門前貝塚

(No.11)岩手県陸前高田市小友町
門前遺跡 配石遺構

 リアス式海岸が続く南三陸にあって比較的大きな湾を持つ大船渡湾、広田湾、気仙沼湾に貝塚は集中するかたちで形成されている。その中には大規模な貝塚が残る蛸ノ浦貝塚、晩期大洞式の標式遺跡大洞貝塚、土壌を全て採取して分析する新たな貝塚研究手法が行われた田柄貝塚など著名な貝塚も多い。
門前貝塚のある気仙地方(陸前高田市、大船渡市、三陸町、住田町の2市2町)に点在する縄文時代の遺跡は350ケ所と実に多く、古くは明治時代より人類学雑誌等で度々紹介されている。大正期にはじまった学術調査は、1917年(大正6年)松本彦七郎による獺沢貝塚、同年小金井良精による中沢浜貝塚、1918年(大正7年)長谷部言人の門前貝塚、翌年の細浦上ノ山貝塚など毎年のように発掘調査が繰り返され研究の対象となってきた。
また、この地方のもう一つの特長は、石灰岩地質がもたらす石灰岩洞穴の研究にある。1925年(大正14年)旧石器時代解明に向けた組織的な調査の一環として、関谷洞穴、女神洞穴、こうもり穴洞穴の調査が小金井良精、八幡一郎、大山柏らによって行われ、縄文、弥生時代の資料が発見された。住田町上有住の蛇王洞穴遺跡は、1922年(大正11年)松本彦七郎によって女性人骨が発見され、また東北大学による1964年(昭和39年)の調査では撚糸文と沈線文をもった尖底土器が発見され「蛇王洞穴2式」として早期土器編年に位置づけられた。現在十数ケ所の遺跡が確認されている。
洞穴の調査が行われた1925年(大正14年)時同じくして亀ケ岡式土器の編年分類、「大洞式」の資料となる大洞貝塚の調査が山内清男によって行われている。大正末期の気仙地方はまさに学会の注目を集めた時期であった。
 門前貝塚は中期末葉から後期初頭の貝塚で、明治時代には学会誌に登場する早くから知られた貝塚である。後期初頭の形式「門前式」の設定で注目された。 遺跡は箱根山の山裾から延びる小丘陵の先端標高25メートルに立地し低地を隔てて、大船渡湾と広田湾の中ほどに張り出す広田半島付根に対面する。 縄文海進時には半島は陸地と切り離され島であったことが窺え、貝塚から半島に至る一帯は浅瀬の広がる良好な漁場であったらしい。水田と化した風景を今は線路が一筋走る。
1953年(昭和28年)から江坂輝弥氏らによる調査が継続的におこなわれ、東北地方中部の後期初頭の形式として門前式が位置づけられた。最近の調査では遺跡低地点より幅60センチメートルの敷石で矢をつがえた弓を模した配石遺構が検出され、豊漁の祭事に関係する遺構として注目されている。<
■参考文献■
「縄文時代の気仙」大船渡市博物館1984年
「門前貝塚」陸前高田市博物館1992年