遠ざけあるいはゆがめ隠しごまかし受容されるべきでない情報 とかイメージ (ここでは虚像か姿か) を植え付けてきたのである。

野球の広がりによって失われたのは人々の本当の心の娯楽である。過ちに気づきそれを取り戻すべく改めなければならない。行き 過ぎた報道も建設ももたらすものは悲しい破壊と疲弊のみである。

堕ちて行く先

はびこった (overrun) 野球の行き着く先はどこだろうか。今どき珍しい男中 心の野球に声を上げられない賢明さを奪われた女性はどうなるだろうか。運動量も実質的参画も極端に低い野球につぎ込んだ資源 と労力と「エネルギー」と生物の命は私たちに何をもたらし教えてくれるのか。

セイタカアワダチソウがそこかしこに増えてきた。今この時期10月がその花盛りである。その目立つ色、生育力・繁殖力の高さと 強さ、圧倒的存在はそこにははじめからあるべくしてあったかのような錯覚を抱かせる。しかし、かれらもまた、彼の国から運ばれ てきて芽を出しはびこり (overran) つづけたのである。そのけばけばしさ、毒 々しい黄色、汚らわしい存在形態は、やはり、おぞましい、の一言に尽きる。秋の元から あった調和のある美しい色合いと広がるざわめきと実りの野っ原の今となっては懐かしい風景は着実に犯されつつある。かれらは 荒れ地に強く人工環境に従う。そして、その存在と繁殖はまさに侵害と破壊と蹂躙と陵辱の象徴 なのである。

そう、野球そのものである。貧しい心を食い物にしてはびこってきた (overrun) のである。早く何とかしないと大変なことになる、と思っていたけれど、もう時はすでに遅し、の感がある。それでも、諦めては いけない。今からでも、まず、手始めに、せめて「ナイター」 (異常な夜間照明下での恥ずべき 球遊び) だけでもやめてほしい。まずその無駄と無益と害悪から知らしめるべきである。一歩踏み出すことから前進するのだから。 そうしていかないと、堕ちていくのは、誰でもない、私たち自身なのだから。

理解に苦しむ夫婦別姓
2001.7.30 / 8.6 追加
昨今妙に騒がれている選択的夫婦別姓については疑問が多い。何より、そのために民法を改正してまで認めさせよう という動きには著しい違和感を覚えるし、理由が今ひとつわからない。必然性も合理性もないように思えるのである。

理由は何か

国会内でも女性議員を中心に (たとえば福島瑞穂さん) 各政党 (特に、共産社民民主) が制度的にも認めさせようという動きを強めているが、どうもその実情 には必然的理由はないようである。別姓を主張する人 (や政党) の発言や文面にそれが明確でない、というより見あた らないのである。生まれてからこのかた、身の周りで姓に関して不利益を被ったという人 (特に女性) の話を聞いたこ とがない。学生の頃都会に出ていたが、そんな話は見聞きしていない。田舎者ゆえ、とは思えない。

7月25日付け中日新聞の文化面の「改革を考える」という三重大学人文学部 岩本美砂子氏 の稿でも理由がわからなかった。

「...... 名前こそ自分が社会的に認められる第一歩である。婚姻届を出すカップルが婚姻後に選んでいるのは現在では 97%が夫の姓で、けっして半々ではない。この実質的不平等を正すための別 姓法案の可決には、まさに「解党的」政治決断が必要になっている。 ......」
(原文のまま抜粋)
よ〜わからん。そんなたいそうなことか。現行民法でもどちらの姓を選んでも良いことになっているし、あくまで選択 であって強制ではない。夫の姓が97%であることは単なる事実を表しているのに過ぎないし、これをもってしてどう して実質的不平等などといえるのだろうか。この選択の不均衡を変えることは 社会的な要請ではない上に法的問題では決してない。ましてや、「解党的」政治決断を迫らなければならないほどに必 要で重大な問題だろうか。

3月1日付け中日新聞の半面記事 (「選択的夫婦別姓」の特集) でもその理由を探してみたが、「... 慣れ親しんだ姓 を変えたくない ...」とか「... 結婚で姓が変わることによる不利益を解消しよう ...」とかいうことしかなかった。 前者はその時点での単なるわがままな利己的主張に過ぎないしこれからの変えた姓の方がたいていは長くなることによ る「慣れ」や「親しみ」を考えていない。後者は実際にどのような「不利益」なのかが明確に示されていない。何より 、不利益を姓の表示に起因するものと決めつけているのは根拠に欠ける上、無理がある (合理性がない)。また、この 記事は法改正推進を前提に書かれているのが気になる (公正さに欠ける)。

明治生命のアンケート調査では (1995年10 月〜11月、首都圏30km以内) (1) 自分は自分、夫は夫、(2) それぞれの家系を大切にしたい、(3) 職場で (姓が) 変わらない方が便利、(4) 現在の姓が気に入っている、といった理由になっていた。(4)、は前記と同じくわがままその ものでこれからを考えていないし、(3)、もご都合主義的問題で合理性はない。姓が変わろうがどうしようがその人はそ の人であり仕事は今まで通り続ければよいのである。(1)、も意識や認識の問題であり、同姓・別姓が決定づけることで はあり得ない。(2)、も同様に家系が途絶えるわけでもなく、大切に思い関与していくことに姓の異同は本質的に無関係 である。この調査は東京近辺に限られているため極めて限定的で代表的な意見意識ではないが、理由を見る限り別姓選択 の必然的かつ可及的な根拠は示されていない。むしろ、都会の人たちの身勝手さを垣間見る思いである。

ほかにもあたってみたが、

  1. 改姓は「不利益」になる(を被る)
  2. 制度上「不必要な負担」を強いる
  3. 別姓は個性の主張である
  4. 男女共同参画社会の実現を阻む
  5. 家族は家制度ではなく血のつながりである
といった理由が掲げられていた。i、は何が不利益なのかよくわからない。面倒くささや都合の悪さだけの主張ならそれ は正当な理由にはならない。ii、も手続き上の問題で確かに煩わしさがあるが一旦行えばそれで済むことと思うし、それ こそ簡素化簡略化をすればよい。男女も問わない。iii、も姓とは全く関係がなく、はき違えている。iv、に至っては本 質的な問題から目をそららさせようとしているようにしか思えない。種々の参画の機会や不平等は他に起因している。姓 によって差別されることではない。v、は夫婦や親子の関係を狭め不潔なものにしてしまう。夫婦となる結婚は社会的な もので、動物の mating (つがい合うこと) とはヒト社会では違う。血のつながりさえあればよい、のではそもそ も婚姻は社会的に不必要になるし、ヒト社会の歴史の中で好ましい形態として認容されてきた一夫一婦制を否定すること になる。単に子をもうけるだけなら姓も結婚も必要のないものである。もちろん、家族は旧来の家 (父長) 制とは異なる 基本的な社会の構成単位である。

別姓主張の問題点

書かれた記事やウェッブページ上に目についた中に、夫の姓を選択することが「強制」されている、という記述があった が、これをもってして以後の議論や別姓推進の理由の前提としているのは論理的にはもちろん、事実としてもおかしい。 そもそも「強制」ではなく「選択」の結果なのであり、それゆえに、その事実に反する仮定に基づく議論 (推論) は成り 立たない。ただ、その「選択」が、婚姻はそのどちらかの「家」に入る (嫁入りもしくは婿入り) という形態を実質的に とっていることが多いために「強制」しているかのように錯覚してしまう (思いこみ) ということはあるが、旧態依然と した家制度への組み入れとは実質的にも法律上も異なる。最近は都会とか田舎を問わずやたらに「独立」して家を建てて 住まう夫婦が増えているように、あくまで両性の合意に基づく結婚であり、姓の選択はその際に為されているのである。

姓が二通り存在するとすると仮想的にさらに世帯を増やすことになる。同居している世帯は一つなのに、呼ぶとき指し示 すときには二つを使い分けるのは困りものである。子供は更に奇妙である。本当はどちらの子として考えればよいのか、 特に子供はまさに家系との関係でも思い悩むであろう。そうでなくても世帯数が増えて困っているのにその上にさらにや やこしい事情を加えるのは社会生活上も、また各種手続き上も却って煩雑になるし問題が多くなると考えられる。

98%の選択が夫側の姓ということで女性差別と結びつけているが、実際には女性差別とは全く別問題のはずである。残 り 2%内外の男性もまた挙げられた煩わしさや何かを被っていることを忘れてはならない。少数派ゆえに無視されてよい のだろうか。この選択の問題は本質的に家族制度の問題だろう。なにか都合の良い理由に結びつけて考え自己主張しよう とするやり方・姿勢は公正でなく手前勝手で主張自体不平等な視点から為されているといえる。

さらに、家族とは、結婚とは何か、という基本的な議論を棚に上げてしまっている。血のつながりだけあればよいとか大 事だとか愛があればそれでよい、というのは極論である以上に疑問である。結婚は家族を構成するためであり、同じ環境 を共有するのである。姓の不一致は共有できない。家族の成り立ちの否定を意味している。

何よりも、別姓の人が増えるのは率直に言って変である。奇妙である。はじめに別姓ありき、で進めるのはおかしい。納 得させ得る、説得させ得る合理的論理的説明に欠けている。また、現在ある理由や根拠は挙げてきたようにもっとおかし い。ごり押しに近い事例の積み重ねによる手前勝手な既成事実化となし崩し的な追認を迫るやり方は受容しがたいし、認 められることではない。

直すべきは社会の有り様であり社会環境である。家族なのに別姓を認めるなどという奇妙で利己的な話などではない。 論議すべき重要な問題は山ほどあるのに。

どうして姓にそれほどまでにこだわるのだろうか。自分を大切にしたいという気持ちからなら、姓名の「名」にこだわる べきだろう。しかしどちらにしてもその人の決めたものでも選んだものでもない (親などが決めたもの)。更に指摘すべき は、家 (制度か) から離れたい、そこに入れられるのが嫌だ、というなら、どうして姓に執着して保持主張しようとする のかがわからない。そう、これは明白な自己矛盾である。これも決定的に別姓の主張に合理性のない理由である。

