新地貝塚(小川貝塚)

(No.19)福島県相馬郡新地町
東より遠方に阿武隈山地を望む1996.08.15 西より貝塚南側1996.08.15 瘤付土器(宝ケ峯遺跡出土)

 新地貝塚は相馬市の北に隣接する新地町中央部に位置し、国道6号線より西に望むことができる。 一帯は阿武隈山地からなる丘陵が東に低く張り出した地形にあり、耕作地として利用されてきたようである。現状は宅地化の波が遺跡の周辺にまでおよんできている。
新地貝塚が学会に報告されたのは早く1890年(明治23年)地元郷土史家館岡虎三の紹介がきっかけとなり若林勝邦によって東京人類学会雑誌に掲載されたのが始めである。
元より伝説の地として手長明神の社祠があったところで江戸亨保年間1719年に書かれた「奥羽観蹟聞老志」では「鹿狼山に住む手の長い神が海に手を延ばして貝を取って食べ、その殻を捨てた場所が貝塚になった」と伝説を紹介している。貝塚南東には今でも祠が祭られており古くから貝殻の出土を示す記事として興味深い。この地を訪れた若林は貝塚屋敷の性質と大人説の関係を調査目的とするものであった。
「小川村中畠及ビ水田ノ間一ノ小丘ヲ見ルコレ即チ土俗貝塚ト称スルノ地ナリ丘上農家一アルノミ他ハ桑畑ノ畑トナル此丘上一帯貝塚堆積ス遠クヨリ之ヲ望メバ残雪ノ如シ」若林の報告書は、丘上の畑一面に露出した貝殻と一軒の農家が当時の長閑な風景をつたえている。
 遺跡のはじめての学術調査は1924年(大正13年)福島県の依頼を受けた東京大学人類学教室、山内清男、八幡一郎によって行われた。 山内の報告によると雨上がりの畑からは表面採取だけでも貴重な遺物を拾いだすことができた。と遺物の多さを述べている。 貝塚の丘は現在も東側に桑畑を残す耕作地となっており表土に多くの貝殻が散らばる。 貝の異様なほどの白さに新鮮味さえ感じ、数千年前に人の手が加わっていようとは信じ難いものがある。
記録や地元の人の証言によると貝塚は4ヶ所に密集した塚状の堆積があったといわれる。 調査はその4地点で行われ2メートル四方のトレンチを堀進むというものであった。 東京大学人類学雑誌によると「貝を交えた表土約半米、貝層70糎を前後とする位、遺物は豊富、土器片多量、骨器も亦驚くべく多い。」さらに貝層下の黒土層20糎に多量の遺物が認められ、また3区の貝層下に石で囲まれるようにして重潰した土器片群が見つかった。と配石遺構とも受けとれる興味深い報告をしている。この発掘で山内は後期の層位的な資料を得、後期編年に自信を得たようである。が、残念ながら山内による東北地方後期編年は発表されることはなかった。 上図の土器はこの発掘で出土した土器をもとに山内によって命名された後期末様に位置付けられる瘤付土器である。
■参考文献■
「新地町誌」
「瘤付土器」「縄文文化の研究 4」安孫子昭二、雄山閣1994
「山内清男論」「縄文文化の研究 10」佐原眞、雄山閣1995