宝ケ峯遺跡

(No.13)宮城県桃生郡河南町北村
後期中葉、宝ケ峯式(注口土器) 後期後葉、金剛寺式(瘤付土器) 1925年4月発掘

まったく取り返しのつかない事件が起きたものだ。
「神の手」ならぬ「人間の手」がやったのだからしょうがない。
振り返って見ると「発掘ねつ造」が発覚する以前の江合川、迫川流域の状況は正に異様であった。
その未知への期待感に関係者は目が離せない状態であった。
1981年に発表された座散乱木遺跡(岩出山市)の約4万年前の石器を始め、馬場壇A遺跡(古川市)からは13万年前の石器が、さらに高森遺跡(築館町)からは50万年前の石器が、そして1997年には中島山遺跡(色麻町)から出土した石器が、隣山形県の袖原3遺跡(尾花沢市)から出土した石器とピッタリ接合するという前代未聞の発見が相次いだ。
ニュースが飛び出すたびに話題の渦はどんどん大きくなって、周辺の市町村、果ては町の商店街までをも巻き込んで原人ブームに沸き返ったのであった。
このページはその頃に書かれたものである。本来ならば以下の「」の部分を削除しなくてはならないのだが、あえてこれも歴史のひとコマとして、この注釈をもって「」書きで記載したい。

「江合川、迫川流域は近年の華々しい調査で馬場壇A遺跡、座散乱木遺跡など数多くの旧石器時代の遺跡が日の目を見ることになった。 特に高森遺跡での発掘成果は日本列島における人類生存の年代を塗り替え、北京原人の時代にまで遡る。その年代は実に4、50万年前という。 江合川、迫川流域はこうしためざましい発見で旧石器時代のイメージを色濃くしてしまうのだが、そのふたつの河川の流れは旧北上川と交わる河南町宝ケ峯遺跡へと続き縄文色にとって変わる。」
宝ヶ峯遺跡はこの合流地点の西南にある旭山丘陵北端に位置する後期から晩期までの遺跡である。特出する点は土器、土偶などに後期中葉の数多くの優品を出土したことである。
 遺跡発見のきっかけとなったのは、1910年(明治43年)斎藤善右衛門(安政元年〜大正14年)の別荘建築に端を発する。別荘への道を造るため山林を切り開いたところ多数の土器や石器が出土したのである。当時はまだ未開であった考古学分野でのことである。斎藤の調査願いは中央にまでおよんだ。
 人類学の権威であった東京大学人類学教室の坪井正五郎(1862〜1913)が河南町を訪れたのは1910年(明治43年)のことであった。 坪井は終生「コロボックル説」を唱えた人物である。当時日本列島の先住民族をめぐって小金井良精らの「アイヌ説」と坪井の主張する「コロボックル説」の論争が行われていた。コロボックルとはアイヌ語で「フキの葉の下に隠れるような小人」を意味し、江戸寛文期の「勢州船北海漂着記」や1808年の「渡島筆記」は「かつて土器を使う小人が竪穴に住んでいたが、いつの間にか姿を消してしまった。」とアイヌの伝説を書き留めている。坪井の説はこれを受けたものであった。坪井は来跡を機に「瓦礫の山も太古なれば宝の山」とこの地を宝ケ峯と称したという。
 坪井の来跡は斎藤の遺跡発掘に対する情熱をかき立てたようであった。発見から1927年(昭和2年)までの18年間斎藤氏による発掘は継続して行われ、数多くの優れた遺物を堀出している。それらは多くの学者の研究材料になったことは言うまでもない。 宝ケ峯を訪れた東北大学の松本彦七郎は1919年(大正8年)に層位的発掘のさきがけである分層的発掘を行い、宝ケ峯から宮戸式の土器変遷を論じている。
1957年(昭和32年)に発表された東北大学の伊藤信雄の論考は、「宝ケ峯遺跡は、後期はじめから晩期の前半までの各時期の土器を出す大遺跡であるが、(中略)その中で最も多いのは関東の加曾利B式に並行する土器で、これを宝ケ峯式の名で呼ぶことにする。」と東北南部の後期中葉に宝ケ峯式を位置づけた。
 旭山丘陵は海岸線から北へ10km、北上川の西に開ける平野にあって一段と高く、周辺の底地帯からは急激な盛り上がりを見せる。その北側、開運山は標高50mの丘陵である。山頂には農家が数件あり広く耕作地になっている。畑の中を走る狭い道路脇に一本の標識が立ちこの地が宝ヶ峯遺跡であることを示している。かつては欅の大木が生繁る林であったらしい。ひたすらにいにしえ人を追求める一人男の姿が浮かんできそうである。見晴らしの良くきく山頂で、縄文人が見たと同じ景観を目に少しだけ時を戻したような気がした。
宝ケ峯遺跡からの出土品は、開運山登り口の斎藤家屋敷内にある宝ケ峯資料館で見ることが出きる。


1924年10月発掘 1923年12年6月発掘

■参考文献■
宮城県史1 伊藤信雄(昭和32年)
宝ケ峯   斎藤法恩会(平成3年)