こういったことを書いても現実には多数だからとか、世の中の流れだとか言われて民法改正案も国会を通ってしまうのだ ろう、と思うと空しい。矛盾や起こるであろう煩わしい問題や理由・根拠の充分な議論のないまま制度としての選択的夫 婦別姓が導入されるのかと思うと悲しい。とりわけ女性議員はもう一度足下から見つめ直してもらいたいと切に望む。民 主主義は数の暴力ではないのである。

世論調査結果について

内閣府から8月4日、5月に実施された 5000人 (回収率69.4%) に対する選択的 夫婦別氏制の導入に関する世論調査の結果が発表され た。全体で42.1% が法改正をすべきとでて、反対の29.9% を上回ったとでていた。この結果が全国民の意見を代表するか どうかは (統計的にどういおうと) わからないし、これですなわち法改正に進むべき、との主張はやはり前述の通り、根 拠が薄いと思う (本来、統計的に有意であるとは、実際に測定・調査した試料・対象について計算した結果について考え るべきだからである----抽出したサンプルだけからむやみに敷衍して蓋然性がある、といいきるのは特に社会調査につい ては危険だと思う (たとえば、地域差を無視している==結果の概要では都市部と町村部で違いがある==人口の多い地域か ら多く抽出されるため都市部の結果が大きな割合を占める、有効回答の中で年齢層別の数の違い==明らかに意識・認識は 同一平均化されてはいない==をどう評価するか、数合わせだけで決まるかどうか、など) )。

この調査では、導入すべき理由については何も問うてはいない。「不便」があるかどうか、とか、婚姻に伴う必然的変化 について設問があるだけである。ただ現時点でどう考えるかを漠然と示したに過ぎない。さらに、別姓を認めた場合に生 ずるであろう手続きや社会的な関係でのまさに「不便」・煩雑さや混乱や認知に関わる煩わしさ等々、を考慮に入れてい ない。実際、内閣府では8月いっぱい同姓における不利益等を被った事例を募集している。なんだか、順番が逆ではない か、と思うのが普通であろう。事例の積み重ねの中で、それ(ら)が本当に同姓であるが故に生じた不便・不利益なのか どうかを充分検討すべきなのであって、先にただ、どう思っているか、を1億2千万人以上いる国民の中でのたった 3468 人のなんとなく示された明確な理由付けのない認識によって世論の動向はこうだ、とか、法改正をすべきだ、と決めつけ るに至るのは筋が通らない。当然の論理ながら、必然性についての議論もないままでは法律制定・改正の合理的根拠とは なりえない。ましてや、これが男女の性差別の問題にすり替えられたり取り込まれたりするのはまったく筋違いである。 また、不便・不利益と不合理・不平等とは別問題である。実際、先にも言及し たように、割合にして違いはあるとはいえ男女共に改姓に伴う書き換えや (自己) 「宣言」などは一時的に必要となる。 それは「不利益」でも不合理でもなんでもない。当然のことである。数の大小で女性に特に不平等になる、とする考えは 合理的・論理的根拠がない。

仮に結果を意味のある数値 (母集団全体についてもいえるとする) としても、数の上で多いというだけでそれが「正当」 な方向付けである、とか、社会的な進歩として認めるべき、とするのは横暴である。「選択的」だからよいではないか、 とう主張もどこか都合が良すぎる。ただ自らの主張を通したいがために少しの違い利用して好ましいデータとするのはい うまでもなく「不当」であり、そういった姿勢は非難され否定されるべきなのである。科学者がそういった主張をするこ とはとんでもないことであり、事実や真実をねじ曲げてしまう。社会学であれ政治学であれ、同様である。


過剰反応
2001.7.17 / 20
必要以上に、そうすべきではないのに、異常なまでに過剰な反応を示すことがままあるのが人間であるが、 明らかに行き過ぎた作為的意図的な所為操作によって作られる状況があり、それらに反応させられる私たち がいる。悲しいことに、そして愚かしいことにそれは私たち日本人にしばしばみられる性向でもあるようで ある。自分自身の五感あるいは六感で物事を知り自分の頭で考え行動する、そんな姿勢や習慣が本当に情け ないことに国民全体の教育熱心さとは裏腹に欠けているようである (教育の最大の失敗の一つ)。 そのため に思考が停止し判断を誤った事例はこの国または社会の歴史に多く、何より私たち自身の個々の「歴史」に 数多いのではないだろうか。 現実に問題となる事例・事件の多くは集団的な過剰反応を恣意的に起こさせ ることによって発現し助長されている。 疑問を感じること、変えていこうとする強い意志が求められてい る。

事例1:児童殺傷事件

大阪教育大学附属池田小学校 (大阪府池田市) で起きた一人の病んだ障害者と思われる男による児童殺傷事件 はその過剰な取り扱いと報道の姿勢に疑問を抱かせ、精神障害に対する誤った観念や意識を植え付けかねない 事後の関係者や行政担当者の対応に危惧を抱かせる例である。

一人の、確かに異常 (”普通”でないという意味で) と思える (思うしかないーーでないと救われない) 男に よる白昼の無抵抗の幼い小学生に対する刃物による殺傷行動は、その場その時では衝撃的であったことは間違 いないし本当に悲惨な結果をもたらした出来事である。 しかし、それをもって、つまりこの一例により、あ たかも日本全国いつでもどこでも常時普遍的に警戒しなければならないほどに頻繁に起こりうるケースと見な して対応させる、というのはやはりおかしいし、それ自体異常なことである。 そう煽っているのが例によっ てマスメディアによる過剰で執拗な取材と取り上げ方による報道である。 その多くの報道にまたまた PTSD (Post Traumatic Stress Disorder, 外傷後ストレス傷害) も登場した。 必ず言われる決まり文句のような ものである。 その場に (特に近くに) いた子供たちの内何割かは実際に著しい恐怖を感じ心的外傷を受けた かもしれないであろうことは私の小さなしかし重い体験からも想像 がつくし思いやられることである。 しかし、小学校全体にわたり PTSD を問題にすべき心的外傷を与えたと は考えられない。 擬似的な事後体験と物語 (事件の話・説明) の植え付けによる心象の改変が為されている 可能性がある。 ましてや、かつてこれまで頻発したわけでもないのに、小学校などに「誰か」わからない、 現れるかもしれない”異常な”人物に対する恐怖を煽って対策をすべからく促し半ば強制的にさせていく関係 者や自治体・政府の対応はまさに過剰反応でいかにもわざとらしい行為である。 何か示さねばマスメディア を中心に周囲から何をやっているのか、何もしないでいいのか、などといった非難を受けかねないことを恐れ て装っているかのようである。

一例を敷衍させるべきではない事例の典型例である。 ここで問題とすべきは精神障害者ではなく、そういっ た不幸な人たちを悪い意味で特別視し異端視して区別し、すべて危険な存在とみなす者たちであるし、刑法の 改正や対処の厳格化を目論んだり行おうとする行政関係者や有識者とされる者たちである。 経験も接触も思 いやることも関心も普段はない者たちが一時の事件で精神障害者の処遇に入り込んでくるのは考えものである 。 通常起こる”普通”の者たちによる凶行にも満足に対応できないのに、どうして例外的に起こる事件によ って急に対応しようとするのだろうか。 事件の痛ましさとひっそり暮らす他の不幸な精神障害者の存在とは 基本的に関係はない。こういった事件が起きるのは通常一般の社会生活において何らかの障害や軋轢、無知無 理解からくる差別排斥などの要因が絡んでのことであろう。 初めから自らの態度や責任を棚に上げた偏見や 無知無認識しかない者たちに心を病んで苦しんでいる人たちのいったい何がわかるのだろうか。 病んだ人た ちの痛みや悩みをせせら笑ったりそんなことでとか言って弱いからだとしか考えず普段は見向きもしない者た ちに障害者の基本的人権にかかわることに口出しする資格や権利があるだろうか。

事件を起こした宅間守容疑者のその後の取り調べなどの際の発言から精神障害を偽装だと疑う向きもあるが、 事件現場に戻って考えて欲しいと思う。 「現場百回」は「百戒」の意も含むのである。常軌を逸した何かが ”普通”の人のそれとは異なって行為者になければ、とりわけ今回のような幼い子供を刺し殺すなどという残 虐な行為に及ぶことはまさに”普通”は考えられないことなのである。 犠牲者や家族の方々には慰めること ばもないが、やはり、そういった行動を引き起こしたのは正常ではあり得ないとみるのが”普通”ではないだ ろうか。

事例2:海の向こうの大リーグ報道

野茂英雄氏の時もそうだったが、今年のイチロー (鈴木一朗) や新庄剛志両氏のアメリカ大リーグでの仕事の 連日の報道は目に余る。 見聞きしていてうんざりすることの典型である。 報道の責任や一般の人の強い関 心がそうさせているのではない。 意図的に取材と報道の拡大が行われ伝えられていることの代表例である。

アメリカ大リーグには多くの国からプレーヤーがやって来てベースボールを行う。 日本人だけが特別な 存在ではない。 米国のベースボールファンも特別に関心を持って見ていたはずもなく、日本からの取材やそ の取り上げ方から少し違った目で見るようになっていった結果がその注目の原因であるし、事情であろう。 野茂氏の例からもわかるとおり、はじめは物珍しさや慣れの不足もあってそれなりに取り上げるべき結果を出 したが、その後はじり貧であり、特段他のプレーヤーと変わったり図抜けた働きをしたわけではない。 まし てや、内野安打がやたらに多い (ようにみえる) イチロー (確かにいきなりアメリカに渡って打率首位にも立 ったことは素直に賞賛すべきだが) 特別視すべき理由はアメリカにも日本にも本来ないはずである。

