里浜貝塚/台囲地点

(No.23)
1998-11-28
竪穴住居跡
棒状土製品

 98年11月末、例年であれば雪が舞うような季節であるのだが、いたって温和な日和がつづいている。 奥松島の海岸線を浸す波も、冬の厳しさを感じさせるようなものではなかった。
里浜貝塚台囲地点での98年度調査説明会が行われるというのでやって来た。
松島湾内で最も大きい宮戸島は周囲12キロほどの島で、南北に山並みが走り起伏にとんでいる。 島といっても地続きのようなもので、短い橋を渡れば島である。 島の西側というのは20〜40メートルほどの丘陵が、周囲の海岸線になだらかな斜面をつくりだす地形になっている。北に小さな港があるせいか、北側斜面に家屋が集まっている。 丘陵は広く遺跡となっており、貝塚の見られる地点だけでも、梨ノ木、畑中、袖窪、寺下、西畑、台囲と1キロ圏内のあちこちに点在している。 そのため台囲地点といってもいったいどこなのかよくわからないのだが。しかしそんなことを考えながら、港のそばの奥松島縄文村歴史資料館に車を止めると、後はひたすら先客の跡をついて歩けばよかった。
斜面を昇り降りし、さらに西の尾根を登る。300メートルも歩いたろうか、台囲地点は遺跡群の中では西のはずれにあたり南西向きの斜面が今回の調査地点であった。
斜面の途中から数十メーター下の低地までは畑に使われていて、歩いていても貝殻の散らばるのがわかるほどである。雨を気にしていたが、どうやら説明会がはじまる頃には雲間から日が差しはじめてきた。
 説明によると今回確認されたのは前期から晩期の遺構で、その下にはまだ遺構がつづくとのことである。表土を重機で取り除いている時点ですでに遺物に遭遇したという。 実際、斜面の高いところでは比較的浅い地点に遺物が露出している。掘り込んだ断面を見ると、下斜面の方では包含層の厚みが増し、やがて厚い貝層となって地下に潜り込んでいる。
注目されたのは竪穴式住居跡の発見である。 後期後葉と晩期初頭の2棟が確認された。里浜貝塚では初めての出土になる。 また人骨が7体分が見つかった。 前期の人骨2体と後期から晩期の3体、晩期前葉の土器棺墓2基からは幼児の人骨がみつかった。里浜の人骨については大正時代から報告されており、これまでにかなりの数が見つかっているはずである。
遺構は調査区の南側に住居跡、北側に墓と一見まとまりをみせているが、未調査区域が頂部や南側にあり、集落を想像するには及ばないところがある。
出土した遺物に中期の珍しい棒状土製品があった。周囲に縄目文様を施した直径6cm長さ24cmのもので石棒と類似する。また中期の素晴らしい土器が見つかった。細い沈線文を器面いっぱいに施した珍しいもので、櫛のようなもので底部から口縁部へV字状に二筋、引掻いたようにして文様を作り、それをパターンにしてさらに余すところなく斜線を施している。その斬新な創作性には驚いてしまった。
 台囲地点は里浜の遺跡のなかでも早い時期に人々が住始めたとされ、縄文前期初頭には頂上部が生活の中心になっていたと考えられている。 時代が下るにしたがって低地への移動が行われ、中期後半には集落の拠点が東の袖窪地点に移ったとみられている。 今回台囲地点で、未確認の時期であった中期後半の遺構が確認されたことから、この地点が長期にわたって継続的に利用されていたことがわかった。 里浜に定着した縄文人はこの台囲地点にかなりの愛着を持っていたようである。 ことによると季節や習慣などを踏まえた短期的なサイクル利用が行われていたのかも知れない。

 貝塚遺跡という特性からさまざまな遺物が出土し、ムラや暮らしの様子などが解明されているように思えるが、集落のあり方については、必ずしもそうとは言えない。東北地方海岸部の貝塚遺跡では、宮古市の崎山貝塚や陸前高田市の門前貝塚などで資料を得たに過ぎない。 仙台湾に貝塚を残した縄文人の形態は、古くから研究が行われてきた割にはまだ解明されていない部分が多い。 内陸部の集落形成のありかたが、はたして海岸部においてはどうだったのだろう。 前期における大型住居や、中期の大規模集落、後期の配石遺構が里浜には存在したのだろうか。
里浜の丘を後にしながら、さまざまな思いを巡らすのであった。
■参考文献■
「歴史を読みなおす1 縄文物語 海辺のムラから」朝日新聞社 1994
「宮城県の貝塚」1989年
「現地説明会資料」1998年