スポーツ報道を糧としている者たちの欲に駆られた目的のある過剰報道である。 そして過剰反応の様態を呈 しているのは他にたくさん見るべきものがあるはずの、彼の国のベースボールファンである。彼らも日本の一 般視聴者も不幸である。

事例3:小泉人気

おそらく今の日本人にとっての最大の不幸は小泉純一郎氏の表舞台への登場とそれを支えている上滑りで何も 見ようとしない脳天気な人気に浮ついた雰囲気であろう。 7月12日に公示された参議院議員通常選挙で支 持が集まることになるとしたらこの国は危うい。 この三月 (みつき) での小泉首相の発言や実際の仕事に照 らして見る限り、本当に人気のでる真の改革者とは違っていると思えるからである。 自民党内では変人でも 社会的にみればいたって”普通”の人でむしろ巷に異常なあるいは変わりすぎた人たちが目立つくらいである 。

若い人たちを含めて、政治や政治家の所為言動に関心が高まったという報告が事実なら社会にとってはまず好 ましいことであるし、希望を抱かせることではある。 しかし、小泉氏の実際のことばの内容や考え方、行動 にその人気の原因があるとはどう考えてみても思えない。 彼のことばを本当にそのまま受けとめて考えたら 、そしてそれまでの諸事への対応をよく見たら、決してアイドルタレントやアーティストたちを見るかのよう な持ち上げ方をすることも寄り集まることもできないはずである。 かなり右よりの危険な発言、米国に対す る (というより追従する) なんとも情けない姿勢ーージェノバサミット前の20日の京都議定書に関する発言 は腹立たしいくらいに情けないものだったし何もわかっていない様子に悲しくなった(まだアメリカを引き込 めると言うお馬鹿なお言葉---テレビで見ていて『アホかこのオッサンは』と思った)、本当に多くの人たち の生活を考えているとは思えない格好だけの「処理」と「改革」を繰り返すなんの見通しも見えない姿、不安 や先立つ苦しみを覆い隠すうわべだけのことば...等々、人を惑わし騙す挙動振る舞い (パフォーマンスと人は いう) は人々の目を狂わせてしまったかのようである。 「変える」、「改革」ということばに過剰に反応し た不幸な人たちの姿が選挙演説への群がりから見えてくる。

真の改革者なら自民党からは出られないはずである。これまで長い間政治の中心を為してきたのは他ならぬ自 民党である。 「変える」のならまず自民党の解体を手始めに行うことであろう。 出直しではだめなのだ。 新規に始めることである。 本当は違う、そうではないとわかっていてもただ選挙で当選したいがためだけ に小泉氏を自民党総裁に選んだ者たちがこの瀕死の日本社会の仕組みを変えられる道理がない。 民衆が欺か れたのはどうしてだろうか。 マスメディアの、特にテレビ放送からのメッセージに事実をありのままに見つ める目と批判精神が欠けていることも一つの大きな要因だろう。 目くらましをされて小泉氏の言葉を考える ことができないでいてはこの先恐ろしいことになる。

♪♪”...... どうして、どうして、違うと知ってて ......”♪♪ (ファンタジー川村結花) 間違いを、誤 りをまた再び民衆は繰り返そうとするのだろうか。

事例4:兵庫県南部地震、あるいは”阪神大震災”(あとから無理矢理ごり押しで付けられた呼称)

話は6年前に後戻りするが、1995年1月15日に発生した都市部直下型の大規模な地震での過剰な報道と 取り扱いの特別さは今もまだ続いているようである。 地震災害の重大さはそこに居た人々の数や建築物の壊れ 方の多少で議論し評価すべきではない (地震災害の比較と考察--まだ作成中)。 ましてや、声の大きさや多さで対処対応を変えるべきものでもない。 また、苦しみや悲しみや難儀は人それ ぞれに異なり、その人にしかわからないことも多い。 マスメディアはこぞってその被害規模の大きさをこと さらに取り上げ、行政の対応を批判してきた。 神戸市やその近隣の人たちは特別に大きな被害に遭い、特別 に重い障害と傷害を背負わされたかのような反応を示したが、その様子は尻上がりの曲線であったように思う 。 どこか、作られたかのような、煽られたかのような声の上げ方だったように感じたのは私だけだったのだ ろうか。 どこか不自然な過ぎた反応であった。 この地震後である。 PTSD がとりわけ殊更に大きく取り上 げられたのは。

世界各国各地域で大地震は起きている。 兵庫県南部だけが特別でも人口密集域でもないし、揺れに対する恐 れおののきは多かれ少なかれ、大小問わず日本人をはじめ地震地域の人々は体験していることである。

事例5:オリンピック

世界一のスポーツの祭典としてオリンピックはもてはやされ騒ぎ立てられるのが近年の際だった傾向である。 不自然に競技者たちが美化されその「すばらしさ」が喧伝され賞賛を半ば強要される。 毎日毎日朝から晩 まで繰り返し放映されるテレビのオリンピック報道にうんざりしていたのは少数派ではなかったはずである。 お金をそんなことに使うことを正当化せんがためにスポーツの美点や秀逸さが強調されそれをテレビに映し だすためにこれまた多額のお金が使われる。 視聴者がそれを望んでいるかのように。 そして、それを受け た人々は半ば当然視して従いテレビ局の悪のりの過ぎた意図された放送に反応してきた。 しかし終われば皆 忘れるのである。

事例6:映画と演劇

特に都市部の住民に見られる映画や演劇への群がりは見聞きするたびに気持ち悪くなることのひとつである。 同じようなことが起こり繰り返されているように思える社会であっても、一つ一つは実際には違うのである 。 原因もそしてその結果もその過程も異なる。 受け取り方も感じ方もことなるのが当たり前である。 な のに、である。 同じ映画や演劇を鑑賞と称して受動的に時には何度も見て同じような感想を抱いたかのよう に述べ、同じような場所や所作に同じように反応したりするのである。 ある人たちはそれを感動だとか共鳴 だとか言う。 制作者作者の意図をメッセージとして受け取りそれをその主張や主題だといって声高に叫んだ りする。 あの演技はすばらしかったとか何とか言って感心したり共感したりすることが共有する体験や精神 のすばらしさだとかいう。 完全に洗脳されていて足繁く通う客もいたりする。

恐ろしくも愚かしく悲しむべきことに、大阪市内にこの春多額のお金と地面を使って建設された「ユニバーサル ・スタジオ・ジャパン」とかいうおかしな場所に赴く人たちがいる。 人為的作為的に作られ演出された造り 物の場所と見せ物に楽しみを見いだすことに疑問を感じなくなってしまっている哀れな人たちの心象風景はど んなものなのだろうか。 ハリウッド映画の格好の収益源としか見なされていない (はっきり言ってばかにさ れている) のに、提供されるものを無批判に受け入れるばかりか、こともあろうに、場所や資金や人力までも 喜んで提供している。 そこに疑いを差し挟むことがないのは恐ろしくも悲惨な現実である。

そして.....

何かおかしい、何か変だ、どうして繰り返され押しつけられるのか、などといった感覚は圧倒的な伝達 (媒体) によって封じられ黙殺される。 ただ黙って受け取ればいい、文句は言うな、そんな電波の力にどう対抗して いけばよいのか、抵抗手段、拒否のこちらからの伝達はないのか。 過剰反応を引き起こさないようにするには どうすればよいのか。 まず同じ映画を同じ場所に寄り集まって見つめるような姿勢から改めなければなにも 変わらないだろう。 変革を叫ぶだけのお馬鹿な為政者に騙されないだけの感覚を取り戻すために。


新潟県刈羽村の選択と原子力政策
2001.6.3
6月3日17時30分からの毎日放送の報道特集(実際は TBS制作)で後半取り上げられ た去る5月27日の新潟県刈羽村の東京電力柏崎刈羽原子力発電所3号機でのプルサー マル計画導入の賛否を問う住民投票で導入反対が過半数を超えるに至った事情と結 果は興味深いものであったと共に地方自治体の判断や施策について大いに考えさせ られるものであった。

民意

最大の問題の一つは、品田村長が判断を先送りしたことであり、それについての言 である。『...私は、民意いうものは生き物であると考えており、...』というとこ ろはいかにも曖昧で都合のいいようにもっていくための方便のように思われる。反 対派の人たちに言わせれば、ずるい、という。実際、この後の説明や「理解」を求 める説得工作によって変えていけばよい、それで変わったなら、それを「民意」と して使えばよい、という論理であるが、それはまさに「民意」を踏みにじるもので あろう。そういったことをいいだせばきりがないしどうにでも勝手気ままに都合の よいように物事を変えて決められる。決定権を持った人物のその時点での判断はそ の責任をも含めて示されずまた示さずとも、その時々の民意に依ったのだ、として 寄りかかり、事態の責任を回避し転嫁する極めてずる賢い方策となる。こういった ことは言いだし始めるとどうにでもなる。重要な決定や投票が変わりうる実在とし て使われるのである。それでは、どう決めようとどう結果が現れようと、その時点 での判断は変わりうるのだからそれに依存して決める必要は全くない、などという 奇妙な論理により正当化されてしまう。いうまでもなく、これは全くの誤りなので ある。

強引な強要としての国策

国策としての原子力政策の問題はその強引な強要であろう。そこには選択肢として なにもしない(No Action) が含まれた政策遂行の過程が見えない。これは最大の問 題である。なんとなれば、ただ遂行推進あるのみ、の姿勢で立っていることに決定 的誤謬があるからである。本来「理解」などというものは、その合理性や自然な正 当性があって初めて始められるものなのである。当初からそのようにただ推進する のみの中に科学的な検討、公平な理解は為されていない。将来に対する展望が不十 分なまま出発していたがために今回のプルサーマル計画の推進がその「必然」とし て生み出されているのである。これも、いうまでもなく、おかしい。順序としても 先にあるべき充分な選択肢の検討とエネルギー政策の展開の議論がなかった。それ にもまして、エネルギー供給は増大させるもの、需要が増大するもの、といういわ ずもがなの了解を元にしていたのである。1973年の石油危機でも叫ばれていた消費 の削減や省エネルギーの話はいつの間にかないがしろにされ、どんどん拡大してき た。その過程において大量の二次エネルギーとしての電力を供給するために後先の ことを考えずに原子炉を増やしてきた。後処理に困る核廃棄物の処理は後手後手に 回っている。この先どうするつもりだろうか。最近注目されている小規模分散設置 の発電設備など、特に近年研究が進んできている燃料電池などを原子炉建設に先立 っては考えてこなかった。しかし、今からでも遅くはない。いい加減に強要政策は やめにして転換を図らなければ、ますます小資源小国のこの日本は困ることになる と思うのである。

JCOの臨界事故

1999年 9月30日に起こった茨城県東海村のJCOの臨界事故の恐怖は日本中に改め て核分裂を元にした発電方法の危険性を知らしめた。これ以来、とりわけ原子力発 電所立地地域の住民にどう考えるべきかが身近で課題となってきたように思われる 。それと共に、その住民の直接選挙で選出される自治体の首長の判断と責任が問わ れ手前勝手な決定がいかに重大な結果をもたらすかがわかってきた。首長の決定は 独断的に為されてはならない類のものだということである。つまり、首長の個人的 な見解で一方的にされてはいけないのである。過疎地域の立地市町村にとり働き口 としての重要性がある一方、その見えない恐怖は常に生活と隣り合わせである。仕 事が欲しいからといって安易に原子炉を求めてはならない。自治体も交付金に目を 眩ませてはならないのである。ひとたび事故が起きれば直接降りかかり、生命を脅 かされることを一昨年に学んだはずである。

自治体の施策

立地自治体は交付金や立地操業による税金でやたらに箱物を造りたがる。これは困 りものである。刈羽村ではどうしてかそれで建築計画とは違うものを造って差額を 懐に入れた者たちがいるようである(ラピカ問題)。施設設備、道路などの設置整備 は確かに重要であるが、それにも程があるし、環境との調和も問題である。小さな 町や村に立派すぎる施設はいらないし、走りもしない自動車のために幅の広い道路 もいらない。その町村独自の景観や風景にそぐわない施設整備などは有害である。 本当に必要とされている施策とは何か、何のために税金を集めるのか、仮に道路や 大きな建物を造る場合、事前の環境影響評価を充分したか、その際、造らないとい う選択肢を加えて考えたか、など、お金の使い道は疑問だらけである。金太郎飴の ような町や村が全国に増えて地方の特色が消えていきつつある現在、もし原子力発 電所を受け入れてしまったなら、その結果をもっと有効に活用すべきなのである。 米百俵の故事(越後)ではないけれど、心から豊かに暮らせるような充実した田舎の 町村を作り上げるべく熟慮すべきである。充分に議論を行い必然性や必要性を検討 すべきである。住んでいてよかった、たとえ原子炉が近くにあっても生きていてよ かった、と思えるような環境の保持整備に努めるべきなのである。行政は必要最小 限の施設設備で最大の効果をもたらすように施策を行うことである。立派すぎる箱 物はもういらない。持続可能で継続可能な方法に視点を移し、百年の計を立てて行 うことである。単一年度で交付金や税金が余るのなら蓄えて備えるべきである。何 もしない、という選択は行政一般にも言えることなのである。

再度、民意

再度、刈羽村の品田宏夫村長の 5月28日の発言に戻る。これは極めて重大な問題で あるからである。その時々において為される決定はその時の判断による。これはい ままでの積み重ねの賜なのであり、それまでの時点において為された判断を凌ぐ類 のものである。これには各種選挙も含まれる。選挙も「民意」により投票が行われ 首長や議員が決定される。これをもし「民意」は変わるものだから...などとやった ら、その選出自体が無効ということになる。また、議会での決定も同様である。そ のときどきの決定がその時点でのその議会の最良の選択であり、判断である。同じ く変わり得るものだから... などとやり始めたら収拾がつかなくなる。 過去において為された決定や判断がそのときの選択であり、それを『民意は生き物 だから... 』などとしたらすべてが決まらなくなる。そしてすべてが誤りとみなさ れることになるのである。そのときどきの最終決定・判断を下すべき人物がその私 見にそぐわないからといって、都合のいいような結果を求めて先送りするなどとい うのはその人物自身の決定・判断をも否定することになるのは自明である。つまり 自己矛盾を抱えていることになる。この意味で、先送りにして『民意は生き物』と 平然とのたまうのは誤りなのである。

およそすべては変わりうる類のものである。絶対的な時間の一時点やその時の結果 などというものはない。あるのは時間の経過のなかであるべき結果なのである。こ れを否定してなお定まらない未来に結果を委ねるなどというのは永久に定まりの来 ない歴史を描いているようなものであろう。そのときどきの「民意」に従い、決定 や判断を下す、それが自己決定の基本である。それでこそ「民意」に従い選ばれた 責任者(多くは首長)の為すべきことである。そうすれば、自己矛盾を抱えなくてす む。刈羽村の品田宏夫村長はその判断を改めるべきである。


選択の誤り
2001.2.14
先月1月から福井新聞1面に連載されていた『ふくい彩る個の冒険・第一部 自立する生き方』の中で1月20日〜1月23日の4回を読み疑問を感じるとともに「選択の誤り」と「贅沢な 選択」を感じさせられた。

(16) (1月20日) 非法律婚選ぶーー互いの生き方を尊重ーーでは婚姻届は出さずに”報告”と”新婚 旅行”(つまり婚前旅行) をして「仕事上の問題」から「通い婚」となっていて、『内縁関係でもなく社会的に不 安定な間柄』なのだという。

(17) (1月21日) 結婚より今は仕事ーー揺れる思い 夢を選択ーーでは恋愛や結婚より仕事を選びそこに喜びを見い だしている人。

(18) (1月22日) 女性オーナーーー男性中心に反発、転身ーーでは仕事の内容への不満から退職してワインバーの オーナー(店主、持ち主)となった例。

(19) (1月23日) 天職求めてーー勤め辞め資格に挑戦ーーでは大学の専攻を生かすつもりで入った小児科医院を事 務的な仕事の多さから辞めて作業療法士になろうと年間100万円もの大金を取られながら専門学校に通うという 選択をした。

どの例も若さが根底にあり、本当に先々や人生を考えたのではできない選択をしている。どれも、仕事 を選べる環境にあった、という贅沢ななかでの行動である。現実に選択はそういった恵まれた地域、特に中規模以上 の都市域に限定される。私など、田舎に引っ込んだがために、大学での専攻である化学は全く生かされなかったし、 今後もその見込みはない。せいぜい趣味として細々とやる程度以外にないのであるが、いずれの例の女性 (例はすべ て女性) 自らの希望を生かせる地域と機会に恵まれていたのである。資格さえ取れば、仕事さえあれば先の生活上の 問題はないから、と突き進んでいるように思える。
けれど、どこかおかしい。初めから、すでにある社会の、とりわけ地域社会の仕組みと構成に自らを当てはめてそこ に身を置くことで希望や願いが叶う、そんな湯の中の泳ぎである。

(16) の例は一緒に住む (共有する) 時間が一週間に一日ほどというだけで、事実上は内縁関係である。非法律婚な どという言葉を弄してみても、民法上の婚姻でなければそれは内縁である。ちょうど、売春を援助交際などとおかし ないいかたでいいかえてさも正当化できたかのような顔をしている女子中高生と同じである。「経済的に自立」して いようといまいと共有し合う生活を持ちながら氏をどちらかに同じくせずその届けを出さなければ社会的には婚姻関 係にないのだから内縁関係なのである。どういおうとも。
社会が成り立ち得るのは家族の個々のしっかりした存在があるからである。家族を構成するのは互いに認め合い共有 し合う価値を実生活を持つことのできる婚姻による。その婚姻は、善積京子追手門学院大学教授の言うような「拘束 的」関係ではない。「対等な関係」は婚姻の基本的成立要件であり、「役割意識からの解放」は二人が共同生活をた とえ週一日であろうと持てばあり得ない。また、結婚は「制度」ではなく、基本的な社会の構成要因である。基礎で ある。太古の昔から必要とされるつがいの仕組みを人間社会が持ち得た基礎的形態である。互いに伴侶を得て生活す るということは今までの生き方は崩れ再構成を余儀なくさせる。それは必然的な事実である。
「互いの生き方を尊重する」からこそ結婚は成り立つのである。仕事を優先させて婚姻届を出さない、というのは本 末転倒であるし、結婚できなくて悩んでいる男女に対する侮蔑である。そして何より、社会に対して甘えたある意味 で贅沢な行為である。
夫婦別姓は社会をその基本から壊してしまう。

(17) には不安を感じてしまう。新しい家族をつくることもなくただ仕事に、しかも、いってはなんであるが (語弊が あるが) 結局は人の頭をいじくるだけの作業に人生をかけてよいのか。いまは楽しいと感じていても、余裕と思考の 機会が増えるにつれて疑問と不安を感じるようになるはずである。自らの存在が社会的に必要なのはその基本的構成 要素の一つとしての先の別の家族の構成という要請があるからである。自らそれを放棄してはこれからの社会は成り 立たない。仕事はあくまで、生活の糧を得るための一手段に過ぎないのである。
東京学芸大学の山田昌弘助教授のいう「好きになる相手と生活するのにふさわしい相手は必ずしも一致しないし多く の人と出会うほど選ぶ基準は高くなっていく」という見方はあまりに表層的で誤りである。本来、好き (になれそう ) だから結婚するのであり、生活することにふさわしいも何もない。生活すると言うことは互いに価値を認め合って 変えていくことである。そこに小さいけれど互いの進歩と前進がある。社会的な地位や仕事で人は選び結婚するので はない。物や何かを選び捨てていくように人間は選べない。婚姻が成り立つ条件に今も昔も古いも新しいもないので ある。ただ、互いを見つめ合い対等に存在する相手を認め合うところに出発点がある。結婚に対するおかしな (前時 代的な) 誤解がそう言わせているのだろう。
生活を変えられないと嘆くよりも、もし自分自身を進歩させ向上させたいならば、生活を新たに構築していくことに 本当の喜びを見いだしてほしいと思う。社会の進歩はそこから始まる。

(18) は私から見ると、羨ましいの一語に尽きる。希望する職を選べた上に可能性はいくらもあったはずである。少 しの時間で、また従来からの環境に当てはめてみるだけでやめてしまったのは明らかに誤りだったと思うのである。 変えていくための試みをして欲しかった。今は法律も不充分とはいえ一応あり (男女雇用機会均等法) 社会的にもそ の方向で動いている。男女が互いに認めあい社会を形成していくときにその意識の有無は重要である。対等な環境を 望むならそれを進めていく一助になってほしかった。現状ではないから辞める、では受け身すぎるし、何も変わらな い。男女差をなくし、仕事をより多くの人たちに分かち合えるようにし、対等にしかも超過時間 (いわゆる残業) な く働けるような職場を構成していかなければならない。その (変革の) 役割の一旦を担ってほしかった。ワインバー 店主 (持ち主) は確かにそれも自立していて恵まれているかもしれないが、転身というより社会の片隅のしがない一 員の隠居にしか見えない、といったら言い過ぎであろうか。

(19) はまさに贅沢の極みである。年間100万円 (私の大学時代なら生活費もすべて込みでなおお釣りがでる) も かけてすることだろうか。そもそも、本当に「医療技術」の修得に3年もかけて300万円もかかるだろうか。日本 はあまりに必要以上にやたら”経費”や”コスト”がかかりすぎると常々思っている。医師になるのならともかく、 いわば補助的な業務の存立のためにまで多額の「学費」を求める日本の社会の仕組みがおかしい。これは本筋から離 れることかもしれないが... 。 本来資格は必要な技能の認定にすぎない。それが「挑戦」の対象になるというのは はなはだ奇妙でおかしい。
仕事を選ぶのは自分に向いている (適している) かどうか、そのための基礎があるかどうかだと思う。また、選べる のはいうまでもなくそれだけの選択環境があるからである。しかし、田舎にはそれがない。私など選びたくても選べ ない。ただあるものから消去法でつまんでいるにすぎない。だからこそ、それなりに先はその専門知識を生かせたか もしれない職場を離れてまた多額の金銭と時間を費やすことなど贅沢の極みである、と思うのである。
「自分も働くことで夫と対等にやっていける」という考え方は間違いである。専業主婦であろうと、不幸にして寝た きりになろうと、互いに対等であるのが家族をつくる結婚である。それを理解しない、認識しない片われは去るべき であろう。
仕事に「天職」はない。『これだ、この仕事だ』、『これや、これをやろう』というのは幻想である。一時の気の迷 いである。その「一時」が長いか短いかの人による違いだけである。あくまで、仕事とは、生きていくための手段に すぎないのである。それを見誤ったら何も残らない。

自立する生き方、とは何だろうか。経済的依存性をなくすことだろうか。もとより、依存関係にない仕事も生活もあ り得ない。互いにどこかですべてのものが関連しあっている。一部を切り出して無関係な場所に置く、ということは できないのである。そもそもそんな場所は宇宙のどこにもないのである。だからこそ、自立とはその内包的意味から 、精神的な自己認識の確立にある、といえるのである。そこから、互いを認め合い、あるいは互いに助け合い協力し 合い補完しあえる関係を築くことができる。


いじめの肯定と受容
2001.1.14
社会的受容

いじめは広範化、陰湿化、そして深刻化しているが、その最たる 原因は私たちの社会がそれを受容しているからに他ならない。個別のケース (事例) で止めさせる工夫を試みても それはそれだけに留まることがほとんどである。そして社会はそれと向き合うことを避けている。いじめが起きな されることを社会的に受容しているからである。

しばしばいじめの加害行為の原因 (遠因) を競争社会に求める。そしてその競争は社会的に否定されないため解決 の方途を疑問符付きで棚上げにしている。社会の中の競争の結果にある価値の追求を主因として求め続けているの である。これはいうまでもなく逃げの姿勢であり種々の意味での競争の存在は不可避であるがためにそのいじめを 許容しているのである。『そういうこともある』『それも社会の一面なのだ』といったことばで代表されるように それを受け入れるという実際上の弱さが各人にあり、それを不満やストレスの一種のはけ口として受け入れてしま っているのである。競争に付随する妬みや嫉み、嫉妬、の結果として為される陰湿きわまりない嫌がらせや足を引 っ張り引きずりおろそうとする行為もまたその一部である。

子供の頃からの競争に原因を求めるのはもちろん完全な誤りである。本質から目をそらし自分の内面と向き合うこ とを避けて他人のせい (社会やその仕組みのせい) にして知らん顔を決め込んでいるのである。そして生じる理不 尽さや不条理を当然の結果として受容する。そこには解決も根絶も望めない。またそれ故のいじめの正当化も当然 ながら許されないことである。

同質と異質

最もよく議論されることは日本(人)社会の同質性であろう。横並びをよしとし はみ出しや突出を許さない、許容しないという心性が私たちの多くにある、という。これはけだし真理であるが、 すべてではない。ただ最も理解しやすく説得力もあるのは事実である。問題なのは上への突出や右へのはみ出しでは ない。それらも多くの場合妬み嫉みなどと結びついていじめの「正当な」理由となって誹謗中傷や無視、つまはじき の対象とされるし、深刻な事態に到ることもままあることである。しかし、その対象となったかれらは生来抵抗力や 反発力、弾力があり、それらを呼び覚まさせてやることでなにがしかの (逃避や回避を含めて) 解決方法を見いだす ことは可能である(と信じる)。

一番深刻で救いの必要なのは今も昔も東も西も、おいてけぼりをくったり落ちこぼれたりする「平均」や「並」にな れない底辺の範疇に入れられる人たちである。横並びに入れるための叱咤激励や「努力」の強要もされる側には著し い苦痛なのである。同じようにやれば、あるいは「人一倍の」「努力」をすれば「同じ」になれる、として為される 種々の強要はその人の本来持っている個性や特徴や自尊心、自己同一性 (アイデンティティ, identity) をも破壊す る。多くの者たちからの強要が強ければ強いほど自らを失い生きる自信や気力さえ喪失させてしまう。自殺にまで至 るのは大きな声、繰り返される声によって自身を悪いと思いこみ、いっしょにやれない、なれないことの「責任」を 自らの中に無理強いして置いてしまうところにあるのである。声を上げる側、叱咤激励する側の者たちはそんな心理 を思いやることはもちろん、元々対等な存在として見ていないことが通例である。ある水準 (レベル) まで持ち上げ て維持することを当然視しているが、これは根本的に誤りなのである。

何かにつけてどこか違う、何か異なっている、方向が逆だ、といった、いわゆる異質な性向を示す人もまたつまはじ きや無視の対象とされる。すること為すことが変わっている、あるいはもっと簡単に、着ている衣服が「ちょっと」 違う、同じ所為作業なのに順番が違うが結局はできていてしかも「並」とは違う上に良い、といった人たちもまた狙 われる。本来人は個々別々であり異なった環境にあり価値観も感じ方も異なっているのが当たり前なのだということ を心から認識していない。集団性の強要や団結の美徳化は最たる過ちであろう。逆に聞こえるかもしれないが、流行 に染まらない、いわゆる「個性的なファッション」を追わない、古いものに従ったり頑固だったりする若い人たちも また異質な存在として疎んじられたり友達の中に入れてもらえなかったりする。お金を主としての余裕のなさや自己 主張の否定につながる行為を避けるなどの理由から従わないのにそれをいじめの理由としたりするのである。同質化 の進行した集団においては、突然の転入生も格好の標的にされてしまうのである。

日本人は一般に同質性を重んじる心性を持っている、というのは歴史的にも誤りである。そもそも日本の社会は同質 的集団ではなかったのであり、日本人という単一民族の同質社会がずっと続いてきたわけではなかったからである。 同質性すら、さまざまに強要され続けてきた結果である、というのは歴史的事実であり、現実にいじめの存在こそが 同質社会ではないことの痛ましい証拠なのである。

傍観的態度

前々回前回 に書いたように、傍観者、観客の存在がいじめを助長し固定化させる。見て見ぬふり、がいちばん悪いのである。 認識しているからこそ、 (直接の) 加害行為をやめさせることが可能なのであり、しかも圧倒的多数の力がものをい うはずである。それができない、成功していないのは、個々の存在の希薄さと結びつきの弱さであり、互いに手を携 えていけない弱さによる。それどころか、直接の加害者の味方についてしまう。本当の勇気や自己を持たないからで ある。誰かが声を上げた、あからさまでもこっそりとでもよい、そんな声が上がったらそこに集まり連帯する、そう いう真の集団意識や団結心が欠けているのである。一人では弱すぎて何もできない、逆に同じ目に遭わされる、なら ば団結すればよい。いじめが異質な存在なのにその「異質性」をなくそうとしない、そこに同質性を理由づけるのは 矛盾しているのである。

誰もが自己の存在を自己認識として持っている。それを強いものにしていくことはまた他者を認めることでもある。 その過程は傍観者的態度を許さないはずであり、真の勇気を見いだすもととなっていくはずである。いじめを受容し ないためには個々の存在の再認識が必要である。

肯定されるいじめ

私たちの社会でいじめを普遍化させているのは同列に歩むことに必ず付随し ている違いを否定することと不満のはけ口としてのいじめの進行を不可避なこととして当然視している心理を否定し ない互いの関係と集団性であろう。これはしかし集団の向上も社会の発展も阻害する。いじめが起こるのは必然的だ とか当然の成り行きだとかいって異質な人たちや弱い人たちの存在を肯定する。平均的であるが故に安住の地がある と思いこんでいる者たちはその位置を守るために違ったものを排撃する。醜いもの、汚れたもの (穢れ) としての排 撃を行うのは古来、権力者や為政者の支配とその強化のための常套手段であった。いじめの肯定は安住者の存在に必 要だから大人にまで厳然と存在し残り続けているのである。

若い人たちに希望を持ちたい。いじめを大人よりも強く確かに認識しているから、何かのきっかけやよすががあれば 連帯可能だからである。多種多様な存在こそが社会であり、その存在こそが社会を作り上げていくのだということを 誰もが認識していってほしい。


いじめの理由と正当化
2000.11.5 / 11.11 加筆 / 11.30 修正
〜ある投書〜

中日新聞の『発言』欄(面)に掲載されたある発言は高校生の いじめに対する意識の低さと情けない心性を教えてくれるものだった。それは、

先日、わが高校の 「いじめ」についてのアンケートで驚くべき結果がでた。「いじめられる側にも問題がある」という意見が多数 を占めたのだ。私は言いたい。百パーセントいじめられる側が悪くても「いじめ」という方法で解決するな。そ んな弱い人間になるな。
(愛知県のある女子高校生)
というものである。発言者の女子高校生が書いているごとく、いうまでもなくいじめは正当化され るものではない。『いじめられる側にも問題がある』というのはいじめという卑劣な行為の正当化のための理由 付けに他ならない。もし本当に何か気に触る点があるのなら、面と向かって一対一で話し合い互いに考えればす むことである。よくいわれるように、いじめの対象とされる者は多くの点・面で「弱い」人たちであり、それを よいことに何人もよってたかっていじめることなど、まさに「弱い」人間の卑劣で卑怯な自己の醜さの転嫁の正 当化に違いないのである。

また、いじめる側の者たち、悪い面(問題)がいじめられる側にあるのだと言う側、にはなんの問題もないのだ ろうか。一方的に悪いと決めつけて判じうる正当で合理的な事由がそこにあるのだろうか。醜さ、弱さの裏返し に行った所為や言動に残る後ろめたさを解決せんがための理由付けに自らを省みることや見直すこと、自らに対 峙して考えることを否定しただ行為を当然のことと無理矢理しようとした結果でしかないのではないか。弱い人 間だ、悪いのだ、とさげすみ平然としている側の方がはるかに汚く小さく弱い人間なのである。そういう人間に 限って、暴力や圧力に屈服してひれ伏したり追従したりして自分の弱さを隠し威を借る人間になりがちである。 そんな弱い人間になるな、というこの女子高校生の主張は全く正当である。

ただ、仮定的に記された「百パーセントいじめられる側が悪くても」には賛成できない。上述のごとく、そうい った判断自体、公正で衡平な議論を徹底的にすることなしには決められないし、その結果として、絶対的に正し いともまたいえないのである。知りうるのはごく限られた状況と主張のみであり、ましてや力をふるう側が、し かも陰湿で卑劣な手段をもってして当たる側が一方的に判断し主張できることではないのである。何よりも、い じめという”形態”をとるところにすでにその行為者たちの悪意と弱さが内在的に存するが故に、いじめられる 側の「落ち度」や「失敗」や「嫌われる理由」などをそのいじめの正当化の理由とはなし得ないのである。そん な権利は元からない。

いじめの理由ときっかけ

自分のいたらなさ、考えの足りなさ、不注意などから生じたり 生じる自分自身の失敗や過ちや誤りはしばしばその人の反省の中にその理由を本来的に見いだすことなく他者の せいにされる。自分の力不足や勘違いさえも他人の責に帰すべきものとして考えてしまう。これは人間の弱さで ある。そしてそれを目に見える形で明確にしておくことで自分の気分的落ち込みや後退感や鬱屈感などを避けよ うとする。これは他者に投影されても自分のこととしては決して捉えない(ようにする)。これがより力の弱い 、あるいは抵抗力の弱い人間へ向けられる攻撃の大きな部分を占める要因である。そういった者たちは心の中で 常に自分よりも種々の面で「弱い」人間を捜し求めている。

誰かがたまたま見つけて攻撃 (いうまでもなく陰湿で卑怯な行為による) を加えたとする。それを見逃さない、 実質的にもっと「弱い」卑怯な人間である前期の者たちはよこしまな (wicked) 感情をもって自身の醜さを覆い 隠しいっしょになって攻撃を加え始めるのである。これは意外に賛同者を得やすい。一度広がり始めると充分す ぎるほどのその集団への浸透と深化を見せ始めるのである。そうなるとことは常態化し「正当な」行為として、 先にあげた投書のアンケートではないが、『いじめられる側にも問題がある』ために続けられることになるので ある。疑問や躊躇を感じてはいても他に従い自身の傷つくのを恐れ攻撃側に回るのである。

たまたま見つける「きっかけ」は何でもよい。何か目立つことならなおよい。なんとなくいやだな、と思わせる ものなら非常によいのであるが、それは結局のところ攻撃する加害者のある側面であることがほとんどである。 自分たち自身のいやな面を加害行為の中に返して見ているのである。だからこそ、いじめられる側が悪い、とい う感情や感覚を抱くことになるのである。そう、誰しも多くの側面を持ち、それらすべてが好ましくもないし人 によい印象を与えるものであるはずもない。他人と合致しない、共通しないのはむしろ当たり前である。ただそ うせんがために、その行為を理由あるものとして認め正当化したいがために、ことさら『問題がある』側面を見 いだしことさらにあげつらうのである。これがいじめの「きっかけ」となり理由となるのである。

正当化

いじめはその性質故に、被害者のたった一度の失敗や過ちや誤りやことばの不足、言ったけど聞こえなかった、 届かなかったがために起こる。いや、起こされる。これは子供たちの世界に留まらない。高校生を越えて、大学 から大人の社会ではそれを致命的な過誤と見なして排撃の対象とされる。もちろん、過誤とはは犯罪行為のこと ではない。ごく日常的で卑近な事象の中に現れた過ちや誤りや思い違いをその「きっかけ」として理由付けする のである。たった一度の行為や言動の手違いや不行き届きで、その人は決定的に悪く、他者より低位のもの、別 のものとして決めつけられ排除される。おぞましいことばだが、「仲間」には入れられず、不満のはけ口とされ るのである。そう、それこそがいじめの正当化なのである。正当化のためには、たった一度の過ちで充分なので ある。

一旦始まると、他の多くが否定的感情の対象となり変わる。やることなすことすべてが、他者にとりうっとおし いもの、いやなものとして彼ら自身のいやな面を重ね合わせながら否定されていく。そして、それらを破壊する 行為が進行するのである。よく言われるように、『大したことのない』『軽微で』『ささいな』『とるに足らな い』ことが多いと見なされている行為だが、それらはすべからく陰湿で執拗で反復的で冷酷である。始められる とその行為者はその結果はもちろん、行為そのものに何も感じなくなる。不満が解消されて「いやな」面が打ち 砕かれていくのだからこれは快感である。被害者にとりこれほどつらく傷つき痛むものはない。自分のあらゆる 面が否定と破壊の対象となるからである。仕上げはさらに、持っている物も良い面も成果も他の世界での種々の 関係さえも奪うことである。剥奪されて残るものはあるだろうか。ぼろぼろになったみじめな雑巾のような人間 である。加害者にその死へ至る道筋を消す者はいない。

現象論的定義と症状

11月11日土曜日の18:30〜19:10の「真剣10代しゃべり場」 (NHK教育テレビ) で『いじめの定義 とは』と題して10代の男女が語り合っていた。その発言を通じて為されたいじめの定義付けの試みに見られる のは、

・他者を、特に何かしら違った者を認めないこと、
・頭(心)の中での弱者に対する (されて仕方のない面があるという) 決めつけ、
・被害者にはそうされる、あるいはそうされて仕方のないところがあるのだ、という理由付け、
・ぶつかり合う、向かい合う向き合うことを避ける (友人・対人) 関係から生まれる、
・違いを避けてはずれたりすることを嫌うというような「いい関係」でいたいから起きる、
・はずれることの恐れ・怖さの相乗効果、
といったところであった。真剣な10代の彼らはそれなりによく捉えていると思う。それをこれ から実際に生かしていってほしいと強く思うが、現実の場面で行動することは簡単ではない。しかし、真剣に 話し合える彼らには希望を持った。

善し悪しの判断と問題の解決

人間の行動様式はさまざまであり、様式ということばで類型化されるところのものは代表的パターンの抽出にす ぎない。善悪の判断は社会的に成長の過程などにおいて習得 (あるいは修得) していくものであり、誰かの一方 的な判断や決めつけで為されるものではない。ましてや、いじめになるような側の「問題」は現実には問題とさ れうるのかどうか疑問を感じさせるものがほとんどであり、「百パーセント悪い」ことなどあり得ない。例外な くその原因は先述のごとく加害行為を平然とされる方が悪いとして行う側の内面にある。彼ら自身は完璧な善人 なのであろうか。または、ふつうの、あたりまえの感覚をもった標準的な人間なのであろうか。善人なら悪人を どんな陰湿な手段を使ってでも排撃してよいのだろうか。真の善人はそれを許さない。ことの善し悪しは一元的 には決められるものではあり得ないし、元来絶対的なことなどはないのは自然の摂理である。科学的にも事実で ある。ひどい行為を (ささいなことではあっても) する人間に他者を裁く資格も権利もない。自身を振り返って みることなしにどうして他人を見つめることができようか。

対人関係の問題の解決は第一義的に当人同士の公平で対等な話し合いに依らなければならない。はじめから好ま しくないという一方的感覚でもって決めつけ陰湿で卑劣な行為でもってまるで”懲らしめる”かのように (何様 か) いじめることに正当性などあり得ない。「百パーセント悪い」のはたとえ何百人いようともいじめの加害者 である。『そんな弱い人間になるな』 という女子高校生の結語と主張はけだし、正当である。


いじめと犯罪の帰されるところ
2000.8.30 初稿 / 9.7 改稿
『わたしは / ぼくは おもちゃじゃない!』、『わたしは / ぼくは 不満のはけ口じゃない!』、 『わたしは / ぼくは 実験動物じゃない!』等々の叫びを声に出せればよいのだが、多く (というよりほとんど) のいじめの被害者は心の内でそう叫んでいる。叫んでも誰も聞いてくれない。誰も救ってはくれない。相談しよう ものなら逆にもっとひどいめにあうか相談した者にひどいことを言われたりまともに取り合って貰えなかったりす る。さらには逆に『おまえが / あなたが 悪いからだろう』などと疑われ責められて、もっとひどいことに、周囲 の者たちを使っていっそうひどいめにあわせられたりする。その生き地獄の中で悩み苦しみながら、勇気を持って 死を選ぶ、そんな人たちが社会の底辺に存在している。経済的な階層よりも本質的で言いようのない、しかし人々 には明確に区別される支配・強弱・優劣の階層の最底辺なのである。

いじめる側は心の痛みなど感じない。自分 (たち) とは 「違う」 からと明確に区別し排撃を加えるのである。理 由はいうまでもなく加害行為者の心の醜さである。自分 (たち) にとって好ましからざる面が (必ずしも明確では ない) あればそれを 「正当な」 理由として攻撃の手を加える。最終的には目に入らない場所へ陥めればよいので ある。あるいは、日常の不満のはけ口としての生きたおもちゃとして近くにおいておく。そして、いろいろと苦悶 する様子を見て楽しむわけである。鍛えるためだとか強くするためだとか一人前にするためだとかいった 「口実」 もふんだんに使われる。そしてさらなる手だて (言葉による暴力がかなり多い) の実験としてつかうので ある。人がものごとを行う上で一番の妨げは周りや近くの「人」の口、話し声だからである。もちろん、「口実」 と「過失」「落ち度」とは違う。

子供の世界も中高生も大学生でも大人においても基本的に様態は変わりがない。根が同じだからである。

組み込みの構図

誰が対象とされるか。基本的にはだれでもよいのであるが、狙われやすいのは「違った」面を見せることの多い人 間である。一番入りやすいのは、優劣の差の明確な場合であるが、見かけ上何も目立たなくてもまた標的とされる こともかなりある。ちょっとした 「落ち度」 や 「失敗」 で充分なのである。もちろん、誰であっても、人権を 蹂躙されてよい 「落ち度」 や 「過失」 などありはしない。当初から、そうすることを目的としてさがすのであ る。ちょっと目に付くことでよいのである。それが悪意の引き金となる。

いったん決まると、言葉による辱めや中傷・誹謗が始まる。悪意の張本人よりもそのとりまきから始まることが多 い。それでおどおどしたりびくびくしたり気にかける様子が見られたら、次に身体的ないじめに移るのが子供の世 界では多い。大人の場合は、日常の使用品の隠匿、毀棄、明白な破壊などをしばしば行い、足を引っかけたりわざ とぶつかって見下ろしたりする。もちろん、陰険な目つきで薄ら笑いを浮かべることを必ず伴う。背後から物を投 げつけることは常套手段である。そういった 「ちょっとした」 嫌がらせが一日に何回もなされ、毎日続 く。これは他の協力者を呼び込む手段でもある。

協力者ができるといじめの浸透と広がりは早い。こそこそと裏で広がる。まともに口をきかない、知らんふりをす る、前述の嫌がらせを時々織り交ぜる、といった形で瞬く間に協力者は増える。急速に増えるのは、助け たりかばったりすると同様の目にあうことがわかっているからである。何よりも、その協力者に巣くう小さな悪意 を巧みに膨れ上がらせることにあり、悪意の方が善意より強いことをいやがうえにも知らしめることになる。小さ な不満は悪意に変わり、自分 (たち) より弱い者への排撃行為として現れるのである。被害者の 「弱さ」 はそれ を気にかけていくことにある。そこを加害者は狙い畳みかけるのである。そこで中心的な役割を担うのが協力者な のである。黙認するだけでも充分である。いや、それこそが重要で不可欠である。

いじめの構造の中心的枠組みはぞくっとする恐怖心である。黙従も含め、従わないと似たような状況に陥らされる という強迫観念であり、同調しないことは薄っぺらい殻を何重にも纏った 「仲間」 からのつまはじきを意味する 。いったん出されると、いくつもの障壁が再参加には立ちふさがる。それをわからしめるところも日本的な 「和」 、つまり 「輪」 の中心的命題なのである。不満のはけ口としての被害者の常態化はしかしその集団の安定化を もたらす。なおのこと、その被害者の存在は不可欠となり、いじめは固定化されやすくなるのである。別個だが構 成員、という奇妙な関係を集団の目的的ないじめの 「自己弁護」 とし 「違い」 の存在として位置づける。「違 い」 とは悪意の発露の場なのである。

犯罪といじめの加害者に共通するもの

犯罪行為とされるものの中で最も悪質で最も犯罪を犯罪たらしめるのは、その行為が、 計画的で意図的で執拗に 為され、また反復的に行われ、しかも他の人を傷つけあるいは死に至らしめるものである。行為の時点で死すこと を要件とはしない。ある時間を経て死に至る場合も (この方が多い) 含まれる。そういった犯罪の実行者 (命令す るだけのものも含む) はいうまでもなく悪意のかたまりである。ただ自己の欲求の充足を求めて行為に及ぶのであ る。変質した不満、筋違いの激情や怒りの感情は突き進ませるに充分である。そういった不満のはけ口として傷つ ける人を選ぶ。

その場での激情の暴発を除いて、感情はゆっくりと浸透し変質する。それは計画的で執拗な行為となって現れるの である。使われる手段はまず脅迫である。通信手段を使ったほのめかしや嫌がらせは表面的には 「大したことはな い」 ように見られがちであるが、これはとっかかりとしてきわめて効果的である。警察に相談しても、『様子を見 ましょう』とか『何か実際にされましたか』で終わることがほとんどである。しかし、そこがつけ目なのである。 小さくとも、「大したことはない」ことでも、繰り返され継続すると言いしれぬ恐怖へと被害者を陥らせる。それ はしばしば被害者をして内にこもらせる。相談者のいない場合や (警察などが) 頼りにならない場合には犯罪者を ますます増長させる。被害者は次第に精神的に追いつめられ苦悶し神経に異常をきたすようになるのである。これ は犯罪者にとってきわめて好都合である。それをしてまた口実とするのである。

いじめと上記犯罪の共通点は第一にその変質した不満にある。被害者にそれを向けることは言うまでもなく筋違い だが、ただ解消される部分があればそれで充分なのである。日常的な解消の手段としてその対象を目に付くところ に選び (見えるところ、という意味ではない) 、排撃を行う。どちらも究極的にはその対象たる被害者の抹殺であ る。陰湿さはそのやり口以上に、「大したことはない」 行為の積み重ねと反復の後に自発的に死に至らしめるとこ ろにある。
第二に、協力者の存在である。必ず見過ごす者、見て見ぬ振りをする者、黙従する者がいる。より 「小さな」 行 為で協力する者も多い。
そして第三に罪の意識のなさである。罪悪感は彼らには元々ない。協力者もまた全くもたないことがほとんどであ る。心の痛みは両者共に彼らの語彙には含まれない。
第四に嘘である。何につけても自らに都合のいいように嘘を組み立てる。そのやり口も実に巧妙である。そう、言 い逃れ、言いくるめこそがかれらの最大の 「武器」 である。

テレビドラマの例

スカイパーフェクTVの728ch ( ミステリチャンネル) で放映されている「新・タガート (TAGGART) 」 の第40回 (8月30日) のテーマはいじめ (bullying) であった。この日の題名の「秘密の小部屋」 (Out of Bounds) は暗示的である。寮の生徒の「自治権」をいいことに、その学校の監督領域外のこの部屋を悪い意味で仕置きやいじめ に使ったのである。『ここは地獄だ』 というラテン語と共に印象づけられる。
この舞台はスコットランド (Scotland) のグラスゴー (Glasgow) 郊外のボーダーダウン校。ここでのクロスカントリー 競争から始まる。これでビリになったマーク (Mark Jackson) はいじめを受けることになる。彼はここの寮、グレンコー (Glencoe) に入っている。現在の舎監の教師はハリデー (Derek Halliday) だが、過去にひどいいじめを行った。 「自治権」 を持つという監督生 (prefects) 3名、モリソン (Neil Morrison, house captain寮長) 、ウォレス (John Wallace) 、パターソン (David Paterson) ははじめは就寝時の見回りの際に、マークのベッドに何らかの飲料水を 上からかけた。『お漏らしのチャンピオンだ』というあざけりと共に。マークは立って見つめ我慢した。一年下級なの である。
そのうちに歴史の教師、フレミング (Douglas Fleming) が給食室の冷蔵庫に閉じこめられ凍死する。そのため食事を 作れず、外に給食車を出して昼食が出された。このときもマークは手に持った食事をわざと落とされ、『拾えよ』 と 3人にあざけられる。そして夜、秘密の小部屋に無理矢理連れ込まれ縛られ辱めを受ける。こういったことが繰り返 されたのだ。
マークは舎監のハリデーに相談するが、逆に、こともあろうに、監督生に(あの3人!)相談してみろ、と「助言」 されたのである。マークが "My bother..." として引き下がったのは言うまでもない(後でディクソンに行ったこと ば)。ハリデーは薬品保管庫で塩素ガスにより殺された。続いて、夫人に暴力を振るっていた体育教師のミリガン ( Alex Milligan) も車椅子ごとプールに落ち、手錠でつながれていたため水死する。

マークは学校放送 (ローカル局としてグラスゴー近辺に電波をとばす) で救いのない気持ちで声をかけた.........

『... 次の曲は声を上げるのを恐れている人にお送りします。迫害の犠牲者へ。迫害は身近で起こっています。 皆が耳と目をふさぎ知ろうとしない所で ... ジョン・レノンの「イマジン」です ... 』 ( ... This song is ... out there, and for the victims of the pressures everywhere ... if it does not just happen in the foreign countries or happen at home, at school, more ever people close ears and eyes, and fewer to listen. It's John Lennon's song, "Imagine." ... )

給食の主事ディクソン (Jan Dickson) はマークのいじめを2度目撃し、一度はやめさせた。そしてそのことを校長の ブラウン (Charles Brown) に訴えたが、事なかれ主義の校長は見過ごそうとした。ハリデーの殺害の捜査でマークは 警部補マイケル (Detective Inspector, Michael Jardine) らに尋問を受け、ディクソンからきいたマイケルのことば もあって、監督生3人によるいじめを校長らの前で話した。3人の一人は校長に鞭で打たれる。

ある日の夜、わざと開けられた秘密の小部屋に入っていったブラウンは自分の勇退を祝うろうそくを見つけそこで飲み かけるのを足音でやめた時にディクソンに声をかけられる。実はディクソンは30年前殺された3人にひどいいじめを 受けたチザム (John Chisholm) だったのだ。当時の舎監であったブラウン校長に助けを求めたが黙下されたのだ。ディ クソンはこう訴えた ...........

『 ... どっちがひどいの? 手を下す者? あなたのように黙認する者? ... たとえ何者であろうと、わたしは人間よ。 感情のある人間なの。... 』 (Who committed the greatest sin, those who do it or those who stand back and let it happen, like YOU ? ... Whoever I was, I've always been a person, I've always have feelings ... ) 『 ... 助けを求めたのになぜいいつだって黙ってみているだけなの ... 』 ( ... I came to you for help; how could you let them do it and still do nothing ... )
ディクソンは治らない傷を負わされた。その恨みをたまたま訪れた機会にはらしたのである。マークの放送のおかげで あった。たとえ殺人犯としての汚名を着ても、牢獄に繋がれるとしても、そういった言い難いいじめを受け治らない傷 を負わされたその心の底からの恨みと叫びははらされて当然である。殺された加害者の3人も、そいつらを再度教師と して(!)学校に呼び戻した校長も、罰せられて当然なのである。死の報いは当然なのである。

問題なのは、マークにいじめを行った3人の「監督生」が大した罰も受けてはいないことであろう。寮長のモリソンは ブラウン校長に鞭で打たれたが、あとの2人は事実上無罪放免、野放しである。これでは不衡平である。マークがあま りにあわれである。体罰が禁止されているのは仕方ないにしても、しかるべき罰、たとえば退学など、を与える規則を 学校に求めるべきであろう。せめて3人は停学にすべきである。ただここではいじめは治らない傷をつける (それ以上 もある) 人権蹂躙であるということを示すことはできているように思う。(著者・チャンドラー Glenn Chandler)

3人に厳罰をもって処すべき理由は言うまでもなく、彼らの罪悪感のなさである。モリソンは 『単なるおふざけです よ』 と校長のブラウンに言っているくらいである。善悪の判断がつかないのはどうしてか。これは先に書いた犯罪者 にも通じるところがある。元々彼らは一般に罪の意識は持たないしどう他人に言われようが諭されようが、何も感じ ないからである。せいぜい、自分たちがやられたらやり返す、くらいにしか考えていない。いじめの加害者とはそう いうものである。

私の場合 (一部)

高校三年のときに文科系のクラスにいた私はわけあって、というより、何か私に対して変な態度をとる周囲に嫌気が さし理科系に転向した。それがきっかけかどうか、それ以後より違った態度を鮮明にされた。卒業式の日などは、ク ラスでお別れ会をした際に、壇上のカーテンの後ろに一人無理矢理隠された。教師は黙って見ているだけだった。一 人でその前は女の子の中に置かれたりもした(それで喜ぶだろうか。知らんふりであったのに。)。男どもは外にで て一人閉め出されて(中に)ほおっておかれたのだ(「仲間」はずれ)。もちろん、他の生徒は知らんふりであった 。したのは男どもである。特に私だけが目立つわけでもハンサムでもなんでもない。

大学では至る所で誰からなのかーーー私は狙われていたのかーーー嫌がらせを受けた。だれかといっしょにいても、 たとえば、コーヒーを注文すると、一目見てかけているとわかるカップを目の前にどんとおく、ランチには ...。ひとりで学食に入ると背後から『... 一人か ... 』とささやきかけられる、といった具合であった。
2,3回生のときには、足を蹴られる、ズボンを汚される、何かで背中をあてられる、....。背後からのささやきが 一番多かったように思う。実験の予定の変更も伝えては貰えなかった。違ったことをしたが、元にもどして事なきを 得たが。
そして4回生である。研究室に配属されたとき、はじめて入る部屋なのだが、席が一つ足りなかった。あらかじめわ かっていたはずなのに。窓際に木の机があった。そこは物置になっていた。大学院生の一人がくじ引きを計画した。 そしてくじをひいた。まんまと私はその物置にあてがわれた。もちろん、くじはみせかけである。そこに落ち着けた が最後、そこから今度はどこへも動けなかった。そう、何もさせて貰えないのである。一日中、その机にいて、仕方 なしに本を読んだりしていたが、頭に入るはずもない。別の4回生はちゃんと指示をうけ、さそわれて研究のまねご とに参加していたのに。同じ学生なのに、それ以上に授業料を払っていたのに。助手(research assistant)の一人は 『... いいから、いいから ...』といって何もさせず他の学生とも接触させないようにした。そんなことが続くうち に(何ヶ月も!!)また(!)小声で、私が座っているとまさに背後から、ささやくのである。他の連中にはもはや 研究室の一員とは認められてはいなかったのである。いくつか聞き取った言葉を紙に書いて置いておいたが、それも 盗まれた。そして小声のささやきはますますひどくなった。その部屋にいるのが耐えきれなくて外にでたり、図書室 にいって文献を読んだりした。その文献の複写さえも、その助手は、『コピーは割当数があってねえ...』などと聞こ えよがしに背後で言う始末である。つまり、するな、とのこと。逆らえないのである。私も就職をしなければならな い。でも、その準備も何もできやしなかった。何もすることがなく一日を過ごすのはひどくつらかった。何をやって いいのかもわからなくてただ本を読む格好をしていたのである。図書室が唯一の救いであった。ことばによるいじめ で文字通り、狂おしい気分になったことはいうまでもない。我慢したのは先をそれでも見ていたからに他ならない。
わたしも学生だったのだ、教育を受ける権利があったのに!!

上記のように記すると、「大したことはない」 ように受け取られがちだが、実際はひどかった。もちろん、私には 「落ち度」 も 「過失」 もなかったのは言うまでもない。こういうことを書くと、人はしばしば、『あなたにこそ 問題があったのではないか』 といったようなうがった見方をしがちだが、そういったことはこの種のいじめの常で ある。そういった見方は全くの誤りであり、そうみられるようにしむけることこそ、加害者の目的である。ほくそ笑 むのは加害者のみである。

これ以上は書けない。

帰すべきは

いじめの加害者は犯罪者の立派な予備軍である。先述のごとく、罪悪感のなさと不満のやり場をはき違えた点でも 充分すぎるほどの犯罪者の資格がある。根がおなじだからである。意図的計画的で継続的、反復的な犯罪行為はそ の行為者の内面に起因するからである。その醜悪さは行為に正当性を持たせ、言動を強固にする。そして被害者を 責め立てるわけである。つけいられる 「すき」 が被害者にあったからだ、とか、無防備なのが悪いのだ、誰でも 行為に及んでしまう素地があったのだ、等々の攻撃が自己弁護のために為される。「すき」 や 「きっかけ」 を 与えるような被害者の態度ふるまいが悪いのだ、という典型的な主張はいじめと犯罪に共通のものである。さらに いじめは、特に、『... あんたのためにやったのだ、してあげたのだ...』とか、『あんたを鍛えるために、一人 前にするためにしたのだ...』 とかいった主張が平然と為される。彼らに行為の合理的認識はない。

いうまでもなく、彼らの主張は誤りである。加害行為はその行為者に全面的に責任がある。その心的な変質性こそ がいじめや上記の型の犯罪を生み出すのである。彼らを許す理由もその存在を肯定する理由もない。

どちらが悪いのか。手を下した者か、黙認した者か。加害者は加害行為そのものを目的として手を下し被害者を踏 みにじる。黙認し看過する者はそれらの行為についての認識がある。その黙認という行為 (無作為もまた罪である) をまた認識しながらも追従し放置しあるいはそうされる被害者にも問題があるのだ、などというとんでもない誤認 識を正当化して支持する。「秘密の小部屋」ではジャーディーン (マイケル) はディクソンに問われ、『道徳的に はどちらも悪い』 と答えている。それは基本的には正しい。しかし、その認識の程度において、その本質において 、暗黙裡に支持して笑っていたり、自分に累が及ぶことを恐れて黙従したりする者の方がさらに悪い。やめさせる こと、守ってあげること、そして救い、いっしょになって立ち向かえることができるはずなのにそれをしない者は より悪いといえるのである。
ディクソンの問いにブラウン校長はそう答えたはずである。彼の苦悶の表情はそれを物語っていた。


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